挫折しかけた中国語



に戻る   

          真善美




 英語の習得に自信のついた私は、さらに調子に乗って中国語も学び始めた。
 始める前は、韓国語にしようか、それとも中国語にしようかと、ちょっと迷った。でも、文字は同じ漢字なので、新たに文字を学ばなくても良いということで中国語を選んだ。少し安易だったかもしれないが。

 私はさっそく、英語で成功したように、「私の学習法」にしたがって学び始めた。だがすぐつまづいた。漢字が日本と違う簡体字だったり、日本と同じ意味を持つ漢字が意外なほど少なかったとからではなく、「私の学習法」が最も重要視しているところの、「新たに学ぶ外国語を出来るだけ音声の変化として感じ取り、それを聞き分けながら意味や感情を理解する。」ということが、単純に通用しなかったからだ。
 「私の学習法」とは、物覚えの悪い私が考えた方法で、その学ぼうとする外国語の文や単語は学校の勉強のように暗記はしないで、まずその言語を耳で聞き、そして出来るだけ似せて発音しながら、だいたいその意味を理解して、それから後でそれを再び音声として聞いても、そのときなんにも感じない、つまり、意味もイメージも思い浮かばなかったら、それは、前に学んで記憶したつもりのものをすっかり忘れていて、今はもう何を言っているのかまったく判らないということだから、そこで今度はもう一度それを学び直しては、今度こそはそれを再度聞いたときに、その意味が判り、何かを感じ思い浮かぶまで、つまり、それを学んだときのように再び理解できるまで、そしてさらには、この次にそれをどんなに時間が経ってから聞いても何を言っているのか理解できるまで、つまり完全に覚えるまで、何度でも以下に述べたような練習を繰り返して、外国語を身につけていく方法であるのだが。
 ところが中国語の場合、四声といって、発音するとき、単語のそれぞれに四種類の上がり下がりがあり、(それが中国語を世界に比類なく音楽のように流麗にしている最大の特徴でもあるのだが)、そして、それを正確に聞き分けることが、中国語を習得する上で最も重要なことなのであるにもかかわらず、それがなかなか出来ないのである。
 もちろん、すべての単語に上がり下がりの記号が付いているので、それを記憶しそれに従えば問題ないのであるが、でも、そのようなものを記憶することが言語の習得の妨げとなることが、今までの体験から判っている。
なぜなら、これは英語におけるアクセント記号や発音記号を覚えても何の役にも立たないということと同じことだからである。(受験には役立つみたいだが。)
 そのとき私は不安に襲われた。もしかしたら、わたしのような年齢に達したものは永久に四声を聞き分けることが出来ないのではないかと。というのも、音楽には絶対音階というものがあって、それを身に付けるには三歳までにやらないと、その後はどんなに努力し訓練しても絶対に身に付かないということをどこかで聞いたことがあるからである。
それならば、私のような人生の折り返し地点をだいぶ前に通過した者は永久に中国語を身に付けることは出来ないということになるのだから。
 それでも私は続けた。そう簡単に投げ出したくなかったせいもあるが、英語で自信を得た「私の学習法」を信じていたからでもあった。
 とにかく音声だけをたよりにあとはもう慣れるしかなかった。発音はどうにか真似できるようになった。だが、ある程度時間が経っても四声を自然に聞き分けることはなかなかできなかった。 そうこうするうちに、なんとなく聞き分けられるようになった。これは「私の学習法」の成果ではあるのだが、でも進歩はのろかった。ラジオ講座はどんどん進んでいく。記号を覚えればそのことは解決するのかも知れなかった。  確かに、テレビの講座では日本人の中国語の先生が上がり下がり記号を、その言葉をきちんと発音しながらも同時進行で何の苦もなく再現できていて、記号の暗記が発声の助けになっているように見えるが。だがこれは絶対的に錯誤である。これは記号を暗記しているから発音できるのではなく、彼が中国語を聞き分けてきちんと発声できるほど身についているから、記号を再現できるのである。
 そこで私は少し妥協して四声記号に頼ることにした。結果的にはそれが進歩の妨げになることは判っていながらも。
たとえて言うなら、関西語を話さない人がその独特の抑揚に記号つけて暗記し話そうとしたら、おそらくその発声はぎこちないものになり、会話することは苦痛なものになるだろう.なぜならば言葉を話すとき人間はその話の内容を思い浮かべるが、その話される言葉の形など誰も思い浮かべないからである。
わたしたちは何か考えようとするとき、眼を閉じたりして出来るだけ視覚的な影響を避けようとすることを知っている。それは視覚的なことが、よりよく話そうとすることの妨げとなっていることを先験的に感じ取っているからであろう。
 私は上がり下がり記号を覚え、それに頼りながらなんとか講座に付いていってはいたが、それは所詮見せかけにすぎなかった。相変わらず四声は聞き分けられないでいた。むしろ予想したとおりに混乱し進歩は止まっているようだった。
英語のときのように「私の学習法」を中国語に当てはめるにも当てはめることが出来なくなっていたので、はっきりと実感できる成果が得られず、私はなんとなく苦痛を感じるようになり、やっぱり私のような年齢のものには無理なのかなと思うようになり放り出したくなった。

 私が挫折しかけたのには他にも理由があった。それは有気音と無気音ということであった。
有気音とは息の出ない音のことであり、無気音とは息の出る音のことであるのだが。でも私は最初こんなことがありうるのかと思った。息を出さないで音が出るのかと。このような疑問が中国語講座に対する不信となり、なんとなく熱意が失われていった。
それで六ヶ月ほど休んだ。
そして再び始めたとき、ふとあることに気づいた。以前に学習したことが、たとえそれがわずかでもあったとしても、決して忘れ去られてはいないとうことであった。身に付いていたのである。もしこれが暗記していたものだあったのなら、完全に忘れ去っていたに違いない。完璧ではないとはいえ、それなりに四声を聞き分けられ発音できるようになっていたのである。私は「私の学習法」が決して間違っていないことを確信した。そして有気音と無気音に対する誤解もほどなく解けた。無気音とは息が出ないことではなく、息を意識的に出さないようにして音を出すことであり、有気音とは積極的に息を出して音を出すことである。そうすれば二つの音の発声が不可能でないことがわかった。
 そして私は再び熱意を持って学ぶことができるようになった。テキストを使用することもなく。

だが、残念ながら私はここで正直に白状しておかなければならないことがある。英語編で文字(テキスト辞書など)を見たり書いたりしてはいけないと言いながら、私は中国語のテキストを利用していたのである。でも、これは言い訳になるが、最初は必要である。どうしても基本的なことはきちんと知っておかなければならないし、聞きなれない音声を正確に聞き取ったり復唱したりするのにはどうしても視覚的なものの力を借りなければならないからである。日本語だって音声だけだと不正確に覚えていることがたくさんあるのだから。

 私は現在毎日のようにラジオ講座を聞いている。おそらく進歩は遅いものだろう。でも、純粋に音声だけからその意味が理解できたときには喜びは特別である。それが中国語の勉強が嫌にならない、そして飽きない最大の理由なのだろうが。

 さて私はこれまでの中国語の体験から次のようなことがいえるまでになった。これはこれから中国語を修得しようとする者にとっては十分に参考になるはずである。
  • 発音は出来るだけ時間をかけて練習したほうが良い。母語話者の人の発音が聞き分けられて同じように発音が出来るようになるまで。
    このことは「私の学習法」の基礎であり核心でもあるのだから。
    これは決して不可能なことではない。母親の前の幼な子のように素直な心になって真似れば出来ることである。


  • 文法はほとんど無視してもかまわない。
    動詞が最初のほうに来るのは英語にているが、ほかのところでは日本語に似ているところもあり、語順に関しては、そういうものなんだなと思って受け入れることが肝心である。
    そうすれば自然と身についてくるはずだ。日本語においてそうであるように。


  • 四声記号やピンインはあくまでも正確に発音するためのに利用するもであるから、出来るだけ覚えようとしないこと、いや絶対かもしれない。
    おぼえられる能力のある人はかまわないが。
    結局、正確に聞き分けられ発音できるようになれば、それらは必要がなくなり頭から消え去るものだから。
    それから、四声の上げ下げは前後関係によって変化するが、それに関する理屈めいたことも覚えないほうがよい。
    軽く聞き流す程度にしておいたほうがよい。
    とにかく視覚的なものや理屈は感覚を鈍らせその発達を妨害するものだから、学習初期に参考する程度にとどめ出来るだけ覚えようとしないことが大切である。
    なぜならそれらは中国語が身に付いたころには結局は必要がなくなり忘れ去られる性質のものだからである。
    本来それらは表現される内容に注ぎ込まれて人間の精神を豊かにさせるものであって、表現の手段に注ぎ込まれるはずのものではないからである。


  • 文字(漢字の意味の違い)についてはあまりこだわらないほうがよい。
    まずは音声が聞き分けられることが大切である。
    それほど中国語は音声が重要なのである。


  • テキストは、最初の基礎的な部分を学ぶためには必要だが、その後の進歩にはあまり役に立たないので、出来るだけ頼らないようほうがよい。
    なぜなら進歩が実感できる方法は、それが楽しみ喜びとなるのだから決して学ぶことが嫌にならない、挫折もしない。


  • テレビの中国語講座は見ないほうが良い。
    あたかも学ぶことが楽しいことのように作られているが、どうも遊びながら学ぶということと勘違いしているようだ。
    学ぶということには多少苦痛が伴うのである
    。遊びながら学ぶというのはその苦痛がやわらげられると言うことである。


  • 指導する先生は出来るだけ日本語が聞きづらい、つまり下手なほうがよい。
    本来はネイティブのほうがよいのであるが、先生が日本語が流暢な場合は、その言語空間は日本語の場になってしまうため、習っている外国語が日本語の側から見た外国語になってしまい、心から入り込めないよそよそしいものになってしまうからである。


  • ラジオ講座の先生は、テキストを買わなくても良いように、単語や文の意味を正確に言ってくれる人が最良の先生である。


 さて、「私の学習法」とは、基本的には外国語を何度も繰り返して聞いて、聞こえたように喋るということだけのことであり、私のように物覚えの悪い者にとっては、それは最適の方法なのであるが、それだけではない、外国語が決して嫌いにならない、飽きないという利点も持っている。だから私は進歩が遅いとはいえ、毎日こつこつとやっていける。
 始めてから二年過ぎたが、私の中国語に対する感受性はコチコチのレンガのような硬さを通り過ぎて、柔らかめの凍み豆腐ぐらいだろうか。英語のほうが柔らかめの木綿豆腐あたりまでになっているようにみえるが、でも、まずはこれで良しとしなければならない。
英語に比べれはまだ二十分の一の時間に過ぎないのだから。
進歩が遅くとも飽きないで楽しみながら学習できることが大切なはずだ。

 ところで前の英語編において、私は次のように述べたことがあった。
「我われが人の話を聞いたり、本を読んだりするときに、その音声または文字を追うようにして、その言葉を反復するかのように頭に思い浮かべながら、その表現された内容を理解しようとしている。」
ということを。これはいったいどういうことなのかは英語編においてはまだよく判っていなかった。聞いたり読んだりして理解することと話すこととのあいだには何か密接な連関性があることを示唆することは出来たが、それがどれほど重要なことであるかについては確信もなく判らなかった。
 言葉を頭に思い浮かべると言うことは、脳内に反響させると言うことではないことは確かである。再現させて理解するのに役立たせようとしているようだ。しかもこれには話すということ、つまり話すことの神経が関わっているようだ。声を出さなくても、その電気信号を回路に送り続けているかのように。このことは、われわれが本を読んで理解しようとするときに、声を出して読むと理解しやすいと言うことで裏付けられるような気がする。
 以上のことから次のようなことが言える。音声として言葉を聞き分け理解するためには、それを脳内である程度再現できる必要があると。そのためには同じように音を出す声の協力が必要であると。つまり同じように声に出して言うことが出来れば、それはほとんど理解したと同じあると言うこと。または覚えたと同じであるということ。そしてさらにそのことを先に進めて、どこかの外国語のその意味がまったく判らなくても、それが耳に聞こえるように話すことが出来れば、それは外国語を理解するための最速の方法ではないかと。そうすると、前編においては「なんべんも繰り返して聞くこと。」が最も重要であったが、これからはとにかく、ネイティブの人と似たように発音できるまで、意識的にしかも強制的に真似て発音することが、外国語の習得になによりも重要なこととなるに違いない。


 我われは未知の外国語を知ろうとするとき、てっとりばやく文字を通して、文法や単語の意味を時間をかけて調べればなんとか理解できる。だが音声としてのそれはそうは行かない。時間は話されている時間に限定される。その間に同時進行で理解しなければならない。それは直感的で反射的な作業である。それを可能にするのは音声に対する感受性の高まりと発声機能を利用した音声の再現能力であって、決して抽象的な意味の文法や視覚的な記号の記憶ではない。文の意味はそれぞれの単語の意味をつなぎ合わせて構成するものではなく、全体のまとまりとしての流れとそれぞれの言葉の相互関係から成り立つものである。だからそれはいつも適度な速さで喋られることが必要とされている、速すぎても遅すぎても我われは理解することは出来ないようになっている。
我われは話される速さにあわせるように脳内で反復できるようになったとき、その言葉に親近感をおぽえながら理解できるようになるだろう。
そうなればその外国語を身に付けることは時間の問題となるに違いない。

 さて私はこれまで「私の学習法」があたかも最善の方法であるかのように述べてきたが、それは違う、本当に最善の方法とは前編でも述べたようにその外国語が話されている場に入って生活しながら直に触れることである。
生活することがなにより良いのは雰囲気や表情などの感覚的情報を通してその外国語の文化的背景となっているものに直接触れることができるからである。
文化的背景がその言語をほとんど決定していると言っても過言ではない。だからその文化的背景に親しんでいればいるほどその外国語の習得に著しい進歩が見られるはずである。
私はそのような実例をたくさん知っている。
 その体現者よると、彼らはその外国語の体系的な勉強はほとんどしなかったが、外国語の場を生活の場としているうちにある日突然のようにその外国語を理解し話せるようになったということである。そしてその期間というのは彼らの話によるとどうやら二年のようである。これは言語に関する真理のようである。だからもし数ヶ月で外国語を習得したらその人は天才だろうし、二年以上かかるようだったら、それはほとんどの学校の勉強ようにその学習方法が間違ってているのだろう。

 以上私は中国語の学習法に関して、少し表現不足のために今までだらだらと述べてきた観があるが、結局のところ私の言いたいことは次のように簡単に要約できそうな気がする。
「中国語を母語とする人が話すことを聞いて、その意味は判らなくても、それを同じように声を出して話すことが出来れば、それでその中国語の基礎はほぼ完成である。その後は文字も文法もことさら学ぶ必要なく、テキストも必要ない。判らない単語は実践の場で、そのつど覚えて身に付けていけばいいだけである。」
と。これが私のように物覚えの悪い者にとっての、決して飽きることがなく嫌いにもならない、そして絶対に挫折することのない中国語の最善の学習方法であることを確信する。

 私はこれまでの外国語の学習体験において、言語の音声としての側面が、言葉を理解し他者とコミュニケーションをはかる上でどれほど重要であるかということに気づき始めている。
たとえば、我われが無意識的に言葉を使って会話をしているとき、我われは相手の言った言葉を頭の中で反復したり実際に声に出して言ったりしながら、言語空間がどんどん広がっていくのを感じているように。
そのことはいずれはっきりとしなければならないと思っている。

 最後に。
私は少し前に手ごたえを感じていると書いたが、でも実際はまだまだ手強い。
話していることを聞いてそのように発声することはなかなか出来ない。
やはりどうしても四声記号に頼ってしまう。
年齢的にやっぱり無理なのかなと思うときもあるが、着実に進歩しているのだからがんばるしかない。
音声はイメージや理屈ではない。
あくまでも感覚である。
感覚の記憶は繰り返して慣れるしかない。









  に戻る