やがて夕暮れが(5部) はだい悠
夏も終わりに。 ある日の夕刻。沈みきれない夕日が町をオレンジ色に染めている。 知子は帰りのバスから降りた。涼しくなった風が知子の半そでのブラウスを通して汗ばんだ肌に気持ちよかった。知子はいつもと違う帰り道を歩き出した。意識して別の道を選んだわけではなかった。それは知子のほんの気まぐれと言ってよかった。知子は《こっちは少し遠回りになるんだわ》と思いながら歩いた。ときおりビルの切れ目からのぞく夕日をまぶしく感じた。自分の町の見慣れない風景に知子は、新鮮な印象を覚え、気持ちが引き締まる思いであった。 坂道があった。知子はやや息を切らしながらその坂道を登った。坂の下は線路が走っていた。上りきったところで目の前に知子の住む地区の全風景が広がった。小さな家々が六十件ほど、瓦屋根や色さまざまのトタン屋根を覗かせながら重なり合うようにして建っているのが見えた。 知子はゆっくり歩きながら自分の家のある方角に確認するかのように眼を向けた。自分の家が見えた。赤茶けたトタン屋根のくすんだ感じの家が、隣の家々に挟まれるかのように、ひっそりと建っているのわかった。ちょうど隣の家が新築のために取り越されているので、自分の家のたたずまいをはっきりと知ることができた。知子は自分の家の屋根や壁の色が周囲の家々のそれと違うのに初めて気がついた。《どうして自分の家だけが孤立したように屋根は赤く壁は白いのだろう》と不思議な気がした。そしてしゅういのいえいえのおおくがいがいとあたらしいたてものにかわっているのにきづいた。 この夕暮れ時に、手に乗りそうな小さな家々が寄り添うように建っているのを見ていると、知子は少し悲しい気分になった。なぜか惨めなほど狭い場所に自分たちが住んでいるように感じられた。父母や、そして今はいない祖父母たちの時代からずっとこんな場所に住んでいるのかと思った。そして無邪気にすごしていた子供の頃の自分の姿がふと頭に浮かんできた。 坂を下ってしばらく歩くと、いつもの見慣れた道に合流した。この道がそうだったのかと思った。 家に通じる路地を歩きながら知子は思った。《いつからかは判らないが毎日が同じよう、単調な毎日の繰り返し、もしかしたら死ぬまでこうなのではないだろうか?、若いときのように何かが起こりそうだと胸をときめかせるようなことは、もうやってこないのでないかしら。一生父母たちのようにこんな狭苦しい場所で細々と終えるのではないか》と。そう思うとかつて味わったことのないような寂しさを感じた。 路地は長いあいだの風雨でそり曲がり所々に隙間のできた板塀や、黒ずんだブロック塀にはさまれ、薄暗く、その何間置きかにさまざまな形の門が構えられていた。そしてそれらの門の奥には様ざまな家が閉じこもるように建っていて、それぞれの家のいまや台所から電灯の灯りが漏れていた。ときおり排水溝に音を立てて汚水が吐き出される。暖かい空気に混じりドブがかすかに匂った。知子は自分の家の板塀の上からはみ出したよく茂った庭木に眼を向けながら門をくぐった。そして陽に焼けた木の香りを感じながら玄関の戸を開けた。 静かな気配のなかに、奥から母の「お帰り」と言う声が聞こえてきた。まだ父たちは帰ってこないらしい。薄暗い玄関で知子はだるそうに靴を脱いで上がった。居間の灯りを反射する廊下を通して、なんともいえない湿っぽい匂いを感じた。《そうだわ、そういえば昨日も一昨日もこうだった。毎日がこんな感じだったわ》と知子はふと思った。すると急に重苦しい気分に襲われた。知子は妹といっしょの部屋に入ると、電気をつけずに汗ばんだスカートとブラウスを脱いだ。 知子は家に帰っても自分のための自由な時間と言うものを持ってなかった。いつも、家族の食事の準備や後片づけをする母の手伝いをしながら一日を終えていた。今まで知子はそういう自分に不満を感じたことはなかった。長いあいだの習慣で当たり前なことと思っていた。末っ子と言うことでほとんど手伝わない妹や、不規則に帰ってくる父、毎日のように食事の時間に間に合わない兄たちに煩わされても、知子は母親と同じくらいに献身的に振舞っていた。 母の話によると、今晩妹が婚約者を連れてくるということである。知子をご馳走を作る母の手伝いを始めた。 七時ごろ妹たちが帰ってきた。家の中が急に明るくなった。知子もなんとなく落ち着かなく自分のことのようにうきうきした気分になっていた。まもなく父が帰ってきた。みんながそろうといっそう話しが弾んだ。だがそのうちに知子は、いつもと違いそんな家族を冷静に眺めている自分に気がつき始め、とても奇妙な感じがしてきた。主役の気分で明るく無邪気に話しこむ妹、やや遠慮深げにぎこちなく座っているその婚約者、満足そうに笑みを浮かべている父、そして適当に話を合わせる母を見ながら、素直に楽しめなくなっている自分に気づいた。 《確かに子供の頃家族の集まりは楽しかった。それは必要なことであったように思われる。だが、高校の終わりごろから、自分が家族といっしょに居ることがほんとうに楽しかったのだろうか》と知子は自分を疑い始めた。そして《いや、もしかしたら、子供の頃からも、家族の楽しい雰囲気を壊したくないために、不満をひたすら押し隠しながら自分は楽しそうに振舞っていたのではないだろうか? ほんとうは楽しくなんかなかったのかも。自分が洋裁学校に行くようになったのも、無意識のうちにそんな家族から離れたいという気持ちが働いていたのではないだろうか》と思い始めた。 八時過ぎ兄が珍しく早めに帰ってきた。いつもは無愛想な兄ではあったが、好きな酒とご馳走を見るとさっそく仲間に加わった。テレビを見ながらときどき会話に割り込む兄を見ながら最近ほとんど話していないことに気づいた。兄はいったい何を考えているんだろうと知子は怪しんだ。今まで兄弟と言うことで何も話さなくても判ったつもりでいたが、ほんとうは何も判っていないような気がした。 知子は退屈さを覚えた。ふと自分はこの場にはふさわしくないような気がした。今まで何気なしにやってきたが知子は初めてのように自分の近い将来のことを考えた。《妹はもうじき結婚してこの家から出て行くだろう。兄はいずれ嫁さんをもらってこの家でいっしょに住むようになるだろう。そうなると自分はきっと居ずらくなるだろう。女と言うものはやはり住みなれた家から出て行かなければならないのだろうか》 時計は十時を過ぎていた。知子は母と後片付けの準備に取り掛かった。 あわただしい一日が終わった。知子は居間で話す妹と母の話し声を耳にしながら床についた。十二時を過ぎていた。 知子がうとうとしかけていると、母と話を終えた妹が乱暴に足音を立てながら部屋に入ってきた。そして部屋の電気をつけながら弾んだ声で話しかけた。 「もう寝ちゃったの? つまんないの」 興奮した面持ちの妹はまだ何か話したそうであった。知子は「まだよ」と眠気を降り晴らすようにはっきりとした口調で答えた。いもうとは寝支度をしながら言った。 「今日の姉さん、楽しそうじゃなかったみたいね」 「そんなことないわよ。楽しかったわよ」 「そうお、なんかいつもと違ってたみたい。ところで姉さんたちうまく行っているの?」 「うまくいってるわよ」 「姉さんたちがうまく行ってくれないと不味いのよね」 妹はそう言いながら電気を消して床に就いた。一瞬静かになったが、妹は大きくため息をつくと、やや声を押さえ気味にふたたび知子に話しかけた。 「姉さんたち、もしかしてまだ済んでないんじゃない?」 「済んでないって、何が?」 「言わなくても判るでしょう。その調子ならまだのようね。姉さんはこだわりやさんだからね」 「何を言っているの?」 そう言いながらも知子は妹に見透かされているような気がして動揺を覚えた。 「一度許してしまったら、結婚してくれなくなるんじゃないかとか、そのまま捨てられてしまうんじゃないかとかって思っているんじゃないの、、、、どうってことないのにね、、、なんとかなるものよ、、、」 妹の生意気な言い方に知子は激しくいらだった。 「心配ないって、うまく行ってるから」 と知子は落ち着いた口調で言った。だが内心は妹に心の動揺を見抜かれまいと冷や汗の出る思いであった。 「ほんとかしら、姉さんがねえ、それならうまく行ってるはずね。でも、姉さんがね」 そういう妹の声にはあざけりの響きが感じられた。執拗に詮索して人の心をもてあそぶような妹の態度に知子は激しく腹を立てたが冷静さを装いながら言った。 「遅いから、もう寝ましょう」 すると妹は「うふふ」といって黙ってしまった。耐え難い沈黙であった。人を食ったようなその笑い声に知子はいくら自分の妹とはいえ許せない気がした。 妹の現金な寝息を耳にしながら知子は自分と良夫とはこれからどうなるのだろうかと思った。二人は今までちぐはぐな感じであったのは、妹が言うとおり、そんな関係が欠けていたからではないだろうかと、ふと思った。《それにしても今まで良夫にはそんな言動は見られなかった。それに二人にはそんな雰囲気にもならなかった。もし今度そんな雰囲気になったら素直な気持ちになったほうがいいのではないだろうか、妹の言うとおり何もこだわる必要はなさそうだ。それにもうそんな年齢でもないのだから》と思った。そして、そのことで二人の関係が深まり新たな段階に発展するに違いないと思った。薄れ行く意識のなかで知子は自分と良夫との夢のような未来が開けてきたような気がした。 陽は沈んだ。町は夕闇に包まれ、夜の照明はいっせいに輝きだす。雑踏に慰めを求める人々は町に溢れる。店先から街頭から流れる音楽は足取りをリズミカルにさせ、いやがうえにも人々の気分を高揚させる。そして快楽的な風景をさらに扇情的な雰囲気にさせる。人々は我を忘れて酔いしれる。特に若い男と女たちは風景の一部になりきり、夜の光と闇を演じようとする。そして町は雑踏と光と音楽で夢幻的な風景を形作る。 八月も終わりの土曜日。しのぎやすくなった午後を、アパートの一室で過ごしたマサオは、誘われるように夕闇の町に出た。 薄暗い路地の角を曲がると眼の前に華やかな風景が広がった。殺風景な部屋になれたマサオの眼には衝撃的に映った。とくに女性たち伸びやかでで生き生きとした姿が眼に入った。ショーウィンドーの前を明るい笑顔の少女たちが通り過ぎる。しなやかな肉体を髣髴とさせる薄着の女が軽やかな足取りで通り過ぎる。マサオの眼はイメージの世界のように美しいもの華やかなものだけを捉えるようになっていた。そしてマサオの頭の中は快楽的な風景で満たされる。マサオの横を通り過ぎる女たちの肉声や香水のにおいに、マサオの内部に潜み隠れていた欲望がめざめ、マサオの肉体を心地よくしびれさせる。そして時間とともにその欲望は静電気のようにマサオの肉体に蓄えられていく。風景の一部になりきったように明るく満足そうに振舞うアベックの姿にマサオは妬みを覚える。そして自分だけが華やかな風景に取り残されているような孤独感に襲われる。そんな孤独感のなかで、マサオの肉体に、今にも青いスパークを放つほどに高められた欲望は、暗い暗いはけ口を求めた情欲へと代わって行った。 二時間後、快楽的な風景に酔いしれ、もてあそばれるように歩いているうちに、マサオは不快な疲れを感じた。そして欲望のとりことなった衝動的な自分を感じながら帰り道を歩き出した。 マサオは人気ない薄暗い跨線橋を渡り始めた。 徐行し始めた電車の明るい窓から、座席に座っている若い女性の姿が見えた。その女性の白いスカートからのぞいた肉感的な足がマサオの眼に焼きついた。 マサオはちゅうちょなくある決心をすると、今来た道を引き返し、駅へ向かった。そして目的の場所へと電車に乗った。 十五分後、電車から降りたマサオは、マサオの住む町と同じように町を歩きだした。 陽が沈んでからだいぶ経っているにもかかわらず、空気は相変わらず生暖かかった。埃っぽい湿った空気がマサオの興奮した肌にまとわりついた。マサオは欲望に満たされた肉体を引きづるようにして歩いた。まもなく人出が異常に多い通りに行き当たった。そこは浴衣姿の大人の男女や小さな子供たちで溢れていた。どうやら商店街の主宰する夏祭りのようである。人垣のなかから太鼓の音が聞こえて来る。そのなかでは道路を通行止めにして盆踊りが行われていた。舗道には昔を思わせるような夜店が並んでいたが、欲望のとりことなっているマサオにはなんら興味はわかなかった。大人たちのハシャギ振りを見ているとかえって反発を覚えさせるものがあった。盆踊りの主役は子供たちであった。興奮した大人たちの見守るなか、子供たちが夢中になって踊っている。そんな子供たちを見てもマサオは何の感慨も沸かなかった。マサオにってはうんざりする雑踏であったが、目的の場所に行くためにはどうしてもここを通らなければならなかった。v マサオにとって、太鼓のリズムも子供たちの踊りも、楽しいものでも微笑ましいものでもなかった。猥雑で狂気じみたものに映った。わざわざ通行止めまでして行うほどのものではないような気がした。大人たちの意図を思うとその安易さに腹立たしいものを感じた。マサオは人ごみを掻き分けるように歩いた。 その混雑を通り抜けると、目的の場所の看板が横丁に見えた。マサオはその通りに入り何気なく歩くと、なんら物色する気配もみせずに、とある店のドアを開けて入った。 マサオは興奮の高まりを感じながら部屋で女が来るのを待った。まもなくさりげなく女が入ってきた。マサオにとって最も心ときめく瞬間であった。だが、落ち着き払った女の表情を見ていると、意外な感じを受けた。マサオが日頃から頭の中で思い描いていたような女性ではないような気がした。少なくとも白いスカートの女よりもあらわにされた脚をみても、ただそれだけで、何の感情も沸き起こらなかった。 「町は賑やかだったでしょう」 と女は言った。 「祭りを見に行かないの?」 とマサオはやや声が上ずるのを感じながらいった。 「子供たちだけだから」 と女は少しも表情を変えないで言った。 「ガキだらけ、今はガキ文化の時代だから」 とマサオは呟くように言った。だが女にはよく聞こえなかったようで、怪訝な顔をしてマサオのほうを振り向いた。マサオはなぜかちぐはぐな気持ちであった。 人影もない暗く寒々とした情景を脳裏に感じながら、眼の前が明るくなっていくのに気づいた。そして眼の前に白い空間が広がった。マサオはここがどこであるのか? 自分は何をしているのか? まったく判らなかった。ただ身動きが取れない恐怖を感じている状態だった。意味の理解できない女の声が聞こえてくる。と同時に肩をたたかれていることに気づいた。横を見ると、整った眉毛に眼をきりっと見開いた人形のような女の顔が見えてきた。母親にしかられた子供のようにおどおどしている自分を感じながら、マサオはやっと何が起こったのか判りかけてきた。貧血を起こしたらしく、ベットの縁にもたれるように倒れていたのだ。マサオは倒れる前の記憶を思い起こしながら、女に勧められるままに静かにベットに横になった。意識が薄れていくときの気持ちがこんなには心地よいものだとは思わなかった。《死ぬときもこんな気分なのだろうか? それにしてもどうして意識が戻ったのだろう? このまま戻らなくてもよかったのに》とマサオは思った。 マサオはどのくらいの時間気を失っていたのかと女に訊いた。女は驚いた口調で二十秒ぐらいよと答えた。だが厚化粧の顔からはその表情は読み取れなかった。マサオは意識を取り戻すときの異様な気分を思い起こした。これから行われようとすることと、そのときの気分は相容れないような気がした。そして脅かすように脳裏に浮かんでいた廃墟のような風景がマサオは気にかかった。 五十分後、マサオは外に出て歩き出した。混雑は相変わらず激しく、祭りはまだ続いていた。だが、マサオにとってそれは、楽しそうに動きまわる人間の群れに過ぎなく、なんの感慨も沸かなかった。そして、先ほどのような腹立たしさも煩わしさも感じなくなっていた。汚れた舗道に紙くずが散らばっている。疲れた大人があくびをしている。まとまりのないしらけた風景である。快楽的でも、幻想的でもなく、ただ華やかそうな風景が広がっているだけであった。マサオの心は風景の外にも内にもなかった。たとえようもなく空虚な気持ちであった。マサオは自分の寂しい欲望を思うと後悔しても仕切れない気持ちだあった。自分のあまりの惨めさのために泣き出したいぐらいであった。だがそれも行為となるほどの感情の高まりもなく、ただそんなイメージが頭をかすめたに過ぎなかった。抜け殻のような自分を感じながらマサオは帰りの電車に乗った。 エンジンがいつものようにかからないことに良夫はいらだっていた。そんな良夫を横目に見ながら知子は吹っ切れない思いでいる自分を感じていた。部屋を出る前からお互いに一言も口を利かなくなっていることに知子は気になっていた。知子は笑顔を作って良夫の方を見たもののどことなくぎこちなく、ばつの悪さは隠しきれなかった。話しかけようとしたが適当な言葉が見つからなかった。たとえ見つかったとしても、言い表しがたい虚しさのあまり、実際に声になりそうになかった。 二人を乗せた車はけばけばしい看板のホテルの門から外に走り出た。 人影のない寂しい裏町風景を窓の外に見ながら知子は依然としてわだかまりを残している自分に気がついた。自分は妹のようにあけすけな気持ちにはどうしてもなれな気がした。自分が思い描いていたものとあまりに違う結果を思うとだんだん悲しい気持ちになっていった。知子は眼を閉じるとただひたすらエンジン音に耳を傾けた。今まで見えてい二人の新しい関係が急に見えなくなっていった。 九月初めの土曜日。真夏のような暑さがぶり返した。マサオは部屋に居たたまれなくなって午後の町に出た。 風はあったが湿り気を含んでいた。まもなく全身が汗ばんだ。マサオはいつものようにただぶらぶらと歩くだけであった。週末の午後と会って繁華街の賑わいは格別であった。あれほど人ごみを嫌っていながら、つい足を踏み入れてしまう自分に不思議な気がした。ほとんどの人々は蒸し暑さに顔を紅潮させていた。ショーウィンドーに眼を奪われながら歩く人々、店先に並んだ洋服を我を忘れて物色する少女たち、外食点の前に行列を作る女子高生や親子連れ、交差点にはどこからともなく人々が集まり、どこへともなく散っていく、みんなそれぞれ目的を持って歩いているらしいが、マサオには何かに取り付かれたように集まり、そしてさって行く様にしか感じられなかった。暑さと不可解な雑踏のなかでマサオは散漫な気分になっていく自分を感じた。眼の前に現われた本屋の看板を眼にするとマサオは吸い込まれるように入った。 店内は混んでいた。涼むにはちょうど良かった。だが、なんとなく落ち着かなかった。おびただしい本が、人々の心を圧倒するように、そして人々の目をひきつけるように陳列されていた。ふと手を伸ばしてみたくなるような表紙の装丁や帯の言葉、どれもみな刺激的で興味を引きそうなものばかりであった。魅せられたように眺めまわっているうちにマサオは自分が今何を求めているのかだんだん判らなくなってきた。とくに虚栄しんや自尊心をくすぐる帯の言葉にマサオの心はかき乱されていた。帯の言葉に動揺を覚えながらも、もてあそばれた自尊心の余りかえって、反発や嫉妬心を感じて、手にとって見ると言うほどでもなかった。マサオはそのうちに、そんな自分を惨めに存在に感じられてきて息苦しくなった。結局マサオはただ眺めるだけで、まとまりのない気分のまま再び外に出た。そして流行らなさそうな喫茶店を選んで入った。 予想したとおりであった。広々とした店内に客はまばらであった。音楽が静かに流れていた。マサオは他の客の話し声に邪魔されないように、なるべく奥の方の席を選んだ。照明は薄暗く、高い仕切りで周囲の様子が判らないようになっていた。マサオはほっとした。自分にはやはりこういう雰囲気が似合うように思われた。マサオは気持ちが落ち着いたところで、店に備え付けの新聞をゆっくりと読み始めた。漫然と読んでいたが、そのうちにある箇所に来るとマサオは思わず活字から眼を背けてしまった。だがマサオの内部に起こった動揺は隠しきれなかった。マサオはナイフを突きつけられたような感覚を味わいながら、自分はどうして他人の自信にあふれた意見や行き方が気になるのだろうと思った。マサオは閉じかける心を押し開くように再び恐る恐る眼をやった。すばらしい考え方のように思えた。うらやましい生き方のように思えた。こんなところでくすぶっている自分と比べてまったく違う人間のように思えた。するとマサオは急に外の世界が恐ろしいものに思えてきて、内気で臆病な子供のように、これから外に出て歩くことが億劫になってきた。そして、他人のそんな才能や自信に妬みの絡んだ複雑な感情覚え、全身が熱くなるのを感じた。マサオは焦りにも似た不安を覚えながら新聞を横に置いた。そしてコップの水を飲みながら気持ちが静まるのを待った。 流れる音楽が聞き慣れたものに変っていた。マサオは頭の片隅に動揺する気持ちを追いやりながら一心に耳を傾けた。流れるようなメロディと小気味よいリズムにマサオの心は同調して言った。そしてその高揚した気分が動揺する気持ちを忘れさせていった。マサオは心地よい感傷的な気分に浸り、酔いしれた。すると不安も臆病な気持ちもいつのまにかマサオの心から消え去り、満たされた気持ちになっていた。むしろ充実感を覚え、先ほどの滅入った気持ちが嘘のような気がした。マサオは心が広くなったような気がした。そして外を堂々と歩けるような勇気がわいてきたような気がした。 マサオは晴れ晴れとした気持ちで喫茶店を出た。 だが外に出て、まぶしく蒸し暑い雑踏のなかに入ると、その充実した気持ちもたちどころに失われかけていった。先ほどの音楽に酔いしれていた自分を思うと苦々しい気持ちになった。マサオは裏切られたような白けた気分で人ごみを歩いた。 繁華街を過ぎると眼に見えて人通りが少なくなっていった。砂埃を舞い上げる風が強くなっている。真夏のような陽射しにマサオの冷えた体たちまち元に戻っていた。アスファルトの照り返しがまぶしく、蒸気のような風が足元にまとわりついた。 町外れの見通しのきく通りを歩いていると、前方の交差点の騒然とした雰囲気に気づいた。道路わきに救急車が止まっており、人だかりができている。付近の店先には店の者が出てきて交差点のほうを見ている。道を歩いている人たちも立ち止まっては振り返り、マサオのほうに歩いてくる。そこは通行の頻繁なところである。マサオは交通事故に違いないと思った。マサオは興奮する気持ちを感じながら足を速めた。《大破した車、飛び散った血しぶき、熱いアスファルトに焼け付く血のり、物々しく動きまわる警察官》を思い浮かべると期待感に胸が高鳴るのを抑えきれなかった。 人だかりで交差点の様子が良く見えなかった。マサオを好奇心に身を任せて前に進み出た。だがそれらしいものは何も見えない。焼け付く血のりも大破した車も警察官の姿もない。もう片付けられたのかと思った。でもそれにしても様子がおかしい。マサオは周囲を見た。するとマサオが人だかりだと思っていたのは実はそうではなかった。人々が何が起こったのかと言う風に見ながら通り過ぎているだけだった。自分と同じように誰も何も知っていない様子であった。 交差点には普段と変わりなく、排気音を響かせてあわただしく車が走っている。ときおり風か起こり砂埃を舞い上げる。それだけの風景である。車に反射する日差しがまぶしい。マサオの額から汗が落ちた。マサオは再び歩き出した。もう決して後を振る変えることもなく。 暑さとけだるさで頭がボォッとしてくるのを感じながら、マサオはやや涼しげな路地に入った。なんだかはぐらかされたような気分であった。 歩きながらマサオは思った。 《もしかすると私たちは化かされて生きているのではないだろうか? 人々が群れを作り、みな同じ方向を見ているというだけで、私たちは、そこには何か注目すべきもの、必要なものがあると思ってる。だがそこにはもともと何もないのではないだろうか? ただ風が吹いているだけの風景であるにもかかわらず、私たちは勝手にそこには何かがあると思い込んでいるのではないだろうか? 私たちは、私たちの話題のなかに、伝え聞く噂話のなかに、私たちに共通した楽しいもの、幸せなもの、美しいもの、華やかなもの、そして欲望の形を見い出し、同じように思い描き、そしてそのようになりたい、そういうものを手に入れたいと、他人を意識しあい、あこがれ妬みながら生きているのではないだろうか? だが、その行き着く先はいつも何もない、ただのがらんどうで、虚しさだけではないのか? 二十数年のあいだ、自分は他の人との思惑のあいだで、そして群集によって作られた価値のなかで、無意識のうちに操られ、もてあそばれるように生きてきたのではないだろうか? 確かにそのこと自体には安心感があった。そして一見楽しげであり、幸福そうであった。だが、決して生きる意義や目的を指し示してくれるものではなかった。それならもうなにも、群集の作り上げたそんな曖昧な価値に頼って生きることはないのだ》 そう考えるとマサオは、今までの煮え切らない自分に腹立たしさを覚えた。 この発見にマサオは生きる自信を取り戻せるような気がした。 アパートに帰ったマサオは部屋に入ろうとしたが、うかつにも鍵を部屋に置いたままであることに気づいた。大家に開けてもらおうとしたが留守であった。埃と汗まみれの不快感のなかで、いつ帰るとも判らない大家を待つことにマサオは絶望的な気分になりかけた。だが、京の発見を何度も何度も自分に言い聞かせていると自分の内部にある力強さがよき起こってくるのを感じた。そしてマサオはその充実した気持ちを頼りにじっと耐えるように待った。蒸し暑さと興奮で汗がたえまなく流れ落ちた。二時間後、顔を紅潮させたタカがおぼつかない足取りで帰ってきた。玄関で待つマサオを見ると、「熱くて大変ね」と呟くように話しかけてきた。タカが玄関に入り少し落ち着くのを待ってからマサオは用件を言った。 タカが部屋の鍵をマサオに渡しながら言った。 「おじいさんが倒れてね、入院の手続きで忙しくて、忙しくて、、、、」 とこともなげに言うタカを見ながらマサオが言った。 「夏バテですか?」 「どうなんだか? 血圧が低いらしくって、五年前にがんの手術をしたことがあるからね、さあ、どうなんだか? 精密検査を受けて見なくてはねえ、、、、」 マサオは鍵を受け取り階段を上がった。 職場の壁に掛かっている時計を見ながら帰り支度を整えたマサオは、いつものように会社の玄関に向かった。ちょうど知子が玄関に差し掛かっていた。だがそのとき、廊下の奥のほうから怒鳴り声が響いた。それは知子に対してのようであった。知子は甘えるような笑顔でその声の主のほうを振り向くと、ややおどおどとした動作で二度三度と頷いたあと、気を取り直したように冷静な表情に戻り、玄関の外に歩き出た。そんな知子を見てマサオは、どうして怒鳴られてもへいきに笑みなど浮かべていられるのだろうと気になった。なにも皆の前で怒鳴るほどのことでもないのに、いったい誰だろうと思うと、マサオは無性に腹が立った。マサオは知子の後を追うように外に出た。マサオは知子に追いつくと少し興奮気味に話しかけた。 「どうしたの?」 「アッ、今のこと? なんでもないの」 「仕事のことで?」 「そうみたい」 「そうか、失敗をしたんですか」 「うふふ、、、、」 と知子は曖昧な笑みを浮かべた。知子にはそれほど気にはならなかったらしい。でもマサオにはそれがなんとなく気に入らなかった。 二人の前を歩いている年配の女性に追いつくと知子は親しそうに話しかけた。同じ会社の従業員らしい。 マサオは女同士の世間話にときおり耳を傾けながら歩いた。 ビル越しに太陽がまぶしい。まもなくその年配の女性とは交差点で別れた。 横断歩道を渡り終えてからマサオは話しかけた。 「さっきの人、会社の人?」 「そうよ、パートで働いている人。これからまた仕事なんですって」 「仕事って、まだ他に勤めているの?」 「そうらしいわ、だんなさんがちっとも働かないんだって」 「体でも悪いの?」 「違うみたい、毎日酒ばかり飲んでいるんですって」 怒鳴られても笑みを浮かべていた知子の表情が頭にこびりついていたマサオにとって、急に真剣な表情になって話す知子に何かちぐはぐな感じを受けた。マサオはからかう気分で言った。 「その割には明るそうじゃない、男を養うために働くのも結構楽しかったりして」 「そうかしら」 自分のことのように心配顔で話す知子を見ていると、マサオはさらにからかいたくなった。 「君だってそうなるかもしれないよ」 「私だったら、殺してやるわ」 その言葉でマサオは、ないふのきらめきが脳裏をよぎったような気がした。マサオは知子を見ることはできなかった。 陽はビルに隠れかかっていた。 日陰になると肌にひんやり感じた。マサオは「おう、涼しい」とわざと声に出して言いながら知子を見た。 知子は涼しさを肌で感じ取っているかのようにさわやかな笑みを浮かべていた。 踏み切りに差し掛かったとき、ちょうど警報がなり遮断機が下りた。まもなく電車が轟音を響かせながら通りかかった。マサオは周囲を見る振りをしたあと、先ほどの知子の言葉を思い起こしながら、知子の横顔を盗むように見た。厳しい言葉が出たとは思えないほど穏かな表情である。深く物思うような瞳、抑制された化粧。決して眼を奪われるような美形ではないが、なんとなくひきつけられる横顔である。秘められた意志、深い思いやり、静かな心情の広がり、じっと見ていると、遠い記憶のほのぼのとした思い出につながっていくような気がした。電車が通り過ぎると、知子の横顔に夕日の赤みが射した。マサオは知子に印象に浸りながら踏み切りを渡った。そこから駅までは日陰になっていた。ひんやりとした空気に身が引き締まる思いで気持ちがよかった。 「もう、夏も終わったのか」 とマサオは独り言のように言った。 「あっと言う間って感じね」 と知子は同調するかのように声を弾ませて言った。その声の興奮した響きにマサオは心地よさを感じた。知子がマサオの顔を覗き込みながらたずねるように話しかけた。 「こんなに早く帰って何かやることあるの?」 「何にもやらないよ、夕食食べて、風呂に入って、あとはぐっする寝るだけだよ」 「ほんとかしら、何か楽しいことがあるんじゃないの?」 「部屋に帰っても一人だからね、楽しいことなんてないよ」 「君こそ家族といっしょなんだから、楽しいことあるんじゃないの? それに何にもやることないんじゃないの?」 「そんなことないわよ。皆の食事の用意、それの後片付け。寝るまで落ちついたことないわよ」 「たしか妹さん居たよね?」 「居るけど、、、、」 「なるほど、、、、」 とマサオは独り言のように言いながら知子を見た。知子はすべてを理解した言わんばかりに笑みを浮かべていた。言葉に出さなくても何かに共感できることは楽しいことであった。 「独りで寂しいなんで思わないのかしら?」 その知子の子供のような疑問にマサオは心やすまるのを覚えながら、少し無邪気な気分になってマサオは答える。 「それは慣れですね。それに独りのほうが楽だったりして、、、、もしかして家族なんて案外煩わしかったりして、、、」 「なんだかわかるように気もする、、、、、」 マサオは知子の優しい心遣いを感じながら、だんだん知子の心の内側に入り込んでいくような気がした。マサオは満たされた興奮を覚えた。 「お嫁に行っても、また色々と大変なんでしょうね」 知子のすぐにでも返答を求めているようなその口振りに、マサオは何とか答えようとしたが、駅が見えてきた。マサオはこのままずっと話していたい気持ちになっていた。 マサオは通りすがりの喫茶店を指差して、「ここに入る」と冗談ぽく言って誘いかけたが、知子は気づかなかったのか、そのまま歩き続けた。 「今日は学校に行く陽だったの?」 「いえ、違うわ」 知子の事情ありげな戸惑いの表情を見てマサオはこれ以上追及するとは悪いような気がした。 知子はひょっこりと迎えに来ることがある良夫を気にしていた。できるならこんなところを良夫に見られたくないと思っていた。 マサオはやや名残惜しさを覚えながら駅前で知子と別れた。 ある日の夕刻。残業を得るとマサオは虚脱感を覚えながら時計を見た。六時を過ぎていた。マサオは散漫な気分のまま会社を出た。外はもう夕闇に包まれていた。空気がひんやりとしていた。だが疲労でこわばっていた肌には身震いを起こすような不快な冷たさであった。西の空が真っ赤に焼けているのが眼に入ってきた。だが、マサオの心は何の反応も示さなかった。写真のような風景がそこにあるだけであった。固いアスファルトの道をマサオは駅に向かって歩き続けた。 ![]() ![]() |