やがて夕暮れが(3部) はだい悠
駅前は人ごみで混雑していた。マサオは前から来る人影をう まく避けて歩きながら、斉木に話しかけた。 「試験受かってよかったですね」 「あっ、あれ、、、、」 と斉木は言いかけたが、構内の混雑で、二人の会話は続かなか った。二人は黙って改札を抜け、同じ電車に乗った。電車はい つものように混んでいた。マサオは混雑を避けるように少し斉 木とも離れながら夕日の当たらないドア際にたった。電車が走 ると斉木がそばによって来て話しかけた。 「受かったからって、どうってことないんだよなあ、、、」 斉木はドアに寄りかかりながらがっかりしたような口調でそういうと、さらにしゃべり続けた。 「それで給料上げてくれるわけでもないしさあ、あんなの会社の気休めなんだよ。君は受けなかったの?」 マサオは周囲の沈黙が気になり判ったように頷いた。そして斉木は周囲に聞こえてもかまわないといった風にさらにしゃべり続ける。 「そう、僕は係長に言われたんだよ。受けたほうが良いよって。なんか受けないと、出世しないぞって脅かされているみたいでね。本当の子と言うと僕は受けたくなかったんだけどね、、、、なにせ受けたのは僕一人じゃないからね。他にいっぱいいるからね。半分以上は受かっているんだよ。試験だって、それほど難しくないしさ。そのうちみんな合格者になったらどうするんだろうね。出世なんてできっこないよ。たぶん試験の合格で甘い夢を見させて、このままずっと飼い殺しにする会社側の魂胆なんだろうね。やんなっちゃうよ、、、、、」 マサオは斉木のいうことにいちいち頷いたりして聞いているのがとても苦痛だった。それに周囲を意識するとなぜか恥ずかしい気持ちであった。それに比べて斉木は周囲にまったく気兼ねせずしゃべり続ける。だからマサオは聞いている振りをしながらときどき頷いてみたり、窓の外に眼をやったりしながら斉木が降りる駅を待った。 電車が斉木が降りる駅に着いた。先に降りた斉木が振り向いて、降りてこないマサオに向かって《来いよ、つきあえよ》と頼み込むように言うので、マサオは人目を考えて、仕方なく電車から降りて斉木についていった。 駅を出ると日はとっぷりと暮れていた。斉木の済む町もマサオの住む町と同様に、ネオンサインと広告塔に飾られた賑やかな、そして快楽的な町だった。マサオはその見知らぬ町を少し期待感をいだきながら斉木の行くがままについて歩いた。道すがら斉木は、投げやりな口調で意味の判らないことを言ったり、舌打ちをしたりしながら歩いた。そんな斉木を見ていると、マサオは話しかける気にもなれず、なんかひとりで歩いているような気分だった。斉木は何かを探しているようだったが、迷っているようでもあった。マサオはどうしても打ち解けない気持ちを抱いたまま歩いた。 繁華街を過ぎて、駅も遠くなり方角も判らなくなったころ、斉木は人影の少ない通りに面した落ち着いた雰囲気の飲み屋に決断よく入った。それを見てマサオはほっとしたような表情で斉木の後から入って行った。 テーブルに座ると斉木にネクタイを緩め慣れた口調でビールを注文した。マサオは《ここはきっと斉木の行きつけの店に違いない》と思いながら、店の様子をぼんやり眺めまわした。斉木はビールを運んできた若い女にからかうように意味のないことを言って笑わせた。そしてニヤニヤしながらその女の後姿を眼で追っていたが、すぐに振り返りマサオをチラッと見ては、満足そうに飲み始めた。 「どう仕事は楽しい?」 と斉木が先に話し始めた。 「楽しくはないけど、食うためには仕方がないよ」 「食うためにね」 と呟きながら斉木は自分のコップにビールをそそいだ。 「君は確か僕より一年遅く入ってきたんだよね」 マサオは飲みながら頷いた。そして斉木は話し続ける。 「君はよく文句も言わずにもくもくとやっているよ、辛抱強いんだね」 「そう見えるだけで、そんなことはないですよ」 「僕なんかダメだなあ、毎日同じことばっかりやっていると頭がおかしくなってくるよ。こうして気晴らしをやらなくちゃやっていけないよ。なにせ毎日飲むからね。給料なんてぜんぜん残らないよ。君は残る?」 「少しぐらい」 「ああ、毎日飲まないとやっていけないよ」 斉木ははき捨てるようにそういうと、勢いよくビールを飲んだ。マサオはひとりで飲んでいるような気持ちになった。斉木はだいぶ酔いがまわってきたようだった。 「ああ、毎日同じことばっかりやっているなんて、頭がおかしくなってくるよ。給料も安いし、、、本にいいところは沢山在るのに、何もあんなところにしがみついていなければならない理由なんてないんだよね。そう思わない?」 「他のところと言ったって、たいして変らないと思っているから」 「そうかなあ、そんなことないよ。いいところはいっぱいあるよ。今度ぼくは仕事を変えようと思っているんだよ。君そんなこと考えたことない?」 「ええ、あんまり」 「幸せものだ。ぼくはどうもあの係長の下で働くのはイヤなんだよ。ありゃ、相当に陰険だよ。そう思わない?」 「でも楽しそうにやっているじゃないですか!」 「そんなことないよ。どうも肌があわないんだよなあ。ずっとあいつに頭が上がらないなんて、うんざりだよ。まぁっ、追い抜けば別だけどね。でもあいつは意外と頭が切れるからね。まあ、あと十年はこのままで行くんだろうな」 「試験に受かったから案外早いんじゃないですか?」 「イヤ、僕の前にはあいつらがいるだろう、それに牧本先輩もいる。お先真っ暗だよ。もしかして君が出てくるかもしれないね」 「いや、そんなことはないでしょう」 「冗談だよ」 「、、、、、」 「それにね牧本先輩は話しうまいからなあ、上司に取り入るのがうまいんだよ、、、、」 斉木は相当によっているらしく、際限もなくおしゃべりが続きそうだった。マサオは自分のことだけしか言わない斉木にうんざりし始めた。斉木はビール瓶を振って空になっているのに気づくと大声で追加注文をした。 斉木は追加されたビールを飲んでいたが、喋り疲れたのか、先ほどのような元気は亡くなっていた。飲んだ跡は下をむきがちになった。そんな斉木を見ながらマサオは話しかける言葉が見つからなかった。沈黙がしばらく続いたあと、斉木が神妙な顔つきで話しかけてきた。 「何を楽しみに生きてんの?」 あまりにも唐突なのでマサオは面食らった。マサオは考える振りをして下を向いた。その仕草が斉木をますます滅入らせたらしく、斉木は大きくため息をついて黙ってしまった。《どうして打ち解けた話ができないのか》と思うとマサオは腹立たしかった。しばらくして斉木は気持ちが悪くなってきたと言って外に出て行った。 目の前に斉木がいなくなって、マサオは今まで息苦しい思いでいたことに改めて気づいた。マサオは椅子に背を持たせかけ、ゆったりとした気分で店内を見わたした。 職人風の男が一人で酒を飲んでは、しきりとテレビ画面に眼をやっていた。その隣にサラリーマン風の男二人がなにやら話ししながら飲んでいる。店の主人はもうもうと立ち込める煙の中で魚を焼いていた。店内は思ったよりも汚く雑然としていることにマサオは気がついた。マサオも相当酔っているらしく、先ほどまでの会話をほとんど忘れていた。思い起こそうとするが頭ががんがんしてできない。なぜ自分がここにいるのかも不思議なくらいであった。 三十分経っても斉木は戻ってこなかった。《家に帰ってしまったのだろうか》とマサオは思った。一時間経っても斉木は戻ってこなかった。店内が他の客で込んできたのでマサオは居心地が悪くなった。マサオは醒めかけた頭でもう帰るしかないと思った。 マサオは席を立ち、店の主人に勘定してもらうように言った。だが、ふと心配になった。先輩の斉木の誘いということで別に気にも留めなかったが、初めて持ち合わせが少なかったことに気づき始めたのだ。思ったとおりであった。二千円足りなかった。マサオは一瞬焦ったが、斉木が常連客であるらしいので、その訳を言って明日にでも不足分を持ってくると言えばなんとかなるだろうと思い安心した。 マサオはレジに立っている若い女にやや申し訳なさそうな顔をして、その旨を告げた。その女は作り笑いを浮かべると店の主人のところに行きなにやら小声でささやいた。主人はフライパンで何かを料理しながら黙って聞いていたが、マサオを睨みつけるようにして見たあと、カウンター越しに近づいてきた。マサオは苦笑いを浮かべて「あの、斉木さん、、、、」としどろもどろに言いかけたが、主人がすぐ「なに、斉木?」と語気を荒げて言うと《何をとぼけたことを言ってんのか》というような鋭い目つきでマサオを睨んだ。マサオは間をはずされたようにその後言葉が出なかった。 主人は不機嫌な表情をして、そのまま何も言わずに再び料理に取り掛かった。マサオは気づいた。主人は斉木ことを知らないということ、斉木もこの店の常連ではないということ、自分が勝手にそう思いこんでいたということに。マサオは混乱した。周囲の視線が気になり体がこわばる思いであった。なんとうかつなと後悔した。だが遅かった。 「その斉木って言うのは、どこに住んでいるの?」 と主人が険しい表情をして言う。 「ええと」 とマサオは言いかけたが、すぐに困惑した表情のまま何も言えなくなってしまっ。マサオは斉木がこの町のどの辺に住んでいるのか、まだ知らなかったのだ。さらにここの町名さえ知らないのだから、適当な地区名を言って、その場を取り繕うことさえできなかったのだ。マサオはいたずらをした子供のようにうろたえた。 「お客さん、いい加減にしてくださいよ」 と主人は呆れ返ったように言った。他の客がマサオを注目した。店内が急に静かになり、テレビの音だけが響いた。マサオは頭が上げられないほど恥ずかしかった。主人は険しい表情で料理をフライパンから皿に移していた。完全にマサオは信用を失っていた。いまさらどう弁解しても、主人の印象をよくすることは不可能だと判ると、急いでこの場から逃げ出したい気持ちになった。しばらくすると、主人が薄笑いを浮かべて言った。 「あんたどこの人、何か自分を証明するものは持ってないの?」 マサオはようやく自分の社員証を提示することを思いついた。 マサオは全身から汗が吹き出るような恥ずかしさを感じながら社員証を提出して、不足分は明日必ず持ってくることを約束した。 マサオは酔いと気落ちでよろけそうになったが気力を振り絞り外に出た。 街路樹がかすかに風に揺れた。マサオはそのざわめきが気になった。忌々しいと思った。マサオは気を取り直し何事もなかったかのように歩きだそうとしたが、帰り道が判らなかった。マサオはここに来た道順を思い出そうとしたが、疲労と酔いで頭には何にも浮かんでこなかった。マサオは早くこの場から離れたいいっしんから、どっちでもかまわないと思い半ばやけ気味に歩き出した。 歩きながら恥ずかしさと悔しさが交互にこみ上げてきた。マサオはすれ違う人に見られているような気がして歩きづらかった。 ちょっとした誤解からとはいえ、ごろつきのように扱われたことを思うと腹立たしかった。 マサオはまず駅を見つけださなければと思った。だが、行っても、行っても、駅がありそうな場所には辿りつけなかった。マサオは見知らぬ町を迷い犬のような心細さで歩いた。歩きながら忘れかけていた悔しさがこみ上げた。 道を横ぎっていると一台の車が、マサオの前を通り過ぎながら「ばかやろう、気をつけろ」とマサオを怒鳴りつけた。その瞬間マサオは反射的に敵意を覚え、そして過ぎ去った車を睨みつけた。信号を無視したのはマサオだった。マサオは自分が悪いと思いながらもこみ上げる怒りにやりきれなかった。情けないと思った。 マサオは泣き出したいぐらい惨めな気持ちのまま歩き続けた。だが駅は見つからなかった。 いつのまにかマサオは広い通りに出ていた。 都会のど真ん中にこんな寂しい通りがあるのかと思うぐらい人影もなく、車もほとんど通らない薄暗く広い道であった。道の両側は電気の消えた高層ビルが旅人を威嚇する荒野の絶壁のように黒々とそびえたち、所々にある水銀等が青白く道路を照らしていて、まるで廃墟のように静まり返っている。道路は下り坂になっていて、遠くに繁華街の灯りが見えるが、前方は暗く、その先がどうなっているのか判らない。不安を抱かせる洞窟のようである。都会の裏側のような風景のなかでマサオは固いアスファルトの道をとぼとぼと歩いた。汗ばんだ指と手には無意識のうちに力が入り、何かをつかもうとするかのように折れ曲がり硬直している。マサオは風がないことに気づいた。つかれきった足を引きづりながら歩く飢えた狼のようにマサオはただ訳もなく叫びたい衝動に駆られた。埃にまみれた額や首筋に汗が粘りつく。マサオは頭からは思考力も判断力も失われ、ただ不安と憎悪に満たさ暑さと不快感で消耗した重い肉体を引きずるようにして歩き続けた。マサオは完全に無力感に打ちひしがれていた。 マサオがようやく駅を探し当てたのはそれから一時間後だった。 電車のなかでマサオはだらしなく足を投げ足して座り、眠った振りをした。 沈みこんだ気持ちのままマサオはアパートに帰ってきたが、部屋に入って独りになるとほっとしたのか、少し平静さを取り戻した。マサオは以前から外での自分の状態を部屋の中まで持ち込むまいと考えていたので、《今日外で起こったことは忘れよう、何も考えまい》として眠ることにした。しかし眼を閉じて眠ろうとすると、マサオの思いに反して、今日起こった出来事が次から次へと頭に浮かんできた。マサオは眠りながら再び追い詰められたような精神状態になって行った。そしてふと《俺はやっぱりダメなのかなあ》という思いが脳裏をかすめた。いやな瞬間であった。今までマサオはそんな思いを無意識的に打ち消そうとしてきたきらいがあった。だがいまやその思いは脳裏に強烈に刻み込まれたらしい。そして次から次へとさまざまな思いが脅迫的に浮かんできた。マサオはだんだん身動きの取れない精神状態になって行った。マサオは思い込まされた。 《他の人たちは屈託なく精力的に生きているようだ。俺はみんなのようには生きていけない。俺はみんなとどこが違っているような気がする。皆より劣っているのだろうか? 俺はみんなについていけない。俺はやっぱり敗北者なのだろうか?》 抹殺したい瞬間であった。マサオにとってそれだけは認めたくない言葉であった。今までどうもうまく行かないと多少予感してはいたが、その言葉が自分自身の内部から心の現実として生じてきたことはマサオにとってショックであった。マサオはそんな思いをなんとか振り払おうとしたがムダであった。追い詰められた精神状態において、それらを振り払うほどの気持ちの余裕はなかった。そして振り払おうと思えば思うほど、その言葉は強迫観念のようにますます深くマサオの内部に入り込んだ。 真夏の都市は暑さをもてあましていた。 日中、強い陽射しを受け続けたコンクリートの壁やアスファルトの道路は、夜になっても暖かく、空気中にその余熱を放射し続ける。それに各家庭に普及した冷房によって吐き出される暖められた空気のため、外気はいっそう夜になっても醒めない。その結果、蒸し暑い夜が続き、はるか上空以外逃げ場のない熱は翌日に持ち越されることになる。 冷房のない部屋にとっては、同じように日中暖められた室内の壁や天井が、夜になってもぬくもりを残し、その余熱を室内に放射し続ける。窓を開けてはいるが、外気が暖かいため、その効果はあまりない。それでもいくらか夜明け前には室温が下がるときもあるが、それもつかのま、陽が昇るとともに室温も上昇し、熱い暑い一日の始まりとなるのである。 土曜の休日。マサオは寝苦しい一夜から目覚めた。昨晩から開けっ放しの窓からは、もう夏の強い陽射しが差し込んでいる。窓の外の空気は靄が掛かったように白っぽい。 せっかくの休みであるのに、マサオにとっては何もすることがなかった。かといってどんどん熱くなる部屋で寝ているわけには行かなかった。仕方なくマサオは起きると、水道の水を出しっぱなしにして、冷たい水で顔や手を洗った。十分すぎるくらいの開放感を味わいながらマサオは、流しの小窓を開けると、大家のタカが洗濯をしているのが見えた。 マサオは再び寝床に横になりタバコをゆっくりと吸った。 陽は窓の正面から差し込むようになった。暑い午後の始まりである。起き上がってマサオはカーテンを閉めた。じっとしていても汗ばむようになった。風はカーテンをほんのかすかに揺らす程度であった。汗ばんだ手や顔を洗おうとしてマサオは水道の水を出したが、水はもう生ぬるくなっていた。小窓からタカが玄関に水を巻いているのが見えた。マサオにはそれがとても涼しげに見えた。そして風も通らない部屋に居るよりは外に出たほうが良いと思い、身支度をした。 階段を降りると、タカが玄関から出てきた。そしてマサオを見かけると「暑いねえ」と独り言のように言って,手持ち無沙汰そうに再び玄関のなかへ入っていった。水をまいてあるせいか、部屋の中よりは幾分涼しかった。それに風があるように感じられた。マサオは散歩することにした。 マサオの足は自然と先日みた小さな森のあるほうへと向かっていた。 歩いているうちにマサオは、路地の両側のほとんどの家の窓は、この暑さの中でも、窓を閉め切っているのに気がついた。休日であるのに子供たちの遊ぶ姿もなく、その声さえ聞こえない。 マサオの眼に小さな森の全景が入ってきた。高いところは風があるらしく、上方の葉がかすかに揺らいでいた。歩き名がマサオは柵越しに半ば首を延ばすようにして、その小さな粗末な小屋のある場所を除いた。だが見えなかった。マサオはもっと近寄り柵に寄りかかるようにして見た。だが、やっぱり先日見た小屋はなかった。ただ四方八方にダンボールや板切れや石が散らばっていた。それは風や何かで壊れたという風ではなかった。それは明らかに人為的に破壊されたように散らばっていた。マサオは重苦しい気分に満たされた。 マサオは風のない小さな森から眼をそむけて歩き出した。夏の容赦ない陽射しのもと窓を締め切った家々 は物音ひとつなく静まり返っている。歩きながらマサオは《どうもいまくいかない》という言葉を思い浮かべた。 町に出て当てもなくぶらぶらしたり、涼を求めて喫茶店やパチンコ屋に入ったりして、マサオがアパートに帰ってきたのは夕方近くであった。 階段を昇りかけると、翔子が同棲中の男と部屋から出てきた。マサオは見ない振りをして階段を上がった。 部屋は温室のように暑くなっていた。マサオはドアを開けっ放しにして、お湯のように暑くなった水道の水を冷たくなるまで出しっぱなしにした。そして窓のカーテンを開けた。窓から壁の陰に居る翔子が見える。どうやら先に出て隠れているらしい。そして「わっ」といって飛び出すと、後から来た男を驚かした。 翔子は子供のようにかくれんぼを楽しんでいるようだった。マサオは意識的に男を見るのを避けた。そして翔子たちの無邪気な話し声を聞きながら、やや冷たくなって水で汗ばんだ手や顔を洗った。 マサオは下着一枚で横になり、涼しくなるのを待った。窓の外の風景は夕日色に染まり始めていた。夕方になると毎日のように泣き出す子供の鳴き声が聞こえてきた。 翌日の日曜日も朝から晴れ渡っていた。 休みの日は眠れるだけ眠ろうと考えていたマサオにとっても、さすがに温室のように上昇する部屋の暑さには耐え切れず、仕方なく起きることに下。時計は十一時を回っていた。マサオはさっそく冷たい水で顔を洗おうとしたが、水はもう温くなっていた。マサオは水を出しっぱなしにしたまま、窓に腰をかけ、《今日も暑く長い一日になりそうだ》と思いながらタバコを吸った。 外のまぶしい光がマサオの眼に慣れたころ、マサオは流しに戻りやや冷たくなった水で顔を洗った。 そのとき階段を駆け足で昇ってくる足音が聞こえた。若々しくリズミカルに弾んだ足音である。そしてマサオの部屋の前に来て止まると、うわずった声で叫んだ。 「高橋さん、たいへんよ、みずがもれてる!」 少し開けられた窓から翔子の紅潮した顔が見えた。 マサオは下着姿なのでドアを少し開けてみると、マサオの穴の開いた流しの排水パイプから水が溢れ出しており、通路が水浸しになっていた。マサオはあわてて蛇口を閉め《まずいことになったなあ》と思いながら、急いで身支度をした。そのあいだ、翔子の騒々しい叫び声を聞きつけて出てきた大家の源三の「なに! 水が漏れている?」という興奮した声が聞こえてきた。マサオには翔子のあわてぶりがはしゃぎすぎのようにも感じられた。 マサオが降りていくと、源三は笑みを浮かべて「水が漏れているのか、そうか古くなったからなあ」と独り言のように言いながら、排水パイプ見上げていた。二階の通路から溢れた水で、階下の部屋のドア前が水びたしになっていた。 二階の三つの部屋の流しから伸びた排水パイプは、二階の通路の下に設けられた一本のパイプにつながれ、それがアパートの過度の柱に沿って垂直に地中の下水溝へと延びていた。水漏れは以前マサオの流しが詰まった時に開けられた穴からであったが、そうすると実際に詰まっている箇所は、マサオの流しの前の所から、地中の下水溝の間のどこかであるらしい。タカが出てきて 「みんな、大きいごみまで流すからだよ」 と愚痴っぽく言った。いったん自分の部屋に帰っていた翔子も、ふたたび手に箒を持ったまま出てきて、水びたしになった二階の通路を見上げていた。 このアパートのすべての部屋には人が入っている。だが、日曜日となるとみんな出かけていていないらしい。だから水漏れに驚いて野次馬のように集まってくるのも、あまり外出を好まないマサオや、仕事を持たずいつも部屋に居る翔子や、暇をもてあましている大家夫妻だけとなる。彼らにとって、たかが水が漏れたということであるが、暑い夏の日には不思議と興奮を呼ぶひとつの事件なのである。源三は年甲斐もなく俺に任せろといわんばかりに張り切った。そして源三は、どうやら源三は通路の下のパイプが詰まっているらしいと判断すると、梯子を持ってきて立てかけた。そして勢いよく登った。はしごが少しぐらついた。「アブナイ」といってタカが近寄りはしごを抑えた。マサオはなんとなく大丈夫だと思いながらぼんやりと見ていた。 源三は二階の通路の下に設けられた排水パイプの先端のふたを回そうとした。それはねじ式になってあり回せばふたが取れるようになっていた。源三は力を込めて回そうとしたがまわらなかった。そのときはしごがぐらついた。源三はちゃんと抑えているようにとタカを怒鳴った。二度三度と試みたが回らなかった。源三は硬くてだめだと言いながら降りてくると、今度はドライバーとハンマーを持って昇り、そのふたを打ち砕こうとした。タカは若者のように気負う源三を見て心配そうに気をつけてよと声から掛けたが、源三は余計なことだといわんばかりに乱暴にハンマーをたたきつけた。マサオもやや責任を感じていたせいか心配そうに見守った。ふたが勢いよく打ち砕かれると、なかに詰まっていた水がどっとながれ出た。下で見上げていたマサオとタカが驚いて逃げた。源三は「やった、やった」と満面に笑みを浮かべて勝ち誇ったかのように喜んだ。 だがそれは解決にはならなかった。 詰まっているのは、そこから地中までの間のどこかであるということが判っただけだった。それでマサオは自分だけの責任ではないということが判って少しほっとした。 今度は源三は太い針金を持ってきて、地中まで伸びたパイプの上からそれを差し入れようとした。詰まっている箇所をそれで押し流そうとしたのだ。だがなかなか入らなかった。「水道屋さんに頼んだら」とタカが言うと、源三は「うるさい、文句を言わずに抑えてろ」と荒々しく言い返した。しばらくすると針金が入り始めた。源三は「入った、入った」と呟きながら、押したり引いたりしている。マサオは暑さを感じながら不安な気持ちで見守っていた。そこへ掃除の終えた翔子が出てきて言った。 「こっちのほうで音がしているよ」 こっちのほうとは二階の通路下のパイプのことである。つまり針金は最初から目当てとするところに入っていなかったのである。源三は薄笑いを浮かべながら「やっぱりダメなのかな」と初めて弱音を吐いた。マサオは立ってみているだで疲れてきた。暑さも答えてきたので《やっぱり業者に頼んだほうがいいのではないか》と思いながら半ばあきらめの気分になってきた。そのとき翔子がマサオの前横に立って、はしごを抑えているタカにたずねるように言った。 「やっぱりダメなの?」 マサオは流すように翔子に眼を向けたあと、再び悪戦苦闘する源三の目を向けた。 翔子は薄いピンクのティーシャツを着ていた。マサオは一瞬で、翔子は何も身につけていない素肌にただ蔽うように無造作にそのティーシャツを身につけていることが判った。 マサオは何のためにその場に居るのかも忘れ、何も身につけていない翔子の若くてしなやかな肉体を思い浮かべた。 源三はなかなか諦めなかった。 それまで傍観者のように見ていたマサオであったが、ある思い付きが浮かんできた。マサオは「いっそのことパイプを切って調べてみたらどうか」と源三に提案した。マサオの案はすぐに受け入れられた。 源三は照れ笑いを浮かべ「頭がいいなあ」と冗談ぽく言いながらはしごを降りてきた。タカも暑さに参ったようで「そのほうが良い」と言いながら日陰に身を寄せた。そして「大きいごみさえ流さなければね」と翔子に訴えるように話しかけた。 源三がノコギリを持ってきて地表面近くでパイプを切り始めた。マサオもパイプを抑えて参加した。そのうちマサオはなぜか楽しいもののように思われてきた。 案の定切れ目から水が吹き出すように流れ出てきた。これで詰まっているのは地中であることが判った。 源三はパイプの切り口から先ほどの針金を差し入れ、押したり引いたりし始めた。だがいっこうに針金が突き抜ける気配はなかった。源三は深くしわが刻まれたほほを緩ませながら「こりゃあ、凄いなあ」と弱気に呟いた。 「よし掘ろう」と突然それまでの作業やめて源三がいった。これから地中のパイプを掘り起こさなければならない。 源三がスコップを持ってきた。マサオはもう作業の一員になっていた。マサオは源三からスコップを受け取ると照りつける夏の日差しの下で穴を掘り始めた。 タカはいつ終わるか判らない作業を見かねてか「暑い、暑い」と言いながら部屋に帰っていってしまった。 地表面は砂と小石が硬くなっており思うようにはかどらなかった。手を休めてみていた源三が笑みを浮かべながらマサオに近寄ると「だいじょうぶかな」と言った。その言葉を聞いてマサオは「軽い、軽い」と子供のように気負い力を込めて掘り続けた。翔子は二人の様子を黙って立ってみていた。ようやく硬い地表面は終わり、あとは柔らかい土だけである。マサオは源三と交代した。マサオは額ににじんだ汗を気持ちよく感じながら源三の様子を見ていた。 ようやく源三がパイプを掘り当てた。翔子は珍しそうにマサオの傍まで寄ってきて掘り当てられたパイプを覗いたが、マサオはなぜか意識的に無視した。そして源三にほうに注意を向けたが、少し動揺しているが判った。 だがパイプは容易に引き抜くことはできそうになかった。パイプの先がコンクリートの地下へと延びていたからである。マサオと源三が申し合わせたかのように眼を合わせては苦笑いをした。しかし二人ともここまでやってきていまさら諦めるわけには行かなかった。マサオは地面にひざを突き手に持ったドライバーで土をかき出し始めた。子供のときの砂遊びのような心地よさを感じだ。源三が心配げに溝の中を覗いた。マサオは手足が真っ黒になりか柄もこれは若者の仕事だと言わんばかりに力強くかき出し続けた。陽射しをまともに受けているため、マサオの顔や体からは汗が吹き出てきた。湿った土の香りがマサオの鼻先に匂った。 マサオと源三の共同作業が続いていた。いつのまにか翔子がマサオの斜め前で子供のようにしゃがみこみミニスカートから細い両足のほとんどをあらわにして見ていた。サンダルのかかとが高いため少し危なげな姿勢である。強い陽射しを受けて素肌が透き通るようにつややかである。マサオは動揺した。でも無表情を装い、源三と意味のない会話を交わした。地面からの照り返しが暑くまぶしかった。マサオは不法侵入者のような翔子の無邪気な姿に耐えながらもくもくと掘り続けた。《なぜこうも無頓着なのだろう、何気ない行為がどんなに動揺を与えるのか翔子は知らないのだろうか?》とマサオは思った。そのうちにだんだんと動揺が苦痛に変りつつあった。 十九歳の翔子は、マサオの斜め下の部屋で同じ年ぐらいの男と同棲していた。夜になると屈託のない笑い声やあどけない会話が隣家の壁に反射してよく聞こえてきた。翔子の体にはまだ熟しきらない少女の面影が残っていた。そして自分が女であることを自覚していないような無邪気な言動や、投げやりとも思えるような生活にマサオは日頃から気になっていた。そして深夜になるとマサオはたびたび、翔子のそのリズミカルな原始の声に悩まされていた。マサオは必要以上に翔子の存在にこだわっていた。だからマサオは必要以上に翔子を無視せざるを得なかったのだ。 苦痛と暑さでマサオの額から吹き出た汗が頬を伝いだらだらと流れた。翔子がよろけそうになりながら手に持っていたハンカチでマサオの額の汗をふき取ろうとした。そのときマサオは憤りにも似た興奮に苦しめられた。《なんと余計なことを、これ以上苦しめないで欲しい》とマサオは思った。無警戒な心に進入してきて自分の心をかき乱す翔子の姿や行為にマサオは腹だたしさを覚えたのだ。だがマサオは、そんな心の変化を隠すために、少し驚いたようにただ曖昧な笑みを浮かべて、作業に夢中になっている振りをするだけであった。 マサオは暑さと狂おしい気持ちを感じながらもくもくと土をかき出し続けた。そして翔子の存在を無視することに全精力を注いだ。 ようやく地中のパイプを引き抜くことができた。マサオは汗と泥まみれの姿で源三と顔を見合わせた。そのとき翔子の姿はそこにはなかった。 作業のすべてが済んだのは二時過ぎであった。マサオは汗と泥を洗い落とすと、暑さも忘れるほどすがすがしい気分になった。マサオはねぎらいの言葉とともにタカからに差し出されたジュースを飲みながら、風が起こってきた路地にぼんやりと眼を向けた。そのとき、翔子が手持ち無沙汰そうに自分の部屋から出てきたが、ドアを勢いよく閉めて再び中へ入ってしまった。マサオは再び路地に眼を向けながらゆっくりとジュースを飲んだ。 暑い日が続いていた。 ある日の午後、西の空に沸き起こった雷雲が、暑さにうだる都会の上空をみるみる蔽いつくした。そして四時過ぎ、雷を伴った激しいにわか雨を降らした。大粒の雨は空中に浮遊するチリや、街路樹の葉のほこりを洗い流した。 夕刻、マサオは退社時間になるといつもより早めに外に出た。はるか南の空は透き通るような青みを残していたが、上空には一時間ほど前に強い俄か雨をもたらした雷雲がまだ黒ぐろと覆い、あわただしくうごめいていた。そしてその黒雲ははるか西の空まで続いていたが、地平近くは薄くなったその黒雲の切れ目から、オレンジ色の夕日が射し込んでいた。 マサオは今にも降りだしそうな上空の雷雲を見上げると、急いで歩き出した。湿りを含んだ舗道の所々に水溜りができていた。街路樹の葉が風に揺れるたびに雫を落とした。 マサオはいつもより涼しさを感じながら歩いていると、前方に会社の同僚たちと歩いている知子の姿を見つけた。まもなく知子は同僚たちと別れひとりで歩き出した。マサオはさらに足早に歩いた。 「雨が降ってきそうだね」 マサオはそう声をかけながら知子に追いつくと横に並んで歩き始めた。知子は一瞬驚きの表情を見せたが、マサオだと判ってほっとしたのか、すぐに表情が和らいだ。マサオも安心して言葉を続けた。 「今日は知らん振りをしないからね」 それを聞いてあきえは少し不思議そうな顔をしたが、すぐにその意味が判ったらしく、やさしい笑みを浮かべながら答えるように言った。 「やっぱり雨が降ると少し涼しくなるわね」 「?!?」 「ほんと、また降ってきそうだね」 と知子は空を見上げながら言った。 「またって? いつ降ったの?」 「あら、知らなかったの? 四時ごろ、凄い土砂降りだったのよ」 と知子は子供っぽく言った。 「窓のブラインド閉めていたから判らなかったけど、そんなに凄かったの?」 「それに雷が凄いの! 怖かったわ」 「雷も?」 「怖くないの?」 「ひとりで居るときは落ち着かないけど、みんなといるときは平気だよ」 「私はダメだわ」 マサオの頭は疲れてボォッとしてはいたが、窓の外の稲光やそれを見て怯えている知子の姿を自然と思い浮かべることができた。そして黒い雷雲を引き裂くように走る閃光を見逃したことを惜しい気がした。 「今降って来たらこまるわ。傘は持ってないし、どうしよう、早く帰らないと、、、、」 「大丈夫だよ。どっかに雨宿りすればいいさ。それとも早く帰りたいわけでもあるの?」 マサオがそういいながら知子を見ると、あきえは曖昧な笑みを浮かべてマサオを見返した。 マサオはちぐはぐな会話が気になっていた。どうして斉木のように冗談などを言い合って開放的に進められないのだろうかと思った。 マサオはなんとか会話を続けたかった。マサオは斉木の口調を思い浮かべながら冗談ぽく言った。 「このあいだ、デートだったんだってね」 「このあいだ? ああ、あの日、違うわ、学校に行ったの」 マサオは怪訝な顔をして知子を見ながら言った。 「学校って?」 「洋裁学校」 そう言いながら知子は視線をそらした。マサオは黙って前を向いた。 知子はマサオの顔をのぞきこむようにして言った。 「アッ、笑った。いま笑ったでしょう」 「いや!」 「うそ! いい年をしてとかなんて思っているんでしょう!」 マサオは真剣な表情で答えた。 「イヤ、そんなことはないよ。感心しているんだよ。年なんて関係ないよ」 マサオがそういい終わると踏み切りに差し掛かった。マサオは人や来るの流れにのって渡り始めたが、知子は少し歩きづらそうにしてマサオの後からついてきた。マサオが渡り終えて黙って歩いていると、知子が追いついてきて、マサオの顔をのぞきこむようにしてみた。マサオは笑みを浮かべ知子のほうを見ながら言った。 「いつ頃からやっているの?」 「半年前から」 「そう、どうして、もっと若いときから行かなかったの?」 「うーん、判らない。それほど興味がわかなかったからかな? でも、最近、このまま何もやらないでいるのがもったいないような気がして、それに、、、、」 「毎日なの?」 「月曜、木曜の週二回」 交差点で二人は立ち止まった。排気ガスの白さが目立った。マサオは水滴を残す街路樹の葉を見ながら雷雨の様子を思った。信号が青に変った。歩きながら知子がいたずらっぽい笑みを浮かべてマサオに話しかけた。 「自分こそいつもより早く帰ってデートなんでしょう」 「そんな、相手がいないよ」 「うそ!」 「ほんとだよ。アッ、そうだ、誰か良い人が居たら今度紹介してよ」 マサオが言い終わると、ポツリポツリと雨が降り出してきた。二人は今までよりも急いで歩き出した。駅に近くなったころ、後ろの方で車のクラクションがなった。すると知子が急にバスで帰るからと言って、マサオから離れて歩き出した。そのときちょうど雨が激しくなってきた。マサオは知子の姿も見ずに、そのまま急いで駅に駆け込んだ。構内に入ったマサオは、ほっとしたような表情をしながら何気なく振り返ったが、どこにも知子の姿を見つけることはできなかった。でも、マサオはそれほど表情を変えることなく振り返り構内を歩き始めた。 激しく降り出した雨のなか、知子は迎えに来てくれた恋人の良夫の車のドアを急いで開けた。そして「わあっ」無邪気な声を上げながらあわてて乗り込むと、良夫の「早く閉めて」と言う声を聞きながら、ぎこちなくドアを閉めた。そして雨にぬれた髪の毛を両手でなでるようにして整えた。 狭い車のなかが親密感に溢れた。そして窓の外の様子が悪意を持ったようなよそよそしい風景に変っていった。大粒の雨が突き刺さるように車のボンネットやフロントガラスに降り注いでいる。知子は満面に笑みを浮かべて「迎えに来てくれたの?」と息を弾ませながら良夫に言ったあと、自分のスカートの乱れを手でたたくようにして直した。そしてほっとしたように軽くため息をつきながら、ゆっくりとシートにもたれかかった。良夫は少しも表情を変えずに乱暴に車を走らせた。そしてスピードを上げながらカーブを切ると、雨にたたきつけるようにして走らせた。広い通りに出ても良夫の表情は硬いままだった。 「さっきの男、誰?」 「あの人、会社の人」 とあきえは笑みを浮かべたまま言った。良夫が鋭い視線を前方に向けながら続けた。 「にやけた男だ」 「そう、ちょっとね」 とあきえは良夫に同調するかのように笑みを浮かべたまま答えたが、言い終わったあと、何か別の思いが頭に浮かんできて、なんとなく言い足りない気がした。だが、車内の親密な雰囲気のなかではそれもすぐ消えてしまった。 マサオが乗った電車が走り出した。雨は電車にたたきつけるように降り注いだ。マサオはドアにもたれかかり、ぼんやりと窓の外の風景に眼をやった。眼の前の窓ガラスを雨水が勢いよく流れている。その流れに注意を向けていると気持ちが落ち着いて行くのを感じた。そして疲労でボォッとしていた頭がだんだん回復していくような気がした。 マサオは窓から雲の状態を眺めた。西の空の明るさがだいぶ広がってきたのが判った。電車が着くまでに止めば良いなと思いながらただひたすら雨水の流れを見続けた。 知子は二年前、二十二歳のとき、女友達の紹介で良夫と知り合った。それまでの知子は異性を意識しての個人的な付き合いはまったくなかった。同僚の結婚話や噂話を耳にし足りしてうらやましく思ったり、また、自分から興味半分にそういう話しに加わって甘美な思いに浸ったりすることはあったが、自分の身近なこととしては何も起こらなかった。それにそういうことはきわめて少数の人に起こるもの、自分には縁遠いことのように思っていた。かといって、それで知子が自分の容姿に自信があるとかないとかということではなかった。知子はそういうことに特別気を配ったり、生活の中心において考えたり行動したりしないだけであった。 ![]() ![]() |