風の音が聞こえない(5部)
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はだい悠
このように勇三は自分が何を考えているのか判らなくなると同時に、この場に居る自分にどうしようもない情けなさと惨めさを覚え、突然やり場のない憤怒がこみ上げてきた。そして思わず声に出さずに呟いた。
《、、、、殺したい、なんてこった。ここに居る女たちは愚劣だ。女にそれを許して認める男たちはもっと愚劣だ。そういう男たち育てのさばらす社会はもっと愚劣だ。なんてこった、、、、、》
勇三は居たたまれなくなって席を立ち、ドアに向かって歩いた。
外に出ると、先ほど見た紫色に灯された看板が眼に入ってきた。勇三はふと、夕方に会社を出て、街を歩きながら清涼飲料水の広告塔を眼にしたときのことを思い出した。するとムラムラと腹の底から怒りがこみ上げてきて、その看板を思いっきり足で蹴飛ばした。その看板は一転二転して、街頭の柱に当たりプラスチックのカバーが破れ、なかから蛍光灯が飛び出た。勇三はその様子に魅入られたように、眼を見開き、顔を引きつらせその場に憤然と立ち尽くした。
そのとき突然に、いつのまにか勇三の後ろに来ていたボーイが、なにしゃがるんだと言いながら、勇三のコートの後ろ襟をつかんだ。勇三はとっさに自分の身に迫った事態を察し、反射的にこぶしを握り、つかまれた襟を振りほどきながら振り返えると、声にならない声を上げて、力任せにボーイの顔を殴った。不意を食らったボーイは二三歩後ろによろけたあと尻餅をついた。勇三は恐怖と怒りで全身が震え、頭髪が逆立つほどに頭の皮膚が収縮し、息が不規則に激しく吐き出された。勇三は反撃を待ち受けるかのように身構えると、身を起こしたボーイが勇三に思いっきり体当たりをしてきた。勇三は二三メートルほど吹っ飛び地面に強く打ち付けられた。そのとき、外のただならぬ物音を聞きつけて店内から二三名の従業員がドアを開けて出てきた。それを見て勇三はすばやく身を起こして逃げた。とにかく走った。無我夢中で走った。息が切れよろけそうになりながらも必死に走った。しばらく走ったあと、追いかけてくる気配がないと判ると、後ろを振り返り、それを確かめ、激しく息をしがらゆっくりと歩き出した。脈動が激しく耳元で打った。勇三はまだ不安げにときおり後ろを振り返っては、もしも捕まったときの恐怖を思いながら歩いた。 歩きながら勇三は、物を盗んだ野良犬のように逃走している自分の滑稽な姿を思い浮かべた。すると勇三は、恐怖を逃れた安堵感からか、抑えきれない笑いがこみ上げてくるのを感じた。そして息を乱しながら泣くようにして笑った。
勇三はそのまま最寄りの駅を探した。歩きながら強く打った腰が痛み出し全身に寒さと疲労を感じた。
駅のトイレの鏡で勇三は自分の顔を見た。その顔は生気もなく青白く、唇はだらしなく開き,眼は輝きを失い死魚のようにドロンとしていた。たとえようもなく醜かった。それを見ながら勇三は、ふと鏡の中の醜い顔を見ている、もう一人の意外と冷静な自分に気づいた。そして先ほどの自分の狂気を思い起こしながら、顔を故意にゆがめ、眼を凝視させ、悪魔の笑いを作ってみた。
勇三は自分のみっともない服装や、醜くなっている自分の顔を知っていたので、人目を避けるかのように下を向きながら、疲労した足を引きずるようにしてホームにたどり着いた。
ホームの照明は勇三の眼にまぶしく、時計は十一時をまわっていた。
人影もまばらな夜遅い駅のホームは寒々とした寂しい風景であった。勇三の頭のなかからは華やかな町の賑わいは消えうせ、ただこの都会のはるか上空の闇の静寂を感じていた。
亜衣子は駅の建物が見え始めると思わず小走りになった。走ったからといってそれほど早く家に帰れるわけではなかったが、やはり家のことを思うと心配だった。残業で今日は少し遅くなると家へ電話したものの、残業が終わって駅に向かって歩いていると偶然学生時代の女友達にあってしまった。亜衣子はそのとき再び家へ電話すれば良かったのだが、つい友達と話しに夢中になってしまった。亜衣子は友達と話しているときも、ときどき気にかかってはいたが、友達がさらに深刻そうに相談を持ちかけるので、席をはずすのを悪く思い、家へ連絡することができなかった。
またこれほど時間が経っているとは思いもかけなかった。
駅について、思わず電話の前で立ち止まりそうになったが、そのまま小走りで改札をすり抜けホームに向かった。亜衣子が階段を降り始めたとき、ちょうど電車がドアを閉めて走り出したところだった。亜衣子は乗りそこなった電車を残念そうに眼で追うと、ゆっくりと階段を降りながら、大きくため息をつき、やっぱりさっきの赤電話から家へ連絡すればよかったかなと後悔した。
亜衣子は自分の腕時計を見た。十一時を過ぎていた。そして自分の腕時計が狂っていることを願い、ホームにかかっている時計をみた。だがやっぱり十一時をまわっていた。亜衣子はやっぱりさっきの電話から家へ連絡すればよかったと再び後悔しながら次の電車を待った。
亜衣子が待ち遠しそうに電車の入ってくる方向を見ていると、ホームの上の一人の男が目に入ってきた。最初亜衣子には単なる酔っ払いのように見えたが、どこかで見たことがあるような気がした。顔にはあきらかに疲労の色を浮べ、まぶしそうに眼を細めてはいるが、なにかに怯えるようにオドオドしていた。そしてよれよれのコートの背中や腰には砂がついていた。
亜衣子は最近、所々で見かける酔っ払いや、みすぼらしい格好をした男の存在が気になってしょうがなかった。じっと見ているとその男は、たまたま遅くなった帰りの電車のなかでいつも決まってドア近くの座席に座っている男であることに気づいた。でももう少し若かったのではないかとも思った。
勇三はうづくまりたい気持ちをおさえてかろうじて立っていた。
だが、ふと勇三は自分を見ている若い女性の瞳に出会った。勇三は思わず視線をそらしそうになった。ホームの向こうの暗闇を背景に女性の姿がハッキリと勇三の視覚に捉えられた。
「ユウゾウ、地獄に落ちろ!」
と、そのとき勇三は自分の耳にたしかな声でそうささやかれるのを聞いた、と思った。勇三は瞬間自分を見失い、吸い寄せられるようにその女性近づくと、その女性の瞳を必死で見つめながら言った。
「僕はいったいどうしたんでしょう? 僕はいったいどうすればいいんでしょう?」
女はいっしゅん苦しそうな表情を見せたあと言った。
「そんなに自棄にならないでください」
その声の響きは深く優しく、人間の温かみのあるたしかな肉声であった。
勇三の耳は女の言葉だけを聞き取った。そのとき電車が轟音を立てて入ってきた。勇三はどうして良いか判らなくなり焦った。そして思いつくままに言った。
「今度、あなたに会いたい、お名前を教えてください、、、、」
「そのうちに会えますから、、、、」
女は驚きの笑みを浮かべながらそう言うと、急いで電車に乗り込んだ。勇三は女の言っている意味が判らなく、呆然とホームにたたずんでいた。そして電車は勇三をホームに残したままドアを閉めて走り去った。
勇三は次の電車に乗り、病者のような足取りでアパートに帰った。
その夜、勇三は久しぶりに深い眠りに落ちた。そして明け方夢を見た。夢の中で記憶のフィルムが盛んにまわりだした。
・・・・・ときは、勇三が学友たちとその別れが迫りつつある中学三年生の冬の終わり。
一人の少女が勇三を見つめる。
勇三が級友たちと話をしていてふと余所見をすると、その少女の視線に会う。
級友の声で振り向くさなか、その少女の視線に会う。
黒板から眼を離して窓の外を見ようとすると、その少女の視線に会う。
なにか言いたげな少女のまなざし、少し寂しげな少女のまなざし、少女のまなざし、、、、
記憶のフィルムはさらに過去へ過去へと遡りまわり続けた。
・・・・・・ときは、小学一年生、入学したての春。
一台のゆれるブランコ
小さな勇三にはなかなか乗れないブランコ、
乗るためには仲間のルールに従わなければがならないブランコ、
やっと乗れたブランコ、
ひとこぎふたこぎ、だんだん高くゆれるブランコ、
そのとき突然駆け込む一人の少女、
小さな勇三の両脚と衝突する少女の顔、
スカートを翻し倒れる少女、
少女の鼻から溢れる血、
何かちぐはぐ、
取り返しのつかない出来事、
事故を告げに走る人気者の少年、
駆けつける男の先生、
戦線のこめかみに浮き出た血管、
校庭の砂をじっと見つめている小さな勇三、
謝りなさいという先生、
謝り方を知らない勇三、
小さな勇三の後頭部を抑え、無理やり頭を下げさせるとき、一瞬力を入れる先生の手、
二度とやらないようにと誓わせる先生、
窓の戸にゆれる五月の若葉、、、、、
そして夢の中で二人の少女は一人になった。
朝日を感じながら目覚めた勇三は、寝床に入ったまま夢の不思議さを思った。そしておぼろげに浮かんでくる昨夜の出来事を思った。
井上との熱に浮かされたかのような会話。
井上の沈黙した後ろ姿。
ホステスの不可解な笑い声。
看板を蹴飛ばしたときの憤怒。
ボーイを殴ったときの怒りと恐怖。
必死に逃げる自分の滑稽な姿。
トイレの鏡の前で作った悪魔の笑い。
など、どれを思っても、朝のすがすがしい目覚めとは似合わず、勇三の気分を滅入らせるものばかりだった。だが、勇三は胸の奥のほうに温かい塊のようなものを感じた。勇三は寝床に入ったまま思いっきり手を伸ばしたあと、満足げに理由も判らない笑みをうかべた。
勇三はいつものように出社して、いつものように仕事を始めたが、妙にウキウキとした気分だけは抑えることができなかった。
仕事をしていると、ふと昨夜の出来事を思い出し急に恥ずかしさがこみ上げてきた。それは数々の悪行のせいではなく、駅のホームで見知らぬ若い女性に突然声を掛けたことであった。見知らぬ女性に、〈僕はいったいどうしたんだろう?僕はいった異動すればいいんだろう?〉などと、自分の弱みやだらしなさをさらけ出してしまったことは、いくら自分が酔って自分を見失っていたとはいえ、冷静に考えてみると一人の男としても、また人間としてもやはり恥ずかしかった。自分にはあんな厚かましさはなかったはずだと思うと、あれは自分のせいではない、なのか未知の力が働いてそうさせたのだと、自分に言い聞かせると、多少恥ずかしさも和らぐのだった。しかしそれでもなお、心のスキを突くようにこみ上げる恥ずかしさや後悔のあまり、あれは現実ではない、夢なのだと思いたくなった。そのようなことが仕事中何度も何度もくり返され、そのたびに勇三はひとりで顔を赤くしたりニヤニヤしたりしていた。
それにしても女が、通りすがりの酔っ払いを無視することなく、むしろ笑みさえ浮べて、<そんなに自棄にならないでください>、なんてやさしく慰めるように応えてくれたことが、勇三には不思議であった。それに別れ際に言った言葉、<そのうちに会えますから> ということがどういう意味なのか、勇三にはどうしても判らなかった。そこで勇三は、ただ考えていただけではなぞは解けないと重い、もう一度会って確かめることにした。たぶんあの駅に行けば会えると思った。そう思うと胸の奥の暖かい塊がひときわ大きくなったような気がした。
勇三は終業時間前に会社を抜け出した。通りを歩きながらショーウィンドウに映った自分の全身を目にしたとき、勇三はそのみすぼらしい風体に愕然とした。いままで自分がこんなにまでだらしなかったかと思うと情けなくなった。こんな格好はいまから女に会いに行こうとする男の姿ではない、と思い、駅に向かう道すがらデパートを探した。
勇三はデパートで当たらしてコートを買い求めると、そのままそれを着て町に出た。
新しいコートは卸したての匂いがした。勇三は自分の体が引き締まったように感じ、足取りも軽くなり、気取りたい気持ちを抑えることができなかった。そして自分が大きくなったような、選ばれたものが胸をはって堂々と歩いているような、そんな錯覚にとらわれた。すると突然勇三は、足から急に力が抜け、地べたにしゃがみこみたいような気持ちになった。勇三は新しい衣服を身につけるとき、決まって胸を締め付けるような感傷的な気持ちになり、全身に力が入らなくなり恍惚とした情態になるのであった。これは勇三が少年のころから幾度となく経験したことであり、衣類の新しさとその卸したての匂いのせいであることを知っていた。
勇三は少年のような感傷的な気分と、青年のような英雄的な気分を交互に味わいながら昨夜の駅へと急いだ。
夕暮れ時の駅は、帰宅を急ぐ人々であふれ出した。勇三は人々の通行の邪魔にならないように、駅の入り口の柱の陰にたち、駅にやってくる人々の顔を注意深く見た。しかし通り過ぎる人日の顔を見ているうちに、先ほどからの妙に気取った英雄的な気分はどこかに消え飛んでしまい急に不安になった。いままで思いも寄らなかったのだが、昨夜の女性がどんな服装をして、どんな顔形をしているのか判らなくなってしまったのだった。自分では判っていたつもりではあったが、いざとなるとハッキリしなかった。不安を抱えながら勇三は、眼を閉じ昨夜の出来事を思い返した。
《、、、、たしか髪は、肩あたりまで、そしてコートの色は、たしか白っぽかった。それに、、、、》
少し呟きながら思い起こしていると昨夜の女性の大体の像がつかめてきた。それもまだ不安だった。というのも、見慣れぬ女性は日によって違った顔に見えるという経験が勇三にはあったからであった。しかしその一方ではまた、どうにかなるさとも楽観的に思った。なぜなら部分部分に分けて思い出そうとすると曖昧だったが、全体の印象はハッキリしていたからであった。
そう思いながら勇三は駅にやってくる人々の歩き方や服装などの全体を眺めた。しかし、しばらくするとまた別の不安が起こった。というより怖気ついたのである。今の自分には、昨夜のようなどうにでもなれと思うような破れかぶれの気持ちはない、終始冷静であり、昨夜のことを考えると恥ずかしく感じるほどである。それに女を待つという男としての妙に心ときめくものをあ。はたしてうろたえずに対面できるであろうか?先程までの勇気は仮初なものだ。いまは明らかにそうものはない、女を待つ一人の男としているだけだ。それに女が昨夜のように親切に応対してくれるとは限らない、もしかして変質者と勘違いされて怖がって大声を上げて逃げるかもしれない。そう思うと勇三はますます不安になり焦った。
駅前の人通りも多くなり不安のまま時間が過ぎた。勇三はふと昨夜のナゾの言葉を思い出した。
そして、そうだ、それなのだと思った。一人の男として女を待つのではない。そのうちに会えますから、という言葉の意味を解明するために、ぜひともあの女の力が必要なのだ、まったく事務的なものだ。それに女が怖がらないように、冷静に紳士的に振舞えば良いのだ。と勇三は自分自身に強く言い聞かせて勇気付けるとなんとなく安心した。
勇三はさらに待った。六時近くになった。駅前の夜の光が灯り始めた。まだその本来の役目を果たすほど暗くはなかったが、近くからではないと人間の顔の見分けがよくつかないくらい薄暗くなり、人通りも激しくなった。
六時が過ぎた。そしてようやく、それらしい女性が歩いてくるのを発見すると、勇三は目を閉じて昨夜の女性と思いくらべた。間違いなく合っている、勇三はそう決断すると、女性の歩いてくるほうに向かって歩き出した。人ごみに見え隠れしながらも、二人の距離がだんだん近づいてきた。勇三は女の前に立ちふさがる格好になった。女はいっしゅん険しい眼つきをして勇三をにらみつけたが、すぐもとの顔に戻り、かすかな驚きの笑みを浮かべた。勇三は安心した。
ビルの二階の喫茶店の窓からは、夕暮れ時のあわただしい駅前風景を覗かせていた。
勇三は女が自分を怖がらなかったことに感謝しながら、チラッと窓の外に眼をやりながら席についた。女はやや遅れて勇三の前に座った。勇三がふさわしい言葉を探すあいだ、わずかな沈黙が流れた。勇三は自分のことを覚えていてくれたことを嬉しく思いながらも、少し勿体をつけて冷静に話し始めた。
「昨夜は突然でびっくりしたでしょう」
女は少し間を置いたあと、複雑な笑みを浮かべながら言った。
「ええ、びっくりしましたわ」
その表情は決して無愛想でもなく、また変に愛嬌があるというものでもなく、勇三は期待はずれでなかったことをかすかに感じながら、安心して言葉を続けた。
「そうでしょうね、、、、突然見知らぬ酔っ払いに話しかけられたんだから、、、、わたしにもよく判らないんですよ。どうしてあんなことを言ったのか、突然変な声がして、、、、それから、、、、たぶん、酔っていたせいでしょう、、、、」
思うように言えて勇三はだんだん気が軽くなっていった。
女が少し親しみの笑みを浮かべて返した。
「でもなんかとてもお困りのようでしたわ」
勇三はかすかに心の動揺を覚えながら言った。
「いいえ、たいして困っていたわけではないのですが、、、、ただ、ちょっとね、、、寒いとか、、、疲れたとか、、、そんなものだったと思います、、、、、」
「でも、とっても真剣な眼をしていましたよ」
「真剣?そうでしたか、、、、」
そう言いながら勇三は少し苦笑いを浮かべた。
昨夜の自分の顔を見て、真剣な眼をしていたというのなら、生気のない唇や青白い醜い顔も見られたに違いないと思うと、勇三は急に恥ずかしくなった。どぎまぎしている勇三を見て女が言葉を続けた。
「どうして男の人ってあのようになるんでしょうね、男の人には女の人に判らないような何か辛いことでもあるんでしょうか?」
勇三は女の言った《あのように》という言葉の意味が、自分の醜くなった顔やみすぼらしい風体をして落ちぶれたような人間を言うのであろうと思った。そう思うと勇三は体全体から恥ずかしくなり顔が厚くなるのを感じた。勇三は少し間をおいてから女に答えるように言った。
「女の人にもあるとおもいますよ、ただ女の人は表情や行動にあらわれないだけで、、、陰ではあるとおもいますよ。つらいことは男でも女でも、、、、、」
女は勇三の言ったことを判りかねているようであった。勇三は喋りながら自分が意外と冷静であることに気がついた。たぶん先程の勇気付けが効いているのだろうと思った。
勇三は男と女の会話にならないように心がけた。そして言った。
「あなたが昨夜言いましたよね。そのうちに会えるよって、あれはどういうことでしょう。その意味が判らなくて、今日ずっと考えていたのですがどうしても判らないのですよ。何か特別の意味があるのでしょうか?」
女は初めて女性らしい穏やかな笑みを浮かべて言った。
「夕べ私が言ったことに特別の意味はありませんわ、、、、あなたに突然名前を訊ねられて、とてもびっくりして恥ずかしくなりました。ちょうどそのとき、電車がきたでしょう、それで、そのことに答えている時間はなく、それに早く家に帰らなければとおもっていましたので、どうしてよいか判らなくなりました。正直言って、あなたの夕べのあのような姿を見て、あのまま一緒に電車のなかまで付いて来られるのが迷惑な気持ちがしたのです。それにちょっと怖い気もしたので早く離れたいとおもいました。あっ、ごめんなさい。それで、、、、、ええと、あなたはさっき見も知らぬ人と言いましたが、私はあなたのことを知っていました。以前同じ電車のなかで何度か見かけたことがあるのです。それでつい、そのうちにいつかまた電車のなかで会えるだろう、という意味のことを言ったのです、ごめんなさい、ただそれだけですの」
「いいえ、夕べは大分飲んでいましたから、さぞやみっともない酔っ払いだったんでしょう」
そう言いながら勇三は恥ずかしそうに眼を細めて女を見た。女は以前からの知り合いであるかのような親しみの笑みを浮かべて言った。
「でも結局こうして会えたんですから、何か特別の意味があったんですね、、、」
「、、、、、」
勇三はとにかく気がかりだったナゾの言葉の意味がいざ解けてみると、案外つまらなく、少しなんとなく残念な気持ちがしたが、しかしその半面不思議といままで味わったことのないような充足感を覚えた。
町に日は完全に暮れて、駅前の道路を走る車のヘッドライトが流れるように次々と通り過ぎていった。人々は黒い陰となってあわただしく駅に出入りしていた。喫茶店の窓から巣は二人の姿を微かに映していた。
勇三は窓の外の風景を眺めながらも同時に窓ガラスに映る女の姿に眼をやった。
別れ際、勇三は女に何気なく名前を尋ねた。名字は聞き取れなかったが、名前のほうはハッキリと耳に残った。名前は亜衣子。
勇三はアパートへの路地を歩いていた。ときおり排水溝からはドブが微かに匂いを放っていた。路地は狭く薄暗く、葉のない梅や柿の木が塀の外まで枝を伸ばしていた。所々に備えられた街灯はその付近だけをボォッと照らしていた。固く閉ざされた門の中の家々からは、それぞれに明るさの違う家族の灯が漏れていた。
勇三はそんな路地風景に、いま自分が長いあいだ家を空けていた遠い旅から帰ってきた者のような親しみと懐かしさを感じた。
勇三の部屋には、乱雑に積み上げられた本や雑誌類が埃をかぶっていた。テーブルの横には飲みかけのウイスキー瓶やコップ、そして睡眠薬が散らばっていた。勇三はそれらを眼にすると、昨日までの投げやりで自堕落な自分が思い出され嫌悪感のあまり思わず眼をそむけた。
勇三はさっそく寝床に入り今日一日どうにか終えたことの充足感を味わうかのようにホッとため息をついた。するとふと部屋のなかに居るはずもない女性の香水の匂いを感じた。勇三はそんな自分の錯覚を喜んで受け入れた。
勇三はなかなか寝付かれなかった。しかしそれは昨日までのような神経の高ぶりや得体の知れない不安ためではなかった。眠ろうとして眼を閉じるが、窓ガラスに映った亜衣子の横顔や、ブラウスの胸元から覗いた白い肌が、自然と脳裏に浮かんできた。そして勇三は満たされた気持ちで、今日の亜衣子との会話内容を頭の中で繰り返した。すると、亜衣子が最後に言った言葉、何か特別の意味があったんですわ、という言葉が、謎に謎を掛けたように気になった。そしてそういったときの亜衣子の不思議と親しみを感じさせるような柔らかい表情や、終始感じさせていた正直な態度がとにかく気になった。
勇三は眠ろうとおもいながら、ますます気になる亜衣子の不思議な親しみについて考えた。
《、、、、、亜衣子に不思議な親しみを感じさせるのは、亜衣子の顔形や表情が、男の気持ちを暴力的にするドッキリするような肉感性や、また男の気持ちを恍惚とさせたり卑屈にさせたりするような美しさ、それに男の気持ちを虚しくさせたり無邪気にさせたりする少女のような可愛らしさを持っているからでもなく、、、多少の可愛らしさや肉感性はないわけではないのだが、、、、それよりもむしろ、それは、まだ不完全ではあるが、内面化されつつあるやや不安をはらんだ母性から来るもので、それに自分が無意識のうちに、亜衣子の内面に求めていることが、そう感じさせるのであろう、、、またそれは、決して亜衣子か意識的にそう振舞っているのではなく、瞬間見せる含みのある深い表情から、亜衣子の人並みはずれた天性のものから来るのであろう、、、、》
そんな結論に満足した勇三は眠気を覚えながらも、亜衣子が言ったもうひとつのこと、亜衣子が以前から自分を知っていたということを思い出すと、いままでの自分の考えから行動までが、知らぬ間に、やさしい女神に見守られていたような、甘くうづく思いにとらわれた。
薄れゆく意識のなかで勇三は、自分も以前から亜衣子のことを知っていたようにもおもわれた。
徐々に冬の終わりを告げるように、気候はどんどん暖かくなり日中の陽気が春を思わせる日が続いた。
そんなある日の午後、勇三は会社の机に向かい、同僚の結婚式の招待状を読んでいた。そして読み終えると、机の片隅を無造作に放り投げ、何気なく窓のほうに眼をやった。そして外の景色を見ていると、勇三はじっとして居れなくなり、椅子から立ち上がると、春間近の町風景をじっくりと眺めた。
空には寒気の乱れを思わせるように、冬のあわただしい猛獣のような雲を浮べていた。陽射しは、裸にされた街路樹の陰くくっきりと舗道に落とすほど強く、道路を行き交う車の屋根に眩しく反射していた。公園沿いの舗道を母と幼な子が、その子供の歩調に合わせるかのように、ゆっくりとその暖かい陽射しを浴びながら歩いていた。
昼休み、勇三は昼食のために外に出た。道路からは照り返しが眩しく、勇三は目を細め内向き加減に歩いた。葉のない街路樹が舗道にその影を落としているのが目に付いた。ときおり車が排気音を残して勇三の傍らを通り過ぎていった。他のビルから出てきた人々が勇三の前を歩だしていた。
勇三は太陽に暑さが気になった。歩きながら勇三はふと、なぜ自動車が走っているのか異様に感じた。すると勇三の前を背中だけ見せて歩いている人々や、町並の風景も異様に感じた。
たしかにそれらは久しく見慣れていてすでに親しみのあるものであり、いま眼の前にはっきりと見えるものであったが、なぜ在るのか、その意味がまったくつかめなくなってしまった。勇三の心に動揺が起きた。
勇三は頭の中で以前から理解していた通りのその意味を再確認した。
《、、、、自動車は道路の上を走る。道路は自動車が走るためにある。自動車の中には人間が乗っている。その人間には目的がある。眼の前を歩いている人間は昼食か何か、そのはっきりとした目的のために歩いている。この町並はずっと以前から在る。人間はみなそれを利用している。皆人間のために役立っている。皆目的を持って動いている。皆目的を持って存在している。それはずっと昔から続いて来たものだ、、、、》
しかしそれでも勇三の頭のなかで繰り返される意味の世界がどんどん希薄になり、曖昧になり、目の前の了解不能の感覚の世界だけが大きくなっていった。そして再び以前のような病的な自分がまた始まるのではないかと思うと、勇三は不安になり焦った。
歩きながら勇三は自分の眼の前にある風景に生き生きとして興味を失い、受動的で無気力な状態にどんどん後ずさりしていくように感じた。勇三の額に汗がにじみ眩暈を覚えた。しかし勇三は、以前のように受動的で無気力な状態に陥らない自分にも気がついていた。なにかモヤモヤとした心象が自分をそうならないように食い止めているようにも思えた。勇三はそのモヤモヤとした心象が自分を救済してくれるように思い、その正体を突き止めようと気力を振り絞って思った。
勇三の頭のなかにある風景が浮かんできた。最初に窓の外の風景が浮かんできた。次に電車の窓ガラスが浮かび、そしてある喫茶店の窓ガラスが浮かんだ。そしてそれらの窓ガラスに映る同じ女性の顔が浮かんだ。勇三は眩暈を感じながら、そのモヤモヤとしたものは亜衣子の像であることが判った。勇三は亜衣子のことだけを思いながら歩いていると、自分が平静に戻りつつあることに気がついた。
勇三は今日もう一度会ってみようと決心した。そう決心すると、先日亜衣子が言ったように、あの謎の言葉には特別の意味があったのだなと思った。つまり自分を亜衣子に会わせずにはおかないという宿命が。
その日の夕方、勇三は亜衣子を待ち伏せ、先日入った喫茶店に入り同じ席に座った。
勇三は再び亜衣子に会えた喜びを抑えることができなかった。だが勇三は変に照れることなく冷静さを装い、まず最初に言いたかったことを話した。
「僕も以前、あなたのことを電車のなかで見かけたことがあります」
「えっ、そうなんですか!」
と亜衣子は少し覚めた表情で答えた。勇三は期待はずれの亜衣子の反応に戸惑い、少し残念な気もしたが、すぐ気を取り直して言った。
「亜衣子さんは季節のなかで、どの季節が好きですか?」
突然の質問に亜衣子はややこまったような表情を取りながらも、ゆっくりと話し始めた。
「、、、、冬はあんまり好きではありません。でも、好きな季節となると、、、、それぞれよさがありますから、春も、夏も、秋も、皆好きです、、、、自分でもよく判りませんわ、、、」
勇三は亜衣子の困惑した表情を見ていると、少し気の毒に思い、それをと危惧すかのようにやや無邪気な口調で言った。
「僕もやっぱり冬は好きじゃないですね。なんてったって寒いですから。とくに今年の冬は良いことがなかった。だんだん暖かくなって春が近づいてくると思うとほっとしますよ。本当に春が待ち遠しい」
言い終わると勇三は窓の外に眼をやった。外はまだ明るく、その明るさだけが眼に入った。
「最近よく飲んでいるんですか?」
「ええ、まあ、何とか、以前ほどではないんですが、、、毎日っていうか、、、、」
「この間もあれから飲みに行ったんでしょう」
「えっ、あっ、あのときですか、あのときは、あのまま帰りましたよ」
「いつも友達か誰かと飲んでいるんですか?」
「いいえ、飲むときはいつも独りです。食事も独り、飲むのも独り、、、、」
そう言いながら勇三は軽く笑った。

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