少年 (二部)



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          はだい悠






 十三歳の春、その少年は中学生になっていた。


 その春、テストの総合点が発表されたとき、最高点は自分じゃないといって他の者たちに期待を持たせた。
すぐバレルと判っていながら思わず嘘を行ってしまったのだった。


 その頃、少年は、あの不格好な野良犬を頻繁に目にするようになった。少年の母親がときどき残飯を与えていたからだった。

最初は、少年もその家族も、その犬を見かけると、大声をあげたり物を投げつけるまねをすると、その犬はすばやく身を隠していたのだが、どうやらそのうち慣れてきて何も危害が及ぶことがないと判ったらしく、一応逃げるには逃げるのだが、ある程度はなれると、姿を見せたまま、そこで安心したように歩き出すようになっていた。
だから、時折ではあったが、母親が残飯を与えるようになったからには、犬もますます安心して家の周りで頻繁に目に付くようになったのは当然のことだった。

やがて犬は、庭先や玄関の前をうろつくようになり、稀にではあったが玄関の中に入ってくるようになった。
少年はそれを苦々しく思った。どうしてもすきにはなれなかったし野良犬の分際でずうずうしいと思ったからだった。
それでそのたびに、少年は大声を上げて追い払った。でも逃げるのはいつも庭先までだった。そこであるとき、少年は玄関を出て追い払い、さらに逃げる犬を走って追いかけた。犬は懸命に逃げた。でも少年が止まると、犬も止まった。そこで少年は再び追いかけると犬も逃げた。
そして少年が止まると犬も止まった。そのとき、追いかけているときも止まっているときも、少年と犬の距離はほとんど一定だった。
少年は追い払うのをあきらめて戻ってくるが、犬は、しばらくはその遠く離れたところでうろうろしているが、気がついて姿が見えなくなったなと思っていると、いつのまにかに庭先で歩いている姿を見かけるというようなありさまだった。
あるとき、遠く離れた畑に、家族そうで手農作業に以降としたとき、その犬がついてきた。
少し後ろからではあったが、その馴れ馴れしさに少年は腹正しさを覚えた。腹いせに少年はその犬に名前をつけることを思いついた。その醜さから、ポチでもブチでもない、ペチと。多少の侮りをこめて。
その後少年の母は、ペチを呼びつけるときは、ペッ、ぺっと呼ぶようになった。

ペチは日増しに馴れ馴れしくなっていった。誰かが尋ねてくると、自分があたかもこの家の飼い犬かのようにほえるようになった。
少年は、ペチがだんだん付け上がっていくような気がして、それが忌々しかった。

あるとき、ペチがこのまま家に居着くのではないかと不安になった少年は、母親に尋ねた。なぜ他にいっぱい家があるのに自分の家に、ペチが寄り付くようになったんだと。
母は言った。聞くところによると、他の家では、薪を投げつけられたりお湯をかけられたりしたそうだと。
そう聞いても少年はあまり納得ができなかった。やっぱり、なぜこの家なんだと。

少年はなにかものを食べているとペチが尻尾を振ってよってきた。
少年は食べているものを投げて分け与えた。ペチはそれを食べようとするとき、顔は地面のほうを向けているが目は上目使いだった。
少年はそれがなんとなく気に入らなかった。時には投げようとして手をあげただけで怯えたように逃げようともした。それもどうにも腹ただしかった。
だからときどき物を投げる真似をして驚いて逃げるペチを追いかけたりもした。
ほとんどが遊び半分で。追いかけては逃げ、止まると止まり、また追いかけては逃げ、また止まると止まるというように。そんなことがあっても、、しばらくして、少し距離をとった所にいるペチを呼ぶと、なにか食べ物を分けてもらえると思ったらしく、勢いよく走り寄ってくるのである。それを見て少年はほんとうにあきれるほかなかった。

そのうち、ペチは鎖でつながれるようになった。その醜さと訳のわからない性格で、どうしても好きになれなかった少年は、なぜ飼い犬でもないのに飼い犬のようにつなぐのかと母親にたずねた
。母親は言った。ペチが近所の家に上がりこんで食べ物だけではなく、砂糖や味噌の袋を盗むからで。
飼い犬ではないが飼い犬のように周りから見られているのでどうしようもないのだと。砂糖や味噌を盗んできてどうするのだと少年は母親に聞いた。すると母親は言った。裏山で土を彫って隠しているのを見たと。
それでもペチは一日中つながれているわけではなかった。
あるとき、少年が学校から帰ってくると、家の奥に動く物の陰を感じた。少年が中に入るとその陰は勢いよく裏の開け放たれた引き戸から外に出て行った。
少年はそれがペチだとわかった。そして裏切られたような気がして激しく腹を立てた。
なぜならペチは家の中に人がいるときは、玄関には入ってきても絶対に部屋に上がる事など今までなかったからだ。少年はすぐにでも見つけて怒鳴りつけようと思った。
ところがあきれたことに、ペチは勢いよく玄関に入ってきてはうれしそうに尻尾を振って、何かもらえるんではないかのような表情をして少年を見上げているだけだった。少年はもう何も言うことはできなかった。

だがそのことが二度、三度と続いたとき、少年はついにペチに制裁を加えることにした。
少年はペチがつながれているときに、勝手に部屋にあがるんじゃないといいながら、手に持っていた竹の棒で地面をたたいた。
するとペチは歯をむき出してうなり返した。威嚇には威嚇で応えるかのように。少年それが許せなく、さらに激しく地面をたたいた。
ペチはうなり返した。少年はさらに続けた。でもペチは本能をかけて自分を守るかのように決してひるまなかった。
その様子を見て母親が少年をたしなめた。少年は制裁を止めた。

そのことがあってもペチは以前と少しも変わらなかった。上目遣いはするし、人がいないとき無断で家に上がりこむこともやめなかった。


 その秋、少年は文化祭で同級生や他校生の絵を見た。みんな比べ物にならないくらいうまかった。
やれば自分には何でも出来ると思っていたにとってはショックだった。それ以来少年は本気で絵をかくことを止めた。





 十四歳の春、少年の人生にとって最も忌まわしい出来事が起こった。実力テストの結果が表となって少年の名前が一番右側で、廊下の壁に貼り出されたのであった。
くそ真面目で自負心が強く、そして恥ずかしさを屈辱と感じる少年にとっては、そこからひとつでも左側に順番を移動することは自分にとって許されないことであった。
そこで、その日から少年は時間を惜しんで勉強を始めた。大人たちが仕掛けた巧妙で安易な罠とも知らずに。


 その夏休み前、少年が学校の校庭で友達と遊んでいると、犬が二匹迷い込んできた。
よく見るとそのうちの一匹はあのペチだった。二匹は仲良く遊んでいるようだった。家から遠く二キロも離れているのに、よくこんなところまできたと少年は思った。
少年は気づかない振りをした。なぜならペチが少年を見つけて、あの全身で喜びを表す動作、尻尾をふり、前足でリズミカルに地面をたたいて飛び上がり、うれしそうな表情で首を振る動作をしたら、周りから、このやせこけた醜い野良色のような犬と少年が知り合いと思われたら、どんなに恥ずかしい思いをするだろうかと少年は思ったからだった。
そのとき一人の友達が少年に言った。 「あれ、あの犬、xx君の家の犬じゃない。」
少年はとっさに答えた。
「知らないよ。」
その友達はなおも続けた。
「そうかな、xx君の家の犬だよ。」
少年は表情を変えずに答えた。
「あんな犬、見たこともない。」
そういって少年は、ペチが自分のことを見つけてくれないことをただひたすら願った。


 その頃、少年は大人たちの前で自分の意見をいうことをほとんどしなくなった。
それは何も考えていないからでも、しゃべることが恥ずかしいからでもなく、ほんとうに自分の話したいことと、何を話せば大人たちが満足するかということとに、もはや調整が利かなくなっていたからであった。


 この秋、少年は些細なことで母親と言い争いをした。母親は子供のように泣きじゃくった。少年は驚いた。
その晩母親は居なくなった。父と二人だけのさびしい夕食となった。
少年は母が居なくなった訳を父親に聞くことがどうしても出来なかった。でも、内心では自分が原因で母親が居なくなったのではないかと思っていた。
もしかしたらこのまま永久に母親が帰ってこないんではないかとも思うと、不安で不安でたまらなかった。
翌日、学校から帰ってきても母親の姿は見えなかった。少年は父親の稲刈りを手伝った。
こんな忙しいときに家をあけるなんて、やっぱり自分がひどいことを言ったから母親は家出をしたんだなと思うと、少年は不安がますます高まっていった。夕方、母親が帰ってきた。母親は仕事をしている少年に近づき、買ってきたりんごを手渡した。
そのとき母親は喧嘩別れをしていた恋人のように恥ずかしそうに笑みを浮かべた。少年はやっぱり自分が原因だったのかと思った。
でもたとえようもなくほっとした。



 その秋の冷え込んだ夜、少年が寝ている布団にネコがもぐりこんできた。
少年は夏からの名残りでまだパンツひとつで寝るくせがあった。それに寒い時期になるとネコといっしょに寝るのが習慣になっていた。ネコが入るとまもなく、少年の体の胸から脚にかけての肌に、かすかになでるように、それもずっと一定の強さで触れるものがあった。
そしてその感覚は足元のところで終わった。ネコがそこに自分の寝る場所を確保したからであった。
少年は、それはネコが少年の体と掛け布団の間のわずかな隙間を少年の足元のほうへ進んでいたのだということがわかった。
そしてあのかすかな感触も、ネコが真っ暗闇の中を探り当てるようにして進むために使っていたひげが自分の肌に触れたものであるということも。


 この冬、ペチが子供を生んだ。床下の掘りごたつの周りに、そこは暖かかったから。
それから何日かして、少年が学校から帰ってくると子犬の泣き声は聞こえなくなっていた。ペチのクゥ、クゥと泣く声はしていたが。少年はすべてを察した。








 十五歳の春、少年はその地区の生徒たちの長に選ばれた。とにかく目立つことが嫌いな少年は本当は断りたかった。
だが断ることは良くないこと男らしくないことと思っていたので仕方なく引き受けた。


 その初夏、少年たちの地区で大人と若者たちの野球の試合がおこなわれた。
その試合で少年はホームランを打った。家に帰ってきてそのことを父親に言った。でも父親は何の関心も示さなかった。
そのとき少年は思った。それほど大したことではないなと。 それからしばらくして、父親が帰ってくるなり嬉しそうな顔をして少年に言った。「野球で、ホームラン打ったんだって。」と。少年は何をいまさらと思いながらも、父親というものは、子供が外で褒められることはうれしい事なんだなと云うことに気づいた。


 この頃少年は、他のクラスの者が体育の授業でフォークダンスをやっているのを初めて見た。
そのうち少年たちのクラスでもやることが知らされたとき、少年は絶対に学校を休むことを決意した。少年にとって恥ずかしさは人前で拷問を受けるような苦しさであり苦痛であったからだ。


 さらにこの頃、少年の家に少年の家の牛が逃げているという電話がかかってきた。
家には少年のほか誰も居なかった。外に出てみると、牛が牛小屋を抜け出して二百メートルほど離れた草地にいた。少年は非常に困惑した。
今まで牛に触ったことがないだけでなく、その巨体と暴れたらきっと人を刺し貫くに違いない角をのこと思うと、恐怖に打ち勝って牛を連れ戻すことは自分には無理だと感じたからだった。少年は途方にくれて立ちすくんでいると、牛が自分から戻ってきた。
牛が少年のほうに近づいてきたので、少年は勇気を振り絞り意を決した。
そして、かつて母親が言った言葉「牛は時々人をなめるときがあるから、なめられないように強く出なければならない。」と云うことを頭に思い描きながら、牛に近づき、鼻輪をつかみ力を込めて、そして少し乱暴に牛を引き出した。その巨体や相貌に似合わず牛は思ったより従順だった、むしろ穏やかさや優しさを感じさせるくらいだった。
そのことが鼻輪を通して少年の半ば硬直しかかった腕を通して伝わってきた。少年は穏やかな気持になりながら、乱暴に鼻輪をひいたことを後悔した。そして遠くはなれた草地のことを思った。


 その秋、少年は、誰よりも早く学校に行って学級文庫を読むことを思いついた。
初日いつもより三十分ほど早く行くとさっそく本を読み始めた。
しばらくすると足音がし、戸が開き、一人の女の子が入ってきた。それは少年が小学校に入ったときからずっと可愛いと思っていた女の子であり、学芸会の劇で体に触れることに恥ずかしさを感じ、そのことを拒否したり、見つめられて思わず自分の脳天を画板で叩いたりしてしまった女の子でもあった。
クラスはほとんど同じであったが、まだ直接的には一度も話したことがなかった。女の子はなんとなく落ちつかない様子だったが、少年は気づかない振りをして本を読み続けた。
まもなくその女の子は教室からいなくなった。次の日も少年は早めに学校に言って本を読み始めた。まもなく足音がして女の子が入ってきた。
昨日と同じ様に少年は気付かぬ振りをして本を読み続けていると、その女の子もなんとなく落ちつかない様子、まもなくどこかに居なくなってしまった。
次の日、少年は早めに学校に行くことをやめた。少女がそれまでのように来ることも来ないことも恐れたからだった。


 さらにこの秋、級友が、これが宇宙の形だといって、大きな黒板に楕円を描いたとき、少年はなんとなくそれは違うと思いながら眩暈を感じていた。


 この頃、病的な羞恥心が災いしてか、少年は人前で話すことがとても苦手だった。
そのことで先生と話し合った。先生は言った。それは慣れであると。
でも、少年はどうしても自分の本当に思うことや感じることを捨てて、もうひとりの自分になることはできなかった。


 その冬、少年は卒業文集に何も書かなかった。本当に自分の思っていることではなく、どのようなことを書けば卒業文集にふさわしいかが判っていたからであった。
でも、本当に自分の思っていることを表現する術はまだ持っていなかった。








 十六歳の春。田舎の変わり映えのしない風景や、そのありきたりの生活に退屈さを覚え、自分の故郷をほかの所よりも、なにか劣った所貧しい所と感じるようになり、それに比べてこの世にはもっと良い事ばかりがあるに違いないと思い、と同時に大人たちが仕掛けた罠から逃れるために、少年は家を出た。








 その後少年は自由にのびのびと物を言えなくなり地獄の季節を駆け抜け青年になった。
そしていつのまにか勉強もできなくなっていた。だからもう賢いとは言われなくなっていた。





 その少年が成年になったころ、ペチが死んだときの様子を母から聞いた。
それによると、冬の寒い朝、全身が真っ白になって死んでいたと言うことだった。少年はその不思議さよりも、不思議そうに話す母のことが印象的だった。





 そして、三十七年後、病院で苦しみながらこの世を去っていった父と母の死と引き換えに、その大人になった少年は、出て行ったときと同様、何ももたずに、いや老眼鏡だけを手に、故郷に住むために帰ってきた。
何者でもなく出て行き、何者でもなく帰ってきたその男を、故郷の兄弟も親戚も、風景も、その変わることのない豊かさと暖かさで迎え入れた。   































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