帰って来た冒険者
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はだい悠
「あなた、あなたなの?」
「、、、、あっ、そう。ぼっ、僕、マサミ。ミキちゃん!」
「ええ。、、やっぱりあなただったのね。夕べも、寝付いたつもりだったんだけど、なんとなく目が覚めて、ぼんやりと目を開けると、ふとカーテンがゆれるのが判ったの。それで、なんだ、きっと窓を閉め忘れたのね。朝になったら閉めよう、と思い、そのままにしてまた寝たの。ところが朝になって起きて、窓を閉めようとしたら。窓が閉まっているの。なんだろう、おかしいなあと思ったんだけど、そのままにしておいたの。そしたら、また、今夜でしょう。カーテンが揺れて。もしかしたら、あなたが、あなたが揺らしたんではないかと思って、それで声をかけてみたの。そうしたら、、、、」
「実は、僕もそうなんだ。いつもと変わったことがおきて、そしたら急にどこからともなくミキちゃんの声が聞こえてきて。驚いたというか、、、、」
「ねえ、今、どこに居るの。マッキンリー?」
「うん、たぶん、そうだと思うんだけど、僕の最後の記憶がそこだからね。、、、、でも、どうも違うみたいなんだ。はっきりとはしないけどね。僕の周りには海のように青い広がりがあるだけで、その中に僕は居るみたいなんだ。」
「氷に閉じ込められているんじゃない。」
「そうでもないみたいなんだ。」
「寒くはないの。」
「ぜんぜん。何も感じないんだ。何の音もしないんだ。ずっと静寂で。生きているのかも死んでいるのかもわからないくらい、何にも感じないし、何にも変化しないんだ。ずっとね。だからどのくらい時間が経っているのかも判らないんだ。海よりも青い透明な空間が僕の周りに無限に広がっている感じなんだ。ところが、ちょっと前に、僕の周りが急に夕焼けのようにオレンジ色にきらきら輝きだして、それはすぐ収まったんだが、今また輝きだすと同時にミキちゃんの声も聞こえてきて、それでまさかと思って。」
「やっぱり氷に閉じ込められているんじゃないの。そのオレンジ色の輝きって、オーロラかなんかじゃないの。」
「いや、違うみたいだ。僕には、今僕がどこに居るのか、なんとなくわかっているつもりなんだけどね。たぶん、あそこじゃないかってね、、、、」
「ほんとに寒くはないの。」
「ちっとも、何にも感じないんだ。」
「あっ、そうなんでしょうね。あなたはもともとそういうところが好きなんでしょうから。平気なんでしょうから。」
「そんな刺のある言い方をしなくたって、せっかく会えたというのに。」
「あら、そうですか。」
「だって、ミキちゃんは、僕が寒がりだということを知っているじゃないか。」
「そうでしたね。あなたは寒がりでしたね。子供のように寒がりでしたね。それに怖がりでもありましたね。でも、そんな子供のように寒がりで怖がりである人が、愛する家族を残して、生命を失うかもしれない危険な探検に出かけるかしら。私にはそのことがどうしても理解できませんが、、、、とおっしゃいますと、家族を愛していなかったと言うことになるんでしょうか。それとも、あなたは自分勝手な人ということになるんでしょうか。」
「きついな。確かに探検や冒険というものは常に危険が伴うものなんだ。でも僕は決して生命をおろそかにしなかったし、どんな苦境に陥っても、つねに生き延びることだけを考えて行動していたよ。 冒険とは生きて帰って来ることだ、と言って、いつも帰って来ていたじゃないですか。それが出来るのは、僕が家族や人間を愛しているから出来ることなんですよ。そんな僕が自分の奥さんを愛してないなんて事があるわけないでしょうが。こんなことはまだ誰にも言ったことがないんですが、今まで何度か挫けそうになったとき、あなたの存在が、どんなにか僕に勇気と力を与えてくれたことか。」
「でも、あなたは今度は帰ってこなかったわけでしょう。私にはずいぶん偉そうに言ってたように聞こえてましたよ。冒険とは絶対に生きて帰って来ることだ、なんて。」
「今度はどうしちゃったんだろう。不覚だったなあ。」
「まあ、なんて、暢気なことを。どれほど心配したか、どんなに眠れぬ夜を過ごしたか、あなたは判っているのかしら。これは何も今回のことだけじゃないの。この前も、その前もそうでしたの、死ぬほど心配したことでしょうか。でも、そのたびに、いつかはきっと平穏な落ち着いた日々が、私たち二人にもおとづれるに違いないと自分に言い聞かせては、なんとかがんばっていましたのよ。」
「ミキちゃんに心配かけていたのは、わかっていたさ、それに、いつも申し訳ないなあとも思っていたさ。でも、だからそのために、償いというか、その埋め合わせをするために、前途にどんな困難があっても、全力を尽くしてがんばって、冒険を成功させて帰った来たんじゃないか、、、、ところが今度はどうとちゃったんだろう。全力を尽くさないわけじゃなかったんだ。だって、マッキンリーの登記単独登頂には成功したんだからね。その下山途中に、決して油断したわけじゃないんだけど、どうしちゃったんだろう。
はっきり言って僕にも良くわからないんだけどね。あの時いったい何が起こってしまったのか、、、、ねえ、ミキちゃん、僕が帰って来なくなって、みんなはどうしてるかな、僕のことなんて言ってるかな。」
「ああ、気になるのね。世間であなたのこと、どう言ってるか、評判が気になるのね。家族や奥さんがどうしているかよりも、もしかして、自分が悪く言われてはしないかって、気になるのね。」
「いや、そういうわけじゃなくて、もちろんミキちゃんのことは、どうしているんだろうかって一番気になるよ。でも、ミキちゃんはあまり自分の不平不満は言わないじゃない。だから、それで、、、、少し遠まわしなんだけど、君を含めて、みんなはどうしているかって聞いたんですけどね。」
「ありがとう。私のこと心配してくださって。おかげさまで私はぼんやりとですが、元気にやっております。死ぬほどの心配で白髪はだいぶ増えましたけどね。勿論外には見せませんけどね。」
「ちょっと、ドキッですね。」
「でも、私のことよりも、本当は世間の評判が、マスコミであなたのことをなんと言っているか知りたいんでょう。すごいですよ。マスコミであなたのことを悪く言う人は居ません。みんな偉大な探険家だって褒め称えています。そんなあなたのことですから、あなたのことを何とか助け出そうということで、二度ほど捜索隊を組織したんですが、結局どこに居るのか探し当てることは出来なかったのですよ。それから今では、あなたの功績を称える色んな物が全国のあっちこっちにたくさん出来ましたのよ。記念館でしょう、冒険館でしょう、広大な自然公園でしょう、それから子供たちの教育のための自然学校でしょう、その他にも、、、、どう満足でしたかしら。」
「悪い気はしないけど。でも、僕が生きて帰っていたらそうな風にはなっていなかっただろうね。なんか裏では僕のためにものすごく迷惑をかけているような気もする。それにミキちゃんはあまり嬉しそうではないね。反対なの。」
「反対ではないです。あなたのやったことが世界に認められて、それが子供たちの役に立つならとてもいいことだと思います。でも、、、、私は、そういう所にあまり行ってないんです。開館式や開園式には出たんですが、それっきりで、、、、正直言って私あういうところあまり好きじゃないんですの。だって、あういう所に飾ってあるあなたの写真や、あなたの言葉はちっともあなたらしくはないんですもの。それにあなたがどんなに英雄のように賞賛され、立派な建物に写真が飾られても、私にとっては生きているあなたの姿に勝るものはないと思いますから。もう二度と、恥ずかしそうに笑いながら話している姿や、私の手料理をおいしそうに食べている姿を見ることが出来ないと思うと、、、判りますか、そのときの心臓も凍えそうな寂しさが、、、、」
「まだ、私のために、ミキちゃんをそんなに辛い思いにさせているんですか。どうでしょう、わたしは思うんですが、そんなに辛いなら、もうそんなところには行かなくても良いような気がするんですが。それよりいっそのこと僕の事なんか忘れてさ、パアッと自分の好きなことだけをやったりするのも良いんじゃないかと思ったりして、、、、」
「何を冗談いっているんですか。まじめに話しているときに。私に出来るわけないでしょう。皆さんがあなたのためを思ってやっているときに、妻である私が、わがままなこと、あなたのように自分勝手なことが出来るわけないでしょう。」
「うふあ、そうですよね。できるわけないですよね。でも、僕は本当に思います。でも、やっぱり、辛い思いをするならそんなところには行く必要がないんじゃないかって。
というのも、僕はミキちゃんがそんなところは、似合わないような気がするからです。ミキちゃんは人前に出て、人と交渉したり、人に指図したり、積極的に何かを切り盛りするようなタイプでないような気がするからです。特に僕の周りの人たちは、活動的で、男っぽくて、直線的で、みんな僕みたいに自分勝手のようなところがありますから、ミキちゃんのような大和撫子のような奥ゆかしい女性にとっては、とてもやりずらいんではないか思いまして。もしかしてミキちゃんはあういうタイプあまり好きじゃないんじゃないですか。」
「好きとか嫌いとかはないんですが、でも、正直言ってちょっと苦手って言う感じかしら。良い人とか悪い人とかいうんじゃないですよ。性格も明るくて前向きで、紳士的で、申し分のない人たちなんですけど、なんていうのかしら、自分のやりたいことのためなら周りを省みないというか、目的のためなら手段を選ばないというか、それは大きな目的のためだから許されると思っているんでしょうが、わたしから見れば、その目的が大きかろうが小さかろうが、家族を悲しい思いや寂しい思いにさせる目的にはどうしても納得が出来ませんの。ですから、そういう人たちが、目を輝かせて男の夢を語るのは大変すばらしいと思うのですが、でもその行き着くところを思うと、もしかしたらこの人たちは本当はとても冷たい人、最後は自分のことだけしか考えていない、とてもエゴイスティックな人たちではないかという気がしてならないんです。私の感じ方変かしら。」
「とても鋭いと思います。奥さんを辛い思いにさせて平気でいるような探検家は、どこのどいつかは判りませんが、登山家や冒険家といわれる人にはみんなそういうエゴイスティックなところがあります。普段は普通の良い人たちなんですが、追い詰められると人が変わったように、冷たくなったりきつくなったりすることがありますから。これは何も登山家や冒険家にだけに当てはまるとは限りませんね。普通の生活の場でも見られることですからね。でも、登山家や冒険家の場合にはそれが際立つんでしょうね。特にミキちゃんのような繊細な方にはね。
なにしろ登山家というのは、よく言えば、自然を愛し夢を持った頼りがいのある人たちですが、悪く言えば、快楽のためには過度の肉体的苦痛を必要とするガサツな人たちのことですからね。だからミキちゃんが苦手って感じるのも、とても判るような気がします。僕が大学で登山部に入って山を登り始めた頃は、僕は先輩たちから登山家としては将来性がなく、ただ食って寝て荷物を運ぶだけの牛のようにみなされ、まったく人間扱いされたことはありませんでしたからね。でも僕は、そんなことは小さなことのような気がして、少しも苦にはなりませんでしたし、ちっともへこたれませんでした。たぶん僕もガサツな人間だからだったんでしょうね。」
「わたしはあなたのことをエゴイスティックとかガサツとかは少しも思っていません。もしそうだったら結婚なんかしていません。そうではなくて、あなたは自分の夢ばかりを追い続けて、世間での自分の評判を気にするだけで、自分の家族の思いや気持ちをぜんぜん顧みない自分勝手な人だと思っているんです。」
「確かに僕はミキちゃんの言うとおりかもしれない。僕は夢を追い続けた来た。でも、世間の評判を気にしたり、有名になるために冒険や探検をやってきたわけじゃないんだ。それは半分合っていて半分合っていない。というのも、僕の屈辱的な登山家生活の始まりから見れば、いつかはでっかい事をやって、世界を驚かせるような凄い事をやって、当時の仲間たちを見返してやりたいという思いをずっと抱いていたことは確かだからね。それに、僕は決して目立ちたがり屋ではないけれど、世間から注目を浴びるっていうのはちょっと快感ですからね。でも、それはとても表面的なことだったような気がする。それから、僕がミキちゃんの思いや気持ちを顧みないというのはまったく当たっていない。」
「どう表面的だったんでしょうか。私にはあなたがとても喜んでいるように見えましたけど、もちろん私も喜んでいましたけどね。だって生死を賭けた冒険に成功して、帰ってきたんですからね。でも、そのためのあまりにも大きすぎる代償が、、、、それに、その喜びを覆い隠すような新たな不安が、これからどうなるんだろうかという不安が湧いてくるのを、いつも感じていましたのよ。」
「僕の冒険のために、ミキちゃんを心配されたり不安にさせたことは本当も悪いなといつも思っていたし、そのことも十分に判っていた。それで絶対に生きて帰って来ると言って、がんばって、成功させて帰ってきたんだからね。だから、僕が、冒険を成功させて帰ってきて喜んでいるように見えるのは、マスコミに取り上げられたり、みんなからおめでとうと言われるからだけではないんだ。ほとんどは、生きて帰ってきてミキちゃんを安心させることが出来たという喜びなんだ。それに、そのときは、もう冒険なんかこれで最後にしようと言う気持ちもちょっぴりあったからね。それで満足感に満ちた顔をしていたんだろうけど、でも、、、、時間が経つと、また、、、、」
「そうでしょう、いつも私の不安が当たるのよ。あなたには無理だったのよ。男だから世間体や、名声のほうが大切なのよ。社会から忘れられることが怖いのよ。女性の私とは価値観が、幸せ観が、根本的に違うみたいね。でも私にはどうしても納得できませんの、家族を辛く悲しい思いにさせてまで、生命をかけてまで、やりたいことをやるということが、私から見れは自分勝手と思えるくらいにね。」
「もう、そんなに僕をいじめないでくださいよ。僕だってそれなりに色んなことを考えていましたから。将来のこととか、生活のこととか、なにせ僕には決まった所得がありませんから。手っ取り早く今の僕に出来ることはいったいなんだろうかって考えざるを得ませんでしたからね。名の知れた冒険家として、やっぱり人並み以上の家に住み、人並み以上の生活をしたいと思うのも人情ですからね。」
「私にはそんな不安や心配はまったくありませんでした。なぜって、それは、あなたが過去の名声や栄光にこだわらずに、家族のためにどんなことでもやれる人だと思っていましたから。もちろん生命を危険にさらして家族を心配させるような仕事ではないですけどね。それに、もし仮にあなたが思うように行かなくなったとしても、私が以前のように働くことが出来ますからね。そういえば、前にこんなこと話したこと覚えていませんか。遭難し、凍傷にかかり、たとえ手足を失ったとしても、あなたには生きて帰ってきて欲しいって。私が昔のように働いて生活できますからって。」
「うん、あの時は本当に嬉しかったよ。」
「わたしは普通で十分幸せなんです。それから、わたしは判っていました。あなたに初めてあったときから、この人は私と同じように普通で十分に幸せになれる人だって。とんでもないことに挑戦することを除いてね。うふ。だから、もう少し適当に考えてくださっていたら、きっとこんなことにはならなかったに違いないと思い、とても残念でなりません。」
「実は、僕もミキちゃんと初めてあったときから同じようなことを思っていた。この人は派手な生活、贅沢な生活を決して望まない人だ、慎ましやかな生活が似合う人だと。だから、男って云うのは、そんな人だからこそ、より良い生活をさせて幸せにしてあげたいと思い、がんばって働けるものなんだけどね。、、、、あのう正直に言ってもいいかな。実は僕、ミキちゃんと結婚する前、二度ほど見合いしたことがあるんだ。大学の先輩の紹介と出版社の紹介でね。あとから気がついたんだ見合いって事がね。なにせ正式なものではなく、会って食事をすると云った程度のものだったのでね。でも、なんかしっくり来なかったなあ。二人とも、とてもしっかりとした感じで、おしゃべりもうまかったんだけどね。」
「綺麗な方だったんですか。」
「えっ、まあ。世間ではあういうのを綺麗と言うんだろうけどね。最初はちょっとだけ目を見張りましたけどね。僕もその点では普通の独身の男でしたから。」
「きっと、山のように美しかったからなんでしょうね。」
「そうなんでしょうけど。でも僕は最初だけで。」
「よく言いますよね。男の人は。女性を美しい山にたとえて、山を征服するように女性を征服したいって。あなたはそういう気持ちにならなかったんですか。」
「僕は、それはあまり良い喩えだとは思っていません。両方とも男性をひきつける点では同じですが。根本的に違うものなんです。山は征服するものかもしれませんが、女性は征服するものではありません。山とか自然とか云うものは人間が思うよりも奥深いものですが、女性というものはそれとはまったく違う意味で奥深いものだと思っています。なんというか、生命の根源に触れるというか、暖かさというか、豊かさというか、とても安心させるものなんです。それに比べたら自然は、厳しいというか、冷たいというか、そんな体験は男には必要なんですけどね。とにかく僕は彼女たちにあまり興味を感じなかった。」
「でも、とてもしっかりとした感じの方だったんでしょう。きっと私なんかよりもずっと賢くて活動的な方だったんでしょう。もしあなたがそのとき結婚していたら。私なんかと違って、その方はより精力的に動きまわって、あなたの輝かしい業績を全世界に広めていたことでしょうね。ところで、その見合いは、私と知り合う前だったんですか、それとも後だったんですか。」
「あれ、前かな、後かな。たぶん、後だったかな。でも、ミキちゃんを知っていたおかげで、あの女性たちには何の興味もわかなかったんだからね。僕の見合いした女性たちは、確かに綺麗で、賢かったに違いない。でも、彼女たちとの幸せな生活がイメージできなかった。きっと生活費がたくさんかかるんだろうなあ、とか、尻をたたかれて働かなければいけないんだろうなあとか、なんては、簡単にイメージできましたけどね。
それに比べたらミキちゃんは、、、、僕にとって、キミとの出会いは衝撃だった。こんな女性が日本にいたのか、いや、まだ居たのかって云う感じでね。ミキちゃんのような女性は映画や小説の世界にだけ存在するものと思っていましたから。僕はミキちゃんが働いているお店に行ったとき、初めは君の存在に気が付きませんでした。二度目か、三度目かに行ったとき、君がお茶を出してくれて僕の料理を注文をとったとき、僕は君の顔はを見ないで、そう云うところでは僕は普段から女性の顔は見ないのですが、それでいつものようにぶっきらぼうに注文しました。そのときです。あの暖かく優しく包み込むような感じが突然僕を襲ったのは。僕はそれは、君の何気ない仕草や物腰や、穏やかな話し方などによって、君の全身からかもし出される雰囲気からくるものだと判りました。僕は、後姿を見せて歩いている君に目をやりました。どこにでもいるような、あっ、失礼、普通の女性のようにしか見えないのに、どうしてなんだろうと、とても不思議な気がしました。でも、それから何度も通うようになって、君と話しているうに、僕の感じたとおりの魅力的な女性であることを確信しました。どのように魅力的かと言うと、僕にはそれを言葉でうまくあらまわす方法を知りません。もし僕にそれが出来るなら、きっと小説家になっていただろうと思うくらいに難しいのです。
それよりも、なぜこんな魅力的な女性が、結婚もしないでいることがとても不思議でたまりませんでしたよ。この事実は少し後で知るんですけどね。世間の男は本当に見る目がないと思ったくらいでしたよ。」
「ねえ、私、ほめられているのかしら。」
「もちろんだよ。」
「お世辞でも嬉しいわ。」
「僕が女性にお世辞を言ったりするタイプに見える。うそ偽りのない本当の気持ちだよ。だから、世間の男たちが君を放っていた置いたのがとても不思議だったんだよ。」
「私はずっと普通のおばさんでしたから。」
「そんなことはない、他の男たちに見る目がなかっただけだよ。ミキちゃんの魅力と言うのは、姿かたちがどうのこうのというのじゃなくて、そういう感覚的なものを超越した、全体的な雰囲気や印象からくる、すべてを暖かく包み込んで受け入れ、そして、それを許してくれるような、体全体からほとばしるような全存在的な魅力なんだよ。」
「ねえ、なんかほめ過ぎじゃないですか。」
「そんなことないさ。ミキちゃんの魅力は色んな物にたとえられるよ。たとえば、モナリザの微笑みのようにとか、下町の太陽のようにとか、勇気を与えてくれる女神のようにとかね。」
「なんか、くすぐったいわ。本当にあなたなの。だって、今までにあなたはそんなこと一度も言ってくださらなかったじゃないですか。どうしてもお世辞としか思えませんね。」
「心からの気持ちだよ。今まで言う機会がなかっただけで、ミキちゃんと知り合ってからずっとずっと心のそこから思っていたことだよ。」
「あなた、ありがとう。とっても嬉しいわ。そんな風に思っていただいていたなんて、ちっとも知りませんでしたわ。」
「ねえ、ミキちゃん、今思ったんだけど、もしかしたら、君の深い深い魅力は僕にしか判らなかったのかも知れないね。他の男は唐変木ばかりでさ。と言うと、僕たちは出会うべくして出会ったと云うことになるね。僕たちは運命の赤い糸手で結ばれていたと云うことになるね。お互いに出会う日を待っていたということになるんだ。ねえ、ミキちゃん、僕を初めて見たときどう思った。」
「どう思ったって。ほめなくちゃいけないかしら。」
「感じたとおり正直に言っていいよ。」
「そうね、大人なんだけど、子供みたいな感じ。好奇心がち良くて、放って置いたら何かとんでもないことをやりそうなので、よく見守っていなければならない子供みたいな、それにどことなく寂しげで、追い求めているものをなかなか手にすることが出来ないようなあせっている感じかしらね。どう、がっかり。」
「いや、その通りなのかもしれない。」
「そうそう、こんな感じも、小さいことにはこだわらないおおらかな、とても頼りがいのある感じもしましたよ。」
「ありがとう。無理やりほめてくれて。」
「無理にじゃないです。ちょっと思い出すのが遅れただけです。」
「そうなんだろうね。それがミキちゃんの本当の気持ちなんだろうね。あの頃僕はエベレストなんかにも成功して、知る人ぞ知る有名人だったにもかかわらず、そのように僕を全体として、つまり僕の真実の姿を見てくれたことは、ミキちゃんが純粋な気持ちで人間を見ることができる人だったから、そう感じたんだろうね。だってそれが、僕たちの出会いが決して表面的なものではなく心の奥底での魂の出会いであったという証拠でもあるんだからね。
僕たちはお互いに言葉を超えたところで判り合っていたと思う、引かれ合っていたと思う、だから結婚したんだからね。
あの頃僕は、幸運にも恵まれて、登山家として成功し、名声を得ていたので、もう少し有頂天になっていても良かったのだったが、どうしてもそんな気持ちにはなれなかった。というのも、僕の成功というのは、仲間の死とか、たくさんの悲しい辛い犠牲の上に成り立っていたのだからね。
それからそういう登山方法に対する疑問とか、男として、また立場上他人にはどうしてもっていうか、絶対に言えない様な秘密を抱えていたり、そのほか色んなことにも悩んでいて、僕はこれからどうしたらいいんだろうかという、漠然とした不安にいつも襲われていたので、決して自分自身に満足しているような時期ではなかったからね。ミキちゃんの目に僕がそのように映ったと言うことはすごく当然のような気がする。
ようやく来たようだ。僕の本当の気持ちを言わなければならないときがね。さっきミキちゃんが、『どう表面的だったんでしょうか。』と言ったことに対する答えを言わなければならないときがね。
僕が危険な登山や冒険や探検をやれ続けたのは、有名になりたいとか、昔の仲間を見返したいとか、世間を驚かせたいとかという理由だけからではないんだ。それはさっきも言ったように本当に表面的なことに過ぎないんだ。僕の心の奥底にはいつも違うことがあったんだ。僕がある種の極限状態に陥ったときに、いつも現れるあの静寂な広がりはいったいなんだろう、その正体を確かめたいと云う思いがずっと在ったんだよ。
その静寂な広がりの最初の体験は、確か大学の登山部での合宿のときだった。何十キロもある荷物を背負い、水も満足に飲まされず、過酷な山登りをしているとき、みんなは弱音を吐き、ゼイゼイ言っていたが、僕は苦しいところを決して表情にも態度にも見せずに黙々と歩いていた。本当はみんなと同じように苦しいんだろうけど、なぜか僕はそれを表に出さなくても耐えられたみたいなんだね。仲間は馬並みの体力だなと言ったが、本当はそうでもなかったんだよ。最も、僕がみんなのように弱音を吐かずにいられたのには、他にも理由があったんだけれどもね。僕は見かけによらず、狡猾なところが在ってね。水を飲まされずに歩いているときに、沢などに差し掛かったとは、わざと躓いた振りをして顔から倒れて、そのときたらふく水を飲んでいたからね。僕が無表情で絶えられているときは本当に僕の頭の中は空っぽになっているんだ。なんにもないんだ。真っ白な静かな広がりを感じながらね。そのおかげで僕が過酷な状態を耐えられているみたいなんだ。
なぜ僕がそういうことが出来るのかは僕にははっきりとは判らないが、ひょっとしたらそれは遺伝ではないかと思っている。と言うのも僕のお袋は、農婦なんだが、仕事がどんなにきつくても絶対に弱音を吐かない人なんだ。それどころか、仕事が過酷になればなるほどますます笑顔になっていく人なんだ。なにもそれは僕のお袋だけに限ったことではないんだけどね、たまにそういう他人が嫌がるような肉体労働を、どんなに割が合わなくても平気な顔をして、あたかもそれが喜びであるかのようにして引き受ける人がいるのを見ることが在るけどね。それも同じようなことなんだろうけど、とにかく僕は、そういう人間と同じように出来ているみたいなんだ。
ところで、その真っ白い静かな広がりにある時から色がつくようになったんだ。薄い、どこまでも透明な青から、濃い、これもどこまでも透明な海のような青へとね。そのあるときというのは、僕がクレバスに落ちて奇跡的に生命が助かったとき、恐怖でしばらくは脚ががくがく震えてはいたが、その一方では、意識を失いかけ、あのもうだめかと思われた瞬間にチラッと見えた、どこまでも透き通る様な青い静かな広がりは、いったいなんだろろうかと思っていたんだ。その色がさらに濃くなるのは、仲間を寒さで失い、僕もぎりぎりまで追い詰められ、ここであきらめれば、僕もきっと死ぬに違いない、あきらめてもいいしあきらめなくてもいいと思っているときだった、それが現れたのは。それに以前よりも少し時間も長くね。結局僕はその後もがんばって生き延びたんだけどね。でも、そのときに見た、あの静寂な青い広がりはいったいなんだったんだろうと云う疑問は頭の片隅にずっと残っていたんだ。その後も幾度かの探検や冒険で、僕が苦境に陥ったり、ぎりぎりまで追い詰められたりしたときには、何度もそのますます青くなっていく静寂な広がりを見ることが出来た。そのたびに僕は思っていた、いったいあれはなんなんだろう、そうだそのうちに絶対にその正体を確かめてやると。はっきりとこの目で見たやろうとね。そして、そのうちに僕は思うようになったんだ。もしかしたらあの青い静寂な広がりは、真の世界の姿ではないかってね。僕は無神論者だからこんな言い方はあまり好きじゃないけど、もしかしたら、あれこそ神様の姿ではないかってね。その姿は、体力の限界に挑戦しているときや生命の危機に瀕しているときに現れるのだから、僕のように極限の状態を経験している者にだけその姿を見せるんではないかってね。そして、その姿は、条件が厳しくなればなるほどはっきりと見えてくるので、僕はますます過酷な冒険、より極限の探検へと向かわざるを得なくなったんだよ。
それに、とにかく僕には、誰よりも先にその正体を見てやろう、そのためには、誰もが体験したことがないような冒険や探検をして、自分を極限の状況下に置かなければならないと思っていたからね。肉体の限界への挑戦、極寒への挑戦、酸素の薄い最高峰への挑戦と、今までそれをやってきたんだから、世界で誰もがやっていないようにマッキンリーへの冬季単独登頂に挑戦すれば、その過程で絶対にその答えが得られるに違いないて思ったんだ。」
「それで正体がわかったんですか。はっきりと見えたんですか。」
「うっ、よく判らない。どうなったのか。確かに、冬季のマッキンリーは厳しかった。それまでになく過酷だった。あきらめても良かった。続行するかしないかの決断は、どこに舞い落ちるか判らない桜の花びらのように揺れ動いた。でもそれは僕が望んだことだった。それに、これが最後になるに違いないという思いが僕の意志をゆるぎないものにし続けた。
僕は、自然に逆らうことなく慎重に、忍耐強く、しかし勇気を持って大胆に挑戦して、登頂に成功した。僕は叫んだ。僕は誇らしかった。どうだと言いたかった。歴史上、誰もがなしえなかったような最も過酷で激烈な冒険に挑戦し、それを成功させたのだから。でも何も起こらなかった。頂上は冷たすぎる風が吹いているだけだった。僕は下山した。ちょっぴり満足感を味をいながら。でも僕は決して油断したわけではなかった。だって、絶対に生きて帰ってくるってミキちゃんと約束しているんだからね。いったい僕の身に何が起こったんだろう。僕にもよく判らないんだ。突然深い深いクレバスに落ちたのか、雪崩に襲われたのか、氷の塊が僕の頭上落ちてきて、僕を押しつぶしてしまったのか。
それ以来何も判らない。どれくらい時間が経っているのかも、ここがどこなのかも判らない。もしかしたら、この僕の周りのどこまでも透き通るような海のように青い、何の変化もない、何にも感じない、この静寂な広がりが、僕が正体を突き止めたかった物の本当の姿、つまり真の世界の姿なのかもしれない。
僕はいったいこれからどうなるんだろう。ずっとこのままなのだろうか。僕は死んでいるのだろうか、それとも生きているのだろうか。何にも判らない。
、、、、もし、死んでいるのなら、どうしてミキちゃんと話なんかできるんだろう。ねえ、とても不思議だと思わない。こんな話聞いたことないよね。」
「そうですね、とても不思議だと思います。でも、、、、わたしにもよく判りません。あなたがどうなっているのかなんて。でも、そんなこと、あなたが死んでいるのか生きているのかなんて、もう何も思いたくはありません。いまこうやって話し合えているだけで、わたしにとっては十分なんです。」
「ねえ、ミキちゃん、不思議ついでに言うと、どうして僕たちはこうして話し合うことができるんだろう。どんなに遠く離れているかも知れなのにさ、それに僕は、、、、ごほうびかな。神様の。僕をこんなところに閉じ込めておくのはもったいないような気がして、真実の世界を探求した人だからって。」
「まあ、でも、わたしは、それは違うような気がするわ。わたしたちを引き合わせたのは神様なんかではなく、わたしたちのお互いを思う気持ちが、とくにわたしのあなたへの強い思いが、そうさせているような気がする。」
「そうか、そうだよね。僕にも、ミキちゃんに言いたいことがあるからね。君にもきっとあるんだろうね。ところで君の僕に言いたいことって何なの。」
「まあ、判りませんか。もうほとんどはあなたに言いましたけどね。」
「なんだろう。」
「どんなに家族のものを心配させたかってこと、どんなに悲しくさびして思いをさせたかってことね。あなたは男として、やらざるを得なかったんでしょうけど、でも女のわたしにとっては、ちっとも理解できません。家族の愛よりも、冒険の成功や、世間での名声のほうが価値があるだなんて。ましてや、何もない氷のように冷たい真実の世界のほうが、わたしのあなたを思う気持ちよりも価値があるだなんて、まったく信じられませんね。それから、あなたはよく一人だったと言いますが、本当に一人だったのでしょうか。確かに登山家としては一人だったかもしれませんが、でも、人間としてはあなたは夫婦だったのです。あなたにはそれまで苦楽をともにしてきた、またこれからもともにするであろう私という妻が居たのですよ。でも私から見ればそれはおかしいと思います。あなたは一人だったといいますが、本当に一人だったのでしょうか。確かに登山家としては一人だったかもしれませんが、人間としてはあなたは夫婦だったのです。あなたにはそれまで苦楽をともにしてきた、またこれからも共にするであろう私という妻が居たのですよ。でも本当に言いたいことは、、、、正直に言っていいですか、、、、うそつき、冒険とは生きて帰ってくることだと言っておきながら、帰って来ないじゃありませんか、あなたは本当に自分勝手な人ね。」
「ほんとですね。もう返す言葉もありませんよ。」
「ねえ、ところで、わたしのあなたへの思い、言いたいことは言いましたけど、あなたのわたしへの思い、言いたいことって何ですの。
「うん、それはね、ふう。僕が日本人で初めてと言われるような登頂に何度も成功して、マスコミにも取り上げられたり、テレビに出たりして多少有名人になっていたんだけど、でも、僕はそんな周囲の雰囲気や僕に対する扱いに違和感を感じていた。
僕が求めているものはこういうことじゃないんだよなと、どうしてもなじめないものがあった。
僕が本当に言いたいことや、やりたいことと、周りが求めていることとは違うってことに気づき始めていたからなんだ。あの頃僕はそんな誰にも言えない悩みを抱えて、これから僕はどうすればいいんだろうかと、満たされぬ気持ちでといつも不安だった。そのことを言葉や顔には決して出さなかったんだけどね。でも、ミキちゃんは、そんな僕の気持ちを見抜いたようだね。いや、君の天性の感性で感じ取ったと言ったほうがいいのかな。君がそんな能力を持っているなんて、ほとんどの人がわからないような才能でね。僕が初めて君を見たとき、僕はそれまで味わったことがないような印象を君から受けた。このすべてを許して受け入れ暖かく包み込むような感じはなんなんだろう、いったいどこから来るんだろうって。もちろんそれはミキちゃん自身の全体の雰囲気から来るものだったんだけれどね。まさしくそれは僕にとっては衝撃だったんだよ。僕は君と付き合うようになって、それまでの悩みや不安がだんだん消えていくのが判った。それは僕が君の前では、なぜか子供のような素直な気持ちで振るまうことができたからだと思うんだ。ミキちゃんには僕にそうさせる力があったのだからね。僕はミキちゃんと結婚した。そして僕から悩みや不安は完全になくなってしまった。僕はますます子供っぽくなっていった。ちょっとしたことに怖がったりなんでもない寒さに寒がったりして。そして僕は、人間が一人で、どこまでやれるか試したかったので、思う存分自分のやりたいことをやるようになった。少し暴走しすぎて自分勝手みたいなところもあったんだけれどもね。でも、僕が、誰もが成し遂げられなかった様な冒険や探検に成功できたのは、すべてミキちゃんのおかげなんだ。僕から迷いや悩みごとをなくさせ、僕に勇気と決断力を与え、いつも冷静に行動できるように背後で精神的に支えてくれたのはミキちゃんだからね。そして本当に本当に、僕の冒険の成功を支えていたのは、絶対に死なない、絶対に生きて再びミキちゃんの元に返ってくるんだという思いだったんだよ。このおかげで僕はどんな逆境や苦境にも打ち勝つことができたんだよ。成功の暁に待っているだろうに違いない富や名声なんて本当はどうでも良かったことなんだよ。
でも、いったいあの時どうしたんだろう。僕にも判らないんだ。決して自然を甘く見たわけじゃないんだが。ミキちゃん、本当にごめん、生きて帰ってこれなくて。僕の成功はすべて君のおかげなんだ。もし君と結婚していなかったら、僕はありふれたエゴイスティックな登山家で一生を終えていただろう。本当に感謝している。充実した人生をありがとう。そして、本当にごめん。」
「、、、、」
「ミキちゃん、聞こえている。」
「ええ、ちゃんと聞こえていますよ。」
「ああ、良かった。これでひと安心。これだけはなんとしてでもミキちゃんに伝えたかったことだったんだ。それから、僕たちがこうして話していること、みんなに言ったらきっとびっくりするだろうね。」
「ええ、びっくりするでしょうね。でも、わたしは絶対に言わないわよ。だって、こんなこと言ったら、あの人、寂しさのあまりついに頭が変になったのね、と言われるだけですからね。」
「それもそうだね。これは秘密だね。僕たちだけの永遠の秘密だね。」
「うふ。、、、、ねえ、あなた、秘密ついでも聞きたいんですが、さっき、あなた、言いましたよね。男には友人にも妻にも絶対に言えない様なことがあるんだって。それをわたしに教えてもらえませんか。だいじょうぶ人には絶対に言いませんから。」
「絶対に言わない。」
「ええ、永遠にわたしたちだけの秘密にするわ。」
「それは、、、、極限への挑戦、とかって、僕のやっていることをかっこよく言う人がいるけど、本当はとても辛かったんだよ。それから、登頂や冒険に成功しても、確かにそのときの満足感は叫びたいほどすばらしいものなんだが、でも、そんな気分もすぐおさまってしまうんだ。むしろ、なんというか、それはどこから来るのか僕にもよく判らないんだが、うまく言葉にあらわせないような深い孤独感や寂しさに襲われるときがあるんだ。だからときどき、生命をかけた冒険を成功させたときの満足感と、子供のときに自転車に乗れるようになったときの満足感や、僕がたまに作るチャーハンがうまくできたときの満足感とは、いったいどこが違うんだろうと思うときもあったんだよ。だってチャーハンを作るのだって、作るたびに味が違うくらい難しいことだからね。」
「まあ、たいへん。でも、わたしは感じていました。あなたって云う人は、大冒険だけでなく、身のまわりの些細な出来事にも満足感や喜びを見出せる人だってことを。」
「それじゃ今度は僕から、まだミキちゃんに聞いたことないこと、聞いてもいいかな。」
「えっ、なにかしら。」
「僕との結婚、最後の決め手は何だったの。」
「もうだいぶ前のことなので忘れました。でも、あなたが少年のような純粋な心を持ち続けている人だなって、いつも感じていたことをなんとなく覚えています。
ねえ、あなた、本当にそこはどこなのか判らないんですか。」
「判らない。何にも判らない。何にも感じないし、あれからどのくらい時間が経っているのかも判らないんだ。、、、、でも、あっ、今なんとなく思い出した。僕の身に突然何かがあったんだ。それでとても苦しくて、それで、もうこれで良いのかなと思っていると急に風景が変わって、それ以来ずっと変わっていないんだ。青くどこまでも透き通るような静寂な広がりだけで。、、、、ところで、オリンピックはどうなったんだろう。」
「オリンピックって、アテネの、、、、」
「アテネ、違うよ。アテネは、オリンピック発祥の地でしょう。そうじゃなくって、今度開かれるモスクワオリンピックのことだよ。」
「ああ、モスクワのね。日本は参加しなかったから、テレビもやらなかったのでぜんぜん盛り上がらなかったわ。それよ、わたしにとっては、そんなこと楽しんでいる場合じゃなかったしね。判るでしょう。」
「そうでしたね、、、、」
「ねえ、今度、あなたからの手紙、たくさんあったてでしょう、あれを本にまとめて出版することにしたんですけど。どうでしたでしょうか。」
「えっ、僕からミキちゃんにあてた手紙のこと。あれをみんなに見せるの。恥ずかしいなあ。だってあれはプライベートなことじゃないですか。全部を出すの。」
「全部じゃないけど、だいたい二百八十通くらいあったでしょう。その中からいいものだけをね。」
「いやあ、どうしょう。良い物って言ったって、僕は何も良いことは書いてないよ。本当に個人的なことだからね。出版を止める事は出来ないの。」
「だめ、もうだめ。皆さんは、国民の皆さんは、あんな生死を賭けた冒険をし、国民栄誉賞までもらった人が、家庭ではどんな人だったか知りたいみたいなの。家族や奥さんのことを、どんなに愛し、どれほど思いやっていたか知りたいみたいなの。私が言うほど自分勝手な人じゃないって事を知りたいみたいなのね。」
「わあ、恥ずかしい。ねえ、どうしても止める事は出来ないの。」
「うふ、だめね。ねえ、どうしても止めさせたかったら、こちらに帰ってきて止めさせたら。」
「わっ、そんなこと出来ないの判っているくせに、ミキちゃんは意地悪だなあ。こんなことになるんだったら。もっとしっかりとした男らしいことを書いていればよかったなあ。それにみんなが読むに耐えるように、もっと文章も練ったりしてさ。誤字脱字なんかも結構気になっていたんだから。」
「そんなことありませんでしたよ。文章なんかもしっかりしてましたわよ。私から見ると少し気取った感じがしてましたけどね。ちっとも普段のあなたらしくないというか。もしかしたら、いずれ出版されるに違いないだろうって、少しは意識していたんじゃありませんか。」
「参ったなあ、いやあ、参ったなあ。でも、ミキちゃんが決めたんなら仕方ないよ。それでいいよ。はあっ。、、、、わあ、良い匂い、なんだろう、これは。あっ、探検を終えて、成田空港に帰ってきて、飛行機のタラップに降りたときの匂いだ。日本の春のにおいだ。暖かい春の匂いだ。わあ、なんだろうこの甘い香りは。あっ桜だ。桜の香りだ。ミキちゃん、今、桜が満開なんだね。あの近くの公園の桜が。通りがかりに見たことはあるけど。きっときれいなんだろうね。そういえば、あんなに近くだったのに、ミキちゃんと一緒に見に行ったことなかったね。忙しいことを理由にしてさ。見に行っていたらきっといい思い出になったのにね。わあ、聞こえてくる。騒がしい音が。飲んで歌を歌っている声だ。夜桜の下でみんな花見をしているんだ。ミキちゃんには夜桜が似合うだろうなあ。、、、、そっ、ミキちゃんには本当に申し訳ないと思っている。絶対にそういう所にいきたいと思っているに違いないのに一度も連れて行けなくて。」
「もういいのよ、そんなに気にしなくても。それに私は、お花を見るのは好きですが、お酒を飲んで酔っ払って、歌を歌ったりして騒ぐのはあまり好きじゃありませんでしたから。」
「それを聞くとホッとします。でも何度も言う様だけど、ミキちゃんには本当に申し訳ないと思っている。それに感謝しても感謝しきれないくらい感謝しているよ。でも、どうしても今までは、照れ臭いというか、どんなにそう思っていても、直接言えなくてね。」
「判っています。でも、直接言われるとどんなにか嬉しいということも判って欲しいですよ。」
「本当に感謝している。ありがとう。僕は苦しいときいつも思っていた。この探検が終わったら、この冒険を成功させたら。あとはのんびりと、田舎にでも引きこもって、たまには旅行したりして、ミキちゃんとずっと仲良く暮らそうってね。でも、日本に帰ってきて、何日かすると、また、そのたびにこれを最後にしようと、いつも思っているんだけどね。でもなぜか、、、、本当に申し訳ない。」
「旅行ですか。二人だけの楽しむための旅行なんて、夢のようですね。でも、もういいんですよ。私は再びこうやってあなたと話し合えたということが、嬉しくて嬉しくてたまらないんですから。これだけで、もう十分なんですから。それからね、もうあなたのことを、決して自分勝手な人だなんて言いませんから、安心してください。」
「わあ。、、、、ありがとう。僕もとても嬉しいんだ。ミキちゃんとこうして話し合えたことが。あれ、どうしたんだろう。ホッとしたせいか、なんかミキちゃんと話していたら急に、眠くなってきたみたい。」
「あっ、だめ、まって、、、、」
「なに、どうしたの、、、、」
「いっ、いや、なんでもないわ。」
「それじゃ、ミキちゃん、おやすみ。」
「あなた、おやすみなさい。」

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