さらに調子に乗ってスペイン語

に戻る   

          真善美




 「私の学習法」で、英語の成功に気をよくし、そして中国語に手ごたえを感じたわたしは、さらに調子に乗ってスペイン語をはじめた。
スペイン語を選択したのは、発音が日本語に似ているということを聞いていたからでもあるが、ラジオ講座が中国語の前の時間帯であるということが、その最大の理由でもある。これも少し安易だったような気がするが。

 スペイン語にもやはり特徴があった。
それはそれを新たに習得する外国人にとってはそれなりに難点がある意味での特徴である。
たとえば我われ日本人にとっては、英語の発音が耳慣れないものであるために最初はなかなか受け入れることができなかったり、どうでもいいと思われる定冠詞や不定冠詞の厳密な使い方に、とにかくなじめないものであったりするように。
また中国語において、その四声の発音が絶対的な重要性を持っているにもかかわらず最初はまったくといっていいほど聞き分けることがほとんど出来ないということがあったように。
そして同様にであるが、日本語を覚えなければならない外国人が、その文字の数や敬語の使い方に難解さを感じて恐れをなすようにである。
 では、そのスペイン語の特徴ということであるが。
まずは、
  名詞に男性名詞と女性名詞があるということ。
  それに動詞の活用の多さである。
名詞の区別は慣れれば何とかなることが判るのであるが、問題は、動詞の活用である。規則的な動詞が多いとはいえ、すべての動詞が約五十種類ぐらいに活用するのである。
スペイン語を習得するには、どうやらそれを覚えなければならないようなのであるが、でも私にはそもそもそんな能力はない。能力がないから「私の学習法」などというものを考え出したのであるのだ。
最初動詞の活用表を見たとき私は絶望的な気持ちになった。こんなのを覚えるのは不可能であると。投げ出したくなった。でも、ふと思った。スペインの子供たちはこんなものを覚えているだろうかと。いや大人たちでさえきっと覚えていないはずだと。覚えていなくても話しているはずだと。我われ日本人だって動詞の活用を知らなくてもちゃんと話すことが出来ているのだからと。
 そのとき、さらに私は思った。これは無理に覚える必要がないと。つまり「私の学習法」にしたがって、どうしても覚えられないものや、覚えたつもりでもすぐ忘れ去ってしまうものは、それを何度も繰り返し聞いたり発音したりしながら、そのつど意味や発音を確認しては、とにかく「慣れるだろう」ということに最大の希望を託しながら、時間をかけて覚えるしかないと。そしてそれは絶対に可能であると。なぜならそれこそが「私の学習法」でくり返しくり返し述べてきた要点であり核心でもあるからであると。

 私は無理に動詞の活用を覚えようとはしないでラジオ講座を進めた。予想した通りなんとかなった。
何度も繰り返しているうちにだんだん覚えられるようになった。だが正直に言うと動詞の活用を覚えようとしたことはあった。そして実際に記憶した。でも、今でも覚えいてるものはあるが、ほとんどは忘れてしまった。私にはそもそもそんな能力はないのだ。
では私が覚えていないからといって、スペイン語のヒアリングが低下しているかというとそうでもない。逆に覚えているからといってそれが役にたっているかというと、そうでもなさそうだ。とにかく覚えていても覚えていなくても着実に進歩をし続けていることは確かなようだ。
なぜそうなるのか、それはこれまで何度も述べてきたように、文法やそれに関する理論や理屈は、まず言葉を話すという厳然たる事実があり、その上で始めて成り立つのであって、文法やそれに関する理論や理屈が先にあるのではないということなのだ。
だが、この件に関してもうこれ以上言及するのは意味がないような気がする。我われにとって言葉を話す上で動詞の活用など頭で記憶したことは本質的な役割を果たしていないということが判ればそれで十分なのだ。
 結局私は辛抱強く繰り返しながら慣れることによって、何かの技能を身につけるかのように動詞の活用を習得していった。

 さて私はスペイン語を勉強し始めてもう二年近くになるが、それなりに手ごたえを感じてきている。これは予想していた通りでもあるが、少なくとも英語のときよりも早いような気がする。おそらくこれはスペイン語の発音が英語よりも遥かに近いためでもあるようだ。
それに文法的にも、英語のように主語の位置や存在が厳密でないとか、発音もあるものは三種類ぐらい在ったりして、それほど厳格でないことにも理由があるようだ。せいぜい日本語と違うのは英語と同様に動詞が最初のほうに来て、前置詞は名刺の前に来ると言うことであるが、でも、結局これらは最初のほうに言いたいことの結論を持ってくるか、後のほうにを持ってくるかの違いで、前置詞が前に来たり後に来たりするのは、構造上の必然であって、これを文法だ、規則だと言って、大上段に構える必要はないのであって、そういうものそういうものなんだなと思って素直に受け入れていればいいのである。
だから「私の学習法」に於いては、もともと文法上の困難さから開放されているのである。
だが、英語のときよりも進歩が速いのは果たしてそれだけの理由だろうか。
私はこれは英語の学習のときと違って、スペイン語のときは単に聞くだけではなく、実際にその話されていることを声に出して反復したことに最大の要因があるような気がする。
つまり声を出すことによって、スペイン語に対する感受性が英語のときよりも遥かに早く養成され発達してきたのである。それは英語のときと違って言葉を純粋に音声として素直な気持ちで受け入れることが出来ていたので、スペイン語に対する感受性も素直に成長したようにも思われる。
そして、そのことは如何に音声が言語の発達に本源的な寄与をしているかを暗示するものであると同時に、想像以上に重要な役割を果たしていることが再認識させられるのである。


 私は今ある野心的な考えを持つようになっている。
 そしてその実現を熱烈に夢見ている。

 私はこれまで、語学の習得においては音声というものがどんなにか重要な役割を果たしているが、文法や文字がそれほど役立たないものとしてくり返して述べてきた。ときには、文法を学ぶことは語学の習得を妨げることさえあると言い切ったこともあった。でも文字に関してはそれなりに肯定的な役割を果たしているに違いないということにして来た。
だが果たしてそうなのだろうか、文法と同じようにその習得を妨げていることはないのだろうか。
と言うのも少し前述べたとおり、音声のもつ想像以上の重要な役割を再認識させられている現在、わたしは次のように考えざるを得ない。
文字は直接的にではなく、間接的に語学の発達を妨げていると。つまり、言語を習得しようとするとき、それを覚えるために文字に頼り、本来最も重要であるところの「音声を通して習得する」ということがおろそかになるのではないかということである。そして、そのおろそかになるということは、音声に対する感受性の発達が阻害され、ひいては語学の習得そのものが阻害されるということになるのではないだろうか。

 そこで、もし私たちが外国語を学ぶとき、文字に頼ることなく、まったくの音声だけから学ぶとしたら、つまり文字からの情報をいっさい断ち切って頼るものを音声だけだとしたら、そのほうが、我われの言語に対する感受性が活性化され発達して、語学の習得が早くなるのではないのだろうか。

 我われの祖先がサルから離れて人間に近づこうとしていたころ、彼らはまだ自分の思いを自由に伝えることが出来なかった。なぜなら言語の発達が不十分だったからだ。だが彼らの感情生活が決して貧しかったと言うことではない。言葉を話さない動物を見れば判る。動物たちは、ときには鈍感な人間よりもはるかに微妙で繊細なときもある。だから彼ら(我われの祖先)は、この憔悴しきった現代人よりも豊かな感情生活を送っていたと断言してもいいかもしれない。それはちょっと言い過ぎとしても、少なくとも現代人よりも充足した感情生活を送っていたことは確実のようである。
 やがて言葉が発達してきてお互いに思っていることを言い合えるようになり、それまでの感情生活の上に精神生活が加わった来た。
 言葉はそれが必然であるかのように時間とともにどんどん発達していった。そして精神生活もさらに発達し充足し豊かになって行った。そこに我われは悪や虚偽をあまり見ることは出来ない。なぜなら充足した感情生活に裏打ちされた精神生活には悪や虚偽が生息することは難しいからである。もしコミュニケーションの手段が、実際に顔を合わして話すことだけだとしたら、そこに嘘や偽りが入り込む余地はほとんどない。そんなものは身振りや表情ですぐ見抜かれるかららである。それはきっと現代人よりも優れていたに違いない人間洞察力によるものだろう。そして精神生活の発達はさらなる言語の発達をもたらし、言語の発達はさらなる精神生活の発達をもたらしたに違いない。このときの言語の発達は完全に音声だけによるものである。ならば音声に対する感受性も同様に発達していたに違いない。そこで音声だけの言語は精神生活と手を携えながらともに発展していき、やがて精神生活とともにその頂点を迎えたに違いない。
なぜこんな言い方をするかと言うと、これらの能力は、文字の使用とともに衰退していったと考えざるを得ないからである。おそらくほとんどの人は、文字の使用は人間の知識を発展させ、技術を発展させ、学問を発展させ、そして我われの生活を豊かなものにしたと思ったいるに違いない。確かに知識や技術や生活に関してはそういえるかもしれない、でも感情生活や精神生活になるとどうだろう。疑わざるを得ない。
 文字の発見は知識の蓄積させたりしていい面もあるだろうが、話す言葉の発展を妨げたことも事実である。そして、文字を独占することによって自分たちの優位性を築きながら、人を脅迫し支配する手段に利用したり、学問と称して人に寄生する手段に利用することが出来るようにもなった。
さらには、それまで人間の優れた精神力と洞察力によって封じこめられたいた虚偽や悪が大手を振って跋扈するようにもなった。文字の発見によって知識や技術が発展し我われの生活が豊かになったのは真実であるが、それによって我われ人間が本来持っていたの知恵は停滞し精神は衰退し感性はゆがみ人間性そのものが衰弱していったこともまた真実である。

私は有史以前世界のいたるところで豊かな社会があったという伝説を信じざるを得ない。

 人間が言葉を話すようになり、そしてそれを記録する文字を使用するようなって、知性が発達し知識が蓄えられ技術が進歩し生活が豊かになったことは真実であり歴史の必然でもあるが、その反面、人間の本能に基礎を置く感情や思いに変更が加えられ精神生活が変化せざるを得なくなった。
 我々は生活が豊かになったから我われの精神生活も豊かになったと思いがちだが、それは錯覚である。と言うのも我われが精神の豊かさを感じるのは、知識の多さを披露したり知性に裏付けられたような会話をするときではなく、我われの内奥に潜む知恵を感じ取り、またはそれを読み取り行使することが出来るときだからである。
 それは我われの精神生活を根本から支えているもので言葉を話す以前から人間に備わっていたものだ。そして現在でも誰にも備わっていて直感できるものだ。
 ところが人間が言葉を話し文字を使用するにしたがってそれらの能力は意識の背後に隠れるようになってしまった。そして我われの前面に出てきたのは理屈や価値であり、そして虚偽や企みや差別や搾取である。

   言葉を話す以前我われの祖先は知恵に満ち豊かな感情生活を送り充足していた。ところが言葉や文字の使用によって、感情や思いは抽象化され分析されて表現されるようになってしまい、もはやそれは本物でないもの借り物のようなものとなっていった。そして、感情生活は希薄なって行き我われの精神生活の基盤が不安定になっていったのである。それが我われの社会が豊かになっていたにもかかわらず虚偽や企みや差別や詐取がはびこり始めた原因なのである。
 言葉の使用まではそのような傾向はそれほどでもなかったが、文字の使用によってその流れは加速していった。
 文字を独占的に利用することによって人を支配することに気づいたものはきっと笑いが止まらなかったに違いない。
 文字で思想を記録し伝えることで他人の上に立って操ることを覚えたものはきっとほくそえんでいたに違いない。
 文字を使って作り話を広めることで自分たちの生活基盤が安定することに気づいた者はきっと薄笑いを浮かべていたに違いない。
 文字で理屈をこねることで社会的地位を得られることに気づいた者は己の優秀さに酔いしれたに違いない。
 これらのものは政治家であり思想家であり宗教家であり学者である。
 文字の使用はそれまでの秩序や体制の固定化に役立ってきた。そのことは人間の本来持っている自由な発想や感性の発達を妨げてきたということにもなる。
 現在我われの言語教育はこの延長線上にある。いまだに文字で表現されたことが表現の進化した形最高の形態だと思っている人たちがいる。私はそこには発想の自由さや進化を見ることはできない。行き着く先は型にはまった精神生活だ。子供の教育にこのことを当てはめれば表現は論理的であるが自由な発想を摘み取られているため将来は大人や社会が期待するようなことしか出来ない人間になってしまうだけだろう。
 文字による表現はたとえそれがどんなに論理的であっても新しい価値は生み出さない.価値は内墺に潜む知恵から発せられる光源に照らし出されて精神が活性化され伸びやかな感性のもとで生み出されるのである。
 文字は人口が増加や産業が発達によって複雑になっていく社会を秩序付けたり統制するためには大いに役立っていることは確かなようだが、個人の精神生活の豊かさとはあまり関係ないようだ。
これは私自身でもはっきりと自覚できることである。私自身の精神の安定と喜びは現代の豊かな物質生活とはまったく関係ない。私自身の内面的な充実や成長はいつの時代の人間と変わりなく私自身の個人的な努力によるものである。
 前に触れたように言語生活に基づいた精神生活の豊かさは文字が使用される前に頂点に達したと思われる。 文字を使用することになった時間は、人間が言葉を話すようになってその発達が最高潮に達するまでの時間に比べたら無視してもいいくらいである。 そのくらい言葉は時間をかけて発達してきたのである。それだけ人間の感覚器官や精神と深く関わっていると言うことである。そしてそれは音声を基本として、身振りや表情などの視覚的なものと共に、具体的なものとして発達してきたのである。それこそが我われの精神の豊かさを形作っていた。文字を知らなくても我われは豊かな精神生活を送ることが出来るのである。
 我われは現在メディアを通じてそのような人たちを世界各地に見ることができる。
言葉が別れていったのは神の仕業ではない。人間のたくましい適応性と感性の柔軟性と豊かな創造性によるものである。
言葉が別れて行ったのは容易なことのようである。だとしたらそれを統合するのもそれほど難しいことではないように思われる。それは人間が本来持っている能力のように思われる。つまり音声にだけに頼っていればそのような能力は自然と芽生えてくるはずである。そしてそれは眠っていた能力が目覚めるように新たな言後に対する感受性が育まれ発達するはずである。そうすれば外国語に対する拒絶反応もなくなくその習得がそれほど難しいものではなくなるだろう。
かつて我われが学校の英語教育によって味わわされた劣等感や屈辱感や挫折感から開放されて楽しみながら外国語を学ぶことがきっと出来るはずである。

 話し言葉が意思の疎通の有効な手段として、文字の歴史よりも遥かに長い時間をかけて進化発展していったのを見るとき、言葉が音声に対する感受性を発達させながら意識の奥深くまで入り込み広がり人間の精神生活の形成にどんなにか大きな役割を果たしてきたのかを理解できる。
表情や身振りだけでなく言葉でお互いの気持ちが分かり合えると言うことは喜びである。たとえそれによって不誠実な人間が現れたとしてもその程度のことは犯罪までには至らず社会で吸収解消できるはずのものだったにちがいない。
つまり性格の悪い人間として大目に見られていたはずだ。

 喜ばしいことは人間を生き生きとさせ精神を豊かにさせる。必然的に音声に対する感受性が高まり、語彙も増え表現も巧みになる。それによって精神世界も広がり、音声に対する感受性もますます発達していき、人間が気が遠くなるような長い時間をかけて身につけた深淵で、かつ偉大な能力として話し言葉の世界を確立したのである。
どうやら我われは今まで文字表現を重要視するあまりその秘められた能力に気づかされないでいた。もったいないことである。
我われは文字で表現されたものが話し言葉で表現されたものより優れていると思っている。それは間違いである。
文字で表現されたものは論理的でわかりやすいが、そこから精神の柔軟性製や発展性を汲み取ることは出来ない。
考えていることをまとめることはできるが、どれほど文字を連ねても新たな価値を生み出すことは出来ない。なぜなら、我われの精神はつねに論理性を超えた水平線の見えない大海に漂っているからである。論理的で判りやすく表現するということは、物事を抽象して都合のいいことだけを顕在化させることである。だが我われの精神は煮えたぎる感情や迸る思いで充満した生命の塊をかかえながら進化を遂げている深淵で広大で無際限ものである。

 我われが語学の習得にあたって文字を利用しないで音声だけに頼ると言うのは、そういう深淵で広大で無際限な世界に支えられた本来誰もがみな持っている豊かな話し言葉の世界に踏み込むことである。だから誰でも音声に対する感受性が目覚めれは語学能力が目覚めないはずはないのである。

 なお、これまで述べてきたことは概要にすぎない。細密に時間をかけて検討しなければならないことがあまりにも多すぎる。いずれ機会があったらやりたいと思うが、その必要もないような気がする。
なぜなら「私の学習法」による成果は現実であるから。現実の前ではどんな理屈も能書きも、そしてここで述べられていることも色あせてしまうからだ。

 さて、今までのぺて来たことをまとめると次のように簡単にまとめることができる。
「ネイティブの人が話しているように話せるようになるまで何度も何度もくり返し聞きそして話す練習をすることである。」 と。
おや、それだと、これは、幼な子が母親の前で言葉を学ぶときと同じ方法ではないか。それなら今までくどくどと述べて来たことがなんになるのかということになるのだが。なんという徒労。


 最後に、私は正直に白状しなければならない。
「私の学習法」があれほど効果があると力説しておきながら、ラジオ講座のときに、話されている内容を意味として理解すると、もうそれで習得したと思い込み、それ以上、、「私の学習法」でもっとも重要で最も基本的なこと、つまり何度もくり返し聞き、そして聞こえたように話すことができるまで練習をやるということをやらなくなるのである。
どうも「内なる官僚主義」という精神の伝染病は感染力が強くしかもワクチンもほとんど効かないようだ。あれほど私が繰り返し批判してきたにもかかわらず、その私自身がいとも簡単に感染して「内なる官僚主義」に陥ってしまうのだ。
 話されている内容を意味として理解するということは、それがあくまでも既知の内容だからである。にもかかわらずに、それでなんとなく身に付いたような気になって満足してしまい練習を怠るのである。
その方が楽だからであるが、またこれは私の学校時代に染み付いた癖でもあり後遺症でもある。それがペーパーテストで良い点数を取るもっとも良い方法という理由のために。それほど学校の英語教育は罪深いのである。
だが語学を習得するということは、常に未知のものに接してそれを受け入れるということである。それには時間とエネルギーが必要ではある。地道な努力が必要である。それによって未知のものを既知のものにしていくのである。
頭で記憶するというのは個人差もあるだろうが、ある程度時間があれば誰にでも出来る。でもそれは実践の場ではなんら役に立たなく、数年たては忘れ去られてしまう性格のものである。
でも「私の学習法」は誰にでも出来るものでもあるが、時間も掛かるものでもある。「私の学習法」でも覚えたことはほとんど忘れることはない。なぜなら肉体の記憶(非科学的な表現)または感覚の記憶(これも非科学的な表現)よって身に付いているからである。だが、それでもこれほど判っている私自身でさえ頭の記憶に逃げ込みたがるのは、自分から進んで伝染病に掛かろうとする現代人の悲しい性のようだ。


私がこれまで英語編中国語編そしてスペイン語編において、「私の学習法」という名を借りて述べようとしてきたことは、ある厳然たるしかも我われの至るところに存在していて誰の眼にも判りやすいひとつの事実であり真実である。ところがその単純な真実を表現するために、こんなにも長く、くどく、そして理屈っぽくなってしまった。おそらくその晦渋さに読者は辟易したことだろう。その原因は私自身の力量不足にあるのだろうが、それよりもむしろ、われわれが日常本能的に体得している真実に比べたら、それが理屈でもって表現されたものは如何に脆弱で未完成なものでいるということを裏付けることにもなるだろう。
 我われがこのような例を学問という名のもとで行われてことを人間の歴史に見ることが出来る。
身近な単純な真実を表現しようとした内容が、その単純な真実そのものよりも重要視され、あたかもそっちのほうが価値があるかのようにみなされてきたということである。
おそらくそれは、我われ人間が、理屈があってそれから事実や実践があるかのように錯覚しがちであるということに起因するのであるが、学問というものが文字を知っているという小数の特権意識を持った人たちによって独占的に、そして既得権益として行われてきたことが最大の原因であろう。
だが現代そのような人間は生息し得ないだけでなく、学問そのものさえもかび臭くなり生命力を失っていきいる。当然の結果ともいえる。たぶんそのような学問というものは、今後もなくなることはないだろう。
でも、語学の習得は、実践である、観念論的瑣末的体系的な学問の介入をやるすべきではない。
我われは語学の習得においては、理屈や体系や文字から決別しなければならない。
そしてさらに付け加えるに、学問の結果または成果として書かれたものが難解であればあるほど価値があるとされてきた。
だがこれは大間違いである。だれが読んでも判らないものは廃棄しなければ成らない。そこには価値などない。
価値は我われの実践のうちにある。だから私によって書かれたこれらのものも読んでも判らなければ廃棄されなければならない。そこになんらかの意味を求めようとするのは徒労である。
これまでわたしが表現しようとしてきたことは。現実のありふれた単純な事実である。表現が難解であるからといって、内容までが難解であるということではない。判りやすく表現できないのはあくまでも人間(または私個人)の能力不足である。
そもそも真理というものは難解ではない。具体的なものである。なぜならほとんどの人間はその真理のもとで生きているからである。問題なのは、その真理を観念的に理解をしようとすることである。
真理のもとで生きているということと、その真理を理解しようとすることと、果たしてどっちに価値があるのだろうか。
歴史は頭で理解することに価値があるとしてきた。
そしてそのもとで学問が独占的に排他的に発達してきた。物事が体系付けられたり秩序付けられたりして思想が発達してきた。そして現実から生まれたその観念論が現実を支配し蹂躪するようになって行った。我われはいまだにこの呪縛から逃れられていない。
特に語学教育の現場においては。私は英語編においてそのことを批判してきた。だからもうその必要はないと思う。
それよりも私は「私の学習法」の優れている点を何度でも強調したい。それは学校の勉強のように何も覚えようとする必要はないということである。それによってもう劣等感や挫折感や屈辱感に苦しむ必要はないということである。
母語話者の話していることを何度も聞いて、それと同じように話せるようになるまで何度も練習するということである。それだけのことである。誰にも出来ることである。
そして「私の学習法」の最も優れている点は、依存症のようになって練習が飽きないということ、さらには外国語か決して嫌いにならないということである。ちょっぴり苦痛は伴うが。なぜなら外国語を身につけるということは何か技術を身につけるように忍耐力と努力を必要とするからである。決して頭で暗記することではないからである。だが苦痛を伴うということは良い事である。それは依存症には不可欠だからである。身に付けようとする外国語に依存症になるということは目出度いことではないか。
我われは判っている。文法的なものを表にして覚えても何の役にも立たないことを。実際に会話をするときに、記憶していることをそのつど頭の記憶倉庫から取り出して利用するのではないからである。理解や表現というものはもっと直感的である。
スペイン語の動詞活用表を私は特に覚えようとはしなかった。でも何度も声に出して練習はした。そのおかげなのか私は何とか判るようになった。身に付いたのである。私はこれを頭の記憶と区別して「肉体の記憶」とか「感覚の記憶」とかいってきたが、ほんとうのことを言うとあまりよく判らない。そのメカニズムがはっきりしない。でも結果は良い。なぜそうなのか。もしこのことを判りやすくいうとしたら、それはたぶん「慣れたから」ということなのだろう。
つまり「習うより慣れろ」なのである。結局そこに戻ってしまうようだ。ジャンジャン。


 ※注
 スペイン語の発音は日本語に似ているからといって練習を怠ると進歩は見られない。微妙に違うところもあってなかなか手ごわい。
そこにはどの言語にも見られるように、それぞれの単語の発音よりも文全体のの音声としての流れが、本質的なものとしてはるかに大切なことのようだ。







  に戻る