風の音が聞こえない(7部)
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はだい悠
それはあきらかにこの賑やかな町の雰囲気に似合わなかった。なぜあんなに暗い表情をしているのだろうかと思っていると、勇三はふと、その女は、かつて自分の欲望を満たしてくれた女たちの顔に似ていることに気がついた。そう思うと勇三はその場から逃げ出したい気持ちになった。勇三の頭からは、雑踏のざわめきも、華やかな風景も、傍らの亜衣子のことも消えうせた。勇三は井上に言った言葉をいまさらながらに思い起こしたが、いまのこの自分の気持ちを救うには、それでも不十分なような気がした。いや言えば言うほど、ますますあの女たちを卑しめるのではないかと思われた。勇三は逃げ場のない暗鬱な気持ちになった。そして再び過去のイヤに出来事が蘇ってくるのではないかと思うと、不安になった。
「また、ねえ、なに考えているの?」
勇三の顔をのぞきこむようにして言った亜衣子のその声で、勇三は自分は亜衣子といっしょに歩いていることに気がついた。勇三はすまなさそう顔をして亜衣子を見ると、亜衣子はうつむきがらクスクスと笑った。このとき勇三は自分と亜衣子の心がひとつになったように感じた。そして再び、町の賑わいや華やかな風景が眼の前に現れた。
勇三は賑やかな町の雰囲気に浸りながら、何も考えない何も思わないときを楽しみ、このままどこへも帰らずに二人でずっと歩いていたい気持ちになった。
二人はさらに歩いた。華やかな夜の照明と喧騒は二人の会話を途切れさせ、何も考えさせず、何もかも忘れさせるかのように、ただ感じるままに夜の街の雰囲気に浸らせながら歩かせた。
雑踏が烈しくなり、二人が離れ離れになりそうになった。勇三は無意識のうちに亜衣子の腕を取り自分の傍らに引き寄せた。二人はもともとひとつのものであったかのように、自然にピッタリと肩を寄せ合いながら歩いた。銀行の前に掲げられてある時計が八時を示していた。勇三は亜衣子をそっと見ながら言った。
「家に連絡しなくても良いのかな、、、、」
「、、、、、、、」
黙っている亜衣子を見ながら勇三は、足を痛めている亜衣子をこれ以上歩かせるのは気の毒に思い、そのまま駅に向かって歩いた。
公園の桜の木に花が広がり始めた。
勇三は会社のビルの窓から外を眺めていると、いつもの建物に埋め尽くされた町の風景のなかにポッカリと薄桃色に染められた空間を発見した。昼休み勇三はその公園に出かけた。
公園には、子供づれの母親たち、暇をもてあます老人、それに公園の周辺に勤務する人々が、昼休みの憩いを求めて集まってきた。そしてほとんどの人々は公園の中をゆっくりと歩きながら通り過ぎるだけだったが、なかには噴水の周りの縁に群がり集まり、話をしたり、手を水に浸したりしていた。噴水が陽の光を受けてまぶしくきらめいている。ときおり吹く風が、噴水の水を撒き散らすようにすると、周りに腰をかけているОLたちははしゃぎながら場所を移動したり、そのまま立ち去ったりした。道から外れた、まだ枯草色の芝生の上に腰を下ろし談笑するものもいた。所々に備えられたベンチに腰を掛け、本を読んだり、昼寝をしているものもいた。
勇三は少し厚かったので上着を脱ぎ、ちょうど咲き始めた桜の木下のベンチに腰を掛け、春の公園の風景を眺めていた。ときどき頭上の桜の木を見上げると、その花の上方に住んだ青い空が広がり、ときおり白い雲が流れているのが見えた。勇三は陽の光がまぶしかったので、眼を細めぼんやりと通り過ぎる人々を眺めていると、埃をはらんだ強い風が吹いて、道を歩いてきた二人のОLのスカートを捲り上げた。ひとりの女のスカートからは太ももが一瞬のぞいた。その女は自分のスカートを押さえようともせず風のいたずらを陽気に受け止め明るく笑った。二人とも勇三の会社の女子社員であった。スカートから太ももを見せた女は、会社内では男たちの関心を引きそうに目立ち、そのせいか男子社員の間では悪い評判が立っていた。
その女たちは勇三が座っているベンチの近くの桜の木下に来ると、二三度飛びつき、桜の木の小枝を折りとった。そして勇三の座っているベンチに並んで腰掛け、はじけるような笑いを交えながらなにやら話し始めた。例の女は勇三に気がつくと、これ上げる、といって、折り取った桜の小枝を勇三に渡そうとした。勇三はあっけにとられたので受け取らないで黙ってみていると、女はいたずらっぽく笑って、そのまま席を立ち、軽やかにヒールの音を響かせながら歩いていった。
勇三は自分を拒絶するような女の笑いに計り知れない精神の弛緩を感じた。そして一連の無邪気すぎる女の行為は、春の公園の雰囲気にピッタリと合い、何一つ不自然でないように思われた。
そう思いながら春の公園の風景を見ていると、人々はみな自然で屈託がなく明るく、何もかも忘れ、春の息吹を全身で受け入れながら、わずかな昼休みを楽しんでいるかのように見えた。勇三は、自分はまだ仕事のことを気にしたり、周囲の人々のことを観察したりして、十分に楽しんでいないことに気がついた。勇三は先ほどの無邪気な女の行為や笑いを思い浮かべた。すると自分もだんだん女の世界に入り込めそうな気がしてきた。いつしか勇三に額に汗がにじんできた。そのせいかときどき拭く風がとても気持ちがよかった。
勇三は心地よい眠気を覚えたので、背をもたれ眼を閉じ、春の息吹を感じながら耳を澄ました。風に揺れる花びらの音、女たちの明るい笑い声、舗装路に響く女たちの靴音、そして遠くかすかに街の騒音が聞こえたきた。勇三は何も考えずに何も思わなくてもよかった。ただ亜衣子のこと以外は。
その日の夕方。勇三は亜衣子といつもの喫茶店で待ち合わせた。勇三より少し遅れてやってきた亜衣子は椅子に腰をかけると、急き込みながら話し始めた。
「ごめんなさい、今日は急に用事ができちゃって、早く帰らなければいけないの、、、、」
そういい終わると亜衣子は自分の上着に手を掛けた。
「急いできたので暑くって」
そう言いながら上着を脱ぎ、膝の上においた。勇三の眼に今まであきらかにされなかった亜衣子の上半身が入ってきた。厚地のブラウスながらも、胸の膨らみ具合から形のよいバランスの取れた乳房を想わせた。腰の周りがやや窮屈そうだったが、ほどよく括れ、やわらかそうな肉付きをしていた。丸みのある細い方と、背中から腰に掛けてのしなやかさが、亜衣子の温和で明るい性格を現していた。いつもより広く開けられたブラウスの胸元からは金色の細いネックレスがのぞいていた。勇三は亜衣子のほうをぼんやりと見ながら言った。
「足はもうだいじょうぶなの?」
「ええ、もうなんともないわ」
「時間は、まだ良いの?」
「もう少しなら」
亜衣子の眼は、頬が高潮しているせいなのか、いつもより細く光って見えた。
「家で何かあったの?」
「ええ、ちょっとね、、、、」
そう答えると亜衣子は先ほど脱いだ上着を急いでき始めた。
「今日は本当にごめんなさい」
「良いよ、良いよ、それじゃ気をつけてね」
そう言いながら勇三は満足げな笑みを浮かべてやさしく言った。亜衣子は落ち着きなく周りに眼を配るとそのまま席を立ちドアのほうに歩いていった。勇三は亜衣子の後ろ姿をぼんやりと見送ったあと、亜衣子のいなくなった椅子に眼を向けた。
亜衣子の残していった香水の匂いをかすかに感じながら、勇三は先ほどまで眼の前に居た亜衣子の姿を思った。丸みのある細い肩、括れた腰、バランスのよい胸の膨らみ、そして今まで何度も眼にしていた亜衣子のさまざまな姿を重ね合わせながら、勇三は亜衣子の全身を捉えた。喫茶店に流れる静かな音楽が勇三をいっそう甘美な気分にさせた。そしてまだ見ぬ亜衣子の裸身を想い浮かべた。勇三は亜衣子を欲しいと思った。あの細い肩をだきしめ、豊かな髪の毛に顔を埋め亜衣子をより身近なものにしたいと思った。しかし頭のなかで亜衣子を抱きしめようとすると、亜衣子の姿が消えてしまった。我にかえり勇三は思った。自分と亜衣子を結びつける決定的な何かがまだ欠けている。自分はまだ亜衣子の心と体の全体を捉えきっていない、それにはもう少し時間と、きっかけとなる何かが必要であると。
勇三は今までの自分と亜衣子の付き合いの進み具合からして、作為的な言葉や、情熱的な求愛行動を用いることによって、亜衣子の感情の動きを自分の思いのままに操り、(これは勇三自信の今までのさまざまな体験の積み重ねによって身につけたものではあるが) 亜衣子を現実に、今日明日にでも、自分の望むように身近なものにすることは決して不可能なことではないと、うすうすは感じていた。しかし勇三には、そのような方法はわざとらしく不自然なものに思え使いたくなかった。また亜衣子の人格を傷つけ卑しめるような気がして使えなかった。できるなら自分の心のにも亜衣子の心には何のこだわりや不安もなく、自然と二人を近づけさせるときが、そして二人が求め合うときが来ることを望んでいた。しかしそのいっぽうでは、そこまでにいたるために解決されなければならない現実的な問題が眼に見えないさまざまな生涯となって立ちふさがっていることも、ひそかに感じていた。それは亜衣子の心の問題というよりも、勇三自信の心の中にこだわりやためらいとなってより強くあらわれていたことはたしかであった。それで勇三は先のような結論を下したのであった。
その週の金曜日の夕刻。帰り支度をしている勇三は先輩の三島に声を掛けられた。
「勇三君、今日予定が在るかな?」
勇三は少し間を置いてから答えた。
「いいえ、別に在りませんが」
「それならこんや僕といっしょに飲まないか?」
「ええ、いいですよ」
二人は会社を出てしばらく歩いたあと、駅前の飲み屋に入った。注文を済ませると、三島が口を切った。
「勇三君、君を海を見たくないかね。今日これから出かけようと思うんだが、君もいっしょに来ないかね?」
突然で少し面食らったが、海という言葉に勇三は視界が急に広がったように感じた。そして答えた。
「夜の海ですか、、、」
「うん、ほんとうは海を見に行くだけじゃないんだ。近くに海のある町、つまりぼくの出た大学のある町に行きたいんだ。でも独りで行くのはなんだか寂しくてね。君を誘ったんだよ。君は海に興味があるんじゃないかと想ってね」
勇三は三島の出た大学が、この町から電車で二時間ほどの海に面した地方都市であることを知っていた。
「それじゃ向こうに泊まらなければいけませんね、家に帰らなくても良いんですか?奥さんは知っているんですか?」
気持ち良さそうに飲んでいた三島は急に不愉快そうな顔をして言った。
「いや、家のことはかまわん、それに今日は家に帰らないよ、あんなの少しほっといたほうがよい、顔も見たくない、、、、」
だんだん口調が荒っぽくなっていく三島を見ていると、勇三はこの間の結婚式の帰り道に三島が言ったことを思い出し、三島をからかいたくなった。
「このあいだ、結婚って、とても良いもんだって言ってましたね、それがどうして、、、、」
三島は飲みかけていたコップを口から離しながら言った。
「ああ、あの時羽、君があまりにもしょんぼりしてたので、少し元気付けようと思っていったんだよ。経験のない夫婦のことなんてわからないよ、、、、」
勇三は、今度はやや皮肉を込めて言った。
「もう愛情が冷めたなんて、これから先どうするんですか?」
三島の顔からは、それまでの不愉快そうな表情は消え、少し苦笑いしながら言った。
「いや、愛情は冷めてなんかいないよ、よくある夫婦の喧嘩だよ。今朝もそれをやった。原因は実につまらない。君に言っても判らないだろうな。君が結婚していて子供でも居れば、僕が喧嘩したというだけで僕の気持ち、サラリーマン夫の気持ちを判ってもらえるんだろうけど。それに君に判るように表現もできない、おそらく表現できないからつまらないというんだろうけど。若いころは喧嘩しても遅くとも翌朝までには両方ともケロリとすれていたんだけど、、、、どうしてこうなったんだろうね、、、、」
「新婚のころからやってたんですか?」
「いや、新婚のころはやらなかったよ。だった僕らはみんなの話題になるくらいの大恋愛結婚だったからね。そうだなあ、二三ヶ月ぐらい立ってからかな。このくらいはまだ新婚って言うのかな? あのころの原因はなんだったろう? 早々、とにかく強情なんだ。君には判らないだろうが、狭い部屋に男と女がいる。これは楽しいときは楽しいが、だがそこは狭い部屋だ。お互い相手のやることが気に入らなくなるときがある。ほんのちょっとしたことだ。口では言い表せないくらいの些細なことだ。そんなときどっちか折れれば良いんだろうけど、女のほうが強情を張ることが多い、これは独断かもしれないが、僕は自分のいうことが論理的で正しく、女房の言うことが感覚的で間違っていると思っている。でもそんなことは通用しない、女房は自分のほうこそ正しいと思っている。どちらが正しいかを判定してくれるものは誰もいない。そんなとき女の強情ほどやりきれないものはない。どうして女は突然あうなるのか判らない。甘えているのか、わがままなのか、暑い日のときなんかとくにイライラする。一緒に居るだけでもイヤになる。勝手にしろと思い思わずひっぱたきたくなる、、、」
「ひっぱたいたんですか?」
「えっ、いやあ、僕は、、、、女の陽とっていうのは心や射しデリケートで、体もガラスのようにもろく壊れやすいものだから、大事に扱わなければならないと少年のころからずっと思っている。それに女の人を殴ると欠けるとか、考えても見たことはないし、そんなことをする男は絶対に許せないと思っている、、、、、いや,イヤ、正確に言うと、思っていたと言ったほうが良いかな、、、、、結局、ある日、どうにでもなれと思い、足でちょっと頭を小突いた。すると突然泣くは泣くは。僕はそのときのことを考えると恥ずかしく、とんでもないことをしたと思った。でもよく見ると、それは悔しくて泣いているというのではない、泣いているのかも唸っているのかもよく判らない。泣きながら喜んでいるようにも見える。そして今泣いたカラスという具合で、泣き終わるとケロリとする。そしてその夜はあれで仲直りだ。そのうちに慣れてくると、もう相手の手の内は読めているから、思いっきり蹴飛ばしたりひっぱたいたりする。そうするとこっちも気持ちが良いからね。すると相手もそれを知っているから黙っていない、ツメを立てての応戦だ。あとはもう修羅場よ、、、、でも、そんなとき手もまだ二人だけの生活だったから、けっこう楽しんでいられたけど、でも子供ができるとそうも行かなくなった。強情の内容が変った。子供のしつけ、教育と、僕だってそのことについて女房以上に考えている。でもはあいつは、だれの入れ知恵か、それともどこかで聞きかじってきたような中途半端な知識を披露する。おそらく子供の教育とかいって売り出されているくだらない本でも読んだんだろうがね。僕はそんなものは下らないといっても、そうは行かない。あいつは自分の考えを押し通そうとして、強情を張る。赤の他人の意見を信用して僕を信用しない。そのうちにだんだんと以前にはなかったことだが、頻繁に子供をつれて実家に行くようになった。そして僕を差し置いて自分の両親や兄弟に相談するようになった。とくに女房の弟というのが高慢でおせっかいなやつで、生意気にも僕たちに干渉するようになった。まあ、よく言えば姉思いということになるが、とにかく気に入らないやつだ。なんかわき道にそれたが、それで挙句の果てには子供を自分の味方に引き入れようとする。もう、以前のようにひっぱたいたりして遊んではいられなくなる。どうして女というものは徹底してものを考えないのだろう。まったく女というやつはバカだね、、、、、アホだね、、、、、今日会社に掛かってきた電話にはほんとうに腹が立ったよ。気に入らないことがあれば実家に帰れば良いと思っているんだから、、、、、」
言い終わると三島はホッとしたように、ゆっくりとビールを飲み始めた。勇三は三島の話しを深刻であるようにも深刻でないようにも受け取れ、少し笑いたい気持ちになったが、それをこらえて言った。
「でも三島さんは、なんのかんのといっても、奥さんと離れられないんだから、愚痴をこぼされる僕は良い迷惑ですよ」
三島は苦笑いをしながら再び話し始めた。
「いやあ、すまん、すまん、君の言う通りなのかもしれない。僕は女房のことを悪く言うがそんなことどうでもよくてね。ほんとうのこと言って、子供のこととなると僕にもどうしてよいか判らないし、僕独りの力ではどうしようもないことは判っている。それになんてったって家庭が大事だからね。もう諦めているよ。ところで今日君を誘ったのはこんなことを言うためじゃなかったんだ。今日家から電話が会ってむしゃくしゃしていたら、ふと昔のことを思い出してね。勇三君なら僕の青春時代の話を聞いてもらえそうな気がしてね。もう十年も前の大学時代のころの話しだ。昔のことを思い出すようじゃ僕の青春も終わってしまったのかな、、、、学生のころよく食事に行っていた食堂が在ってね、その食堂に僕より四五歳年下の女の子が働いていてね。可愛かったので好きになってね。何しろあのころは誰でもよかったからなあ、、、、、それに他の学生たちも皆好きになったみたいだった。つまり皆のアイドルだったわけだ。あのころの僕たちは純情だったので、自分のご飯の量が他のものより多いか少ないかで、嬉しがったり悔しがったりして、けっこう楽しくやっていたもんだ、、、、、、あれはちょうど僕が卒業するころかな、、、、、何しろあのころは思っていることをうまく表現できない、むしろ思っていることの逆の表現をしたりする年頃だったからなあ、、、、、あるバン僕が酒によって、下品な言葉でからかい、好きなくせに好きでもないような素振りをして見せたんだ。そしたらその女の子は悲しそうな顔をして急に僕のところから離れていったんだ。そしてそれっきり、、、、それ以来僕が話しかけても見向きもしない、他のものと口を聞くが、それが意識的と思えるほど僕とはいっさいも口を聞かない。僕は謝ろうと思ったけど、もう以前のようには心が打ち解けず素直な気持ちになれない。というよりその女の子がまったく僕を拒絶していて、謝るチャンスさえ与えない。それでどう切り出して良いか判らない、、、、結局そのまま一言も口を聞けずに卒業してしまったんだ、、、、、」
「その娘は先輩のこと好きだったんですよ」
「ウア、うれしいこと言ってくれるね。でも取り返しのつかないことだよ。その当時は本当につらかったよ。そんなこと友達にも言えないし、毎日どうしようかどうしようかって考えてばかりいたよ。でも結局今日までそんなこと忘れていたんだからね。イヤなことは皆時が解決してくれるんだな、、、、とにかく今の自分を見ているとかこの自分が懐かしい、、、、、それにあの町も懐かしい、ときどき講義をサボって海にも行った。あの海もなつかしい、、、、、」
そういい終わると三島は何か感慨にふけっているように神妙な顔をしてコップを手にした。
「要するに先輩は、海を見に行きたいんじゃなくて、その娘さんに会ってみたいんですね」
その言葉に反応するように三島は照れ笑いを浮べながら言った。
「自分でもよく判らないが、どうも沿うらしいね。ほんとうにもう一度会ってみたい気もするよ。それじゃ、勇三君、君も行くね、、、、」
勇三はただ海を見たかったので頷いた。
駅につくと、三島は勇三から離れて電話をかけに行った。
二人はそのまま二時間ほど電車に乗り、三島の言う海の見える町に着いた。
町に着くとまず旅館を探して部屋を取った。
旅館からは海が見えなかったが、波の音がかすかに聞こえ、海がそれほど遠くないことが判った。
勇三はなかなか出かけようとしない三島に気づいた。
「まだ出かけないのですか?」
「うぅん、勇三君、君も行く?」
それはいかにも勇三には来られてはマズイと言った口振りだった。勇三は再び出かけるのも億劫だったし、少し疲れも感じていたのでこのまま休んでいたかった。
「ちょっと疲れているので」
「あっ、そう、、、、」
三島はそっけなく返事をするとそのまま部屋を出て行った。
勇三は部屋の窓を開けた。冷たく湿った空気が部屋に流れ込んだ。波の音がさらに大きくなり海の近さを感じさせた。
星の見えない黒ぐろとした闇が広がっていた。都会のいつも明るい空に見慣れている勇三にとって夜の闇は異様に感じた。窓の下には、両側がが人家や旅館が立ち並び、車が一台通れるくらいの道路が、波のするほうへと延びていた。その道の上方の建物と建物とのあいだに開いた空間が、仄白く光っていた。昼間ならきっとここから海が見えるのだなと勇三は思った。
海は明日見ることにして勇三は十一時ころ床に就いた。勇三は眼を閉じながらここまで来るあいだに電車の窓から外の風景を見たときのことを思い起こした。それは電車が、勇三の住む都会を離れ、じょじょにビィルディングや町の華やかな夜の光が少なくなっていき、線路沿いの風景が、夜本来の闇に包まれていくのを見て、勇三は不思議と心安らぐのを感じたのであった。そして風景がさらに森や丘や川が頻繁に現れるようになり、人家の灯火が散在する風景に変っていくとき、始めてみる風景にもかかわらず、かつてどこかで見たような、懐かしさと郷愁を覚えながら、その付近の駅から乗り降りする人々が、勇三とは違う世界の住む人間のように思えたことであった。そう思い返していると、勇三の頭のなかで、その森や丘や川の田園風景が、ぎらつく太陽に照らされた真昼の風景へと変わっていった。
勇三は体がほてってなかなか寝付かれなかった。勇三は布団から抜け出し再び窓を開けた。火照った体に夜の湿った冷たい空気が気持ちよかった。夜の静寂な闇に、波の音だけが聞こえた。勇三は窓をあけたまま再び床に就いた。
勇三は眼を閉じたまま三島が飲み屋で言ったことを思い起こした。話しの内容でくるくる変る表情やときおり投げやりになる口調を思い合わせると、やや滑稽さも感じたが、三島を取り巻く人々や状況を思い浮かべると胸苦しさを覚えた。
次に勇三は自分と亜衣子との今までの関係を思った。自分と亜衣子との間にも、三島に起こったようなことがいずれ押し寄せるのかと思うと少し不安になった。勇三は、自分と亜衣子との間に、そのような軋轢にもくじけることのない、また自分の望むような男女の関係を続けていけるようなたしかな絆が欲しいと思った。
勇三はなかなか寝付けなかった。自分がいつになく興奮しているようにも感じた。しかしそれはかつての神経の苛立ちや得体の知れない不安といったものではなく、なにかを待ち受けているような、心の広がりを感じさせるようなものであった。勇三の耳には波の音だけが静かに聞こえていた。
勇三がうつらうつらしていると、三島がかえってきた。部屋に掛かってある時計を見ると二時をまわっていた。
「三島さん、会えましたか?」
三島はびっくりしたように振り向いて言った。
「あっ、まだ起きていたの、、、、いや、会えなかった。もう、お嫁に行ったそうだ、そりゃあそうだよな、十年も前のことだから、、、、、」
そう言ったあと三島はその後一言も口をきかずに布団に入った。
勇三はまだ眠れなかった。だが三島の寝息が聞こえてくると、初めて眠気を覚えた。薄れ行く意識のなかで、波の音をかすかに聞きながら勇三は明日眼にする海の広がりを思った。湿った潮風が絶えず部屋に流れ込んでいた。
その後勇三は夢を見た。
夢の中で勇三はユウに、亜衣子はアイに変身した。
ユウとアイは<家>を脱け出し、森の草むらで落ち会う
ユウとアイの裸身は木の葉の間から漏れる月の光に照らされる
ユウとアイの手が組み合わされると、星が流れ、草の葉のしずくが滴り落ち、虫たちが鳴く
アイの髪の毛に夕日が沈み,夕日に向かって大鳥が飛んでいく
アイの虚ろな眼に星がきらめき、ユウの瞳にアイの瞳の星がきらめく
ユウはアイの唇をやさしく咬み続け、木の葉ざわめき、月はかげる
アイの唇から漏れる声に、森の獣たちはいっせいに立ち止まり、そして森を駆け巡る
大地は揺れる
アイの乳房は陽の光に照らされ、そこを小川が流れ、ユウは水を飲む
草は風になびき、花粉はアイとユウの鼻をかすめ、ミツバチが飛び回る
からまれた脚に蝶が止まり、小鳥たちは木から木へと跳びまわる
ユウは、追いつめ組み伏せ、ウサギを食べる狼
アイは、組み伏せられ、豹に食べられる小鹿
アイは波打ち際に寄せられた魚
ユウの小さな暴力を、アイは海となって抱きとめる
アイの鼓動は海の鼓動、二人は海に漂う
銀河の裂け目に精液が溢れ、海に滴り落ちる
荘厳な朝日が昇る
翌朝、開かれた窓からは朝日がまぶしく差し込んでいた。
旅館の前を走りぬける子供たちの叫び声で勇三は目覚めた。そして布団から顔だけ出して時計を見た。七時だった。それから窓のほうに眼をやったあと、再び布団にもぐった。そして思いっきりと足を延ばすと、全身にとろけるような快感が走った。そして眼を閉じたままにしていると夢の断片が頭に浮かんできた。勇三は雲のなかに居るように充足感を味わいながら、まだ眠っていても良いような気がした。そして意識を睡魔になすがままに任せた。
再び眼が覚めたとき部屋はだいぶ暖かくなっていた。時計をみると九時であった。三島は身動きひとつもせず死んだように眠っていた。勇三は静かに身支度をして、朝食を済ませると、すぐ海に向かった。
二分ほど歩くと眼の前に突然海が広がった。子供たちが防波堤のうえで遊んでいた。遠くの砂浜は日の光をまぶしく反射し陽炎が上がっていた。勇三は防波堤にもたれかかり、絶えることのない波の繰り返しに眼をやった。潮のかおりを含んだ暖かい浜風を勇三を包み込んだ。
波が音を立てて崩れ、浜に打ち寄せ、砂浜を鏡のように光らせて消えていった。勇三は海に自分と同じような生命力があるのを感じはじめていた。
先ほどの子供たちが波打ち際で遊びだした。勇三ははるかな沖へと眼を転じた。勇三の視界には絶えずうごめく青黒い広がりだけが入ってきた。勇三は吸い込まれそうなその青黒い広がりのなかに無限の包容力と躍動を感じながら、そっと眼を細めてゆっくりと息を吸い込んだ。
しばらくして海岸沿いの建物に眼を移した。勇三は海水浴客のための宿になるという家々がなぜかみすぼらしく薄汚いものように見えた。
それからしばらく海を見ていた勇三は、なにかを思いついたかのように急に寄りかかっていた防波堤からはなれ、そのまま小走りで旅館に向かった。そして三島に、急に用事が思いついたから帰ると告げ、三島と別れ電車に飛び乗った。
電車に揺られながら、勇三はただひとつの言葉をくり返しくり返し頭のなかで呟いた。電車が勇三の住む都会に近づいた。勇三は電車の窓から、いまははっきりと愛する町となった、その風景をじっと眺めた。これから自分がある目的を持って生きていく場所だと思うと、たったひと晩離れていただけなのに、ホッとするような懐かしさと溢れるような親しみを感じた。
勇三は電車から降りて、雑踏や排気ガスに煙るとおりを、悪臭のように花をつく町の匂いを感じながら歩いていると、不思議と心安らぐのを感じた。
勇三は、土曜日でも仕事だった亜衣子を昼休みにいつもの喫茶店に呼び寄せた。
亜衣子がやってきた。勇三は胸の高鳴りを覚え、言おうとする言葉が喉に支えそうになったが、できるだけ冷静さをよそおいながら話し始めた。
「今日、休みだったから、海を見てきた、、、、」
亜衣子はいつもの包み込むようなやさしい笑みを浮かべて勇三を見つめた。勇三はこのとき、亜衣子の瞳が瞬間輝いたように見えた。勇三はいまだと思った。そして今日海を見ていたときからずっと胸に秘めていたことを、静かにゆっくりと亜衣子に告白した。
「今度僕は君と結婚することに決めた」
言い終ると勇三は興奮のあまり鼓動が烈しくなり耳が厚くなるのを感じた。
そして亜衣子の言葉を待った。
亜衣子は二十一歳。高校を卒業すると学校の就職係の勧めでなんとなくデパートに就職した。最初売り子として働いていたが、客の出入りによって、目がまわるほど忙しかったり手が空いたりするという不規則な仕事に順応できず、体調を崩しがちだった。それに加えて、他の売り子たちがやるような、その日の気分や、客の種類によって、より親切に愛想よく振舞ったり、そっけなくふるまったりする応対が、亜衣子にとっては、それが意識的でわざとらしいものに感じられて同じようにすることは出来なかった。かといって、商売と割り切って事務的によそよそしく振舞うことも不自然なものに思われて出来なかった。またそんな自分と客との関係が奇妙なものに思われ、そしてそれが気にかかり始めるとますます客との応対がうまく行かなくなり、なかなか自分の職場に慣れ親しむことができなかった。そのうちに亜衣子は、それまで思っても見なかった自分の性格について考えるえるようになっていった。
他の売り子のように振舞えないからといって、自分の消極的な性格がこのような客相手の職業に会わず役立たないものとは思いたくはなかった。しかし同僚たちが自分のことを<損な性格ね>という噂話を耳にするとき、自分では自分の性格が他人より優れているとか、他人にはないものを持っているとかと決して思っていたわけではなかったが、自分のような性格が希少で、他人より劣りひとつの欠点であるかのように、自分と他人との性格の違いが、冷静に区別されていることにやや反発を感じる反面、自分が気づく前に他人に言い当てられたことに、他人に自分の弱点を見抜かれたようで内心冷や汗をかく思いでもあった。
そこで亜衣子は自分の性格をこのまま認め甘んじることが、他の売り子たちに敗北することであるような気がして、自分なりに早く職場に慣れるように努力するのであった。しかし一方では、損な自分の性格も考えずになんとなく職業を選んでしまったことを後悔もした。
そんなとき亜衣子のそんな性格を見抜いた同じ職場の上司が、亜衣子の悩みとも希望とも就かない思いを聞き入れ、そして偶然にも、欠員が出来、新しく女子事務員を必要としていた庶務課のほうに亜衣子はまわされた。
職場変えの話を上司から聞いたとき、亜衣子は自分には事務仕事の経験も知識もまったくなかったので不安に思ったが、そんな不安も押し隠しながら上からの命令に素直に従い、ただ新しい職場に慣れようと努めた。
新しい仕事は数人の男性の下でコピーをとったり書類を整理したりする補助的で楽なものであった。だが最初亜衣子は訳もなく戸惑った。でも周囲の男性たちが不思議なほど丁寧に指導してくれたので、大きなミスもなく、また以前のような不愉快な思いをすることもなく、ほどなくして仕事にもなれ、どうにか続けることが出来るようになっていった。そのうち大分なれてくると心にも余裕ができて、自分のペースでやれるようになり、ときどき手が空くほどまでになった。そして知らず知らずの間に仕事に対する責任感やヤリガイが芽生え始めるとともに、仕事することの楽しみを覚えるまでになっていった。そんなとき亜衣子は自分にはやはりこういう落ち着いてやれるデスクワークが合っているように思われた。

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