風の音が聞こえない(9部)

に戻る   

          はだい悠








 勇三は亜衣子の注意を引こうとして、わざとらしく上方を見上げた。闇を背景にいっせいに咲き乱れた桜の花々が眼の前いっぱいに広がった。それを見ていると勇三はふと胸苦しさを覚えた。そして突然のように言葉が漏れた。
「もう満開だね、、、」
 亜衣子は勇三の言葉に何の反応も示さず黙って下を向いていた。そんな亜衣子を横目に感じながら、勇三は亜衣子にやさしく微笑みかけるという先ほどまでの決意も忘れ、苛立ちを覚え、少し荒っぽく言った。
「なぜ黙っている」
 そう言ってから勇三は、自分だって今まで何も言わなかったことに気がつき後悔した。
 亜衣子には、勇三が何もかも忘れ、また忘れさせようとして、話題をそらそうとしたり、陽気に振舞おうとしている芝居じみた不器用さが手に取るようにわかった。しかしそれが決してうまく行かず、ことごとく失敗に終わるのを見て、心が重く苦しくなった。亜衣子は勇三の心の痛みを自分のことのように感じ、涙がこみ上げてきた。 
 涙ぐむ亜衣子を見ていると勇三も泣きたい気持ちになった。泥に汚れた花びらが地面いっぱいに散らばっていた。ときおり舞い落ちる花びらが勇三の眼に入ってきた。もう散り始めているのかと勇三はなんとなく思った。微風に乗って亜衣子の香水がかすかに匂った。それに刺激されたかのように勇三は、いままでの亜衣子との数々の思い出や、夢に現れた亜衣子の裸身を思い浮かべた。そして傍らに亜衣子そのものを感じた。だが、いまそれらが自分から離れて行こうとしているのがひしひしと感じられた。勇三はまだ見たこともない男に限りない嫉妬を覚え、烈しい怒りがこみ上げてきた。そして勇三は、亜衣子とその男の関係を詳しく知りたくなった。勇三は興奮している自分を悟られまいと、穏かに話し始めた。
「いつから付き合っていたの?」
亜衣子は答えなかった。 「このあいだ、用事があるといって帰ったね。あのときも、、、、」
 亜衣子は軽く頷いた。勇三はさらに詳しく知りたくなった。もしかしてあのときもそうではないかと思い、そして言った。
「いつか、駅の階段で足をくじいたことがあったね。あの夜もいっしょだったの?」
 亜衣子は黙っていたが、勇三は理解した。
「いったいいつから付き合っていたんだ」
 勇三は自分の苛立ちを抑えることができずに思わず問い詰めるような口調になってしまった。
 亜衣子はいつからかと聞かれても、そんな区別は付かなく、それに頭が混乱していて答えることが出来なかった。
「なんで今までオレに黙っていたんだ」
 勇三は、以前亜衣子がそのことで、自分に相談を持ちかけようとしたことを、それとなく知ってはいたのだが。それを知らない振りをして亜衣子を問い詰めることは、亜衣子を痛めつけているようで残酷な気がした。それにいまさらそんなことを聞いても、もうどうにもならないことに気づいてはいたのだが。でも聞かすにはおれなかった。
 亜衣子は勇三に問い詰められても、それほど苦痛ではなかった。なぜなら亜衣子自身は、もう二人の関係は終わったものと思っていたから、それに、それで勇三の気が済むものならと思っていたので。
 何も言わずにただ涙ぐむ亜衣子に、やや腹だたしさを感じていると、再び勇三の頭の中に、やりきれない正体不明のその男のことや、その男と亜衣子のことが浮かんできた。勇三は傍らな腰をかけている亜衣子をそっと盗み見た。それはかつて一人の女性として、勇三の前に現れたときのような、優美ではつらつとした姿ではなかった。以前のような清新な明るさを失い、なにかに怯えるように背中を丸めて弱々しく涙ぐむ小さな女であった。勇三はそんな亜衣子を見ていると、いとおしく思い抱きしめたくなった。そしてふとある考えが浮かんだ。このまま亜衣子を、、、、、、だが勇三すぐそんな考えを打ち消した。そんなことをしても何の解決にはならないと思ったからである。そして勇三は亜衣子を辱めようとした自分を烈しく恥じた。
 勇三はどうしようもなくなり、自分の無力さを感じると冷静さを失った。そして狩猟者に追いつめられた動物のような、苛立ちと恐怖を感じた。勇三は今まで決して亜衣子の前では見せなかったほどの荒々しい言葉使いをした。
「どうして泣くんだ、なんでもないことじゃないか」
「、、、、でも、、、」
「でもじゃない、何も気にすることなんかないんだ。もう済んでしまったことじゃないか」
「、、、、私にもどうしてよいかわからなくて、、、、、それに勇三さんに申し訳なくて、、、」
 そう言いながら亜衣子はハンカチをに当てた。
 勇三はそんな亜衣子を見て、突然怒りがこみ上げた。その怒りがどんなものか勇三には自分でもよく判らなかったが、それが亜衣子に向けられているようにも、またそうでなく何か別のものに向けられているようにも思われた。その怒りが頂点に達した。
「もう泣くんじゃない」
 そういうなり勇三は亜衣子の頬を強くたたいた。
 たたいたあと、亜衣子の生暖かい頬の感触が手のひらに残った。
 計ることの出来ない時がんが流れた。勇三はじょじょに自分を取り戻しながら、取り返しのつかないことをしてしまったと思った。だがもう遅かった。勇三は自分の愚かな行為を憎んだ。自分には亜衣子を殴る権利などない、亜衣子と自分との間には何か約束があったわけではないのだから、まったく自分の一人芝居に過ぎなかったのだから、、、、そして今の二人は許す許されるというような関係ではないと思った。しかし勇三は謝ることさえ出来なかった。勇三はもう何も終わったことを感じながら呆然と舞い落ちる花びらを眼にとめていた。
 勇三はしばらくして立ち上がった。
 亜衣子はハンカチをなくしたといってグズグズしていた。勇三は亜衣子の間の悪さを呪いたいような気持ちになりながらもいっしょになって探した。ハンカチを探しながら勇三は自分はなにか異様で他人のように冷静であることに気づき、驚いた。
 見つけて亜衣子に渡すと、亜衣子はすみませんといってハンカチを受け取った。
 本当のところ勇三は心の片隅に、まだどうにかなるのではないか、というかすかな望みを抱いていた。しかし亜衣子のその他人行儀な冷めた言葉を聞いて、最後の望みを立たれた死刑囚のような気持ちになった。これで何もかもすべてが終わったことを勇三は改めて思い知らされた。
 勇三はこれ以上亜衣子といっしょに居ることに苦痛を感じ、また亜衣子もそんな気持ちに違いないと思い計り、駅まで送ると他人のような挨拶をして別れた。

 亜衣子を乗せた電車が走り出した。
 勇三は分かれた亜衣子の後ろ姿を振り切るようにして、そのまま歩き出したのだが、ビルとビルの間から高架線路を走る電車が見える場所にくると、つい足を止めその電車を見てしまった。勇三に眼に、電車の明るい窓が次々とあらわれては消えていった。
 そして再び夜の街を歩き出した。勇三は人間の眼を恐れた。それに何事もなかったかのような平和で華やかな町並や、屈託がなく幸福そうに歩いている人々を見るのが苦痛であったので、人通りの少ない薄暗い裏通りばかりを選んで歩いた。
 歩きながら勇三は、足取りもたしかで感情を失ったように冷静な自分に気が付き不思議に思った。そして何も考えずにただ歩いた。足音が反響するほどに、夜の静寂を取り戻したビル街に入ると、風を感じた。その暖かい風に忘れかけていた春の息吹を感じた。そしてそのとき、初めて亜衣子を失った悲しみが、えもいわれぬ絶望感とともに勇三の胸を締め付けた。しかし涙は出なかった。頭から胸にかけて、硬くて思い棒状の塊を感じた。それが暑くなり溶解すれば涙になるに違いないと思った。歩きながら勇三は、嵐のように過ぎ去った今日のさまざまな出来事を悔恨のように思い浮かべた。自分はできる限りの努力を尽くしたと思うと、悔やむ気持ちも和らぐのであったが、しばらくすると再びやり場のない怒りが腹の底からこみ上げてきた。その怒りが向けられているのは、自分のふがいなさにでも、亜衣子の裏切り(?)にでも、またまだ見たこともない亜衣子の男にでもないことはハッキリしていた。それは自分を取り巻く世界に潜む得体の知れないものに向けられているような気がした。しかし勇三はそれ以上追求することを避けた。今日はもう何も考えたくはないと思ったからである。
 さらに夜の街を歩きながら、怒りと悲しみの感情が交互に波のように押し寄せ、勇三を苦しめた。勇三は、三島の言った、"イヤなことはすべて時が解決してくれる"ということを思い出した。たしかにそうに違いないと思った。だが今の勇三にとってはそんな常套的なことはどうでもよかった。《思い出となり死んでしまった感情を、後で意味づけして解決してもなんになろう、失われた感情は二度と戻ってこないのだから、人類の名に賭けて、いまの自分を苦しめるこの涙の出ない悲しみの感情の真っ只中に生き、そしてその意味を解き明かし、自分の力で自分を救うのだ》という気持ちでいっぱいだった。


 勇三はタクシーを拾った。運転手の明るく弾んだ声が違う世界に住む人間のように思われ、勇三は息苦しくなった。
 タクシーは、駅前、繁華街、ビル街と、この都会の様ざまな風景を窓の外にのぞかせながら走っていた。舗道を歩く人々や、色さまざまな広告塔が流れるように窓の後ろに消えていった。薄食いら場所を歩いてきた勇三の眼には、対向車のヘッドライトがまぶしかった。勇三は眼を閉じ夜の街を思った。そしてこの都会の全景を頭に思い浮かべた。

   勇三の頭のなかで、この都会は混沌としたよそよそしい風景に変ってしまい、再び勇三の前に、とらえどころのない怪物のようなその正体を現していた。かつて溢れんばかりの夜路日ごと充実感でこの都会を捉え、そこで生きる意味と価値とを見い出したことがあったが、あれは自分の錯覚なのだろうかと、勇三は思った。そして愛する亜衣子を失ったという、ただそれだけのことで、それらを見失うということは、もともとこの都会にはそんな意味も価値もまったく存在しなく、それらを育む余地もなく、また何にも生まれない場所だったのかとも思った。すると今までのことはすべてと労で、不毛で、まやかしで、こけおどしに過ぎなかったのではないかとさえ思った。そして依然としてこの都会は、自分には未知であり謎であり、十七歳のとき自分というものを探求することに息苦しさを覚えて以来、この都会に住んでいるにもかかわらず、いや、かえってその所為なのか(?)とにかく自分というものは何にも解決されていないし、判ってもいないし、少しも豊かになってもいない、それではもういちど最初からやり直しだ、とも思った。


 アパートに帰ると勇三は、テーブルの上に埃をかぶって散らばっていた睡眠薬をかき集め、喉に押し込み、そして飲みかけのウイスキーをコップいっぱいに注いだ。それは死ぬためではなかった。いくら言い知れぬ感情に支配されているとはいえ、勇三の頭は意外とその適量を計算していた。それに勇三にとって肉体の死はそれほど問題ではなく、そんなことは自分の意志次第で、そのときが来ればいつでも可能であり怖くはなかった。だが、いまこのまま死ぬことは、何にも解決されない自分や、いまのこの良い知れぬ感情の意味があきらかにされないまま、永久に幽霊のように彷徨うに違いない、そのためにはもう少し生きる時間が欲しいと感じていた。しかし、今日ところは、何も考えることなく、ただ眠りたかった。自分の意識を抹殺したかった。勇三はもっと自分の肉体を痛めつけたく思い、いっきにコップのウイスキーを飲んだ。喉がきられたように痛み、むせ、思わずうめき声が出た。呼吸が止まりそうになり、内臓が熱くうごめき、全身に汗が吹き出た。しかし、勇三はそれほど苦しいとは思わなかった。それは純粋に肉体の苦痛であって。頭から胸にかけての棒状の硬い塊を意識すると、自分の肉体の苦しみでありながら、他人の肉体の苦しみのように思われたからでいる。
 勇三は自分の体を放り投げるようにして布団のうえに横たわった。薄れ行く意識のなかで勇三は思った。《オレは怪物の餌食にはなりたくない、、、、明日目覚めるのはいつ頃だろうか? 昼か? 夕暮れ時か? 夜か? もし夕暮れ時なら思いっきり泣こう、、、、、》


 家に帰った亜衣子は、風邪をひいたらしく気分が悪いの、と母に告げた。そして普段より早く寝床に付いた。眠ろうとして眼を閉じるが、と鳴りの部屋から聞こえる家族の屈託のない無邪気な笑い声が妙に気になりなかなか寝付けなかった。ときおりガラス窓が風に揺れ音を立てた。遠く線路を走る電車の音がいつもより近くに聞こえた。亜衣子の枕元には、おそらくいつのまにかに髪の毛に忍び込んだのであろうか、ひとひらの小さな桜の花びらが仄白く光っていた。窓の外の椿の花が家から漏れる灯りに照らされ、通り過ぎる風にかすかに揺れていた。


 はるか上空の空闇には、名残惜しげな寒気と気まぐれな暖気が入り乱れていた。

 そして季節は、あまりにも人間的なこの都会に、一見無関心さを装いながらも、甘く乾いた風で、開かれたまだのカーテンを揺らし、明るくまぶし過ぎる陽光で、街路樹の若葉を照らしながら、自然がその旺盛な活力を取り戻す春へと、じょじょにではあったが、確実に向かっていた。


        おしまい






       に戻る