はなみずき二部
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はだい悠
放課後。カイは、長いあいだ使用されず物置同然となっていた小さな空き部屋をきれいに掃除して、その部屋のドアに手話クラブという看板を掲げた。それを満足そうに眺めながらカイは、
「さあてと、次はいよいよあいつを勧誘する番だ。」
と、自分に言い聞かすようにつぶやいた。
翌日の昼休み。カイはユキオカがひとりで居るところを見つけ話しかける。
「ちょっと良いかな。ユキオカ君は、いつも帰るの早いみたいだけど、何かクラブには入ってないの?」
「他にやることがいっぱいあってね、とにかく忙しいんだ。クラブに入っても出たり出なかったりすると、みんなに迷惑が掛かるから、それで入ってないんだ。」
「そうだろうね。女の子と色々あるだろうからね。それで今まで何人くらいと経験があるの?」
「そういう話だったら、もう止めるよ。」
「あっ、ごめん、ごめん。ボクは噂話にすごく影響されやすい性格なもんで。それでつい。実は今日はそんな話じゃないんだよ。もっとまじめな話で。ユキオカ君は、たしか将来福祉関係の仕事につきたいっていたよね、名簿の自己紹介欄に。それって困っている人たちの役に立ちたいってことだよね。今ボランティアをやっているのもそれと関係があるんだろうけど。今度、手話クラブを作ったんだ。ボクが。どう、君も入らない?まだできたばかりだから部員はボクだけなんだ。あっ、それから、他のクラブのように毎日やらない予定なんだ。だから君も忙しくないときに来ればいいと思うんだ。」
「そういうのは以前から興味があって、自分でもやってみたいなあって思っていたんだ。もしあれば入ってみたかったし、なければ自分で作ってみたいなって思っていたんだ。ちょうど良かったよ。」
「君が入ってくれるとほんとうに助かるよ。きっと後から女の子たちがどんどん入ってくるだろうからね。もう、最上級に楽しみだよ。あっ、ちがうよ、冗談に決まってるじゃないか。純粋な高校生らしいクラブ活動だよ。そんなに嫌な顔をしないでくれよ。せっかくの顔が台無しだよ。」
二人は意気投合した、そして、さっそく部室に行くと、これからどのように活動していくかを真剣に話し合った。
それから三日後。カイは観覧車煮に乗って望遠鏡を覗いている。ミチコがもうひとりの女の子に話しかけている。
……そんなこと考えられないことよ。もうこれで何度目かしら。わたしが乗り換えのためにベンチに座って本を読んでいたの。そのあいだ誰かが横に座っているなあと感じていたんだけど。しばらくすると、そこに何かが置いてあるのに気づいたの。 忘れ物かなあと思ってよく見ると、雑誌みたいなものが置いてあって、そっと手にとって見たの。するとそれはあの人の高校の名簿だったの。わたし、こんなことをしてはいけないと思いながらも、どきどきした気持ちでページをめくってみたの。あの人の名前と写真が載っていた。趣味と将来の夢もね。趣味は絵の鑑賞。将来の夢は福祉関係の仕事につくことなんだって。こんなこと偶然過ぎるわよね。なんか最近こんな不思議なことばかり起こっているので怖いくらい。わたしたち誰かに監視されているみたいね。」
「まさか、ありえない。ミチコ考えすぎ。ところで、その名簿どうしたの?」
「うっ、持ってきちゃった。大事にしまってある。」
「ねえ、後でわたしにも見せてくれる。」
「良いわよ。」
「でも良かったじゃない、きっかけができて。彼は絵を見るのが好きなんでしょう。図書館って美術館の隣じゃなかった?そして何度もあっているうちに、顔見知りになって、そのうちにふとしたきっかけで声をかけられたりして。」
「それこそありえないわ。でも、そんなことになったらどうしょう。」
「わからないわよ。ミチコには最近不思議なことばかり起こっているから。この際どんなびっくりするようなことが起こるか、、、、」
「そうかな、でも、やっぱり無理。」
「無理じゃない。」
「いや、そうじゃなくて。せっかく話しかけられても、その後どうしたら良いのか判らないから。」
このとき揺れる緑の陰が二人の姿を静かに消していった。
手話クラブの部員はいつまでたっても、カイとユキオカの二人だけだった。それもそのはず、なぜかカイはユキオカ以外だれも勧誘しようとしなかったからだ。二人はとにかく二人だけで集中的に練習したので、三日後にはどうにか日常会話が交わせるまでになっていた。
その週の金曜日。カイは、今日は天気があまりにもよいので、というなんだかよく訳のわからない理由で、ユキオカを無理やり早退させ、美術館に誘った。
カイとユキオカは乗り換えのためホームに降りる。ホームは他の乗降客とアナウンスで騒々しい。周囲に注意深く目を配っていたカイが突然何かを思い出したかのようにユキオカに話しかける。
「そうだ、美術館に行く電車まではまだ時間があるから、ここで手話の練習をしてみよう。」
「えっ、こんなところで、人が見てるからちょっと恥ずかしいなあ。」
「このくらいのことで恥ずかしがっていたら、将来福祉の仕事なんかにつけないよ。いくら練習でうまく行っても、本番でできないとなんの役にもたたないからね。みんなの前で上がらずにできてこそ本物だよ。」
「じゃあ、やってみるか。」
「あっ、そうだ。そこの白線で四角く囲まれたところに立って、こっちを向いて、ボクが何をやるかこのスケッチブックに書いて君に見せるから。、、、、さあ、これだ。」
そう言いながらカイは、偶然そこに居合わせたと思われる一人の女子高生に近づき、その真後ろに立つと、文字の書かれたスケッチブックを彼女の頭の上のほうに掲げた。その表紙の一部分が、定期券三枚分の大きさに破り取られているスケッチブックを。ユキオカはそのスケッチブックに書かれた「やあ、こんにちは、今日はどこへいくの?」という文字を見て、さっそく手話を始めた。
初老の夫婦がゆっくりと通り過ぎた後、自分の目の前に突然ユキオカの姿が現れたとき、ミチコは心臓が止まるくらい驚いた。そして憧れのユキオカが、自分のほうを見ながら、手話で、……やあ、こんにちは、きょうはどこへいくの?……と話しかけるのを、ミチコはそれを、自分に話しかけられているものだと思い、嬉しさのあまりとっさに手話で答えた。
……こんにちは、今日はこれから記念図書館に。……
ユキオカは目の前に立っている一人の女子高生がじっと自分のほうを見ながら。手話で話し掛けてくるのに気づいた。そして、ミチコのそのあまりの美しさに魅入られたユキオカは、ミチコ以外何も見えなくなり、反射的に手が動いた。
「あっ、……こんにちは、図書館ですか。ボクはこれから美術館に、、、、……えっ、すると、……同じ方向、同じ電車だね。あなたも手話をやるんですか? いつから? とってもううまいですね、わかりやすくって、、、、……」
……ずっとずっと小さいころから。……
「えっ、小さい、……ボクはつい最近始めたばかりなんだ。どう、ボクの手話わかる? 下手じゃない?……」
……そんなことない。とっても、、、、……
カイは二人だけの世界に完全に入っているミチコとユキオカのそばからそっと離れると、爽やかな空気の流れを感じながら少し速足で歩き出した。そしてホームの階段に片足をかけたところでいったん立ち止まり、振り返って二人の様子を見た。とたんにカイは、心からの思いっきりの笑みを浮かべると、今度は階段を二段ずつ勢いよく昇り始めた。もう二人を振り返ることなしに、心にわきおこる様々な思いをはげしく駆けめぐらせながら。
「、、、、奇跡が起こった。オレにじゃなかったけれど。、、、、これで良いんだ。もう手話クラブなんて解散だ。あんな担任なんかに頭を下げたくないもんな。あっ、あいつら、オレのこと許してくれるかなあ。きっと怒っているだろうな、だってあんなひどいこと言ったもんな、、、、」

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