ブランコの下の水溜り(1部)

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          はだい悠



*    *    *




 陽はまだビルの屋上にその姿を見せていたが、時計は六時をまわっているようであった。
 清二は車(ワンボックスカー)のドアを開けて中座席の窓際に座った。座席は真夏の陽射しを受け続けていたせいか、車のボディのように熱かったが、何より我慢ができなかったのは、暖められた機械油の匂いや、汗や埃の吸い込んだビニールシートの放つ胸をむかつかせるような、異臭が入り混じったなかでの蒸されるような不快感であった。
 三郎は急いで窓を開け、車内よりは幾分ましな空気にほっとしたように息をつく。
 まもなく親方格の三好と石田や、他の作業員が乗り込んできた。 

 三好は作業服のチリやほこりを気休め程度に手で二三度払い落としながら助手席へと
、そして石田は無造作に運転席に乗り込む。すると石田はグウァと獣のような叫び声を上げた。よほど座席の熱さがこたえたらしい。
「おい、全部乗ったか?!」
石田はやや苛立ち気味に周囲に叫ぶように言う。
「ちょっと待って、まだ奥山が、、、、」
後部座席に座っている久保山が、石田の苛立つを感じ取ったかのように、やや心配げに言う。
 石田は皆が乗り込み始めてからまだ十秒も立っていないのに、車のエンジンをかけ出発しようとしている。当然皆はまだ自分の席に落ち着いてはいない。
そうこうするうちに無意味とも思える石田の怒鳴り声が車内に響き渡った。
「奥山何をやっているんだ、早くしろ!」
 辛く長い重労働から開放され、人それぞれに自分の安堵感に浸っていたが、いっしゅんの沈黙とともに、その声に注意が集まった。
 他の者にとって、なぜ石田がそんなに苛立つのかその理由を知るしべはない。エンジン音だけが響く不安な静寂が十秒ほど続いただろうか、日頃から石田に遠慮気味の三好が、石田の二発目の癇癪玉の破裂を気遣うかのように、清二に乱暴に言った。
「おい、清二、おまえ、『帰る』と奥山に言わなかったのか?」
 それは奥山のもたつきに、清二が責任あるかのような言い方であった。清二は皆の無言の非難が自分に向けられているような気がした。たしかに、清二と奥山は同じ新米として、いっしょに三好から言いつけられた作業をしていた。しかし、三好から帰ると呼びかけが在ったとき、奥山は清二の近くに居た。当然奥山もそのことを耳にしていたはずである。だから清二は奥山を無視するように何も言わずに自分だけであと片付けを済ますと、さっさと現場を引き上げたのである。というのも、普通辛い作業をしている者同士は、そこからは協力関係ということもあって、何らかの友情らしきものが生ずるものであろうが、奥山とは、仕事のこと、それもやむをえない場合以外は、極力口を利くまいという頑なな心持ちに清二はいつのまにかになっていたからである。とは言うものの、不慣れな仕事で疲労した自分の体を早く休めようと一番乗りをしたという、後ろめたさも在ってか、清二は奥山を呼びに車を出た。
 防護シートを潜り抜け、やや薄暗くなりかけた建設現場に入ると、奥山はちょうど仕事に使ったバケツをおいているところであった。
「みんな待っているぞ!」
と清二は冷ややかな気持ちで言うと急いで車に戻った。
 少し遅れてやってきた奥山が車に乗り込もうとしたとき、もう車に乗ったと勘違いしたのか、石田は車を発進しはじめた。すると久保山が"まだ、まだだぁ"と思わず大声を上げた。不穏な空気のなかで奥山がドアを閉めるとようやく発進した。それも奥山がまだ席に落ち着く前に、しかも乱暴に。
久保山が"まったくもう"と呆れ顔で運転席の石田には聞こえないほどの小声で非難するように呟いた。石田の思いのままの車は、ブレーキ音と急激に加速するエンジン音を交互に響かせながら、狭い道から狭い道へ、さらに大通りへと向かって進んだ。狂気じみた石田の苛立ちを、諌めることも宥めることも出来ないほかのものは、不安な気持ちのまま、ただ不運な子供が路地から飛び出さないことを祈るだけである。


 親方である石田は、童顔の、背丈が百六十センチに満たない、四十過ぎの小男である。だが向こう気の強さを思わせる荒っぽい口調や、岩石のようにガッシリとした肉体が、それ以上に見せていた。
 童顔といっても長い年月の過酷な労働や放蕩のせいか、幾分崩れかけていた。それに電気溶接の火花や夏の強い陽射しで顔の皮膚は赤く焼けただれ、醜いほどである。そのせいか顔には気安く他人を寄せ付けない気難しさをいつもたたえていた。でも頑強な肉体だけは、その短気な性格が災いして、どれほどの暴力やく恥辱の歴史が刻み込まれているのか知る術もないが、職人としても申し分のないものである。
 三好は四十過ぎであり、石田よりも少し背は高く、やや痩せ気味で弱々しそうであるが、いつも眼をぎらぎらさせて、猿のようにすばしっこく、自分の思い通りに行かないと、部下の作業員を怒鳴るくせは石田と変らなかった。それにその放蕩ぶりも石田に引けをとらなかった。

 道路は渋滞になっていなかった。快調に走っているうちに社内には安堵感がみなぎり始めた。
 三好が訛りのある猫なで声で石田に言った。
「きょう、××に行くんだけど、いっしょに行く?」
 ××とは石田たちがよく行くスナックである。
 予測していた渋滞に巻き込まれなかったせいか、それとも三好の言葉で飲み屋での歓楽的なイメージに心を占められていたせいか、石田は機嫌がなおったかのように穏かに答える。
「いや、ダメだ、他に約束があるんで、、、八時まで行かなきゃなんねえ、でも待てよ、遅くなってから行くかもしんねえ、、、、」
 どうやら今日の石田の異常な苛立ちはこのことに在ったらしい。果たさなければならないノルマ、はかどらない仕事、社長の不機嫌な顔、待ち受ける渋滞、奪われる夜の楽しみ、という図式が。
 清二は突然うづき出した人差し指を口にくわえ唾でぬらしながら、蜂にさされたような痛みに絶えていた。そしてときおり指をかざしてみた。
その様子を見ていた五十過ぎの久保山は清二に声をかける。
「センちゃんも、セメントに食われたか、、、」
「食われたって?」
と清二は驚いたように言った。
 久保山は清二の指先を眼を細めながら見ると、物知りらしく冷静にその原因を話しはじめた。それはセメントを含んだ液に長時間浸していると、その強いアルカリ性のために皮膚を通り越して、その下の皮下組織まで破壊されるという症状であった。
「このくらいなら、唾をつけとけばなおるよ、、、、」
と久保山はこともなげに言った。
「気をつけないからだよ」
と奥山は刺々しく横から口を挟んできた。そして、自分もかつてはもっと凄いのをやったことがある、そんなものはたいしたことがないよと言いたげに、自慢話のように久保山に話しかけた。
 清二は、その自分を非難するように言い方に、なにもイタイイタイとわめいているわけでもないだろうと、無言で奥山に腹を立てた。
 清二は水でふやけ白く変色した指先を見ると、小豆大の赤い皮下組織が、溶かされてなくなった皮膚からのぞいていた。

 会社の事務所につくと、別の現場に言っていた班がすでに帰ってきていた。
 石田の義兄でもある社長は、肥満気味の体を椅子の背に持たせかけ、作業の成果の報告を受けていた。少しアル中気味のその脂ぎった容貌や意を含む重々しい口調、それに不機嫌なときにはよく見せる周囲のものを威圧するような鋭い目つきは、過酷な労働を強いられる土建屋のオヤジとしての威厳を保つのに十分であった。
 部下の前では威張り散らす三好も石田もオヤジの前では話しもシドロモドロになり、なぜかボス猿を恐れるオス猿のよう大人しくなるのである。総指揮官への戦果の報告が終えると車は会社の宿舎にむかった。

 宿舎といっても、古い住宅が集まる奥まった空き地に、八畳ほどの広さに、小さな流し台とガスコンロ、それに二段ベッドを供えたプレバブが二棟、そして簡易便所と洗濯機が一台置いてある、いかにも自由労働者風向きのものである。


 陽が沈んでも気温は下がらない。
 日焼けした四人の男が、お互いの縄張りを侵すまいとするかのように、その狭い空間を動きまわる。
 清二は埃にまみれた作業服を着替えたが、奥山と、もう一人の男、奥山とは友人のように話の合う、鼻の横に黒い大豆大のイボつけた鈍重そうな三郎は、とくに着替えなかった。
 着替えが終わっても清二の落ち着く場所はない。
 二つの二段ベットとテーブルのため、あとに残された空間は人がすれ違うのがやっとで、しかもそこはいつも奥山と三郎に占有されていた。そこで清二は二段ベットの上に上がって一息つくのであった。
 しばらくすると奥山と三郎はぼそぼそと話しながら何かを大学ノートに記入していた。清二は興味がわき二段ベッドの上から顔を出しのぞいて見た。それに気づいて三郎がチラッと清二のほうを見ながら言った。
「清二君は、ニッポウ、つけないのか?」
「ニッポウって?」
 そう言いながら清二は注意深くノートを見ると、今日の日付と自分たちの名前が記入されているのが見えた。それは彼らの働いた日数を記録しておこうというものだった。
「でもそういうものは会社でつけているんじゃないの?」
 その清二の言葉に二人とも何の反応も示さなかった。だがその不快そうな表情は、会社なんて信用なるかと言いたげであった。清二が言葉を続けた。 「ところで今日六時まで働いたんだけど、残業手当出るんでしょうね?」
 二人から返事はなかった。たぶん耳に入らなかったんだろう思い、清二はもうは一度くり返した。
 すると当たり前だろうといわんばかりに三郎が下を見たままぶっきらぼうに言った。
「出る訳ないよ」
「それじゃただ働きじゃないか」
「そうだよ!」
と奥山が苛立ったように口を挟んだ。清二は何もそんな言い方をしなくても良いだろうと思うと、奥山に腹を立てた。そしてますます奥山とは、もう口を聞くまいとかたくなな気持ちになっていくのである。
 このような行き違いは、数日前清二がここにやってきたときから始まっていたのである。
   奥山は部屋の主であるかのように、テレビを置いたテーブルの前に陣取り、上半身裸のままコップの水(後で焼酎とわかるのであるが)をガブ飲みしながら夕食を食べていた。食べながらまくし立てる話は、自分の過去の手柄話や、知識をひけらかす自慢話しであった。知識の真偽は別としても、その饒舌ぶりは黙りがちな三郎を圧倒していた。

 清二がここに来たとき新参者のように丁寧に挨拶をした。でも挨拶は返ってこなかった。ただ清二が入った次の日にトンズラした無口で眼のぼんやりとした三人目の男が軽く頭を下げただけである。

 清二にとって最初の日から自分の居場所は二段ベッドの上の、広さ一畳、高さ一メートルほどの空間だけである。そこは砂でざらざらする敷布団が一枚おいてあるだけであったが、寝れないことはないと思えばそれほど苦にはならなかった。 だから清二が控えめにしているのは新参者としてそうしているのではなく、物理的におのずとそうせざるをえないからである。
 清二は不安の気持ちのかられ、明日は何時に起きるのか?仕事の内容はどんなものか?多少気を使って丁寧に訊ねたのだが、無視したかのように、二人からの返事はなかった。再び訊ねたが返事はなく、むしろうるせえ奴だなと言いたげな表情を浮べているだけである。後でわかることであるが、奥山と三郎と無口な男は、清二の前の日にここに来ていたのであり、仕事の内容を他人に説明できるほど、まだ把握をしていなかったのである。

 奥山は胸や肩の肉付きはシッカリしていたが、全体としては細身の清二より頭がひとつ低い小男で、眉間には終始不機嫌そうにしわを寄せ、ちょっとのことでは妥協はせんぞという雰囲気をただよわせていた。二十八歳の清二より三つ年上の三十一歳ではあるが、前歯二本かけたサル顔は、長いあいだの不摂生のせいか、まだ若さの残る上半身に比べて、みにくく、四十近くに見える。清二にとって外見的に見える奥山は、自己中心的で、小山の大将で、強情で負けん気が強く、さらに詭弁屋で天邪鬼で、いくら付き合っても親密にはなれそうもない人間に感じられたが、清二に直接対しているときだけはありきたりの表現では言い尽くせないものが感じられた。それは入り込めないもの、拒絶されているようなものであり、言い換えればいわれのない敵意を抱かれているようなものであり、これは今まで経験したことがないようなものであり、いまの清二にとっては、それならば、そんな敵意に対しては敵意を持って臨むしかないように思うしかなかった。


ノートに書き終えた三郎が薄笑いを浮べて話しかけたきた。
「オレの知ってる奴で、君に似た奴がいるんだよ、眼や鼻のとこなんかそっくりでね、そいつはいい加減な奴でね、調子が良いんだ」
「顔はそっくりかもしれないが、オレはいい加減でも、お調子もんでもないよ」
と清二も薄笑いを浮べて冗談ぽく言った。三郎とはことと次第によっては親密になれないこともないように思えた。だがその横柄な態度と様子やスキを覗うような眼つきには油断がならないような気がした。

 清二は夕食と風呂のために外に出た。風はなく気温はいつまでたっても下がりそうにない気配であったが、日中に暑さに耐え抜いた肉体に取っては、それほどに苦にならない。それよりも息が詰まりそうな部屋を脱け出たという開放感でいっぱいだった。下水溝の匂う裏通りをやや華やかな表通りに向かって歩いた。流しに注がれる水の音、食器のかち合う音、窓から漏れる家の薄明かりには、気持ちを和ませるものがあった。軽い筋肉痛と節々の鈍い痛みで体は思うように動かなかったが、何も考えることはなく、意識を自分の肉体にだけ集めていれば良いことにひしひしと充実感を覚えた。それに薄暗いなかを他人の眼を気にすることなく、体を投げ出すようによろめきながら歩くことは快感でもあった。

 いろいろな店が立ち並ぶ表通りには、まだ夕暮れ時のあわただしさが残っていた。車は途切れることなく行き交い、歩道には家路を急ぐ人々が溢れていた。
 風呂の帰り道清二は客も途絶えがちな食堂に入った。清二は最近、理由はハッキリと自分にも判らなかったが、物を食べることの楽しみや、その美味さ不味さはあまり感じなくなっていた。ただ体を維持するためにだけ、仕方なく口に流し込んでいるという感じだった。それでも気力がわいてきそうな充足感だけはあった。
 食堂を出た清二は人影もまばらな通りを歩いた。ほとんどの店はしまり、車もときどき通るぐらい、静かすぎるくらいである。飲み屋街の一角に通りかかった。清二が歩いている反対側のスナックから、美しく着飾り、夜の光に映えそうな化粧をした女に付き添われ、たいそうご満悦そうな男が出てきた。そしてさらにその後ろから二三人の男が出てきた。そのなかの一人の男がその女の背後にまわり、腰を動かしながら抱きつこうとしたが、その女に軽くあしらわれたあとは、他のものといっしょに清二と同じ方向に歩き出した。ときおり、またいらしてね、と言う女のほう振りかえっては、愛してる? と声をかけては、期待していたかのような女の愛してるわという返事に、また来るよと、何度も振りかえり子供のようなバイバイをくり返しながら歩いていた。どうやら彼らは三好と石田、そしてその飲み仲間のようであった。白いズボンに流行のシャツを着込んだ石田を始めとして、他のものも昼間の埃まみれの姿とは似ても似つかぬくらいに派手な服装である。彼らにとって毎日が祭りなのだ。酒と女たちに囲まれた夜を思えば、どんな過酷な労働にも耐えられるのだ。彼らはこの界隈に知られた顔として、肩で風を切るようにすかしては、毎夜どこかの飲み屋に現れては、見知らぬものには胡散臭い顔を持って眺めながらも、馴染みの客としては、多少の我がままも許されて、この街を縄張りのごとくにして飲み歩いているのである。


 女房に逃げられた三好と、まだ結婚したこともない石田は、給料日には、のみ代のツケを払ってしまうと一円もなくなってしまうのである。後は再びつけと卑屈な前借の生活で一ヶ月を過ごすのである。それでも彼らは、毎夜浴びるほど酒を飲みながらも、明日は決して休まないぞという気構えだけは持っていた。でも二日酔いの時には午前中はたいてい意識が朦朧としていて仕事にはならない。もちろん実際には朝まで飲むときもあり、その時は仕事を休む。だからそういうわがままぶりは社長や他の同僚たちの不満の種となっていた。とくに技量に優れ同じ親方格のものには彼らより給料が安いというせいもあったが、我慢のならないことであった。

 清二は彼らを避けるように裏通りに入った。しばらくのあいだ、よほど近くでないと顔の判別も付かない薄暗いとおりを歩いていると、向こうから体のガッシリとした男が力強い足取りで歩いてきた。普段なら何のこともなくすれ違うのであろうが、その男は清二の顔を覗き込むようにしてみたあと、狂気じみた高笑いをして通り過ぎていった。それに清二にとってはまったく知らない男である。遊び人風の派手な服装をしてはいたが、先ほどの連中の一人でもなそうであった。清二はその高笑いのなかに悪意のなさを感じ取ったので、それほど脅威を感じなかったが、夜のせいか幾分不気味な感じがした。


 宿舎がだんだん近づくにつれて、清二は憂鬱な気持ちになっていった。
 奥山のだいぶろれつが回らなくなったわめくような声が開けっ放しのドアを通して、静まり返った住宅街に響くように聞こえてきた。ここでも毎夜酒宴が開かれている。それも奥山独りだけの酒宴が。

 奥山は食い終わったラーメンのどんぶりを前にし、手には焼酎の入ったコップを持ったままベットの端に座っている三郎と話しこんでいた。素面である三郎が言った。
「、、、、、それじゃ聞くけど、中学を卒業したあと、すぐに名古屋にいったんじゃないのか?」
「違う、違う、最初は大阪だ。一週間してから夜行列車に乗って名古屋に、、、、」
「名古屋で何をやってたの?」
「プレス工」
「大変なの?」
「大変も大変。バカじゃ出来ないんだから。マイクロメーターで、マイクロメーターって知ってる? そのマイクローターで百分の一ミリ、千分の一ミリまで計ってあわせんだから、少しでも狂ってると大変だぞ、すぐモノはパアだよ。きびしいんだから、頭を使うんだから、、、、」
「それじゃプレスのことには相当詳しいんだね」
「うるさいよ、たいていのものはやれるよ」
「なあんだ、それならやってみない、オレが知ってる人に、プレスをやっている人がいるんだよ。やってみない。紹介してやるから、もったいないじゃないか」
「うーん、、、、」
と奥山は言葉を濁しかけたが
「でも、これ安いんだろう」
「ふつうだよ」
「うーん、ダメだ。たぶんダメだ。オレはきちんとしたところはダメなんだよ。きらいなんだよ。オレは気に入らないことはハッキリ言うたちだから、前に会社の寮に居たときさ、気に入らない規則があってね、オレひとりでそれを変えたんだよ、皆は反対したけど、ダメなものはだめだ、変えなきゃならないと言ったら、結局オレのいうとおりになったよ。ダメだよオレはそういうところはきらいなんだよ。」
「だいじょうぶ、小さいところだから、規則なんてないよ、、、、」
 奥山は話しているあいだずっと手に持ったままのコップを、ようやく口に持っていき飲んだ。そして眉間にしわを寄せてテレビに眼をやった。奥山は相当の近眼であった。
「お、これは××だろう」
と奥山は三郎にテレビドラマの女優名を言った。
「違うよ、××もっと老けているよ」
「いやあ、××だよ」
「違うって、それじゃ、最後を見よう、そうすれば名前が出てくるから」

 三郎のいうことが当たっていたので、清二は三郎の味方をしたい気持ちになったが、軽い眠気を覚えたので、黙ったままベットに身を横たえた。しかしこれがこのまま朝までの安眠とはならない。蛍光灯の光や話し声や扇風機の音が、どうしても気になり、彼らが眠りに付く十二時ごろまでただうつらうつらするだけである。とくに扇風機の音が凄かった。中古のせいか回っている羽根の音や首を振りかえるときのゴーゴーぎーぎーという規則的な振動音がベットを伝わって耳元で響くのには、清二は神経質になっていた。そしてこのところ奥山は電気をつけっぱなし、扇風機を回しっぱなしにして眠ったいたのである。そのためか清二は寝た気がしなかった。ほとんどうつらうつらのまま朝五時半の起床のときが来るのである。そこで昨夜清二は、無用な対立は避けようという気持ちから、奥山に
「寝ているとき扇風機の音うるさくないですか」
と遠まわしに言ってみたものの
「中古だからしょうがないだろう」
と切れ気味の返事には、それ以上何も言うことが出来なかった。奥山にとって扇風機は自分の占有物であり、暑さをしのぐためには、それがどん騒音を立てようとも、自分の許容音であるがぎりいっこうに気にならないのである。しかし二段ベットの上で風の恩恵にあずからない清二にとって、それは我が物顔で振舞う他人の音であり、神経を苛立たせ安眠を妨げるたんなる騒音なのである。

 頭のなかで扇風機が回っているような朦朧とした意識のなかで、言い争うような二人の声が清二の耳に入ってきた。いつも奥山のいいなりの三郎の抗議する様な口調が。
「、、、、、奥山さん、さっきそういうことで一致したじゃない、、、、」
「そんなことあったっけ、いったおぼうないなあ」
流し台のコンクリートを利用して、切れなくなった包丁を研いでいる奥山がとぼけるようにそう答えた。すると三郎は
「言ったよ、たしかに言ったよ、そう云うことにしようと言ったよ、、、、、そうなんだよ、奥山さんは、オレがこう言うと、あう言う、あう言うと、こういう、いつも反対のことしか言わないんだ、わざと俺と違うことを言うんだから、、、」
「そうかな?」
と言いながら少し笑みを浮かべた奥山は付け加えるように言葉を続ける
「そういうことにしようなどとはいっていない、オレはそうだと言ったので、そういうことにはしようとは言っていないよ」
「判った、判ったよ。奥山さんはいつでは間違いはない、奥山さんオレよりも頭が良いし色んなことを知っている、奥山さんはいつも正しい、、、、さあ、寝るか、、、、」
 清二には理解できなかったが、三郎はどうしても奥山には頭が上がらないようである。立ち上がりドアのところに行った三郎が言った。
「ドアを閉めたほうが良いかな?」
「うん、閉めたほうが良い、猫が入ってくるからな」
「あの猫相当に性格が悪いぞ、このあいだ噛み付きやがった」
「オスだからだろう」
「メスだよ、オレが押さえつけてみたんだ、そしたらメスだったよ」
「そんな訳ないだろう、三毛猫はメスはいないんだよ、メスは生まれないんだよ」
「そうかな、メスはいないのに、それじゃどうしてオスは生まれるんだ」
「知らないよ、昔からそういうことに決まっているの!」
 結局三郎はもっともらしくしゃべる奥山に丸め込まれてしまうのである。
 時計は十二時をまわっていた。明日は五時半起きだというのに、毎日のように夜遅くまで飲んではわめき、わめいては些細なことで言い争う、いったいどこにそんな体力があるのだろうと清二は不思議に感じた。
 三郎はそのままベットに横になった。しばらくして静かになった。どうやら奥山も寝たようであった。相変わらず電気も扇風機もつけたままだった。
 清二は二人が完全に眠ってからとめれば良いと思い待つことにした。そのほう当たりさわりがない、そして扇風機をうるさがっているということに、それとなく気づいてもらえればいいとおもった。
 三十分ぐらい経ったろうか、清二はベットから静かに下りた。三郎は作業着のままうつぶせになって寝ていた。奥山は上半身裸のまま眉間にしわを寄せ苦しそうな表情で眠っていた。清二は電気を消し扇風機をとめると、静かに二段ベットの上に昇り、これで安心して眠れると思いながら横になった。
十数秒ほど経ったろうか、暗闇に奥山の甲高い声が響いた。
「清二君か、扇風機を止めたの?」
「うん、そうだよ」
 予期していなかったので清二は気弱にそう答えた。
「何しやがるんだよ、勝手なことするなよ、暑いじゃないか」
「そんなに暑くなんがないじゃない、とにかくうるさいんだよ」
「うるさいって、オレだって我慢しているんだよ。上でごそごそしやがって」
「寝返りを打つなって言うの? そりゃあ無理だよ、そんなに上がうるさいんなら会社に言ってくれよ、二段ベットのせいなんだから、オレに言われたって困るよ」
「なに!」
その奥山の言葉には、人を脅しつけるような怒気が含まれていた。そのときただならぬ気配を感じ取ったのか、三郎がなだめるように口を挟んだ。
「奥山さん止めろよ」
 予想外の展開に驚きながらも、清二はこのところ気を張り詰めていたせいか、知らず知らずのうちにベットから身を乗り出していた。
 険悪なムードを残したまま再び静かになった。
 清二は興奮した気持ちを鎮めるかのようにゆっくりと体を横たえた。

 あんな得体の知れない奴と言い争うなんて、と清二は思いがけない自分のクソ度胸に驚いながらも、ふと、暗闇のなかに、包丁を研いでいる奥山の姿がちらついた。 まさかそこまでは、と清二は思い直した。だが、言い負かされた悔しさのあまり、、、、 それともたんなる腹立ちまぎれに、包丁を持って、、、、いやそのときは抵抗すればなんとかなる、こっちは素面だ、それに体も大きい、あっさりとやられるわけはない、酔っ払いに一撃でやられるわけはない、それに三郎が止めにはいるであろう、得たいの知れないやつだから、まさか眠っているあいだに、、、、いや相手を侮辱したわけではない、正当な言い分を主張しただけだ、なにも恐れることはない。やつだって自分が実際にやろうと思い立ったとき、うまくやれるだろうか、もしかしたら逆に自分が返り討ちにあうかもしれないとという不安はあるはずで、少しは俺を恐れるはずだ。 それにやつにだっていくらか後ろめたさはあるだろう、だいじょうぶ、恐れることはない、と清二は不安な暗闇のなかで思った。


 建築現場には七時すぎに着いた。親方の三好と石田は着くとすぐ黙ったまま車を降りた。石田は大きな咳払いをして現場内にはいった。それは早くしろよという無言の圧力でもあった。
 奥山はさっそく頭にヘルメットをかぶり席を立とうとしたが、こういう仕事に長い間たずさわってきて、何度も現場監督を勤めたこともある久保山が
「まだ良いよ、せかせかすることはないって」
と声をかけると、納得したように再び席に着いた。しばらくして三好が図面を取りに戻ってきた。久保山が
「三好さん、まだ良いだろう」
と声をかけたが、三好はあいまいな返事をしただけであった。
 再び戻ってきた三好が車の後ろドアを開けると、工具類を運び出そうとしながら急に怒鳴るように言った。
「清二、早くしろよ、今日はオヤジが来るんだぞ、もたもたしているとこ見られたら大変だぞ、、、、」
 清二はなんて俺だけがと思いながら、まだ醒めきらない体をゆっくりと起こそうとしていると、奥山が、オイオイと怒鳴るように言いながら、早くドアを開けろといわんばかりに、肘で清二を突いた。奥山の行為にムッとしながらも清二は不快な気分を残しながら仕事に入りたくなかったので、何事もなかったかのようにドアを開け外に出た。 奥山の後から出てきた久保山が、薄くなりかけた頭をな度ながら
「そうか今日は社長が来るのか」
と苦笑いを浮べていった。
曇り空にもかかわらず現場は朝から蒸し暑かった。
工具類を現場に運んだだけでも汗が全身から吹き出てきた。

 清二たちの仕事は、主に、二三回のビルディングのための赤い鉄骨に、幅六十センチ、厚さ十センチ、長さは長くて三メートルほどの羊羹型のコンクリート版を、電気溶接で取り付けた特性の金具に、順次貼り付けて、その外壁を形成することである。いわば現代の石工か? そのコンクリート版のなかにはスポンジのようなゴマ粒大の気泡がくまなくはいっているため、体積の割には水に浮くほど軽く、それで重さは晩の長さにもよるが、だいたい四十キロから百五十キロ程度である。そしてそれを実際に取り付けるときは、電動ウインチを使用するのであるが、ウインチで吊り上げているあいだは、版の片方を人間の両手で支えていなければならなくいし、その版を吊り上げ場所まで運ぶためには、いったん二人の人間で持ち上げ台車にのせなけれびならない。そこで最低でも七十キロ以上の重さを持ち上げて少し移動することの出来る力と体力が必要とされる。そのほかに版を取り付けるための知識と技術、また高所作業のための熟練が必要とされる。このような条件を備えているのが五年のキャリアの三好や、職人としての名をはって十年以上第一線でバリバリ働き続ける石田である。もちろん体力面では年齢のせいか心なし精彩を欠いている、というのもこの仕事はそのハードさからせいぜい四十代までといわれていたからである。それでも彼らを親方として動かし続けるのは長い肉体労働の経験と、リーダーとしてもプライドが気力でもってカバーしているのである。
   その点清二や奥山や三郎は、入りたてのぺいぺいにすぎず、版と版の接合面に出来る、直径六センチ、長さが最大にして三メートルほどの穴のなかにモルタルを流込んだり、ウインチを操作したり、鉄筋やL型鋼材をカッターで切断して運んだり、工具を三好たちの手元まで持っていったり、はては弁当を運んだり、休憩時にジュースを買ってきたりするという、補助的な仕事が主である。だから清二たちこの世界では手元と呼ばれているのである。でも久保山は清二たちよりも一週間早く入ってきただけなのに少し違っていた。久保山にはこの仕事に対する知識も技術もまったくなかったのだが、その体力的には少し衰えかけていたが、顔を真っ赤にしながらも版を持ち上げられる体力と、同じような仕事の経験とその口先の知識で、清二たちよりも優遇され、職人と手元の中間に位置していた。異常のように、人並みの体力と運動神経と頭があれば、誰でもこの仕事の職人になれるのであるが、あとは個人の意欲と経験と忍耐次第である。











     
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