廃校




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          はだい悠 






 ひときわ目につく家電量販店が、賑やかな表通りに建っている。
 その二階のフロアーでは、少し肥満気味の男が、訪れる客に忙しそうに応対している。その鈍そうな身のこなしからして、すでに中年の域に達しているかのように見えるのだが、実はまだ三十五歳になったばかり。
 男のどことなく愛嬌のある表情からくりだされる、よどみないセールストークや、体を窮屈そうに曲げて何度も頭を下げる腰の低さは、初めて接する者にとっては、それほど悪い印象を受けなかったので、購買意欲をそがれることは決してなかった。しかし、その反面、必要以上に目を見開いた笑顔や、マニュアル通りと思われるスキのないおしゃべりは、誠実さというよりは、どことなく信用の置けないお調子者という印象を与えかねなかった。
 そこで、ときには、男の態度をわずらわしく感じる客がいないわけでもなかった。
それでも全体としては、思ったほど評判が悪くなかったので、店の売上の足を引っ張るようなことは決してなかった。だから、優秀な販売員として表彰されることはない代わり、不良販売員として秘密のリストに乗るようなことも決してなかった。
 むしろ、あまり目立たないが、安定性のある販売員としての評価があり、それが特別の勤務時間帯が認めらている理由であった。

 真夏の太陽がビル群の背後に、静かに消えた。
 先程の男が人影の少ない通りを、駅のホームで買った缶ビールを飲みながら歩いている。
 前方に、重なるようにして立ち並ぶ四階建ての公営住宅のシルエットが浮かび上がる。そのところどころには電気がついている。
 男は棟の前に設置されてゴミ置き場の前に立ち止まると、「空き缶入れ」と書かれた容器の中に、飲み干した缶を投げ入れた。

   階段を二階まで上がり、佐藤与志という表札のついたドアの前に立ち止まると、大きく深呼吸をしてからチャイムを押した。
 ほどなくして中からドアが開けられ、男は体を丸くして入っていった。

   特別の勤務時間帯というのは、幼くして母親を亡くし、それ以来ずっと一人で、父親の帰りを待っている、十一歳になる娘のマイカといっしょに夕ご飯を食べるために、他の同僚たちよりも一時間早く退社することが、特別に許されていることである。
その代わり、朝はみんなより一時間早く出社して色々と雑用しているのであるが。

 居間に入るとヨシは、まず、本棚の上に立てかけられている亡き妻ミエコの写真に向かって、「相変わらずブスだなあ。」と、小さくつぶやきながら、それを正面から見えないように斜めにした。次に食堂に入ると、テーブルの上に置かれてある、何か食べ物が入っていたと思われるプラスチックの容器とコップに、いきなり顔を曇らせながら鋭い視線を投げかけた後、それまでの表情に戻り、腕まくりをして台所に立った。これから二人の夕食を作るためである。
 だがどうしても、テーブルの上の空容器とコップが気になる様子で、そこで近づいていってじっと見たあと、それらを手にとり、空容器はゴミ箱に、コップは洗って食器棚に入れた。すると今度は炊飯器に目をやりながら近づいていき、ふたを開けて中をのぞくと、「なんだ。」と叫ぶように言って勢いよくふたをしめた。
 そのままヨシは、食堂を出て、マイカの部屋の前に立つと、そのどういうわけか、、いつも開けっ放しのドアのところから、少し苛立ち気味に話し掛ける。
「おい、マイカ、なんでご飯炊いてないんだよ。約束だろう。他のことはお父さんがやるから、ご飯だけは炊いておくっていうのが。」 「だって、あたし、食べないもん。」
「マイカが食べなくてもお父さんが食べるよ。なんで食べないの?」
「もう食べたから。」 「、、、、今日だれか来たの?」
「おばあちゃん。」
「、、、、、、、、」
 不機嫌そうに台所に戻ったヨシは、「あのババア、余計なことをしやがって。」と小さくつぶやいた。

 食事の準備が終わりかけたころ、風呂から上がったばかりのマイカが台所に水を飲みに来た。そして飲み終えたコップを流しに置きっぱなしにして出て行こうとしていたのを見て、ヨシはマイカの後ろ姿を目で追いながら、少し声を荒げて言った。
「使ったらちゃんとかえしておけよ。もう子供じゃないんだから。そのぐらいはできるだろう。」
 だが、マイカは無言で出て行ってしまった。
 ヨシは一人で食事をしながら、居間でテレビを見ているマイカに穏やかに話しかけた。
「なあ、マイカ、もしかして朝からエアコン使ってないかなあ?」
「使ってないよ。」
「おかしいなあ。急に電気代が高くなったんだよね。」
「使ってないものは使ってないもん。」
とマイカは少し反抗的に応える。ヨシはさらに続ける。
「午後の本当に暑いときは、そりゃあ仕方がないと思うよ、でもさあ、午前はまだ涼しいだろう。」
 これに対して何も応えようとしないマイカにヨシは、今日こそはきっちりと言わなければと決心した。
 夕食の後片付けを終えたヨシは、居間で寝そべりテレビを見ているマイカのそばに座った。そして何かをさとすようにゆっくりと話し始めた。
「ねえ、マイカ、やるべきことはちゃんとやろうよ。いつまでも子供じゃないんだからね。来年はもう中学生になるんだよ。お父さんだって、無理言ってさ早く帰してもらっているんだからね。やっぱり決められた約束はちゃんと守らないとね。」
「お父さんこそ守ってないじゃない。」
とマイカは不満そうにテレビに顔を向けたまま言った。
「何を守ってないというんだい、ちゃんとやってるじゃないか。」
「お酒を飲んでるじゃない。あたし知ってるよ。お母さんが死んだとき、お父さんがおばあちゃんと約束したこと。お父さんがあたしと一緒に住むんだったら、これから絶対お酒は飲まないしギャンブルもやらないって。もし破ったら、あたしと住めなくなってもかまわないって言ったこと。」
 ヨシは大きく目を見開いて答える。
「その約束ならちゃんと守っているよ。」
「お父さんの嘘つき。」
 そう言いながら起き上がると、マイカは父親のヨシをにらみつけた。
 ヨシはできるだけ冷静さをよそういながら答える。
「ちっとも嘘なんかついてないよ。」
「お父さんが帰ってくるときいつも変な匂いしているけど、あれお酒でしょう。それから、、、、」
 そういって立ち上がるとマイカはゴミ箱のところまで歩いていき、その中に手を入れて手のひら大の紙切れを数枚取れ出して、それをヨシの方に突き出しながら問い詰めるように言った。
「これなんだか知ってるよ。おばあちゃんが発見したの。競輪の券だって。やっぱりギャンブルやってるじゃない。約束破っているのはお父さんじゃない。」
「まあな、厳密に言ったらそういうことになるかもしれないけど。でもね、お父さんだって大変なんだよ。競争は激しいし、ストレスはたまるし、そのうえ不況だろう。飲まないとやっていけない飲んだよ。少しぐらいは良いじゃないの、ねえ、マイカちゃん。」
 マイカがたたみかけるように言う。
「あたし知ってるよ。お母さんが死んだときのこと、お父さんは競輪に行ってたんだってね。それでお母さんの死に目に会えなかったんだってね。おばあちゃんがあっちこっちに電話してなんとか連絡とろうとしたけれでも、どうしても見つからなくって、次の日警察から帰ってきたんだってね。前の晩に酔っ払って捕まっていてね。それでおばあちゃんがかんかんに怒って、こんな男に孫は預けられないって言って、そこでお父さんは、もう酒は飲まないギャンブルはやらないって約束して、あたしと住むこと許してもらったんだってね。」
 あのババア余計なことを言いやがって、とヨシは心のなかでつぶやきながら、ゆっくりと話し始める。
「あのね、それは昔のことだよ、お父さんはほんとうにがんばってんだよ。仲間とだって競争は激しいし、次々と新しい製品は出てくるしそれをう客さんに買ってもらうためには、どんなにかよい製品であるかを覚えて、自分で売り方を考えなければならないんだよ。もたもたしてるとクビになっちゃうんだよ。家に帰ってきてからだっていつもそういうことを考えているんだよ。お父さんだって毎日勉強して努力しているんだよ。生きていくったほんとうに大変なんだから。」
「あれ、そうかしら、いつもダラッとしてお笑いや野球ばっかり見てるくせに。」
「うるさい、見ながら考えてんだよ。とにかくうるさい、生意気言うな。子供は子供らしく親の言うことを素直に聞いていれば良いの。」 「それじゃ聞くけど、お父さんは少しは親らしいことしてるの?今までどこかに連れて行ってくれたことある?あたし、お父さんと一緒にどこかに遊びにいった記憶、全然ない。友達はみんな夏休みだからって、海とかディズニーランドとかに連れて行ってもらっているのよ。海外旅行に行く人だっているんだから。お父さんはどこへも連れて行ってくれないじゃない。」
 マイカの声は最後のほうは泣き声になっていた。そしてそれっきりと手で涙をぬぐいながら何も言わなくなってしまった。
 ヨシは居心地が悪そうな表情をして、「さあ、風呂にでも入るか。」と言って立ち上がる。

 風呂で髪を洗っていると、マイカが叫ぶように言った。
「お父さん、これからは洗濯物は自分で洗ってね。あたしも自分のものは自分で洗うから。乾いて取り込むときも自分の物だけやってね。あたしのものには絶対に触らないでね。あとそれから、あたしの下着はもう買ってこないでね。あたしが自分で買うから。」
「マイカ、背中流してくれないか。」
「やだ、ヘンタイ。」
 そう言い終わると同時にマイカの姿がすりガラスから消えた。
 ヨシは、「親に向かってヘンタイ呼ばわりはないだろう。」とつぶやきながらシャンプーを洗い落とし始める。そしてすっかり洗い落とし終わっても、しばらくのあいだじっと身動きもせずに頭をシャワーに打たせていた。

 その夜。野球中継が終わって何もすることがなくなったヨシは眠ることにした。
 トイレから自分の部屋に戻るときに、マイカの部屋の前に立つと穏やかに話し始めた。
「なあ、マイカ、お前の好きなようにしてかまわないんだよ。おばあちゃんの家に行っても良いし、このままお父さんと住むのも良いし、、、、」
 そう言い終わるとヨシは、眠そうな顔してそこからゆっくりと離れた。そして自分の部屋に戻る前に、本棚の上の亡き妻ミエコの写真立てが元通りになっているのに気づき、それをふたたび斜めにした。


 翌日。ヨシは人ごみにまぎれて競輪場にいる。ゴールの様子に目をやるその表情は、悔しそうでも嬉しそうでもないので、予想があたったか外れたかは判らない。
 夕方。いつもの時間に帰ってきたヨシは、いつものように居間に入り、本棚の上の亡き妻の写真の前に立つと、
「もうそんなに怖い顔すんなよ。」
と言いながら、それをいつものように斜めにした。そして、着替えもせずにその場に座ると、大事な話しあると言って、マイカを呼んだ。
しばらくしてマイカが不機嫌そうな顔をして入ってきて座った。ヨシはおもむろに話し始めた。
「なあ、マイカ、実はな、お父さん夕べからずっと考えていたんだよ。マイカの言うことももっともだなあと思って。それでな、お父さんはついに決心したんだよ。マイカが行きたいところどこへでもつれてってやるってな。海でもディズニーランドでも、北海道でもフランスでも、南極でも世界一周旅行でも、どこへでも連れてってやるってな。でもそのかわり条件がある。それはマイカが全部準備をすること。どこへ何日ぐらい行くか、お金はどのぐらいかかるかそれから、市役所に行ってパスポートを用意するのも全部マイカがやらなければならないんだよ。どう、やってみる。」
 それを聞きながらテーブルに顔を伏せていたマイカが、少し間を置いてから顔を起こし嬉しそうな表情で言った。
「ほんとうにどこへでもつれていってくれるの?」
「もちろんだよ。」
「そんなにお金あるの?世界一周だよ。」
「うっ、あるさ、これからもっとがんばるしな。どう、やる?」
「やる。」
「それなら話は決まった。さっそく明日から準備に入ってもらわないとね。」
「へい、あっ、そうだ、明日おばあちゃんの家に遊びに行って良い?」
「うん、良いよ。」
 マイカは嬉しいことがあると意味もなく首を回す癖があったが、それをし終わると、立ち上がり、万歳をするように大きく背伸びをした後、飛び跳ねるようにして自分の部屋に戻っていった。それを見てヨシはほっとした気持ちになったが、なんとなく不安な気持ちもあった。

 翌日。市役所内を大人たちの姿に混じって、小さなマイカがきょろきょろしながら歩いているのが見える。
しばらくすると担当者となにやら話している。
 そして次に、繁華街の旅行会社の前を、覗き込むようにして通り過ぎた後ふたたび戻ってきて、おそるおそる中に入っていくマイカの姿が見える。だが、だれにも話し掛けることができずに、パンフレットを手に取ったりポスターに目をやったりしているだけ。

 その日の午後、マイカは祖母の家のチャイムを押している。
 ドアがあけられ、嬉しそうな顔をした老女がマイカを出迎える。家の中に入ると、亡き母の弟の妻が、「いらっしゃい。」とにこやかに声をかける。その一人息子である従兄弟のユウキがマイカに近づいてくると、キックボクサーのまねをして、当たっても痛くないようなパンチとキックを繰り返した。はじめマイカはそれを笑顔で受け流していたが、そのうち段々力が入ってきて、ついに思いっきり力をこめたユウキのキックがマイカのわき腹に入った。マイカは声が出せないほど痛かったが、それを顔には出さず我慢した。
 マイカは居間に通され、祖母から冷たいスイカが出された。マイカの食べる様子を見守るようにしながら、祖母のトキコがいぶかしげに話し掛ける。
「どう、お父さん、ちゃんと仕事に出かけてる?」
「うん、」
「お酒は飲んでない?」
「うん飲んでないみたい。ねえ、お母さんってどんな人だったの?写真なんかある?」
「あるよ。」
そう言うとトキコは、居間の隣にある自分の部屋に入っていった。その間マイカは一緒に食べているユウキから突き刺すような視線を感じながらも、平静さを装いながら食べ続けた。しばらくするとトキコから声がかかった。
「ねえ、マイちゃん。こっちにきて、お母さんの子供のころの写真があるよ。」
 マイカは食べるのを止めて奥の部屋に入っていった。
「これよ、これが子供のころの写真でしょう。そしてこれが大きくなって、たぶん成人式の前の写真ね。」
 アルバムをめくりながら一枚一枚目を凝らしてみていたマイカが声をあげて言った。
「これは?」
「あっ、それは、そう、小学校の写真ね。」
「ずいぶん人数が少ないね。」
「だって山の中の小さな分校だからね。」
「ぶんこう?」
「懐かしいね。でも今は廃校になってるけどね。」
「はいこう?」
「ミエコが卒業してから十年くらいたって、だれも入る人がいなくなって、それで廃校になったの。」
「これがお母さん?」
「そう、卒業式のね。」
 マイカは亡き母の子供のころから大人までの様々な写真をじっくりと見たあと居間に戻った。そしてふたたび食べ始めようとすると、スイカが何かで押しつぶされたようにグシャグシャになっているのに気づいた。食べ始めるとマイカは思わず顔をしかめた。スイカに大量の塩がかけられていたからだ。そこにはもうユウキの姿はなかったが、マイカはこれはユウキの仕業だと判った。それでもマイカは我慢して食べ続けた。


  いつのまにかマイカのそばにきていたトキコがやさしく話し掛ける。
「ねえ、マイちゃん。こっちにこない?お父さん、ちゃんとやってるようには見えないけどね。約束は破ってるみたいだしね。お父さんやさしくしてくれる?酒飲んで怒鳴ったりしない?」
「うん。ギャンブルはやってるみたいだけど、お酒は飲んでないみたい。」
「わかんないけどね、あいつのことだから。隠れて何をやっているかね。わたしはミエコがなくなったときのことを思うと、どうしてもあいつのことが許せないんだよ。もし、お酒を飲んでいるところを見たら絶対に言うんだよ。」
 食べ終えるとマイカは、自分とユウキの分の食器を流しに持っていき、それをきれいに洗ってかたづけた。それを見てトキコがうなづきながら言った。
「マイカは本当に良い子だね。お母さん似だからね。」


 それから五日後の夕方。家に帰ったヨシが、例のごとく、まず居間に入ってミエコの写真を斜めにしていると、ダンスのような軽やかなステップでマイカが飛び込んでくるなり、
「お父さん、話があるの。」
と楽しそうに言いながら満面の笑みを浮かべて座った
 ヨシはどことなく不安な気持ちでマイカの前に座ると、マイカは手に持っていた一枚の用紙をヨシに手渡しながら話し始めた。
「ねえ、お父さん、あした休みだよね。」
「うん、そうだけど。」
「あしたなの、旅行の計画を実行するのは。」
「えっ、あした、そんなあ、急に言われてもなあ、、、、お父さんにだって都合があるからなあ、、、、それでどこへ行くんだ?なんだなんにも書いてないじゃないか。えっ、これはびっくり、費用は全部で一万円でいいのか。いったいどこへ行くんだ?」
「それは秘密。」
「まあ、二人で一万円じゃ、ディズニーランドかそこら辺の海ぐらいだろうな。それで準備はできているのか?」
「うん、もう全部できている。あとはあしたのお弁当だけかなあ。それでお願い、お弁当はお父さんで作ったね。」
「あっ、いいよ。なあ、教えろよ、いったいどこへ行くんだ?」
「だめ、秘密。」
 そう言って部屋を出て行こうとするマイカに、ヨシが少し言いづらそうに話しかける。
「あっ、そうだ、このあいだどうだった?」
「なにが?」
「おばあちゃんの家に行ったろう、それでどうするの?」
「わかんない、何を言っているのか。」
「マイカがこれからどっちの家に住むかって聞いていんだよ。」
「あ、それ、まだわかんない。だって、おばあちゃんちの人たちってみんなやさしいから。」
「ふうん、そうなの、、、、」
とヨシは不機嫌そうに言いながら肥満気味の腹を掻いた。

 翌日。二人は何もかも準備して九時に家を出た。

 まず駅まで歩いて二十分。

 そして最初の少し混みあう電車に乗って三十分。

 次に乗り換えて、ほとんど乗客のいない電車で四十分。

 さらに、周囲が田舎の風景に変わっていくなかを、ヨシとマイカだけを乗せたバスで三十分。

 そして最後は、正午が近づくにつれてだんだん日差しが強くなっていくなかを、なだらかな丘や畑、そして雑木林や田んぼに囲まれて、ときには急な坂道になったりすることもある山道を歩いて三十分。

 やがて片側だけが銀杏並木の道を歩いていると、突然のように並木が途切れ、両側が門のように見える、高さ二メートルほどの二本の石柱に挟まれたあいだから、テニスコート二面ほどの広さの草原のような広場が現れ、その奥にひっそりと立っている半ば朽ちかけた古い木造の建物が目に入ってきた。
 その門のところでいったん歩みを止めたマイカは、
「ここだ、やった、着いた。」
と言って、ふたたび歩き出した。しかも速足で。そしてその草原のような広場の真ん中あたりまで来るとふたたび立ち止まり、じっと前方の建物に目をやっている。
 なれない歩きと暑さで、前を行くマイカについていくだけで精一杯だったヨシもなんとかたどり着き、マイカの横に並んで呆然として見ている。
「ここはどこ?」
とヨシが元気のない声で聞くと、マイカが少しいらだって答えた。
「ほんとうに判らないの、お母さんの小学校よ、お母さんが小学六年生までいた学校よ。」
「あっ、そうなんだ、ちっとも知らなかった。」
「廃校なんだって。」
「そうだろうね、草ぼうぼうだもんね。」
とヨシは汗だくの疲れきった顔で言いながら、その虚ろな目をを長いあいだ風雨にさらされ所々いたんでいる校舎にむけた。そしてゆっくりと首だけを動かしながら周囲に目をやった。するとその途中に、倉庫のようなもうひとつの建物の影に、白いワンピースを着た髪の長い年頃の女性を見たような気がしたので、ヨシは首を戻してもう一度その場所に目をやったが、そこにはだれもいなかった。錯覚か、疲れているからな、とヨシは力なくつぶやいた。 

 二人は校舎に入った。
 板壁のはがれた廊下を通り、教室に使われていたと思われる部屋に入ると、マイカはじっくりと周りの様子を観察するように歩いては、時々足をとめて、壁に貼られた古い時間割や予定表などに目をやっていた。ヨシは周囲には目もくれずに教室に入るとすぐ片隅につまれてあった誇りだらけの椅子を引っ張り出してきて、それに脚を放り投げるようにして座った。
 やがて二人はピクニックに行ったときのようにシートを敷いて弁当を食べ始めた。
 食べ終えたころ教室が薄暗くなっていることに気づく。すでに窓の外の空は不安な黒雲に覆われていた。まもなく突然のように稲光が走り、雷鳴がとどろき、雨が激しく降り始めた。
 二人は雨が止むまで眠ることにした。
 ひたすら眠り続ける二人。ヨシはリュックを枕にして横向きに。マイカはリュックを抱きかかえるようにしてうつ伏せに。

 夕方のように薄暗く、ヨシはだれかが廊下を歩く音で目を覚ました。顔をあげてそのほうを見ると、ひとつの白い影が通り過ぎていくのがわかった。
 ヨシは起き上がると急いでその後を追った。そしてその白い影は昼間見た女性だとわかった。
 校舎を出てなおも追っていくと、薄い霧の中を山道に入り、しばらくして、その女性は立ち止まり後ろを振りかえった。見るとそれは死んだ妻のミエコだった。ミエコは最初、青白く怖い顔をしていたが、すぐにかつての幸せそうな明るい笑顔になって、ヨシにもっとこっちに来るように手招きした。そこでヨシは前に進もうとして足元に目をやると、そこは目もくらむような断崖絶壁になっていた。ヨシは恐怖のあまりそれ以上前に進むことはできなかった。するとミエコは悲しそうな顔をして振り返ると、そのまま霧の中に音もなく消えてしまった。ヨシはその場に立ち尽くして子供のように声を上げて泣いた。

 もうすっかり雷雲は空からなくなっている。夏の午後の日差しが窓から二人を照らしている。そのヨシの目からは涙が流れている。夢を見ていたのだ。そしてマイカの頬にも涙が伝わっていた。いったいどんな夢を見ているのか?目を覚ましたヨシは顔をあげ周りを見まわしたあと、ゆっくりと起き上がり、そしてマイカをやさしく声をかけて起こした。

 二人は帰り支度を始めた。
 外に出た二人は、草の生えた校庭の真ん中に立ってもう一度じっくりと校舎を眺めたあと、きっぱりと振り返り帰り道を歩き始めた。もう振り返っては見ないというような雰囲気を漂わせながら。

 まだ強さの残る日差しを受けながら、体力の回復したマイカは元気に歩いているが、ヨシは相変わらずだらしなく歩いている。すると、前を歩いていたマイカが突然立ち止まると、振り返り、そしてヨシの顔をじっと見ながら言った。
「ねえ、お父さん、お父さんはどうしてお母さんが待っている所に行かなかったの?」

「え、、、、」  ヨシは驚いたようにそう言うと、目を見開いてマイカを見つめ返した。するとマイカは何事もなかったかのように前に向き直るとふたたび元気に歩き出した。ヨシはなんで自分が見た夢のことをマイカが知っているんだろうと不思議に思った。ヨシは歩きながら、
「まさかあ、そんなことあるはずはない。」
と思っては見たものの暑さと疲労で頭がぼぉっとしてきており、もうそれ以上何も考えられなくなってきていた。とにかくあとは体力が続く限り気力を振り絞って先を行くマイカに追いついていくだけだった。

 二人しか乗っていない帰りのバス。
 来るときも二人しか乗っていなかったが、そのときは二人はひとつの座席に並んで座っていた。しかしいまはなぜか別々の座席に離れて座っている。二人とも窓の外の夕暮れの田園風景に目をやっている。そして二人の背後のバスの大きな窓には夕焼けが始まっている。

 少し混み始めた電車のなか。座席に座ってマイカはぼんやりと前の方に目をやっているが、ヨシは下向き加減でうつらうつらしている。

 次はほとんどいっぱいの電車のなか。マイカはときどきうつらうつらする。ヨシは完全に眠っている。

 電車から降りて駅を出ると、街はもうすっかり日が暮れていて、駅前は夜の華やかさと雑踏にあふれている。
 マイカは人ごみをかき分けて軽快に歩いているが、ヨシは死んだような表情でだらだらとあとから歩いている。

 裏通りに入り、酒屋の前を通りかかると、前を歩いていたマイカが後ろを振り返りながら立ち止まると、ヨシにやさしそうに言った。
「ねえ、お父さん、飲みたいんでしょう、おばあちゃんには黙っててあげるかに買ってきたら。」
 何気なく店のほうに目をやっていたら、いきなりそう言われて、ヨシはびっくりしたが、きっと十年後には見るであろうと思われていたマイカの太陽のような笑顔を、今、目の前にして、呆然と立ち尽くした。でもすぐ我に帰ると嬉しそうな顔をして店に入っていき、大きな缶ビールとつまみ、そしてマイカの飲み物とお菓子を買った。
 そして楽しそうに小走りで店から出てきたヨシはマイカに駆け寄ると、買ってきたものをビニール袋を広げて覗かせながら、二人は並んで歩いた。









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