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 この朝天気でなかったなら




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      小礼手与志





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この朝天気でなかったなら

父は世間で評判通りの人だった。
真面目で大人しくて。
普段は。
でも、ほんとうは短気だった。
だから感情の行き違いがあったときなどには、
世界までも破壊しそうな勢いで怒り狂うことがあった。
あるとき、母と言い争いをして。
母をこぶしで殴ろうとしたことがあった。
でも父は振り下ろしたこぶしの勢いを弱めて、
母の髪の毛に軽く触れただけだった。
またあるとき、父が大切に育てていた野菜を、
小屋を抜け出した牛が全部食べてしまった。
父は怒り狂い制裁のため牛を叩くと息巻いた。
でもそれは話だけのようだった。

もしあのとき、
父がほんとうに母を殴っていたなら、
もしあのとき、
父がほんとうに牛を叩いていたなら、
おそらく僕は壊れ安い人間になっていたに違いない。

僕には守らなければならないものがあったのだ。

このごろ若いときのように、
どうして良いか判らなくなるときがよくある。
でもこの朝天気だったから、
僕は生きられるのだ。


   

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     この朝天気でなかったなら

子供の頃、室内で挨拶するとき、父たちは、
きちんと正座をしては、
額を床に着くほどまで下げながら、
聞き取れないほど小声で何やら呟いていた。

その様子が私たち子供にとってはとても滑稽に思えたので、
よく笑い話の種にした。

最近そんな挨拶をする人たちを見たことがない。
でも今の私には、何故父たちがそんな挨拶をしていたのか、
その本当の意味がようやく判りかけて来ている。

そういえば父たちは、毎朝、仏壇にも、神棚にも手を合わせていた。
子供の頃、私は、何故そんなことをするのから判らなかったので、
そのような時間のときには、なるべく近寄らないようにしていた。
たまに居合わせたときには、仕方なさそうに笑いながらやっていた
いま思えばそれも仕方がないことだったのだが。
なぜなら子供の頃に私には
本当に苦しい経験も悲しい経験もなかったのだから。

そういえば、神社で手を合わせることは特に理解できなかった。
悩み事や何かの問題の解決のために頼みごとをするのだそうだが。
でも私は、悩み事や問題は自分自身で解決するものだと、
ずっと思っていたのだったから。

それで今の今まで、まったくと言っていいほどお参りした記憶はない。

でも最近、手を合わせる本当の意味が判ってきた。
頼みごとと言うのは、決して自分のためではなく、
愛する家族や社会のためだということに。



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ありがとうと言うことに、私は子供の頃、
とても気恥ずかしさを覚え人前でうまく言えなかった。
なぜならそれを言うときは、たいてい強制的で儀礼的で、
本当にありがたいという気持ちになっていなかったからだ。
でも、それはほとんどの場合が礼儀だということが判ってくると、
そのうちだんだん何の苦痛もなく言えるようになった。

だが最近私は、本当に心からありがとうと言えるようになってきた。
それはありがたくないことをいっぱい味わい、
何が本当にありがたいことかが判ってきたからだ。
たとえば、見ず知らずの人から良くしてもらったり、
空腹のとき食べ物をもらったりしたときなど、
そんなときは心からありがとうと言える。



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素敵という言葉を、若いとき私は、
気恥ずかしくってどうしても使うことができなかった。
なぜならその言葉には軽薄なイメージがあったからだ。
でも最近私は、心から素敵という言葉を使えるようになった。
それは、私たちの社会のいたるところに本当に素敵な人がたくさんいて、


縁の下の力持ちのよう私たちの社会を支えているということが判ってきたからだ。



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私は若い頃、人から気軽に話しかけられたりすると、
なんとなく損したような気がして笑顔でなくなることがあった。
それから意味もなく笑われたりするのが、とても不快だった。
なぜなら侮られバカにされているような気がしたからです。



私たちは、穏かであまり物事にこだわらない人を見ると
気軽に話しかけたり、
たわいない仕草に思わず笑みを浮かべたりするときがある。
それは決してその人をバカにしたり、
その人に何か損をさせようとしているからではない。
そんな人を目の前にしていると、
まるで無垢な動物を見ているかのように、
心が解放されて穏かな気持ちになるからです。
とくにつまらないことで悩んでいるときなどは、
たとえそれでもって私の悩みが解決するわけでないのに、
それだけのことで心に余裕が生まれ救われた気持ちになることがある。



だからもう、もし見知らぬ人から気軽に話かけられたら、
なんにも考えることなく笑顔で応えればいいのだ。
だからもう、もし私を見て誰かが笑っていたら、
その人は満ち足りた気持ちになっているんだなと思えば良いのだ。
そしてその人よりも、もっと大きな笑顔で笑い返してやれば良いのだ。



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私は今の今まで、人前で夢を語ったときはなかった。
そんなものは他人に話してなんになるのかと、
ずっと思っていたからだ。
だが最近私は、
他人の夢がどれほど周囲に希望と生きる力を与えるかが判ってきた。
だから私はこれからは、私の夢を人前で、しかも笑顔を語ることにした。
たとえ「そんなことは実現不可能だ」と、
人から大声で笑われるようなものだとしてもだ。



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花は人を楽しませようとして、
美しく咲いているのではない。
犬は人を喜ばせようとして、
嬉しそうに飛び跳ねているのではない。
みんな在るがままに、
思いのままに振舞っているだけなのだ。

私も在るがままに、思いのままに振舞って
それが誰かにとって良いことなら、
それで十分なのだから。




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後悔 神に生きる母をほんの数秒でも、その存在を疑わせたこと。 椅子から飛び降りる子猫ほどの勇気 初めて群れに飛び込む小雀の好奇心





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     この朝天気でなかったら

金持ちになろうとすればするほど
心が貧しくなるかどうかは判らないが
心が豊かになろうとすればするほど
貧乏になることは確かなようだ

そんな私が今人のために出来ることは
どんなときでも誰にでも
笑顔で「ありがとう」と言うこと




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これで良いのかな
この世は真実だらけだということが判っただけでなく
生きとし生ける者が美しいと感じることが出来るようになったのだから




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