風の音が聞こえない(4部)

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          はだい悠






 井上のいうことは事実であった。だが、なぜいまそれが取りざたされ、問題とされなければならないのか、勇三には納得がいかなかった。自分の欠点を疲れたためではなかったが、勇三は無償に腹が立ち口調が荒々しくなった。 「なんで、会社の仲間たちと付き合わないからといって、オレをエゴイストだと決め付けるんだよ」
「だから、さっきもいったでしょう、自分の仕事だけをやって、さっさと帰ってしまうって。皆はそのあと、会社や仕事のことについて、話し合ったりしていますよ」
「なあに、あんなの、酒を飲みながらの愚痴じゃないか、ちっとも建設的なもんじゃないよ」
「いいえ、皆は、酒を飲んでいるといっても、真剣に会社の自分の将来について考えていますよ。」
「真剣にやったからといって、建設的とは限らんよ、自分たちだけ真剣だと思っているだけで、結局ムダ話を楽しんでいるだけじゃないか。惨めたらしい愚痴よ。自己満足よ、、、、」
「ムダ話でも、建設的でなくても、仲間と楽しくやっていければそれでいいじゃないですか。そこから何かが生まれるんだろうし、それが皆の和につながるんですから、そこなんですよ、先輩に協調性がないというのは、、、、」
「そんな協調性なんかくそくらえだ、、、、、」
「そういうところが先輩がエゴイストだという証拠ですよ」
「、、、、、」
 冷静にしかも勝ち誇ったかのように話を進める井上を見ていると、勇三はますます感情的になり、思わず井上から顔をそむけた。井上は得意げにさらに言葉を続けた。
「この間の忘年会、遅れてきて、しかも終わらないうちに帰ったでしょう?」
「ああ、あれ、あのときは事情があったんだよ。急に頭が痛くなってきてね」
「そういって誤魔化す、急に頭痛がしたなんて嘘っぽいですよ」
「とにかく頭が痛かったことは確か、それで皆といるのがイヤになった。いるとますます頭痛がひどくなりそうな気がして、、、、、これだとまさしく、君のいうとおり、僕には協調性がないということになるようだね、、、、」
と勇三は苦笑いをしながら言った。
「ほら、そうでしょう。やっぱり僕の言うとおりだ」
「、、、、、でも、正直言って、君が思うほど、僕には協調性がないとは思っていないよ。ただ皆とくだらない話をするのがイヤで、飽きただけのことだよ」
「くだらなくはないですよ」
「いや、くだらん、実に下らん。根拠のない噂話、つまらん趣味の話し、ギャンブルの話し、家族の話し、会社の話し、仕事の話し、女の話し、そんなものは聞き飽きた。皆はそれをいつも同じことをくり返しているに過ぎないのだよ。よくまあ、飽きないもんだ。君は会社のことを考えているというけど、いったいどういうことを考えているんだい?」
「会社の将来のことですよ」
 そういいながら井上は、勇三をにらみつけるように見た。勇三は返答に困った。結論としては、経済状況によってどうにでもなる会社であることは判っていたが、いくら自分がいま、酒によい上気しているとはいえ、後輩の井上にそれを告げることは気の毒のように思われた。勇三は強い語調でハッキリと答えた。
「生きていくためには仕方がないから働いているだけだよ。別に何にも考えていないよ」
「ほらやっぱり先輩は自分のことしか考えないエゴイストだ」
「、、、、、、」
 勇三は不愉快そうに顔をゆがめ、タバコの煙を勢いよく吐き出した。自分の日常の行為がこれほどまでに誤解を受けていることを勇三は改めて思い知らされた。井上はさらに言葉を続けた。
「最近よく風邪で休むけど、それも嘘でしょう」
「うん、ウソだ、ずる休みだ」
「先輩は自分の将来のことを考えないのですか?」
「いや、考えている」
「なら、それでいいと思っているのですか?」
 井上の言葉を勇三は、自分を責め立てているようにも、また自分のことを心配しているようにも感じられた。勇三はこれ以上話を進めることに複雑な感情を抱いた。酔いがすっかりまわってきて、自分で何を言おうとしているのか判らなくなってきた。それでも勇三は興奮気味の自分を抑えながら、ゆっくりと話し始めた。
「ボクは今の自分のこういう状態をいいとも思っていない。でも、自分でもこれからどうすれば良いのか判らない。自分では最善の方法をとっているつもりなんだ、、、、たとえ、それが会社をズル休みすることになってもだ、、、、」
 井上を急に黙り込んだ。勇三はさらに言葉を続けた。
「僕も、、そう君のように、皆と楽しくやりたいと思う、おそらく君は僕の孤立を心配してくれているのではないかと思う。でも僕はどうしても皆と楽しくやれない、でもそうかといって、自分が孤独で、寂しいとか、皆からのものにつれているとは決して思っていない。皆は趣味の話しとか女の話しとか、ギャンブルとか色いろと話をするが、僕がそういうことに興味がなかったり、話題に乏しいから話しに乗らないのではない。皆と同じように興味はある。でもそういうことを話しているとき、ほんとうは自分は楽しくないのだ。ただ仕方なく相手に合わせていることに気がついたのだ。僕はイヤだ。君に言わせれば僕はエゴイストで嘘つきだが、僕は自分自身へのそういう嘘はつけない。僕は仲間と話しながら、いつもそれとは別のことを考えている自分がいることに気づいたのだ。そのことがいったん気になったら、なかなか頭から離れない。離そうと思えば思うほど、かえって気にかかる。いまではそのことが僕には最も重要なことのような気がしてきた。それがどういうものなのか、ハッキリと表現するとこはできないが、しかし、他のものが僕が見捨ててもなんともないが、僕がそのことを忘れたり、そのことから突き放されるのが、僕には最も恐ろしく、孤独を感じるのだ、、、、、」  井上の顔からは先ほどまでの厳しさは消え、少し穏かな表情になってで話しだした。
「先輩は真面目なんですよ」
「いやそうじゃない。僕は自分では、真面目だとは思っていないし、そう見られるはほんとうはイヤだ。僕は皆と根本は変らないと思っている。ただ皆のように人前で話さないだけで、皆が遊んでいるように陰では色いろと遊んでいるよ」
「自慢にはならないよ」
「いや、自慢にはしてないよ。ほんとうのこと言っているだけで、男が遊ぶようなところには、どんなところにも行っているよ」
 酒で顔は赤くなっていたが、井上の表情が険しくなるのが勇三にはわかった。
「そういうところにいくの恥ずかしいとは思わないんですか?似合わないですよ」 「思う、だから人前ではいわない」
「先輩は、そういうところがなくなればいいと思わないんですか?」
「できるならなくなればいいと思う」
「それならどうしていくんですか?」
「わからない」
「そうところで働いている女性たちを気の毒と思わないんですか」
「思う、でもそういうところにいかなければならない自分も気の毒に思う」
「先輩はやっぱりエゴイストだ。女性たちがどんな悲惨なめにあっているか判っていながら、いく理由が判らないとか、なくなればいいと言いながら、先輩は行っている。やることが矛盾してますよ。先輩のような人間が行くから、いつまでたってもそういうところがなくならないのですよ。ましてやそこに行く自分のほうが気の毒だなんて、女性たちのほうがもっと気の毒でしょう。先輩は人前ではいわないというが、よく人前で手柄ばなしのように言う人間と大して変わりませんよ。本当は先輩は恥ずかしいなどとは思っていないんですよ、、、、、」
 二人は他の客に存在に気づかないくらいに酔い、会話に夢中になっていた。井上は言い終わると、力が抜けたように下を向き黙ってしまった。
 勇三は井上のいうことを正確に聞き取ることはできなかったが、自分を責めたてているような、また自分に幻滅して情けなさそうな思いだけはハッキリと感じられた。勇三は日頃の自分の態度に、後輩の井上が予想外の印象を抱いていたことに改めて思い知らされた。それは井上がいつも美しいイメージでこの世界を見ていたということであり、また同時に井上の少年のような潔癖な心を示すものだった。それを今勇三は自分の不用意な発言で裏切り傷つけたことになった。勇三は酒によっているとはいえ、井上の心の痛みが感じられた。

 勇三は酔いのため軽い頭痛を感じながらも、さっき自分が行ったことが井上に誤解を受けていようがいまいが、もう少しいわなければならない思った。そして黙って下をむいている井上を見ていると、勇三は妙に攻撃的な気分になっていった。それは直接井上に向けられたというよりも、むしろ二人を息苦しい情態に追い込んだ何ものかに向けられているようでもあった。
 勇三は再びゆっくりし話し始めた。
「、、、、僕が、皆と同じように座興のための話題にしないからといって、僕が皆と違っているとは思わないし、君の問い詰めに対して弁解しようなどとも思っていない。でももう少し言いたいことがある、、、、彼らは自分の体験を面白半分に、まるでそういう女性たちを卑下するかのように、滑稽に下品に話す。たぶん君は、そういう男たちの話を聞いたり見たりすると、自分の思い描く美しい女性像が汚されたような気がして、彼らの無恥さに腹が立ち、我慢ならないのだろう。僕も不愉快になりその場を離れたくなる。でもそれは君の思っているように、美しい女性像が汚されたからでも、彼らが面白おかしく手柄ばなしのように話すからではない。やつらは不正直だからだ。奴らは本当のことを見てもいないし語ってもいない。僕が最も我慢できないのは、やつらは嘘を言って自分自身をごまかし自分自身を汚しているということだ。やつらは自分の乏しい想像力で自分の体験を思い起こしては、その一場面一場面を思いつくままに、あたかもフィルムのようにつなぎ合わせ、それを言葉にして話しているに過ぎないのだ。やつらは自分の全体験を決して語ってはいない。というより語れないのだ。やつらは自分の体験の都合のいいところだけを選び出しては、それを言葉にして表現する。でもやつらは本当に貴重な体験を思い起こすこともできずに忘れてしまっている。いやむしろ故意に忘れようとしている。自分の体験を忘れていることは、何もこのことだけとは限らない、日常生活のあらゆることに渡っている。だが今はその追及は止めよう。、、、、とにかく僕はやつらのそういう不正直さや曖昧さが我慢できないのだ。誰でも興味ありそうシーンだけを表現されるとおもしろがるし、また話しても興味の引きそうなシーンだけを全体の経験から抽出して表現する。その点から見れば話しても聞き手も知らず知らずのうちに芸術家になっているわけだ。たぶん君も、そのような話しての巧みな表現に載せられて、頭のなかに男と女の興味深い関係を思い描くに違いない。僕だって思い浮かべる。しかも鮮明に、そしてコ惑的に。しかし僕は不思議なことに、君のように不愉快になったり腹立たしくなることはない。むしろ僕の欲望が触発される。それはひとつの快楽だ。言葉から生まれるこの上ない快楽だ。想像力による快楽だ。イヤ想像力そのものの快楽だ。だが現実の行為とは不条理なくらい惨めなものだ。恥ずかしさや不安や期待の複雑に入り乱れた感情をひたすら押し隠して、そこへの入り口のドアを開けて入り、無表情を装いながらも、その一方では受付の男の視線を意識しながら、金を渡すときの苦痛。しかしそのときそこでどんな反省や後悔があろうと、もう自分はそこに存在することには変わりない。そして自分はいかにも場慣れたように平静さを装いながら自分の順番を待っているときの自己欺瞞。裏を返せばそれはまるで自分の欲望が何者かに計算され管理されているような気持ちのだ。そして密室の中に男と女がいる。たった今知り合ったばかりの男と女。これだけで君は、これから何が始まるのか、気味は一人の男として想像することができよう、僕もできる。だが僕の言いたい現実というものに帰ろう。その女の顔に、いままで見たこともないような種類の疲労の色が浮かんでいる。そして男の眼には女の姿だけではなく、へなの壁や床や小さい四角い窓が入ってくる。それらは冷たく不気味でよそよそしく二人を取り囲んでいる。そのとき一瞬人間存在は死に、滞っている。そして男はその正体が隠されている女の目を見る。瞳の奥に男を受け入れるような情欲の炎が、なぁんてことはまったくない。かすかに不安や怯えがないことはないが、それよりもむしろ醒めている。かといって冷たく感情のない眼とか、物を見抜く知性の眼ではない、行ききらない何かに行き詰まっている眼だ。なんだろう?それは判らない、だがそれは男の内部にあるものと同じなのだ。そしてそのとき、お互いにそれを見抜き、苦痛を感じあっている。やがてそれを打ち消すかのように会話が始まる。ちょっと前までまったく違う世界に居たもの同士の会話が、それは普通の男と女の会話ではない。お互いに男は男であることを女は女であることを隠そうとする。かといって飾ることのできない人間同士の緊張した会話なのだ。そこから逃げ出したくなる。それは垣間見てはいけないものを見た恐怖に近い。僕はこれ以上うまくいえそうにない。そこに実在するものは頭の中で創造するものとは違う、はっきりいって、女は美しくない、男も美しくない、ただ動物的生理的な人間の状態があるだけだ。そこに居る女が悲惨なら男も悲惨だ。というより男と女が作っているその部屋全体が悲惨なのだ。その部屋は何かから取り残されている。存在は乾いた粘土のようにひび割れている、、、、でもむしろそういうことを話題にしておもしろがっているほうがまだ無邪気で良いのかもしれない。しかし言葉のうえの快楽が何だろう、眼の前にしている現実が美しくなかったら人間は敗北だ、、、、」
 井上は終始勇三から視線をそらし黙っていた。勇三はもう自分の饒舌をとめることはできなくなっていた。
「なぜ皆は自分が本当に感じたことを言わないのだろう?いや、もしかして、そんなことはわかってながら、ひとつのの座興として、一時の楽しみとして話しているのでは、、、、それにしても皆は本当にひとつの座興として理解しているのだろうか? 僕はそんな場所を出るときはいつも、もう二度と来るまいと硬く決意する。だが僕の欲望と想像力が、そんな悲惨な現実や硬い決意を忘れさせ、再び僕を誘惑する。さっき僕が、皆は自分の体験を忘れるといったが、結局僕も同じことをしているわけになるね。そしてその結果、再び僕は、僕が少年のころからずっと、女性の対して、肉親なように抱き続けてきた充足感やぬくもりや、それに恋の対象として抱き続けてきた美しさや憧れや夢や、そして肉欲感とともに打ち砕かれ、惨めに打ちのめされる。そんなとき僕は思う、絶望的な気持ちで、もしかして僕はこのためだけに、つまり股間にぶら下がっている物のためにだけ生きてきたのではないだろうかと。事実僕はそれによって生まれてきたのだが。そして僕はこのために女性に夢見、女性を求め、しかし満たされぬまま打ちのめされ、死んでいくのではないだろうか?生まれて死んでいく間の生活は、ただの遊びで、悪ふざけで、徒労で、まやかしで、幻影で、何もない無なのではないかと。そしてこれからどう努力して生きても、結局これだけしか与えられないのではないだろうかと。もし本当にそうなら、僕を造ったものを、僕にこれだけしか与えない者を恨み呪いたくなる、、、、そして言いしれぬ惨めな気持ちでそんな場所を出てきて、華やかな街角に美しい処女、あっこれは少し言いすぎた、美しい処女らしき少女を見かけるとき、いままでの自分を抹殺してしまいたいような、その場にうつして祈りたいような、底知れぬ空虚感に襲われる、、、、、しかし君の言うとおり、あういう者はなくなったほうが良い、そこにいる女たちはもっと悲惨なのかもしれない。なかには好きで働いているものもいるかもしれないが、とにかく社会学者の考えるような存在理由はない。いっそのことなくなれば良い、、、、、、、そういえば、こんなことがあった。それを思い返すのは辛いが、とにかく話そう。僕がいつものようにどうにかそんな場所にたどり着き、簡単には表現できないような複雑な気持ちで自分の順番を待っていた。部屋の窓からは向かいのビルの窓が見えた。ちょうどそこがキャバレーのトイレ前になっていて、ときおりそこを通り過ぎるボーイやホステスが、その窓から興味ありげに薄笑いを浮べて、僕のいる部屋を覗いた。彼らは見な、どんな好色漢来ているんだろうかということによっぽど興味があったらしい。しかし不思議なことに、僕は彼らが興味を示すように、自分がいる場所に興味がわかず、むしろ窓の向こう側のそんな女たちのいる場所に興味がわき、あこがれていた。そして僕の順番がやってきた。僕は部屋に案内され女が来るのを待っていた。しばらくして女がやってきた。僕はとっさに普通の女と男が挨拶するようによろしくといった。女はいっしゅん驚きの笑みを浮かべて軽く頭を下げよろしくといった。なにをよろしくなのか判らないが、そのとっさに出た言葉のおかげで、緊張気味の女の気持ちも僕の気持ちも和らいだようであった。僕はそのときサンダルをはいていたので足が泥で汚れていた。そこで床に強いてあったバスタオルを汚しては悪いと思い、それを踏まないで衣服を脱ぎに掛かった。それを見て女は、良いよかまわないといった。僕は女の言うとおり素直に従った。なんでもないようなことだけど、こんなことが、緊張をさらに和らげ、二人を近づけさせることになるんだ。僕は少し酒を飲んでいたせいもあるが、僕より白くて小さい手や両足が、なぜか美しく可愛く見えた。僕は美しい足、可愛い手だと言った。そんなことは普段恥ずかしくていえないのだが、そのと気はなぜか抵抗なく素直にいえた。女にしてもそんな見え透いたお世辞は聞き飽きているに違いないのだが、小さく笑みをうかべて、どうもありがとうと言った。そんなわけでその日は、いつもより女のことが好きになれそうな気がしていた。しかしそれはあくまでもそういう気がしたので、残酷なようだが、心の底からは好きになれなかったようだ。それがなぜかは判らないが、、、、、いずれにせよ、とにかくいつもよりはうちとけた気分になっていたことは確かだ。それで色いろと話が弾み、女をいつもより身近に感じた。そして女は、自分が女であることを表し僕も多少は自分が男であることを感じた。別れ際、女は僕に、僕に好きな人はいるのかと訊ねた。僕はどうして女がぼくにそんなことを聴くのか判らなかった、それに僕に特別の関係の女がいると答えるのが女に悪いような気がして、そのとき実際のところそんな女はいないのだが、いないよ、、恋愛なんてつまらんよ、あんなの何が面白いのかね、と女の同意を誘うかのように、言葉荒く、はき捨てるように言った。すると女はいっしゅん黙ったあと、顔を曇らせ、僕を諭すような激しい口調で、『愛は苦しいものだそうよ』と言った。僕はその他人事のような言葉と苦しげな口調から、女のただならぬ心の動きを感じたが、それがどんな種類のものか、なにを言わんとしたのか、そのとき理解することができなかった。だがその後、そのときのことを思い出して、女がそのときどんな気持ちであったのか、ハッキリと判った。普通あんなところに居る女はめったに自分の心を開かないのだ画、あのとき、どうしたわけか、女は僕にほんのちょっぴりだが心を開いてくれたのだ。本当のこと言うと、僕は女がそうなることを望んでいたし女がそんな気持ちになるように、いかにも僕が女のことを好きであるかのように振舞い、女に仕向けたのは確かだ。それに女が僕に心を開きかけていることも、僕はハッキリと感じとっていた。しかし僕はあのとき、ほんとうは好きになれないという心の奥底の感情から、意識的にそれを無視し女のそんな心の変化を理解せずに、心無い乱暴な言葉で女の感情を裏切り傷つけたのだ。女が僕に対してどんな感情を抱いていたのかはわからないが、あのときの女のあの言葉は、無意識に僕に心を開いた女の後悔と悔しさ、それに僕の人間性を見抜いてそれに幻滅した表現だったのだ。僕は終始好きであるのかように振舞ったが、やっぱり心の奥底ではどうしても好きになってはいなかったのだ。結局初めにあったときの関係に戻っただけなのだ。でも僕にはそんな結末をどうすることもできないんだ、、、、もし僕が、遠いところからこの地球見下ろしている者のように、すべての人々の考えから行動まで捉えることができ、支配者のように人々を自由に操り影響を与えることができるなら、そんなことはつまらないから止めろといって、やめさせることもできよう。しかしこれはまったくの僕の仮定に過ぎない。気休めにもならない。僕や君がなんと思おうと現に刻いっこくとすべての人々は、自分の好きなように考え、自分の好きなように行動している。すべてが僕や君の手の届かないところで自由自在に変化している。それに対して、ボクさっきから君と向かい合って酒を飲んでいる人間にすぎない、ボクは今ここに居る自分だけなのだ、、、、」

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「先輩は本当の愛を知らないんですよ」
「、、、、本当の愛ってどんな愛なの?」
「そうですね、あまりうまくは言えないけど、、、恋愛して結婚して、、、、、」
「ふん、恋愛か、ある哲学者が言っていた。恋愛は迷妄を父とし、欲望を母とすると。欲望はまだ良いとしても、でも迷妄はイヤだ。迷妄、そして結婚か、イヤだ。ああイヤだ。君は恋愛という言葉から、いったいどんなイメージを思い浮かべる?そもそもイメージを思い浮かべるなんてろくなことはない。どうせつまんない映画やテレビドラマゃ小説から影響受けたんだろう、そんなものはくだらない。皆あういうものに惑わされているだけだよ」
「でも、ほとんどの人は恋愛をして結婚して幸福に暮らしているんですよ。そこに愛がないわけないでしょう」
「ふん、また愛か、曖昧な言葉だ」
「それに先輩は、現実が美しくなかったら、、、、というが、先輩の言う現実は特殊な現実で、ほんの一部です。人間には生まれてからの死ぬまでの間にまだまだ沢山の現実があります、、、、」
「、、、、、、」
 勇三は酔いと頭痛と喋り疲れでぐったりとなった。二人はしばらく黙っていたが、無言の合図を交わすと席を立ち、勘定を済ませ夜の街に出た。
 二人はしばらく何も言わずに並んで歩いた。別れ際、井上は元気なく頭を下げただけで、勇三に背中を見せて帰っていった。沈黙した井上の背中を見ていると、勇三はなぜか居たたまれない気持ちになった。
 そしてふただび独りでこの間の忘年会の夜のように、当てもなくさ迷い歩いた。ただこの間の夜と違うのは妙に攻撃的な気分になっていることであった。

 町はいつものように夜の賑やかさをたたえていた。だが、勇三はなるべくそんな場所を避けて、人通りの少ないふら道を歩いた。歩きながら勇三は井上との会話を思い起こした。せっかく楽しくなるはずの会話が、ことごとく意見の衝突に終わり、お互い不愉快な時間を過ごしたということに勇三はやりきれなかった。そして自分の言ったことも、井上の言ったことも気に食わず、とくに酔いに任せて口走った大げさな表現が、他の客にも聞こえたと思うと、思い返せば返すほど気恥ずかしく思い、そんな自分に腹だたしくなった。収まりそうにない原因不明の頭痛にさえ腹が立った。

 勇三はさらに夜の街を歩きながらだんだん投げやりな気持ちになっていった。舗道に落ちている空き缶を思いっきり蹴飛ばしながら、向こうから歩いてくる通行人が道をさえぎろうものなら、相手がどんな人間であろうと、たとえひと悶着が起ころうと、肩がぶつかってもかまわないとさえ思った。そしてふとある衝動が起こった。勇三は今の自分のモヤモヤとした欲望をすぐにでも満たしてくれるような場所を探しながら歩き続けた。そして、それらしいケバケバしい看板を眼にすると吸い込まれるようにそこに入った。

 乱暴にドアを開けると、いらっしゃいませという、妙になれなれしく抑揚の効いたボーイの掛け声がかかった。
 ホールはむっとするくらい暖房が聞いていて、眼を鋭く刺激する原色のスポット照明が、床や壁や天井を走り、全体とては薄暗く、そして女たちの香水の匂いや酒類の匂いやタバコの煙が入り混じり、ビール瓶に触れるコップの音や女たちの嬌声、それに壁を振動させるほどの激しいリズムの音楽が流れ、勇三のもやもやとした欲望を満たしてくれるには充分なそれらしい雰囲気になっていた。
 灯りに慣れると勇三の眼に、所ところのボックスで、抱き合い、より沿い、戯れている男女の姿が入ってきた。勇三は料金を前払いすると、ボーイに案内されて奥の空いているボックス席に座った。
 女がやって来て勇三の横に座った。女は水色のワンピースの広く開いた胸元から豊かな乳房のふくらみを覗かせ、その短いすそから光沢のある太ももをあらわにしていた。
 ビールがはこばれた。女は勇三にささやくように何かを言った。気のせいのように勇三にはそれがうまく聞き取れなかった。さらに女はビールを注ぎながら、今度は自分の唇を勇三の耳に触れるほどに近づけさせ、再び何やらささやいた。勇三はまたもや聞き取れなかった。だが判った振りをして声を出さないで笑った。すると女は素っ頓狂な声を上げて笑いながら言った。
「いやん、おじいさんみたい、、、」
 勇三は今度はハッキリと聞き取ることができたが、この言葉からバツの悪さや恥辱を感じいっしゅんに怒りを覚えた。しかし勇三はそんな気持ちを無視しながらビールを飲み女に話しかけた。でも女はきょとんとした眼をして、また声を上げて笑った。そして何かを言った。だがまたしても勇三は女がなにを言っているのか聞き取ることはできなかった。勇三は焦った。

《、、、、、聞き取れない、頭痛のためでも、音楽のためでも、周囲の騒音のせいでもない。たしかに耳には入って来ている。女は日本語を喋っている。だが意味が伝わらない。何度話しかけても女は理由のない笑いをして判らない日本語を喋る、、、、、》

 そう思いながら勇三はますます不安になり焦った。そして女が意味もなく笑うたびに、赤い唇が醜くゆがむのが眼に映った。しばらくして女はちょっと失礼と言って、席を立ちどこかへ言ってしまった。
 勇三はその間にビールを飲みながらホールの雰囲気に浸ろうとした。しかしどうしたわけか、勇三の心と体は石の扉のように硬く閉ざして、開こうとはしなかった。そして自分の体のこわばりや有様が異常に意識され、他人の体のようにてに冷たさや足腰に疲れを感じ重い頭痛を覚えた。
 やがて戻ってきた女は、黙っていることが不安であるかのようにしゃべりはじめ、再び意思の伝わらない会話が続けられた。だが勇三には女は自分の意思を伝えることをあえて拒絶しているかのように感じられた。女は手にコップを持ったまま勇三に抱きつくようにして自分の体を勇三の膝の上に乗せてきた。勇三はこのときばかりと底知れぬ期待を持って衣服のうえから女の体に手をまわした。勇三の手のひらに女の体が柔らかいゴムのように弾んだ。勇三は思わず頭の中で呟いた。

《、、、、なんてこった、オレが今触れているのは人間の体温と同じくらいの暖かさのゴムだ、、、》  勇三は失望感を味わいがら周囲の様子に眼を向けた。
 暗がりで、客の男がイヤがる若い女を抱きすくめようとしている。しかし女は笑っている。そして、なか良さそうに寄り添う男と女、頬を寄せ合う男と女、抱き合う男と女、その男の手が女のスカートの下から差し入れられ腰にまわっている。ときおり通り過ぎる照明がそれらの様子をくっきりと映し出す。
 それらの光景は、勇三の欲望を刺激して今のモヤモヤとした欲望を満たすはずのものであったが、勇三は自分も彼らと同じような行為をしているにもかかわらず、ただ自分の膝の上に居る女の重さだけを感じ苦痛であった。失望感を覚えながら勇三はもう一度それらの光景を眺めた。
 音楽は激しいリズムとボリュームを変えず、笑い声と嬌声の渦巻くなか、客ホステスのさまざまな行為が繰り広げられていた。勇三はふとあることに気づき、そして思った。
《、、、、、客の男たちは、それぞれ様ざまな行為にふけってはいるが、彼らの不自然な笑いや落ち着かない眼の動き、それにどぎまぎした表情からは、自分と同じように決して心から楽しんではいない。それにホステスの女たちを捉えることができないまま、自分と同じように決して欲望が満たされてはいない。女たちもまた、客の要求を受け入れて、快楽を呼び起こす肉体の形や動きを男たちに与えてはいるが、型どおりの笑いや仕草や醒めた眼の表情からは、心の奥底は意外と冷静で、散漫で、気まぐれで、わざとらしく、快楽のための肉体の形と動きはしているが、快楽そのものは分け合わないし、心も、愛も与えないといっているほどに、冷たく男たちを拒絶している、、、それなら、、、、ここに居る男たちも、女たちも、皆自分と同じように感じているに違いない。それでは、ここに居る人間は、いったい何者なんだろう。いったいなにを求め、何を楽しんでいるのだろう。ただ、めいめい好き勝手に、自分の妄想のなかで楽しんでいるのなら、これほどの男と女の間の誤解があるだろうか? なんて滑稽なんだろう。みんな子供だ、猿だ、豚だ、、、、》

 そう思うと勇三は、さらな失望感を深くした。膝の上の女の重みだけを感じている自分にやりきれなさ覚えた。そしてもう一度それらの光景に眼をやった。しばらく眺めていると、今度は別の考えが浮かんできた。
《、、、、、いや、遊戯的な女たちは別としても、客の男たちは、ほんとうは楽しんでいる。自分のように、あうでもないこうでもないと考えたり、周囲を観察したりしないで、純粋に彼らの全感覚器官を通して、女と快楽を分け合うのでもなく、心を求めるのでもなく、ただ女の肌に触れてその微妙なぬくもりを感じ取り、女の甘い香水の匂いを嗅ぎ取り、女の肉感的な声を聞きながら、眼を通して、このホール全体の雰囲気をぼんやりと眺め、浸り、おぼれ、想像と感覚の世界に彼らの欲望をオス犬のように高揚させて、ただ彼らの内部だけで、この場限りに、やや暴力的に、盲目的に楽しんでいるのだ。妄想が何だろう、それでも良いではないか、もともと人間は迷妄を食って生きているんだから、だとすると楽しめないのは自分ひとりだけか、皆はあんなに楽しんでいるのに、、、でも全体の雰囲気とはいったいなんだろう? 楽しむというのは人間という個体なのだが、想像や感覚の世界とは?、、、、》

   そしていつしか深い失望感は対象のない絶望感に変っていた。











     
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