いまを生きて
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はだい悠
道路のほとんどが坂道であるこの街、特に急な斜面は階段となっていた。
真夏の炎天下、いま一人の老女が、遥か天まで伸びていそうな階段を、両手に買い物袋を下げて上がっている。特に右手の袋はずっしりと重そうで、垂直に伸びきっている。底が丸く緑色しているところからすると、どうやらスイカが入っているようだ。
階段は上りきるまで二百段。ゆっくりとではあるが、ペースを変えることなく着実に、一歩一歩、上がっている。
年齢のことを考えれば、ちょっと遠まわりをして、なだらかな坂道を通るとか、タクシーを利用して、家まで帰っても良いのであったが、本人は、若い頃から上りなれているせいか、少しも苦にしていなかった。額の汗と共に、うっすらと笑みを浮かべたその表情からすると、この急な階段を上がることが、むしろ楽しそうでもあった。
ついに老女は休むことなく階段を上りきった。そして、いったん立ち止まると満足そうに大きく笑顔を作り再び歩き出した。
木造の古い家に入ると、老女は風通しが良いようにとガラス戸をさらに大きく開け、障子戸をあけた。そして、五十年前に結婚したときと何一つ変わっていない居間に腰を下ろした。
テーブルの上の今日の新聞に再び目を通し、ぼんやりと窓の外に目を投げかけていたとき、どこからともなく、子供たちのはしゃぎながら走るペタペタという音が聞こえたような気がした。老女は細く何本もしわが刻まれた顔に、急に穏やかな笑みを浮かべると、玄関の方にその細めた目を投げかけた。
玄関の戸に小さな手が掛かると、勢いよく開けられ、これ以上ないくらいに目を丸くした少年が顔を出し、叫ぶように言う。
「お母さん、冷蔵庫とどいた。」
桃のように紅潮した肌に、満面の笑みを浮かべて少年の母は答える。
「うん、届いたよ。台所にあるよ。」
少年は靴を脱ぎ捨てるようにして上がると、台所に走る。そして声を上げる。
「わあ、すげえ、かっこいい。ぴかぴかだ。わあ、スイカだ。でかいなあ。」
少年を追いかけるようにして、後からやってきた少年の妹が言う。
「きゃあ、すごい。冷たい。」
「もう閉めるから、チャミ、手をどかして。」
そして少年は冷蔵庫のドアを閉じながら言う。
「ねえ、お母さん、スイカはいつ食べるの。」
「お父さんが帰ってきてからね。」
「うっ、なんだ、がっかり。」
「なんだ、がっかり。」
と妹の正美が真似をして言う。
居間のテーブルの前に腰を下ろした博と正美に、母良子は言う。
「二人とも毎日遊んでばかりいるけど、夏休みの宿題はもういいの。」
「うん、、、、」
「、、、、」
「ねえ、お母さん、テレビはいつ来るの。」
「来月。」
「早く買おうよ。」
「だって次のお父さんの給料日まで、そんなお金ないもん。大丈夫。オリンピックまでは絶対に買うから。だって見たいじゃない、家でゆっくりと。東京までは遠くて見にいけないからね。」
「新幹線に乗っていけばすぐだよ。」
「良いの、家で、テレビで十分よ。」
「オリンピックっていつからなの。」
「十月十日。」
「まだ二ヶ月もあるんだ。」
「日本は金メダルいくつぐらい取れるんだろうね。」
「いくつぐらい取れるんだろう。ねえ、スイカ、いま食べようか。」
「だめだよ。お母さんがそんなこと言っちゃあ。お父さんが帰って来てからでいいよ。」
「そうね、お父さんが帰って来てからね。」
と良子は少し苦笑いを浮かべて答える。
午後の太陽は傾きかけていた。
テーブルの上に広げられた新聞の「直子、金メダル。」という記事に、満ち足りた笑みを浮かべて、ぼんやりと目を落としていた良子は、外の騒がしい気配に思わず顔を上げた。今度こそは本当に孫たちに違いないと思った。 やがてはっきりと子供たちのペタペタと走る足音とともに、「姉ちゃん、待ってよ。」と叫ぶ男の子の声が聞こえてきた。良子は細く何本もしわが刻まれた顔に、再び穏やかな笑みを浮かべると、玄関の方にその細めた目を投げかけた。
玄関の戸に小さな手が掛かると、勢いよく開けられ、頬を紅潮させ激しく息を切らした少女が顔を出し、叫ぶように言った。
「おばあちゃん、来たよ。」
「シホちゃんに、ムイちゃん、いらっしゃい。暑かったでしょう。さあ、上がって。喉が渇いたでしょう、今スイカを切るからね。おばあちゃんち、暑いでしょう。エアコンがないからね。お父さんたちはいつ来るの。」
「夕方ごろかな、車だから。でも、わかんない、渋滞しだいだって。」
「さあ、食べなさい。二人で新幹線に乗って来たんだ。えらいね。こんな暑いときに走って来なくたっていいじゃないの。」
「おばあちゃんに早く会いたかったの。」
「まあ、うれしい。」
「違うよ、お姉ちゃん、すぐ影響されちゃうんだよ。昨日、高橋直子が金メダルを取ったから、自分も将来マラソン選手になるんだって。もうあの階段を走って上がるんだから、ぜんぜん追いつけないよ。」
「あのぐらいの階段、平気だよ。おばあちゃんも毎日上がっているんでしょう。」
「毎日じゃないけどね。それもゆっくりとね。でも、あの階段を走って上がる人なんていままで見たこともないけどね。シホちゃん、絶対にマラソン選手になれるわね。」
「ねえ、おばあちゃん。東京に来てさ、シホたちと一緒に住んだら。」
「どうして。」
「だって、ここは買い物とか不便じゃない。」
「そんなことないわよ。もう慣れてるから。」
「それにひとりじゃ寂しいんじゃないかと思って。」
「大丈夫よ。ちっとも寂しくなんかないわ。もう五十年近くすんでいるからね。この家を離れるほうがよっぽど寂しいわ。とにかくおばあちゃんは、このまま、今のままのほうがいいの。」

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