やがて夕暮れが(1部) はだい悠
季節の微妙な移り変わりが、他人事のようにテレビや活字の中の出来事となってしまってからすでに久しい。 人々がそんなことに心を動かされなくなった訳ではない。 もともと厳しい自然の制約のもとで、長いあいだ生き続けてきた人間にとって、それを忘れるはずはない。 ただ一時的にそんなことに関心を持たなくても生きられるように生かされているに過ぎないのだが、、、、 六月初めの街にようやく日が暮れた。 夜になっても空気はまだ昼のぬくもりを残している。 車一台通れるだけの狭い路地の両側には、ぎっしりと家々が建ち並んでいる。その静まり返った家並みのあちこちから、ときおり勢いよく一日の汚水が吐き出される。人々は一日の疲れや不満を汚水とともに流しさってしまった後、味噌汁や化粧やオムツの匂いのする部屋の中で、肌を寄せ合い明日のささやかな夢を温めあう。そして吐き出された汚水は、ドブとなって、六月の夜気に交じり合い、悪臭を放ち始める。 ある路地を茶色く狼のようにたくましい犬が、ときおり鼻先を地面にこすり付けるようにしながら歩いている。地面を嗅いでいるのだ。毛並みもよく首輪をつけているが、その所在無く振舞う様子から明らかに主人を失った犬だと判る。その野良犬は向こうから歩いてくる人影を覚えても、その人影には関心がないといった風に、再び地面を嗅ぎながら歩き出した。人影とすれ違い、しばらくすると突然何を思ったのか、今来た道を振り返りると勢いよく走り出し、先ほどの人影の傍らを通り過ぎ、別の路地へと消えた。 周囲を広い通りに囲まれた街のある一区画には、たいてい一二匹の野良犬が済み付いている。以前には、先ほどの犬よりも毛並みの悪いやせこけた野良犬がうろついていたが、保健所に連れ去られたのか、それともさっきの犬に追い出されたのか、最近まったく見当たらない。ということは、さっきの犬がこの狭い一区画を自分の縄張りにしていることになる。そして、わずか十数分で歩きつくしてしまうこの狭い地域を、塀の隙間から中を覗いたり、地面に鼻をこすり付けたりしながら、路地から路地へと、用心深く、そして卑屈なすばしっこさで一日中歩き廻っているに違いない。その間なんど同じ道を歩くことか。 主人を失った犬は必要以上に遠慮深い。人間に危害を加えるということは確実に自分の破滅につながるということを知っている。だから、自分の背後に逃げ場をもっている飼い犬のような生意気さや、通行人に突然吠え掛かるような無礼さはなく、むしろ、人間と眼が会うことを避けたり、無関心さを装ったりする。そのときの表情があまりにも人間と似ていて、非常に滑稽でさえある。 その野良犬はとある家の破れた板塀の隙間をすばやく通り抜けると、そこに居る白い黒ブチのメス犬の後ろから不意をついた。白いメス犬は格別驚きもせずに、かすかにうなり声を上げながら飛び跳ねるようにして迎えた。そして二匹は何かに気遣うように、そしてそのことを申し合わせたかのようにうなる声を押し殺して、毛に覆われた肩や腰をゴツゴツと鈍い音をたてながらぶつけ合っては、不器用に絡み、もつれ合う。やがてお互いの情欲を確かめ合うと、二匹は家のものに気づかれないようにドブ臭い夜気に包まれて密かに交尾をする。 その白い飼い犬は数ヶ月前まではキャンキャンと吼える臆病な子犬だった。 夕刻の電車がつくと、駅は華やかなあわただしさに包まれる。人々ははじき出されるように駅を出ると、駅前の快楽的な風景に眼を奪われることもなく、それぞれによそよそしい表情をしながら足早に家路を急ぐ。その決められたような歩き方や表情は不思議と賑やかな町の風景に似合っている。 マサオは駅近くでは、他の人影を前後にして歩いていたが、自分のアパートに近づくに従ってひとりになった。マサオはいつもひとりになると、なぜかほっとするものを感じていたが、そんなことになんら意味もないと思い特別気にもしなかった。でも心なしか歩調が緩やかになるのである。 アパートの大家の妻タカは家のドアを開けたまま入るのでも出るのでもなく、所在無い様子で何かぶつぶつと独り言を言っていたが、帰ってくるマサオの姿を眼にすると、急に表情を和らげ、「お帰り」と言った。マサオは疲れていたので軽く頭を下げただけで自分の部屋に入った。 大家の源三は家の中では妻タカに暴君のように振舞った。毎日欠かさず飲む酒が入ると時は、とくにひどく、大声で怒鳴ったり、荒々しい口調でタカに用事を言いつけたりする。そしてタカが自分のいうことをきかないでグズグズしていると、物を投げつけたりする。 源三は長年連れ添ったタカを決して憎んではいなかったが、それは男のわがままであることを知っていたし、それほど悪いことだとも思っていなかった。タカの男性的な容貌や女性らしくない振る舞いに対して、これが相応だ、お似合いだ、と言う風に無意識に思っている節があった。そのせいか、威圧と暴力で人を支配したら、こうも臆病になるものかと思うくらいに、タカはいつも動作がぎこちなくおどおどしていた。タカは、源三が自分を怒鳴りつけたり、ものを投げつけると言っても、それ以上はひどくならないと判っていたが、怒鳴り声や、その扱いに対しては不満であった。そのためにときどき反抗的な態度を取るのであったが、やはり威圧や暴力が怖いので、不服ではあるがたいてい従うのである。その不満のやり場のなさが独り言となるのである。マサオが部屋代などを払いに行くと、その口調が増幅されて、源三を前にして、役者まがいの身振りで源三の乱暴振りを罵るようにしゃべるのであった。そんなとき源三は、ニヤニヤしながら「ババァ、うるさい」などといって、ほとんど黙ってきいているのである。源三は妻意外には世間並みに人当たりがいい気の小さい夫である。それがタカには不満のひとつではあるが。 大家夫婦は初老に近く、若いとき職場で知り合い結婚したと言うことだが、二人には子供がいない。タカはそのことを気にしているようである。そのためか、おりあるごとに若いときに卵巣を摘出したということを子供のいない積極的な理由にしているようである。そしてそれが原因しているのであろうか、タカは年齢とはいえ、女性的な容姿に乏しく、動きも男性的でさえある。源三は退職後にアパートの経営を始めた。遊びは派手ではないが、町内会の会合に積極的に参加したりして夜遅くまで飲み歩くことたびたびであった。趣味としては狭い庭の植木の手入れ、そしてそれに飽きると、パチンコに出かけていた。そのパチンコの景品のタバコをマサオはときどき安く譲り受けることがあった。 マサオが寝付くまで、タカのぶつぶつ言う独り言が聞こえていた。 静まり返る深夜の町。 人間の食べ残しを求めてさ迷う猫が路上にあらわれる。ときおり車のライトがそれらをくっきりと照らし出す。通り過ぎる人も響き渡る自分の足音でその静けさに気づく。 電気の消えたネオンサイン。 威圧するようにそびえたつビルディング。いまや夕暮れまでの町の賑わいも華やかさもない。もしこの深夜の町が、人影も車も猫もいない冷たい水銀灯に取らされただけの風景であったら、町に生物のすめない廃墟のように見えても不思議ではないだろう。 でも深夜の町は眼に見えない表情を持っているようだ。 人間がものを食べ排泄して生きているように、町も、入り口も出口もないような、それ自体が巨大な生理体として生きている。そして複雑である。 ビルの白い壁には、夕暮れ時の雑踏ざわめきが吸い込まれている。 舗道には無数の足跡が、街灯の鉄柱には無数の人間の手垢が、そして、空気中には無数の人間の体温が残っている。そして一見無秩序で猥雑な町並にも、一人の人間の考えや思惑ではどうにもならないかのように、無数の人間の意志が絡み合いながら取り込まれているようだ。 それは歴史的であり快楽的でさえある。 知らぬ間に古いビルが壊されて新しいビルが建ち、気づかぬうちに新しい店が開店しては、不振な店はひっそりと廃業する。そしていつの間にかに新しい町並みに変っている。 しかし町並がこのようにめまぐるしく変化しても、そこを通り過ぎる人も、そこにとどまる人も格別心を痛める必要もなく、他人事のように無関心でいられる。そして古い町並の思い出を思うこともなく、新しい町並に慣れていくようである。いったいどうして町を歩いている人々は無関心でいられるのだろうか? たしかに町の中で人々は、無愛想であったり、よそよそしい表情であったりするが、でもそれはあくまでも外見的に過ぎないようである。またそれは本人たちの自由意志ではなく、そうさせられているようでもある。もし隣り合うたびごとに、またすれ違うたびごとに、お互いに意識しあいながら人間的に振舞おうとしたら、たちまち身も心も疲れきってしまうだろう。まためまぐるしい変化をいちいち気にしたり、快楽的な風景やつかみどころのない都市生理に疑問を投げかけて、それを把握しようとしたら、その人間の存在の無力さや卑小さや惨めさに気づかされ、たちまちにして打ちのめされてしまうだろう。まさに自分を見失うに違いない。すると、自分を守るためには自己に閉じこもって生きなければならないようである。それは余計な地人や出来事に対しては閉鎖的になる。そしてそれは他人から見ればよそよそしく見えることになるのであるが。そして結局残されているのは、装飾ガラスと金属とコンクリートと七色の光の町で、流されるままに快楽的に生きることだけかもしれない。そしてそこで生きつづけるためには格別の思想も必要ないのかもしれない。日々の倦怠とめまぐるしい変化に、痴呆のように関わりあいながら刹那的に生きられるのかもしれない。だがその一方、もしそんな中で自己を確認して生きたいのなら、強い意思と能力を必要とするであろう。そのような人間にとって、おびただしい広告塔のひとつにでも、「これこれのために生きよ!」とか「このように生きよ!」などと書いてあったら、どんなに助かることであろうか! しかしこのような快楽的な風景や、つかみどころのない巨大な都市整理を前にしては、たとえ全部の広告塔が気のきいた文言に変ったとしても何の役にもたたないであろう。 町で快適に生きていくためには、決まりきった思想は必要としないようだが、そこを通り過ぎる人たちはある印象を持つようになる。「町に住む人々は冷たい」と、しかしこれをもう少し正確に言うなら、「『町に住む人々は冷たい』とお互いにそう思いながら暮らしている人々が住んでいるところだ」と言ったほうがいいのかもしれない。もしこのからくりがお互いに理解しあえたら、不必要に他人を避けたり、相互不信に陥ったりして、お互いに苦しめあうことは泣くなり、人々はお互いに笑いあえるようになるのであるが。 もしかして町は人間関係が希薄なのではなく、過剰なのかもしれない。 そして夜の街から人影も猫も車もいなくなるころ、東の空がしらみ始める。 誰でも夜眠りに突きながら、明朝再び眼が覚めることに漠然と期待をかけるものであるが、今のマサオはそれほどでもなかった。むしろこのままずっと眠り続けて二度と醒めなくてもかまわないと思うほどになっていた。決して生きることに投げやりになっていたわけではなかったが、何も考えることなく、死んだように眠る心地よさのせいでもあった。 マサオはアパートの部屋に帰るとこれと言ってやることも泣く、疲労した肉体と、思考力の低下した頭をだらしなく布団の上に投げ出して、そのまま眠る毎日である。このような変り映えのしない生活は、以前のマサオにって予想だにしなかったことなのであるが・・・・・・マサオにって、何かをするということは、友人と付き合うとか、夜の街に出て遊ぶとかいう、ある特定の行為だけを意味してはいない。何かまだ自分にわからないことを考えるとか、自分の過去の出来事を思い浮かべるとか、自分のためになる本を読むとか、少年時代のように好奇心に満ちた想像力と自由な思考力を生かして、新しい知識を組み立てたりしながら、みずみずしい感情を自分の体内に作り出してそれを楽しむことなのである。しかし今のマサオに硬直した頭の中には、そのようなよゆうも能力も失われかけていた。まだ二十五歳であるのに。マサオにとって、このような味気ない生活が自分のすべてであり、今後もこんな状態が続くだろうなどとは思いたくもなかった。しかしこれ以外の生活を求めにはどうすれば良いかまったく判らなかった。 マサオは眠りに入るまでの短い間にやや思考力が回復してくるので、その間にこのような状態になった自分に疑問を投げかけるのである。もともと人間の生活はこんなものなのだろうか? または自分の特異な性格のためにそうなのか? それとも自分を取り囲む環境に問題があるのではないだろうか? などと。しかし眠るまでの短い間には何の解決の糸口さえ見つけることができないのである。マサオは乏しい思考力の中で迷い焦る。が、結局は眠る事の心地良さも手伝ってか、いつもそのままの状態でおしまいになるのである。 そしてそういう疑問を自分に投げかけているうちに、いつしかマサオは、《こうして独りで部屋に居てくつろいでいる自分》と《仕事をして仲間と交わり町を歩いている自分》とは、まったく別の人間ではないかということに、漠然とではあるが気づき始めていた。 だが、この二つの自分の発見はマサオにとっては苦痛なことである。自分が町や人々の中にいるときに、独りでゆったりしているときの自分はどれほど煩わしさから開放されているかと思ったり、またわはその逆に、独りでくつろいでいるときに、仕事や仲間たちとの交わりが、どれほど煩わしいものかと思わなければならないからである。そしてそれを意識的に使い分ける作業をしなければならないからである。 マサオにとって、二つの自分の状態が、いつどのようにして切り替わるのか? またどちらの状態が自分にって好ましいのか? はっきりと判断の下しようもなかった。ただ、マサオにとって、独り部屋に居て、ゆったりとしているほうの状態が、自分には似合っているように感じられるのではあるが・・・・・・ だがそのように感じる背後には、同時にこの世界からの落伍者や敗北者の惨めな姿を表象させる。マサオにって、自分に好ましい状態になるには、現在のこの中流の生活を捨て去らなければならない。そして、誰デモが持ってるであろう将来の夢、《美しい女性と結婚する》とか《出世して社会的名声を得てよりよいせいかつをする》とか、そういう漠然とした夢を捨てなければならない。しかし、今のマサオには、そうなる勇気はない。まだまだ今の生活や将来の夢には捨てるには捨て切れないものがある。また、自分は惨めな落伍者や敗北者にはなりたくない。 この世の中には、気に食わない人間や許せない人間がいる。そういう人間の鼻を明かしたい、見返したい、負けたくない、自分にはできるという確固とした気持ちがある。そしてその一方には、自分もやはり社会の一員である、みんなと同じように働き、交わり、社会的義務を果たさなければならないという気持ちもある。 マサオのこのような考えはすべてうつらうつらした頭の中での出来事に過ぎないのである。そして、どんなに想像力の低下して頭でも、素っ裸で放り出されたときの自分の惨めな姿や、そのときの心細さや不安を思うだけの想像力は残っていた。 結局、二つの自分の切り替えが、まだ眠い朝にやらなければならないのは最も辛いことではあるが、習慣に身をゆだね、ネクタイを締め、背広にひきづられるようにして、毎日ドアの外に出るのである。 ビルの窓の外は六月の陽射しで眩しい。ときおり窓の隙間が涼しい風が入って来る。 マサオは会社の上司や同僚たちとテーブルを囲み、午後の会議に出席している。だがあまり発言する機械もなく、会議に退屈な様子で、ときどき手元の資料から窓の外の風景に眼をやっている。 町は強い陽射しを受けながらも穏かである。建物は皆その影を色濃くし、街路樹の若葉は日の光を受けてみずみずしく、吹き抜ける風に揺れている。 いつのまに若葉に変ったのだろうとマサオは思った。またそういう季節の微妙な移り変わりを見逃していることを惜しいとも思った。 マサオは何事もなかったかのように再び手元の資料に眼をやる。マサオはふと、季節の移り変わりが自分とまったく変わりのない世界の出来事になっていくかのように思われ、不安ともつかない寂しさに襲われた。 会議ではマサオはほとんど発言しない。そのためができるだけ参加したくないと日頃から思っていた。しかし組織内でもそうも行かない。たいていのものはそういう会議の時間を楽しみにしている。とくに同僚の牧本や斉木は話し好きのせいもあるが、俄然張り切る。《判りきったことだなあ》とか《どうでもいいことだなあ》と思われることもちゅうちょなく論争の舞台に乗せる。最初のうちは、それは会議の雰囲気をたのしいものしたりして会議を活性化させるだけの効果しかないので、たいていは聞き流してよいのだが、そのうちになかなか良い発言も飛び出ることもあるので、その積極性や雰囲気作りのうまさは、結局は頭の回転のよさがそうさせているのだと、上司からは受け取られているようである。彼らは話し合いながら、衝突しあいながら問題を解決していくタイプのようである。そういう二人を見ているとマサオはどうしても気後れして消極的になってしまう。でもマサオは決してぼんやりと他のことを考えているわけではない。資料にいたずら書きしながらも、《なるほど》などと思いながらみんなの発言することをちゃんと聞いているのである。でも、聞いているだけでも、対立する意見などがあると、どちらの言い分ももっともだと思えるようになったりして、どちらが良いかなどは判らなくなってしまうのである。また、自分でも良い案が浮かんだりするときが在るが、みんなのように話し合いの流れに乗り切れずに言わずじまいになってしまうのである。たまたまチャンスに恵まれても、その口調に勢いがないためにみんなに通じなかったり、場違いなものになったりする。意見を求められても、その妙案をかすれていたり、内容があいまいだったりして、かえって自分の無能さをさらけ出すような気がしてますます居心地の悪いものにする。意見を求めるほうも、さして期待しているようでもなく、理解しているように頷いては見せるが、根本は無視なのである。付け足しなのである。 マサオはそのうちに、発言力には、その発言者の存在感、つまり日頃の好印象と多弁、離れと切り出しのタイミングが必要であることがわかってきた。しかしそうは判っていても、自分は牧本や斉木にようにはなれないような気がした。自分には彼らのような積極性や多弁や雰囲気作りのうまさはないような気がした。マサオは自分が発言しなくても、それほど重大な影響は与えないと思う反面、自分がみんなから取り残されたように感じ、心細く思い自分が情けなくなるのある。マサオにとって会議に出席し聞いているだけでも苦痛なのである。 結局会議はマサオが不必要な劣等感に陥るほど重要な決定をするわけでもなく、いつものように牧本や斉木のような人間の自己発散の場として終わるのである。 その日の夕方、マサオは牧本に誘われるままに斉木といっしょに夜の街に出ることになった。 マサオは最初、町の人ごみや騒々しさを思うと、断りたかったが、《明日は休みじゃないか》と言う牧本の強引な誘いに抗しきれなく、また、マサオの心の奥に、昼間の会議での屈辱的な思いがまだくすぶり続けていて、その名誉挽回と言う気持ちも働いてか、付き合うことにした。 牧本と斉木は、町の賑やかな雑踏でも傍若無人と思えるほど、陽気に振舞った。マサオは二人のそういう性格がうらやましいと思った。そしてそういう二人についていくと、自分もなぜか、独りで歩くときのような居心地の悪さや煩わしさがなくなり、華やいだ町の風景に溶け込めそうな気がしてきた。 三人は目が眩むばかりのけばけばしい広告塔がおびただしく立ち並び、人ごみが激しい通りをしばらく歩いていたが、そのうちにあたかも唯一のものを選択したかのように、とある喫茶店に入った。 マサオは席に座るが、落ち着きのなさを感じていた。隣席とはついたてもなく近く、話し声も良く聞こえる。 そして混雑していて全体としては騒々しいのである。マサオは周囲の見知らぬ人間を意識すると気持ちが萎縮した。他の二人はそんなことにはお構いなく、慣れたように席に座り無心に漫画を読み始める。マサオはそんな二人に戸惑いをや違和感を覚えながら、だんだん居心地の悪いものになっていった。 隣の人声や、食器の音がマサオをいらだたせる。 斉木は急に漫画をテーブルの上に置くと牧本に話し掛ける。だが、マサオには関係のない内容のようである。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 《みんなはどうしてこういうざわざわとしたところで話し合えるのであろうか》とマサオは思う。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 《隣のアベック、お互いの話し声が聞こえるのだろうか》とマサオは思う。 ・・・・・・・・・・・・・・ 「昨日おもしろいことが在ったよ」と斉木の声がマサオにも聞こえた。 「実は、昨日ね、立ち食いそばを食っていたら、隣の客が食い終わって帰ろうとしたの、そしたら『お客さん! お勘定』って、店のオヤジに止められてね、その客、『払ったよ』って言うんだよ。そしたらオヤジは『もらってねえ』って言うんだよ。その客は酔っ払っていて『いや払ったよ、さっき払ったじゃないか』って言うんだよ。オヤジはもらってねえって言うし、なんだかんだで、そのうちに喧嘩になってしまってね、野次馬は集まるし、警察は来るし、、」 「その客は本当に払ったの?」 「いや、俺が来たときには、もうそば食っていたから、判らない」 「それで結局どうなったの?」 「俺も最後まで見てなかったから判らないけど」 「ところで、君払ったの?」 「そこなんだよ、面白いのは、俺も結局、どさくさにまぎれてそのまま帰ってきたから、もうけちゃったって感じ」 「ふーん、そう、よかったね」 マサオはニヤニヤしながら聞いていたが、ますます居心地の悪いものになって行った。 ・・・・・・・・・・・・・・ 「そんな話しなら僕にもあるよ。こっちに引越ししてくるまえ、まだ独身だったころ、ツケで飲んだり食ったりしていてね、そのままこっちに来たものだから、そのままチャラになってね、もう時効だからね、、、、」 そう言いながら牧本はゆったりと椅子に背を持たせかけネクタイをゆるめた。 「いくらぐらいだったの?」 「まあ、二、三万かな、、、、」 茶色のガラス製の灰皿に灰が落ち、触れ合うカップとスプーンが音を鳴らし、色さまざまの照明器具が店内を照らしている。 マサオの意味のないニヤニヤ笑いを見て、牧本が声を掛ける。 「君にもあるだろう」 「いやあ、えぇ、まぁ、ある、あります。新聞代三ヶ月ほど、引っ越したから、、、、」 そういいながらもマサオは周囲が気になった。 「あるんだよな、だれにも、おもしろいねぇ」と斉木はマサオを見ながら話しかけるが、ふたたび牧本の方を見て話し掛ける。 「あの新聞拡張員っていうのは、いやだなぁ、しつこくて」 「内はひとつにって決めているから」 「いらないって言うのに、押し売りみたいだよ」 「そりゃあ、奴らだって生活が掛かっているからね。商売、商売」 「洗剤やシャンプーもらったって、どうってことないのに、頭を下げて頼まれると、つい話しに乗って、取ってしまうんだよな、なんか騙されたみたいで、、、、」 《人情の弱みに付け込んで、頭を下げれば何でも通ると思って》とマサオは言おうと思ったが、タイミングが悪く切り出せない。 「そりゃあ、やつらがうまいんだよ」 「そうかなぁ? よくあれだけのサービスをして、元が取れるね。どうせサービスするなら値下げすればいいのに、相当もうかっているんだろうな」 「売ったってそんなに儲からないよ。新聞は広告料さ」 「そうかなぁ? それにしてもうますぎるなあ、まあ、こっちも損するわ訳じゃないけど」 「何でも商売、商売!」 ・・・・・・・・・・・・ 「ところで今日の会議で決まったこと」 店内の騒然とした雰囲気の中で二人の会話は続くが、マサオはいっこうに加われず居心地が悪い。 喫茶店を出ると三人は、ふたたび賑やかな通りを我が物顔で歩きながら、昂揚する欲望に吸い込まれるように飲み屋に入った。牧本や斉木は互いに褒めあい、また罵りあいながらも、不思議と会話が途切れない。そして二人は見知らぬ客とも友人のように親しくなり、いっしょに歌など歌い終始陽気なのである。だが、マサオは飲んでいるときもただあいまいな笑みを浮かべているだけで、やはり孤立している。どこもかしこも騒々しく快楽的ではあるがマサオは他人のようにしか関われない。 マサオが酔いと疲れでくたくたになって部屋に帰ったのは十一時である。さすがに疲れたと思い何もしたくなかった。そして何も考えたくもないと思い寝床に付くが、なかなか寝付かれない。一日の出来事が頭の中にちらつき始めてマサオを苦しめる。 《町の華やかな風景》《おびただしい人々》《牧本や斉木の歌いわめく顔》《自分の孤立している姿》などが、くり返しくり返し現れては消え、消えては現れ、マサオの頭の中を洪水のように暴れまわる。マサオはかすかな思考力で、《今日は有益だったろうか?》《それとも無益だったろうか?》と多少後悔の念も含めて思うが、どうしようもなく判断がつかない。ただ胸苦しく、寝付けない。そしてときどきマサオの頭の中をある思いが閃光のようにかすめる。《なんと猥雑な、なんと愚劣な、、、、》 六月の町に雨が激しく降った。うっとうしい季節の始まりである。大粒の雨は、町を蔽い尽くしていたチリやごみを洗い流し、街路樹や花壇の花々に休息を与える。トタン屋根で激しく打つ雨音を聞きながら、マサオが目覚めた。窓の外は、冬の朝のように薄暗く、雨水が窓ガラスを伝わり激しく流れ落ちる。しかし手足を動かすにも億劫なほどの倦怠感のためふたたび眼を閉じる。《もっと激しく降ってくれ、何もできないほどに、何も考えられないほどに》マサオはそう思いながら、雨音だけに耳を傾ける。その不思議な静けさの中で意識が薄れていく。 昼過ぎふたたび眼が覚めた。 起きて歩くが頭が痛い。振ると割れるように痛い。 その日マサオは、雨の音を聞きながら一日じゅう部屋の中でごろごろしていた。 雨音はなぜか自分を安心させるとマサオは気づいた。 翌日の日曜も雨だった。 マサオは物音ひとつ聞こえない静かな気配の中で目覚めた。時計は昼の十二時を過ぎていた。だがよくよく耳を澄ますと、弱い雨音が聞こえてきた。窓の外は相変わらず薄暗く、布団から出る手足に触れる空気がひんやりとして気持ちがよい。起きて歩くが昨日のような頭の重みはない。窓を開けると湿った空気が部屋に流れ込んだ。マサオは大きく息を吸った。雨は小降りになっている。町並は雲が見えない灰色の空の下に、靄が掛かったように煙っている。マサオは《嘘のように静かだ》と思う。窓枠についたほこりが雨水の流れの跡を残している。マサオは窓に腰をかけ、ゆっくりとタバコを吸いながら、隣家との間の狭い路地にぼんやりと目を向ける。 ときどき雨どいから漏れるしずくが隣家のひさしに撥ね、マサオの手や頬に掛かる。 マサオはそれも心地よいものに思われ、拭おうともせずに昨日の大雨の名残を思わせるかのような、水溜りや、足跡の消えた路地を眺め続けた。 植木鉢のはの緑が生き生きとマサオの眼に映った。その葉が雨だれを受けて規則正しく揺れ動いている。水溜りのかすかな水の流れや、規則的な雨だれなどの小さな世界を眺めていると、自分は回復しつつある病人のようにマサオは感じた。 しばらく眺めたあと、窓を閉めてふたたび布団の上に横になった。雨が降り続けている外の世界に耳を傾けていると、不思議と心が安らぎ、手足や頭が自分のところに戻ってきたかのように感じるのである。 薄暗い部屋の静けさの中でマサオは、何もしないまま、だが充実した気持ちの夕暮れを迎えた。 知らない人が見たら、薄暗い部屋の中でくすぶっている気味の悪い人間に見えるかもしれないが、マサオにとっては唯一の安らぎであり心の平安なのである。少なくとも、こうして雨の日の夕暮れを迎えているほうが自分には似合っているように思うのである。そして、昨日までの人ごみや騒々しい雰囲気の中で迎えている夕暮れは狂気じみたものに思えるのである。 《もう町には出かけたくない、人にも会いたくない、このままこうしていたい》とマサオは思うのだが、でもそれはマサオにとっては、自分の頭から葬りさりたい思いでもある。 マサオはタバコが切れていることに気がついた。 部屋のドアを開けて外に出ると、湿っぽいひんやりとした外気がマサオを包み込んだ。吸い込むと生臭く、土や青草の匂いを含んでいるようにも感じられた。と同時にある心の広がりを感じた。それは過去の出来事へと自分を連れ戻すかのようだった。しかし、それが、いつ、どこでの出来事なのかは、漠然としてハッキリしない、だが、それはなつかしい物のようであった。そして、そうして静かに外気を吸い込んでいると、自分の懐かしい思い出を呼び起こせるような気がして、非常に心地よいものに思われた。マサオはそのままじっとして居たかった。 雨は霧雨になっていた。マサオは傘を広げると、狭く薄暗い路地をゆっくりと歩き出した。雨は家々の屋根をぬらし音もなく降り注いでいる。マサオは街灯の下まで来ると、ふと立ち止まり、空を見上げた。降り注ぐ霧雨が街灯の光を受けて、そこだけボォッと白く光を放っている。マサオは顔や腕を濡れるままにして、じっと霧雨の舞い落ちる様子を眺めた。肌を通して静かな世界が自分の体内に入っていくようにマサオは感じられた。 マサオはタバコを買ったらそのまま部屋に帰って来ようと思っていた。町の人ごみや騒然として雰囲気に今の自分の充実した気持ちが乱されたくないと思ったからである。それになんといっても煩わしかった。 人がけの少ない通りにぽつんと自動販売機が置いてあった。マサオはタバコを買い求めて帰ろうとしたが、ちょうどそのときひとりの若い女性がマサオの後ろを通り過ぎた。マサオはそのリズミカルな歩き方や、真っ赤なレインコートに眼を奪われた。まさおは静かな動揺を覚えた。《まあ、いいだろう、遠回りをするのも悪くない》とマサオは思い、その女性の跡から歩いていった。コッソリと後をつけて歩く快感を覚えながらマサオは歩き続けた。女の前方には、霧雨に煙るビルディングがその黒々とした輪郭を現し、夜空には赤や緑の原色のネオンサインがぼんやり浮かんでいる。そして通りには遠く人々のうごめきが見えた。 このまま行くと、町の賑やかな通りに出ると思い、マサオは横道にそれようと思ったが、ちょうどそのとき、遠くかすかに駅の構内に響くスピーカーの声が聞こえてきた。そして車のライトが女性の姿をはっきりと映し出した。マサオは憑かれたようにふたたび女性の後を追った。いつの間にか人影がマサオの後ろにも現れ始めた。 車が頻繁に通るようになり、マサオは歩きにくさのために道路の端に寄った。こじんまりとした店が、道のよう側に現れ始め、それらの店先から漏れる照明が霧雨に湿った道を光らせ、歩む人々の姿を照らした。人々は二人三人と群れを作りマサオの前後を歩き始める。ビルの灰色の壁が歩く人々を威圧するかのように道の両側にそびえたち始め、人々は傘の下に表情を隠しもくもくと歩いている。マサオは引き返そうかと、ふと思ったが、それほど自分の心が乱れていないことに気づき、それに町の風景や人々の姿がいつもと違ったように感じられ、そのまま進むことにした。 マサオは人々の群れとともにさらに歩いた。ビルディングの窓から漏れる光や、目立ち始めた広告塔の光が霧雨に乱反射し上方を明るくしている。マサオはそれらに眼を奪われて歩いているうちに、いつの間にか先ほどの女性の姿を見失っていた。 いきなり駅前の華やかな風景がマサオの全視界に飛び込んできた。マサオは心地よい動揺を覚えながら捕われたように雑踏の中を歩いた。どこからともなく鳴り響く扇情的な音楽が町全体に溢れ、人々の足取りをいやおうなく軽快にする。マサオはその押し付けがましさにやや不満を感じながらも、体全体に沸き起こる躍動感を無視することはできなかった。おびただしい車の排気音がひとつの騒音なり、人々の全身にまとわりつく。マサオ方角を見失いそうになりかけながらも人々の流れに従い歩き続けた。駅に通じるすべての通りの建物には、色さまざまのおびただしい広告塔やネオンサインが乱雑に掲げられ、激しく人々の資格をかく乱する。マサオは思考力が失いかけそうになりながらも、昂揚する気持ちを感じながら歩き続けた。 人々は相変わらす霧雨のなか傘の下に表情を隠して歩いている。デパートに出入りする人々、駅に出入りする人々、そしてこれといった目的もなさそうに歩いている人々が、衝突し渦を巻き、舗道に溢れるほど混雑している。マサオは人々の流れに従いながら、帯びた足しい人々とすれ違い、すれ違い、歩き続けた。そして、いつの間にか、駅の構内に来てしまっていた。だがマサオは、自分はどこかへ行こうとしているのではないことに気がつき、ふたたび混雑する構内を通り抜け、通りに出た。 霧雨の駅前風景はいつもと違う趣きが感じられた。色さまざまのかさやレインコートが夜の光に映えていた。とくに女性たちのそれは色鮮やかで華やかである。そして人々は華やかで快楽的な風景に不思議なほど調和している。霧雨に夜の光が乱反射して町は巨大なドームのように光を放っている。 マサオは閉店間際のデパートになんとなく入った。何を買うわけでもなく、綺麗に陳列された靴や楽器や章ケースの宝石を横目で見ながら、そのまま足早に外に。マサオは先ほどとは気分が変ったことを感じながら、人々の流れに逆らうようにゆっくりと歩いた。マサオは自分が意外と冷静で思考力を失っていないことに気づき、安心した。そしてやや傍観者のような気持ちで町を歩く人々や風景に眼をやりながら歩いた。 マサオはすれ違う若い女性の花もようの傘の下からのぞく容貌に突然眼を奪われた。それは夜の華やかさや快楽的な町並に似合った造花のような美しさである。マサオは後頭部がしびれ、両腕が抜け落ちてしまいそうな興奮を覚えた。マサオにとってはそれは絶望的な恍惚感であった。 マサオはさらに歩いた。高められた気分のまま。ときどき上方を見上げながら。マサオは歩きながら気づいた。傘の下に隠れている人々の表情がほとんど同じであることに。ときどき満足げに笑みを浮かべているものもいるが、それはあくまでも本人自身のためのものである。そしてほとんどは自己に閉じこもり、無表情でよそよそしいのである。どうしてあのようなそっけない表情になるのだろうかと思うと、マサオはいらだち、反発とも嫌悪ともつかない感情を覚えた。 ![]() ![]() |