世紀末 海よりもやさしく(後編)
に戻る
はだい悠
隠しようもなく恥ずかしい姿をさらけ出し、衆人環視の下で変な娘であると印象づけたのであるから、清二には、本当の目論見を実行する勇気はもうなくなっていた。だが、そのパーティは、最初から相当波乱含みであったことが洋三は、自宅に返ってから妻から聞いて判った。
有美が会場に到着したのは、開会十分ぐらい前で、髪はぼさぼさで男の子の様なその姿は、道に寝転んだかの様に汚く、化粧っ気はまったくなく、かすかに生臭い匂いを発していたというのである。ただパーティ用の服はあらかじめ静子が用意していたらしく、そこで洋三の妻も手伝い、急いで着替え化粧し、時間に間に合わせたというのであった。
そして今年の三月の初め、洋三はある会合で清二に会った。洋三は、その後の有美について聞きたかったこともあり、また、清二も話したかろうということで、それとなく水を向けた。しかし、娘のことはもうどうでも良いという感じで、ほとんど何も話さなかった。
というよりも、他の、何かに、終始苛立っている様で、かつて二人でもあまり話したことがない、若者の風俗批判に始まり、社会批判、政治批判を半ば支離滅裂に、半ば攻撃的に話し続けるだけだった。その様子は自暴自棄の様にも見えた。
それが洋三に頭の中に残っている清二の最も新しい記憶だった。
ということは、それ以来今日まで、洋三は清二に会っていないことになる。だから、その後、有美がどうなったかもまったく判らなかった。
この一年半前に始まった不協和音のせいで、自分が兄の家を避けているということに、洋三は気づいていたので、なんとなく気が重かったが、静子が以前と少しも変わることなく出迎えてくれたのでほっとした気分であった。それに、一年半前の有美の醜態や、七ヶ月前に会ったときの兄の自暴自棄な態度からして、娘と父の関係が確実に最悪な状態になっているに違いないと思っていたので、この比較的疎遠であった七ヶ月の間に、さらに何かもっと重大な変化が起こっているのではないかと不安であったのだったが。
家の中に入っても、以前と変わった様子はまったくなかった。ただ、通された居間は夕暮れ時のあわただしさからは完全に遮断され、寂しいくらい静かであった。
洋三は出されたビールを遠慮なく飲むと、さっそく兄清二の所在をたずねた。
「いま、釣りに行ってるんですよ。」
「えっ、釣りって、海とか川とかの、これ、そんな趣味あったっけ。それで接待とか何とかで、、、、」
「いいえ、遊びというか、道楽というか。」
「それじゃ、仕事、銀行はどうしたんですか?」
「銀行ね。そうね。もう隠していたってしょうがないのにねえ。絶対に言っちゃだめだって言われているんだけどね。いずれは判ることですから。銀行は退職したんですよ。」
「退職って、本当、いつ?」
「そうね、五月頃だったかしら。」
「まさに寝耳に水だね。どうして?」
「今年の一月、新聞見ました、あのスキャンダル。」
「見ました。でも兄貴の名前はなかったですよ。」
「そうなんですけど。でもなんか具合が悪かったみたいなんですよ。」
「本当は関わっていたんですか?」
「はっきりとは言わないけど、、、、」
「そうか、辞めたのか。もう、もう銀行とは縁が切れたわけですか、そうか、、、、」
洋三は、不安を抱えながらも今まさに初飛行に向けて飛びだった幼鳥が、突然矢で片方の翼を射抜かれ、平衡を失ったまま落下していくような、そんな眩暈を覚えながら大きくため息をつくと、ぼんやりと焦点の定まらない目を天井に向けた。だが、このままでは際限もなく落下していくような気がしたので、気力を振り絞り何事もなかったかのように、ふたたび静子に問いかけた。
「辞めたとき、相当落ち込んでいたんでしょうね。」
「いいえ、ちっとも。」
と静子は目を大きく見開いて明るく答えると、そのままにこやかな表情で話し続けた。
「なんかうきうきしてましたよ。せいせいしたって感じかしら。もう、それ以前と比べたら別人みたいなの。不思議なくらいよ。ええ、もちろんそれは辞めた後のことよ。決断するまでは相当悩んだみたいよ。わたしにははっきりと言わなかったんだけど、何かで相当深刻だった見たい。とにかく、毎日死神に取りつかれたような暗い顔をしていたわ。それに有美のこともあったでしょう。有美のほうはそれほどでもなかったかだけど、主人のほうは顔をあわせようともしなければ、たとえあってもロを利こうともしない、間に入って私どうしたら良いのかと、本当に困ったときもあったわ。もうとにかく、今年は初めから、ずっと氷の家に住んでいるみたいで、主人がこのまま偏屈で頑固な爺さんになってしまうんじゃないかと思って暗い気持ちになったこともあったわ。でも、ある日突然変わったの、不思議なくらい突然に。気持のいい風が吹いている午後だったわ。電話もなく帰って来るなりいきなり、今日有美に会って来たって言うの、私は心臓が止まるくらいびっくりして、だって、有美に何か変なことを言って取り返しのつかないことになったんじゃないかと思ったものですから。それで私が、動物園に、と聞いたら、そう働いているところを見てきたって言うの、そして、人生は色々、人生は楽しまなくちゃなあ、なんて、人が変わったように明るい顔で話すのよ。それから二三日してからね、退職を決断したのは。もう何がなんだか判らなくて、いったい何があったのかしらね。有美に聞いてもわからないって言うし。」
「すると兄貴と有美ちゃんは和解したんですか?」
「そう、そうらしいのよ。なんか私の知らないところで仲よくなったみたいで。あんなに心配したのに、私バカみたい。それでいまは、父と娘というより友達見たいな関係なの。主人もそのほうが楽しいみたいなの。とにかく、どうしちゃったのと思うくらい、急に明るくなっちゃって、ふっ切れたとい感じかしらね。それからちょっと前まではまったく考えられない事だったんだけど、よく出歩くようになったの。ゴルフ以外趣味がなかったでしょう。退職したらどうなるんだろうと心配したんだけど、今日はあそこの美術館とか、今日はどこどこの公園の野鳥観察とか、花見とか言ってね、なにかと理由をつけては、一人でも行こうとするの、子供のようにはしゃいでね。有美の所にもときどき行ってるみたいだし。あっ、そうだったわね。有美がどうなったか、洋三さんには話してなかったわね。有美のことはだいたい知ってるわよね。色々なことあったけど、結局、私たちが薦める就職はことごとく駄目になったの。でも、そこまで行くまでが、いつもいつも、もうとにかく大変だったわ。私の立場も考えてくれなんて、主人に怒られるし、わたしにだって立場はあるのにねえ。本当に変になりそうだったわ。四度目も駄目になって、あるとき有美と話し合うことにしたんです。有美に言ったの、お父さんがどうのこうのって言うわけじゃなくて、親としてはとにかく良い会社に入ってもらいたいの、それはあなたのためにもなるんだからって。そうしたらあの娘、私の顔をじっと見ていうの、『ねえ、お母さん、本当のこと言っても良い』って。わたし心臓が止まるかと思ったわ。なにを今になって本当のことだなんて、いったい何を言うのかしらってね。そうしたら有美が言ったの、笑顔でね、『いや、そうじゃなくて、いやねえ、お母さん、そんなんじゃないわよ。ねえ、お母さん正直に答えて、私がお父さんが薦めるような一流会社に入っても、本当にやっていけると思う、本当に私のためになると思う、本当にわたしにあっていると思う』てね。私はもう何も答えられなかったわ。もうそれで決心したの、そして言ったの、お父さんがなんで言おうと、有美、あなたのやりたい様にしなさい、お父さんのことは私に任せなさいってね。それからどのくらい経ってからかしら、そう十一月の始め頃だったかしら、たしか夕方になるとめっきり寒くなってきたころだから。一緒に台所に立っているとき、有美がわたしに言ったの、『わたし今度動物園に勤めようと思っているの』って。動物園といっても、公営の大きなところじゃないのよ、私設のこじんまりとして小さなところなの。表の通りをずっと東に行った所に高台があるでしょう。その中の遊園地の隣に去年新しく出来たらしいの。なんでも、怪我や病気をして行き場がなくなったり、買主に捨てられたりしたのを引き取っているらしいの。海のものでも陸のものでも、大きいものでも小さいものでも、どうなものでも扱っているらしいの。だから、こじんまりとしたって言うよりごちゃごちゃとした感じかしらね。そのとき有美はアルバイトで、病気のラッコを世話することになっていたみたいなの。規模が規模だけに、この先どうなるかわからないでしょう。最初、将来のことを考えるとどうしても賛成する気にはなれなかったわ。でも日を追って夢中になっていく姿を見ていると、なんにも言えなくなったわ。昨年のあの例のパーティの日は相当疲れていたみたいね。お父さんには黙っていたの、どうせはなっから反対するのは判っていましたから。それであんな結果になったのよ。仕方ないわよね。今年四月からは正式に働いているの。」
「ところで有美ちゃんは動物好きだったっけ。」
「そうなの子供のころそんな気配少しも見せなかったわ。むしろ嫌いなのかなあって思っていたぐらいよ。でもね、いま初めて人に話すんだけど、実はずっと気になっていたことがあるの。有美が三つぐらいのときだったかしら。動物園に行ったとき迷子になったことがあるの。結局、無事に見つかったんだけどね。帰り道手を引いて歩いているとき、有美が変なことを言ったの。牛さんとライオンさんと遊んでいとのって。変な事言う子ねえ、夢でも見たのかしらと思って、そのときは聞き流していたの、でも、家に帰って着替えていると、有美の洋服に何かが付いているのに気がついたの。よく見ると茶色い毛のような物がついていたのよ。まさか、そんなことありえないわよね。」
そう言いながら静子は不安そうに下を向いた。そしてゆっくりと顔を上げるとふたたび話しはじめた。
「あっ、そうそう今度社長に就任したんですよね。おめでとう。お祝いのパーティやるんでしょう。盛大に。もちろん招待してくれるんでしょう。今日はそのことで来たんでしょう。そうでしょう。」
「いやあ、まだ決めてないんですよ。とにかく忙しくって、それどころじゃないんですよ。ところで兄貴は何時ごろ帰ってくるんですか?」
「そうね、いまは八時。前は九時ごろだったから、今日もその頃かしら。」
「そんな趣味はなかったのに、いったいいつ目覚めたんだろう。急に始めたみたいだけど、なんかきっかけがあるんでしょう。」
「それは簡単よ、有美がつれてきた人と一緒に行っているのよ。その人、有美が働いているところの水槽に、ときどき海水を運んでくる人なの。」
「若い人なの?」
「そうね、二十五歳、純朴な青年よ。」
「、、、、ところで、有美ちゃんがこの家に来たのは、どのくらいのときでしたっけ、、、、」
「ちょうど六ヶ月。」
そのとき電話が鳴り、静子が席を立った。
洋三はほとんど聞いているだけだったが、酔いで疲れが出たのか、眠気を覚えたのでそのままソファーに横になった。
それからどのくらい経ったろうか。洋三は自分のほうに近寄ってくる人の気配を感じた。眠っている自分に毛布をかけているのが判った。薄目を開けて見るとその全体の雰囲気からして静子の様だった。そしてふたたび目を閉じ眠ることにした。
ふたたび目覚めると、向かいの席に人の気配を感じた。静子かなと思い、洋三は頭だけをゆっくりと動かして薄目を開けて見た。するとそれは有美だった。有美は洋三が目覚めたのに気づかぬように、なにかの書類に目を通していた。洋三は盗み見るようにそのまま見ていた。そして、無意識のうちに、今までの有美についての思い出や周囲の者の話しの内容から、自分なりに思い描いていたイメージとしての有美と、今、目の前にいる現実の有美を比較しいてた。だが、じきになんとも言えない後ろめたい気持になったので、今まさに目覚めたかの様に軽くうなり声を上げて起き上がると、両手を上げ大きく背伸びをしながら、壁に掛けられた時計を見た。そして、もう十一時かと不思議そうな顔をして言ったあと、有美のほうに向き直り話しかけた。
「お父さんは帰ってきた?」
「ええ、でもすぐカラオケに行きました。」
「カラオケ、一人で?」
「お母さんと」
「えっ。」
と洋三は驚いたように声を上げた。というのも、ちょっと前まで不安そうな表情になったり涙ぐんだりしていた静子とき思えないほどの豹変振りを感じたからであった。洋三は冗談ぽく言った。
「遠路はるばる重い荷物を背負って訪ねてきた弟をほっといて遊びに行くなんて、なんて薄情なキョウダイたちなんだろう。ああ、これで何もかもおしまいか、、、、まあ、良いか。それはそうと、どうも不思議なんだよね。三時間も眠っていたなんてどうしても思えないんだよ。ネエさんが毛布をかけてくれたのはついさっきのような気がする。えっ、なにか可笑しいこと言った?」
「いえ、毛布をかけたのは、母じゃなくて私なんです。」
「えっ、そんなはずないでしょう。よくは見なかったけど、雰囲気はネエさんそのものだったよ。てっきりネエさんかと思っていた。本当に?」
「ええ。」
「へえ、そっくりなんだね。雰囲気からして、、、、そうすると、お父さんはいつ帰ってきたの?」
「私が帰ってきたのは九時ちょっと前、それから十分ぐらいしてからかしら。」
「それから私をほっといて二人で出かけたって訳ですか。何か言ってなかったですか。
「ええ、これといって、べつに何も。でも、何故か、逃げるようにしてっていうか、あわただしく出て行きました。」
「すると、お父さんたちは、よく二人でカラオケに行くの?」
「今度で二度目かしら。」
「まあ、仕方がないか、、、、それじゃ有美ちゃんはずっとそこにいたの?」
「そう言う訳でも、、、、」
「不思議だね。今日は不思議なことばかりだよ。有美ちゃんとこうして話すなんて、初めてだよね。本当に初めてだよね。どっちかっていうと、今までわたしを避けているみたいだったよね。どうしてなんだろう。」
「怖いって言うんじゃないけど、なんか近寄りがたいっていうか。やっぱ男の人って、女の人とは何かが違うなあって言う感じかしら。いままそうでもないけど。さっき子供のように安心したような顔でぐっすり眠っている所を見たからという訳じゃないんですけど、なんか大変なんだなあと思ったり、、、、なんか前とき違うなあと思ったりして、、、、」
「自分ではそんなに変わってないと思うんだけどなあ。、、、、そう変わってない、変わってない、、、、」
と洋三は最後の方はうつむきながら独り言のように言った。
有美が席を立ち水を持ってきてくれた。洋三はそれを飲むとふたたび話しはじめた。
「仕事は楽しい?」
「ええ、とっても。」
「それはよかった。それが一番大事なことだからね。有美ちゃんのその笑顔が、いまどんなに充実した毎日を送っているのか、いまどんなに幸せかを、十二分に語っているよね。いいことだよ、幸せになるのは、、、、何も悪いことじやないんだよ、幸せになるのは良いことなんだよ。悪く思わないでね、始めにどうしても話しておきたいことがあるのね。おじさんも、あなたと同じ年頃の子供をもつ人の親だからね。どうしてもお父さんやお母さんの見方になってしまうんだよ。判ってくれるよね。あれ、なんか変になってきたかな、、、、もう済んでしまった事なのかもしれないけど、悪く思わないでね。どうしても気になってね。本当にこのままで良いのかな、かな、なんちゃって思ったりして。ほんと、余計なお世話だよね。なんか変だね、話しを蒸し返しているみたいで、えへ、えへ、ごめんね、ああ、そうか、おじさんが間違っているのかな、もしかして、あは、時代遅れなのかな、あは、若者に理解ある振りをして、本当は新しい生き方を認めない偏屈な頑固親父なのかな。えへ、本当に困った。なんていって良いのか、判らなくなっちゃったよ。えへ。」
やわらかい笑みを浮かべ、落ち着いた表情でじっと話しを聞いている有美を前にして、洋三はかつて経験したことがないような不思議な気持ちになっていくのを抑える事が出来なった。それは自分の情感をまったく制御することが出来ないものであり、話し続けていくうちに、なぜか訳が判らぬままに、少年のように照れたり、戸惑ったり、年甲斐もなく動揺し混乱した。
そんな洋三を前にして、有美が助け舟を出すようにおもむろに話しはじめた。
「そうだと思いまう。おじさんのおっしゃるとおりだと思います。決して間違いではないと思います。わたしには弁解の余地なんてまったくないわ。親に心配させるだけさせといて、自分の好きなようにするわがまま娘、自分ひとりで大きくなったつもりでいる恩知らずな娘、親の言うことを聞かない傲慢な娘、苦労を知らない世間知らずな娘、なんか皆当てはまるような気がするわ。就職のときなんで聞こえよがしに言う人がいたわ。せっかく親が用意してくれた良いところには入れるのにわざと入らないなんて嫌味ね、それとも欲が深いのかしら、なんてね。でも、本当の事言うと、お父さんの力では入れるなんて、最初は知らなかったの。もし知っていたら、、、、もし知っていたとしたら、わからないわ。簡単には言えないわ。最初から行かなかったかもしれないし、世間知らずと思うかもしれないけど本当のことなの。噂には聞いていたわ。親の力で大学や会社には入るってこと。本当にあるなんて信じられなかったわ。そんなことはよくないこと、不正なこととずっと思ってきたし、とにかく自分の実力ではいるもんだと思っていたから、二度目からは、正直、悩んだわ。これで良いのかなって。だって、今までずっと良くないことだと思ってきたことですから。かといって、お父さんのこともあるし、いっそのことその方が楽かなって揺れ動いたこともありますけど、でも、どうしても出来なかったわ。それは、よくないことと思っていたからじゃないの、そんなことじゃないの、本当の理由は、、、、そういう仕事は自分に合わないんじゃないかって、よく世間で一流といわれる会社は自分に会わないんじゃないかって、自分は本当はそんなところには入れるような優秀な学生じゃない、そんなところに入っても本当にやっていけるのかってね、思うようになったの。そうなの、私って子供のころから色んな事を習ってきたけど、なんにも物にならなかったわ。ピアノでしょう。絵画、日本舞踊、それに各科目ごとの家庭教師、でも成績はずっとそこそこだったわ。だから、もしかして、自分には才能がないのかもって、自分には会っていないんじゃないかって、いつも思っていて、本当は好きじゃないのかもって、そう思うとなんかもったいないような気がしていたわ。でも、お母さんに嫌だなんてとても言えなかったわ。本気で期待していたみたいだったし、とにかく私が色んな事をやるのが嬉しそうだったから、わたしのためを思ってと、本気で信じているみたいだったから。洋服なんかも、ずっと名の通ったものばかりだったわ。きっと、わたしは、まだ何もわからないくらい小さかったから、そのときはただ夢中で嬉しかったんだとおもうわ。お母さんの買ってくれるときの楽しそうな顔を見ているとなんとなく判るの。でも、物心が付くようななってから、なんとなくもったいないなあって思うようになったわ。でも言えないですよね。いつもと変わらない嬉しそうな顔を見ていると。でも、本当は違うのよって、子供なのに、才能もないのに、自分だけがなぜこんないい扱いを受けるなんて、よその子供たちとは、はっきり言って違うなあっていつも一人で感じていたわ。こんなにまでやってくれた親の期待を裏切るなんて、ほんとうに悪い娘だと思うわ。私に才能がないのは当然と言えば当然かもしれないけど。お母さんには本当に感謝しているわ。申し訳ないと思っているわ。ことごとく期待を裏切ったんだからね。かといって、このままお父さんの薦める会社に入っても、かえって惨めな思いをするだけじゃないかと思ったりして、ほんとにどっちが良いのか判らなくなったときもあったわ。何もかも裏切ることになって本当に苦しかったわ。あまりの苦しさにどうしようもなくなって嘘をついたこともあるの。就職の面接をすっぽかしたの。おなかが痛いって言って。本当は最初から行かなかったの。そのときが初めてなのお母さんに嘘を言ったのは。そんなある日心の中で思っていたことを正直に言ったわ。お母さんは理解してくれ。心からかどうかは判らないけれど、でも、味方になってくれて本当にうれしかった。でも、お父さんにはどうしても言えず日に日に気まずくなっていくだけだったわ。ても、それまでの苦しみは本当の苦しみではなかったかもしれないわ。まだどうにかなるだろう、もしどうにもならなくなったら、そのときは、なんてと甘い気持があったかもしれないの。それは、ある日ふと気づいたの。ちょっと前にお話したように、私はそんなに出来るほうじゃなかったの、いつもそこそこで、それでもしかしたら、高校や大学の進学もすべて、わたしの力ではなかったのではないかと思ったの、親が裏でやってくれたのではないかと。そう疑い出したら本当にもう苦しくって絶望的な気持になったの。もしそうだったら、私ってなんだろうって。私にはなんにもないことに気づいたの。これからどうしようって暗く絶望的な毎日だったわ。自分の力で自分にあった仕事を探すと入ってみたけれど、本当は何の当てもないから、どうしてよいか判らずに、心細くて孤独だったわ。お母さんが味方になってくれていると判っていてもね。そんな沈んだ気持ちでしばらくすごしたあと、あるときなんとなく今勤めている動物園の前を通りかかったというか、行ったというか、そこで、元気のないラッコに飼育係の人たちが手を焼いているのを見たの。そのとき私は突然思ったの、私には出来るって、私にはそのラッコわ元気にさせてあげることが出来るって。そしてアルバイト募集の張り紙がすぐ目に入ってきたわ。それからは後先考えずにただ夢中でわたしにラッコの面倒を見させてくださいって言ったの。相当強引でルール無視だったらしいわ。今でもそのときの事を話題にして私をからかう人がいるくらいよ。思ったとおり、そのラッコは私になついてくれて、それがだんだん元気になっていったわ。それがきっかけで正式に働くようになったの。すべては単なる偶然のような気がするわ。最初、お父さんは認めてくれなかったけど、今は何故か応援してくれているの、お母さんよりも積極的に。えっ、何かわたしの顔に付いているのかしら。」
「あっ、いや、そうじゃないんだ。」
そう言いながら洋三は我に帰るような気がした。思わず見を乗り出して有美を見てしまっていたのだ。それは何か秘密を隠しているものから、その秘密を探り当てるような目であった。この場合の秘密とは、有美の瞳の奥に隠されている何かであった。このとき洋三自身は、自分がした質問にはもう興味を失っていた事にはまだ気づいていなかった。そして普段陥ることのないような様々な妄想に支配されていた。それは、有美は特別に動物にとりつかれやすい性格なのではないかとか、あるいは、猛獣を操る特別の才能を持っているのではないかとか、それとも、何かの動物の生まれ変わりではないかとか。
そのとき電話が鳴り、有美が席を立った。しばらくして笑みを浮かべて戻ってきた。その間だいぶ冷静さを取り戻してきた洋三は尋ねるように言った。
「お母さんから。」
「いいえ、皆大げさなんですよ。怪我はだいじょうぶかなんて。このときも大騒ぎをして、お母さんに電話したりして。ちょっと引っかかれただけなの、大したことないのにねえ。」
有美の腕の包帯に目をやりながら、洋三は落ちついて言った。
「ねえ、質問しても良いかな。有美ちゃんが小さいとき、正確には三歳の時と言うことなんだけで、ライオンと遊んだことある、そのときのこと覚えているかな。」
「いいえ、覚えてないわ。お母さんが言ったの、初めて聞くわ。わたしがそんなことしたなんて信じられないわ、お母さんの勘違いじゃないかしら。」
「いやあ、もしかしたら有美ちゃんにそんな特別な能力があるんじゃないかと思ってね。」
「そんなことないわよ。もしそうなら、今日みたいに引っかかれたりしないと思うわ。気難しい豹がいるの、だいぶ懐いて来てはいたんだけど、なぜかしら最近また変になっちゃったの、本当に判らないわ。ラッコだってそうよ。自分の力でなんにも決められずに暗く沈んでいるときに初めて会ったのね、それでもすぐ私になついてくれるって、私には確信があったのね。とにかくその時はなにも考えずに自然に振舞うことが出来たわ。それであんなに仲良くなれたのに。でも、最近妙によそよそしくなってきて、前は私が行くとすぐ甘えるように酔ってきたんだけど、おととい個人的な用事で仕事を休んで、昨日行った時なんか、初めに会った時のように知らん振りをしているのよ。私には判らなくなったわ。だからもし、私が特別な能力を持っているならそんなことないわよね。」
判ったような判らないような、でも洋三は納得することにした。
時計は十二時をまわっていた。今日、兄清二をたずねた目的はもうどうでも良いような気がした。というのも、今の今までその目的を忘れていたからであった。洋三は清二に会わずに帰ることにした。
外に出ると空気はひんやりとし、虫の音に気づいた。
人影の途絶えた住宅街を歩きながら、有美と過ごしたことが、心地よい目覚めをよんだ夢の様に思い出された。
そして、昼間の出来事は紛れもない現実ではあったが、すべてが遠い遠い昔の出来事のように感じられ、気持が楽であった。なぜ昼間は、あんなにわれを忘れて見苦しいくらいに反発したり、やみくもに絶望したりしたんだろうか、なぜあんなに、倒産とか崩壊とか無能とか不正とかという言葉に、猟犬の群れに追いつめられた野狐のように怯えたんだろうかと不思議に思った。
もしかして自分は完全無欠名リーダーを目指していたのではないかと疑った。
洋三はなんとなく振り返らずにはおれない気持になった。後ろ向きに歩きながら有美の家のほうを見た。 そして、えもいわれぬ爽快感を覚えながら向き直ると、顔に心からの笑みを浮かべて、すべては明日からもう一度出直しだと自分に言い聞かせた。

に戻る