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 やがて夕暮れが(8部)



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          はだい悠


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 病者のような退屈のうちに休日は過ぎ、そして月曜日。
 昼休み、マサオが一人でぼんやりしていると、斉木が近づきマサオの傍に座った。何か話したそうに落ち着かない素振りであったが、マサオは気づかない振りをした。
「君はずっとここに居るつもり?」
と斉木が深刻そうな顔つきでマサオの顔をのぞきこむようにして話しかけた。マサオは無表情に黙っていた。さらに斉木は、周囲に気遣うように声を抑えて話し続けた。
「こんなところに居てもしょうがないと思わない? 他にもっといい所があるっていうのに、、、、実は今、ほかの会社を探しているんだよ。こんなこと一生やってられないからね、、、、」 
 マサオは斉木を無視するかのように窓の外に眼を向けたが、すぐに斉木のほうに向き直りながら言った。
「それでいい所が見つかったんですか?」
「うん、まあね。まだはっきりとは決めてないけどね。ここよりはいいことは確かなんだ。でも今、正直言ってどうしようかと迷っているんだ。君はどう思う?」
マサオは無表情でふたたび窓の外に眼を向けた。
《煮え切らない男だ。そんなにいやならさっさと辞めれば良いのに。そんなにいい所があるならさっさと行けば良いのに》とマサオは思った。
 他の同僚が二人の傍に座った。斉木はそれまで深刻さを忘れたかのように急ににこやかな表情に戻ると、話題を変え楽しそうに話し始めた。
 マサオの目に穏かな町並が入ってきた。遠くに雲が流れていた。ふと昨夜思ったことが脳裏を掠めた。相変わらず斉木たちの賑やかな話し声が響いていた。イヤならさっさと辞めればいい、とマサオは心のなかで呟焼きながらふたたび町の風景に眼を向けた。だが、ふと自分におかしみを覚え笑いがこみ上げそうになった。そして、なぜこんな簡単なことが今まで気がつかなかったのだろうか、と思った。
《イヤなら辞めればいい。その通りだ。それはまさに自分のことなのだ。ほんとうに煮え切らないのは自分なのだ。このまま行けど自分はどうなるのか? あれほど明確な答えが出ているというのに、何を迷うことがあろうか。自分が意義も価値も認めていないところに、どうして自分の生きがいを見付けることが出来ようか? 何も無価値と認めた状態にとどまることはない。もうくよくよすることはない。あとは自分の考えや思想を実行するだけだ。それがこれからの自分には役立つのだから、、、、、》


 翌日、マサオは退職届を出した。
 後悔はなかった。むしろ今週限りですべての関係から開放されると思う、せいせいした気分であった。
 同僚たちへは辞める当日まで、自分からは何も話さないでおこうと決めた。それはぐずぐずして煮え切らない斉木へのあてつけもあったが、同僚たちに辞める理由を聞かれたり、それにいちいち答えたりすることが煩わしいと思ったからである。それに《去るものはいまさら何を言うことがあろう、あとは別れてそれっきりの関係になるだけではないのか》と思ったからである。だが、ほんとうのところは、一刻も早く、だれにも知られることなく、ひっそりと姿を消したかったのである。それは、理由がどうであれ、自分はこの会社を見限ったのであるから、このままかつての同僚たちと顔をつき合わせているのがなんとなく悪い気がして、きっと居ずらいものになるに違いないと思ったからである。
 マサオはいつもより気楽な気分で午後を迎えた。それでも終わりごろになるといつものように、頭がボォッとし散漫な気分になっていった。そのうちにマサオの頭には、退職届を出したときの上司の驚いた表情や、上司とのちぐはぐな会話が、脅迫的にくり返しくり返し浮かんできた。だが、これで何もかも終わりだと思いこむと、気分が落ち着いてきて、自然と笑みが浮かぶのを感じた。マサオは心にゆとりを覚えながらぼんやりと窓の外に眼を向けていると、ふと知子のことが頭に浮かんできた。他のものにはかまわないが、知子にだけは前もって話さなければいけないような気がした。


 夕方、マサオは知子の帰る姿を見ると、あとを追うように外に出た。
 外気は冷たかった。マサオは急いだ。知子は会社の同僚の女性と話しながら歩いている。マサオは知子が独りになるのを待った。マサオはゆっくり歩いた。陽は沈み、西の空が焼けていた。
 交差点で知子はその女性と別れた。知子はひとりで歩き始めた。マサオはふたたび急いだ。
 点滅する信号に眼をやりながらマサオは足早に横断歩道を渡った。夕闇に知子の姿がだんだん近づいてきた。だが独りで歩いている知子の姿を見ているとマサオは急に不安になってきた。
《言うべきだろうか?、それともこのままだまって居るべきだろうか?》とマサオはなぜか迷い始めた。
 マサオの気配に気づいたのか、それでも知子はやや不安げな表情で振り向いた。だがマサオであることを認めると、恥ずかしそうに笑みを浮かべた。その笑顔を見たとたん、マサオは自分が判らなくなった。
 ・・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・
 知子が声を弾ませ話し掛ける。
「さっきの人ね、、、、」
「、、、、」
「このまえ,だんなさんが酒ばっかり飲んでいて、働かないって言ってた人、、、、」
「、、、、」
「今度、働くようになったんですって」
「、、、、それはよかったじゃない」
「、、、、ほんとね、よかったね、、、、」
少し興奮気味に言う知子の表情は自分のことのように嬉しそうであった。
 車が頻繁に行きかうようになり、人影が多くなり、通りは夕暮れ時のあわただしい風景に変っていた。
 マサオはだまっている知子が気になり、何気なく見た。いつもより化粧が濃いように思われた。夕闇にその顔が肉感てきに映えた。マサオは知子を身近なものに感じた。
「最近残業が忙しいのかしら?」
「うーん、そうでもないけど、どうして?」
「、、、、ただ、なんとなく、、、、」
マサオは知子といる喜びを懐かしいもののように感じた。
 冷気が肌をついた。上空には薄明るさが残っていたが、通りの風景はだいぶ暗くなってきていた。西の空が赤紫にかわっいた。 
 マサオは自分の目的を忘れていることに気がついた。会社を辞めすべての関係を断ち切ることは、どうじに知子とのこのような関係も切れることになるのだなと改めて気がついた。
「このあいだ、川があるって言ったでしょう、、、、」
「、、、、」
「川って言ったから、もっと広いかと思った。でも、あれも川といえば川ね、、、、」
 知子の屈託なく弾んだ声が、マサオの耳に心地よく響いた。
《言うべきだろうか? 黙っているべきだろうか?》とマサオはふたたび迷った。だがいまさら何も言わないでおくのは悪い気がした。
「私、もう洋裁学校には行かなくてもいいのよ」
と知子は満面笑みで言った。
「、、、、どうして?」
「だって、もうひととおり済んだから、、、、」
冷気をついて知子の香水が仄かに匂った。マサオはこのままずっといっしょに居たい気持ちになった。
 駅に向かう人々が二人の前後を歩くようになった。騒々しく行きかう車のヘッドライトが目立ち始め、通りはいっそう夕暮れ時の賑わいを見せ始めた。

 歩きながらマサオは漠然と自分と知子の未来を思った。だが、なぜか二人にとっての幸せそうなイメージは浮かんでこなかった。それにマサオは、自分だけしか知子を幸せにできないという気持ちにはどうしてもなれなかった。幸せとはそんなに特別なことではなく、それは自分でなくともそれほど変らないような気がした。
《言うべきだろうか? それともこのまま黙っているべきだろうか? 言うならどのように切り出そうか?》
とマサオはふたたび煩悶した。
 踏み切りの警報機がなり始め、人々が群れをなし無表情で立ち止まっていた。
「やっぱり、もたなかった、、、、」
「えっ、なにが?」
「カイシャ、、、、」 
「カイシャ?」
「今度、辞めることにした、、、、」
「辞める? いつ?」 驚愕の表情でマサオを見続ける知子に、マサオは思わず視線をそらしてしまった。
「もう辞めた。今週いっぱいだけどね」
「ほんとうに?」
マサオは人々の群れに眼をやったまま頷いた。
「それで、どうするの? かえるの?」
そのとき電車が轟音とともに二人の眼の前を通り始めた。


≪つれてって!≫

≪よし、行こう! このままいっしょに行こう! 誰にも言わずにこの町から脱出しよう。もう何もためらうことなんかないんだ。もう何もかも捨てて、だれも知らない遠いところに行こう。君も僕も、もう他人の思惑や社会のからくりに振りまわされることなく、人間として素直に生きられる日々をいっしょに過ごそう。そこでは僕たちは生まれる前からいっしょに居るような感じなんだ。そして人間はお互いに苦しめあうこともなく、君は特別に女であろうと振舞う必要はなく、僕も特別に男であろうと振舞わないだろう。そうだ、きっとこんなに一日になるんだ。朝、まばゆい太陽が、大地に、森に、部屋に差し込む。それはなにが起きても怖くないように清冽な朝さ。そして青い空、澄んだ空気、穏かな気配のなかで、君にとっても僕にとっても満ち足りた午後を迎える。そして熱くまぶしい太陽、幻惑的な午後がやってくる。僕たちは自分のことだけで精いっぱいだったりして。するとお互いに相手のことを忘れたりするんだ。でもそれで良いんだ。やがて夕暮れが、子供のような悔恨のなかで、お互いに懐かしく認め合うだろう。そして静かな夜がやってくる。二人を取り囲むのは闇と静寂。僕たちの言葉や仕草はすべて自然の暗号となるんだ。僕は君を通して、君は僕を通して、宇宙と交わるんだ。僕たちの心は触手のように闇に延び夜の深みに溶け込むだろう。さあ、いっしょに行こう! このまま誰にも告げずに、いますぐ行こう! ≫

電車が通り過ぎた。マサオは自分の思いに酔いしれていた。夢のように甘美な気分であった。
 眼の前にふたたびごみごみとして風景が広がっていた。二人は人々の動きに促されるように歩き出した。マサオにはまだ甘美な余韻が残っていた。だがマサオの思いは言葉にはなりそうになかった。
「それで、どうするの? かえるの?」
「、、、、わからない、、、、」
「もう次の就職先は決めたの?」
「、、、、まだ決めていない、、、、」
 知子の声は落ち着いていた。それに比べてマサオは冷静さを装いながらただ曖昧に答えるだけだった。
 なぜ自分の思いを口に出して言えないのだろうとマサオは思った。だが自分にもその理由は判らなかった。


≪なぜなの?≫
≪判らない!≫


 二人は人ごみに流されるように歩いた。
「そうね、高橋さんには今の会社は似合わないわね。高橋さんはもっと良い所に行ったほがいいわ、、、、」
「、、、、、、、、、、、、」
 マサオの頭に先ほどの思いがふたたび浮かんできた。言うならやはり今しかないような気がした。
だが、どうしても言葉になりそうになかった。
 通りの風景は夜の華やかさをたたえ始めていた。
 駅が見えてきた。それまでよそよそしいくらい冷静であった知子に笑みがこぼれた。
「今週だけなんですか?」
「ええ」
 駅に近づいてきた。マサオはまだ他に機会があるような気がした。なんとかなるような気がした。
 輝き始めた夜の光のなか、二人は駅前で別れた。そしてそれぞれの人ごみに消えていった。


 翌日、会社に知子の姿は見えなかった。そして次の日も。マサオはそれとなく知子の同僚に訊ねた。風邪をひいて休んでいるということであった。そして次の日も。結局最後までマサオは知子に会うことはできなかった。



 最後の日、部屋に帰ったマサオは、忌まわしいものを扱うように、手垢でやや黒光りのするネクタイをはずした。これで何もかも終わりだ、あとは忘れるだけだと思いながら横たわった。


 気づかぬように夜は更け、町を包み込んだ冷気が部屋まで忍び込むようになった。もうこれからは明日のことを思うあまり、重苦しい不安な夜を過ごすことなく、ゆっくりと眠れると思いながら床についた。遠くを走る電車の音や、風のざわめきがかすかに聞こえてきた。そんな静かな気配のなかで耳を傾けていると、急に言い知れぬ寂しさに襲われ、子供のような心細さを感じた。
 それは、自分は会社を辞めて煩わしさや苦痛からは開放されたが、その
代わり、この現実社会に素っ裸で放り出されたことをはっきりと自覚させられ、あたかも落伍者であるかのような思いに捕われたからであった。これで人並みの生活は出来ないだろうという気がした。
《人々からは敗北者のように見られるだろう。そして人々のさげすみの眼の前で、人々の勝ち誇ったかのような態度の前で、屈辱を覚えるだろう。しかし自分で選んだ道だ。どんなに落ちぶれ、人々から相手にされなくやろうと、浮浪者のように嫌われようと、しつこく生き抜いてやる。自分は決して敗北者でも落伍者でもない。いいたい奴には何でも言わせておこう。笑いたい奴には好きなように笑わせておこう。とにかくふてぶてしく生き抜いてやる。勝者面する人間がいたら、皮肉めいた言葉を吐いて薄笑いを浮かべていよう。度し難い楽天家がいたら、この世界を暗い描いて脅かしてやろう。そして人知れず、下水溝を這いつくばるドブネズミのように、ときどきは顔を出して、このこけおどしのからくりを、見せかけだらけの風景を鋭い歯を見せてあざ笑ってやろう。そして闇にまぎれてこそこそと動きまわりながら人間どもの背後に無言で忍び寄り、その影だけ見せて気味悪がらせたり、不吉な言葉をささやきかけ不安がらせよう。あとは、ただ陰険に意地悪く生き抜いてやるしかない。 》
とマサオは襲いかかる孤独感に耐えるように思った。


駅でマサオと別れた翌日の朝、知子は重苦しい気分のまま目覚めた。起きて歩いたが軽いめまいを覚え少しふらついた。どことなく体がだるく熱っぽかった。風邪をひいたのかしらと知子は思った。このくらいなら会社に生けなく花なかったが゛、なんとなく気分が滅入り行く気になれなかった。


 次の日も体がだるく思うようにならなかった。今まであんまり休んだことはなかったのだから、たまには休むのもいいだろうと、知子は今週いっぱい休むことにした。父や妹たちがあわただしく出かけて行ったあと、静まり返った気配のなか、独り寝床でじっとしていると、なぜかこのまま会社を辞めたいような気持ちになった。


 土曜日の午後。ときおり窓ガラスが風に音を立て、淡い秋の陽射しが部屋に差し込んだ。知子は起き上がると窓に近寄り、やや体のほてりを覚えながら窓の外に目をやった。柔らかい日差しを受けた路地裏の風景が懐かしいもののように広がっていた。
《なぜあのとき、あんなことを思ったのだろう?》
と知子は少し後悔するように思った。
やっぱり自分は住み慣れたこの町を離れて暮らせそうにないような気がした。
そして自分には、こんな風景のなかで、父や母たちのように生きることが似合っているように思われた。
《良夫とだって、なにもまずいことはないのだから、そのうちにきっとうまく行くに違いない》
と知子は自分に言い聞かせるように思った。
 知子はふたたび横になった。そして窓の外にぼんやりと眼をやった。
《去られるものの寂しさをあの人は判っているのだろうか?》
と知子はゆっくりと眼を閉じながら思った。



 マサオは午後の町に出た。埃っぽい陽射しを受けながら町はいつもの賑わいを見せていた。青い空を背景に雲が空高くあわただしく流れていた。ふと源三や翔子のことが頭に浮かんできた。そして知子のことが。
《あれは夢なのだ。あんな生活が出来る場所なんてこの地上のどこにもないのだ》
とマサオは寂しく思った。


 街路樹のイチョウの葉が見事なほど黄色く染まり、ときおり風に散っていた。それを見てマサオはなぜか心安らぐのを覚えた。











     
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