ブランコの下の水溜り(9部) はだい悠
三好に対する加藤の悪評に慣らされてきた清二にとっては驚くぐらい意外な感じがした。建築関係の知識も豊富で、職人としても技量もはた目で見たほど悪いものではなかった。それに加藤のように強引で大雑把なところはなく、細やかでむしろ器用なほどであった。ただ体力面では明らかに加藤より下であった。 しかし仕事がはかどらなかったり、自分の思い通りに下が動いてくれなかったときは苛立ちを前面に現すことは他の親方たちと変らなかった。それに三好の場合、ナゼ苛立つのか下の者には計り知れない不可解な苛立ちがときおりあった。 職人として認められ始めたといっても、トオルは三好たちの域にははるかに及ばなかった。清二より少し早く入ったのでそういう待遇を受けている面もあった。ただこういう汗まみれの仕事をやる人間は少なく、なかなか集まらず、たとえ集まったとしても、一筋縄ではいかない流れ者や、他では使い物にならない得体の知れない人間ばかりで、そういう痛んだ人間ばかりが集まってくるなかで、若いアキラやトオルのような将来性のある人間は貴重な存在である。社長としても一人前になるまで大事に育てようとする方針があるようである。 そのためか三好もトオルに対してはいつになく丁寧に指導をしたりして気を使っているようであった。トオルも三好のときたまの叱責にもイヤな顔をせず、戸惑いながらも辛抱強く三好の要求に応えているようであった。 現場は繁華街から少し外れた三階建てのビルで小ぢんまりとしていてほかの業者もいないので作業もやりやすく、そのおかげか三好の機嫌もよく珍しく和やかな雰囲気で作業は進んだ。 三好は、清二にたいしても、ときどきではあったが愛想よく指示するようになった。そのことは清二にとって自分が信頼されているような気がして気分の良いものであった。ここまで来るのに二ヶ月も掛かったと清二は思った。 清二が三好に呼ばれて足場に昇ると取り付けが悪いのか少しゆれた。 「大丈夫かな?」 と清二が言うと、三好は 「大丈夫だよ、倒れはしないって」 と言いながら起源が良いときのような笑みを浮かべて、手を離したままおどけたような仕草で足を動かしながら、さらに大きく足場を揺らした。 清二は慣れたせいか、十メートルぐらいの高さの足場なら多少動いても怖くなくなっていた。三好はどんなに高くても怖がらなかった。幅二十センチほどの鉄骨の上をサルのようにすばやく歩いているのを見ると、これだけはどんなに頑張っても追いつけない気がした。そのことだけでも尊敬に値すると思った。ただ東京タワーの改修工事をやったときはさすがに三好も怖かったそうである。だがそれも揺れが烈しくて振り落とされそうになる恐怖で、単純に高さによる恐怖ではないのである。 慣れと一口に言ってしまえばそれまでであるが、最初はただやみ雲に怖がっていた清二がある程度までの高さを克服できたのは、足場の安全性に対する信頼もあったが、眼の前の実践的行為に対する正確な把握と、いっさいの余念を配して、その行為に集中する上で必要な自分の手足を思い通りに動かすことのできる自分の触覚の世界に対する完璧な信頼によるものだった。しかしそれ以上の高さになると、どうしても恐怖が先立って自信はまだなかった。万が一落ちても絶対に安全だという保障があれば別なのだが。 現場は町のなかなので、一歩外に出ると人通りの烈しい繁華街である。清二は三好に頼まれて休憩のための飲み物やタバコを買いに行くのであるが、汗と埃だらけのヘルメット姿の自分を思うと、綺麗な服装の人たちに混じって歩くのが何となく恥ずかしく気兼ねした。それにチリひとつ落ちてないような綺麗な店に入るのも店の者にイヤがられているのではないかと思い何となく入りずらかった。しかしそれは清二のまったくの思い過ごしであった。 店のものは気を使ってくれてるのではないかと思うくらいに、不思議なほど親切でうちとけた感じであった。店の者が中年の女性ときには、清二の格好を見て、とくに取り繕う必要もないという安心感からか、その口調も気安い感じで、愛想よく応対してくれた。 翌日からは安本が加わり清二たちの現場は四人になった。 安本には新人らしい遠慮はなかった。親方である三好にも、その聞き取りにくい早口で気軽に話しかけては、少しも恐れる気配を見せなかった。まだ慣れない仕事であるはずなのに、少しも不安そうな素振りも見せず、気楽に考えているようであった。。 朝にさあこれから仕事を始めようとしたときであった。安本は順位性にたいしても無頓着のようで、いままで清二が受け持っていたウインチのスイッチを手にした。それは仕事前に三好が、安本に今日の彼の役割を指示しなかったせいもあるが、自分から先立って仕事をしようとする意気込みの表れであり、また彼の独りよがりな性格のせいでもあった。 しかし清二にとっては、仕事に対するプライドや先輩意識が芽生え始めていたせいか、あまり気分の良いものではなかった。そして 「このでしゃばりめ、やれるものならなってみろ、そう簡単にできるものじゃないよ、身の程知らずめ」 という思いをどうしても抑えることができなかった。 案の定、安本はさんざんな結果に終わった。安本はモルタルにまわり、清二が今までどおりスイッチを受け持った。 安本が奥山の仲間とあきらかに違う所は、おしゃべりで仕事に対してあまり乗り気でないのは別にして、とにかく話しが通じるということであった。ユーモアがわかり笑いを共有できるということであった。他人を凝視しがちなギョロ目でも、失敗したときや叱られたときには、その眼で素直に感情の変化を表す素朴さがあった。今はまだ仕事に慣れてないから、あまり乗り気でないように見えるのかもしれないが、上のものの指導を進んで受け入れているところ見ると、それほど不真面目でもないようだった。だから彼がなぜ楽なガードマンを辞めてこのような肉体労働に流れてきたのか不思議であった。 表通りから外れた静かな住宅地に、草も伸び放題の空き地があり、そこに三つのプレハブ住宅が建ち得体の知れない人々が出入りしているのは、周囲には奇異に見えるかも知れてない。しかし、実際には、周囲の住民たちはそれほど気にしている様子ではなかった。ここが古くからの住宅地であるため、サラリーマンから土方まで様ざまな職業の人たちがひしめいているので、清二たちの姿もそれほど怪しげには見えないのかもしれない。それに一見ひっそりとして平穏そうに見える周囲の家々からもときおり怒声が聞こえたりして、不穏な気配を感じるときもある。皆それぞれに自分たちのことだけで精いっぱいで、周囲のことなどにかまっていられないのかもしれない。だからよっぽどの非常識なことでもしないかぎり、近所から苦情は来ないのである。 九月末になると、昼間の陽射しはまだ作業に応えたが、夜になるとかなり涼しくなり、だいぶ寝易くなった。 清二が入ってきた七月の末の暑さに比べると雲泥の差があった。 今このプレハブ住宅に住む清二を語るのにあまり過去は意味がない。いわゆる清二がなぜここに来たか? つまり今までどのような学歴や職業を経て、またどんな思想的経緯を経て、ここに来たのかを言及するのはほとんど意味がない。彼にそのようなものがないというのではない、たとえどんなに立派なものがあったとしても、生きるためには働かなければならないという黄金の真理の前ではあまり意味がないのである。でも強いて云うなら、ここに来たことが、これまで彼が持ちえた思想の行動結果であり、そして彼が今まさに現実的にその黄金の真理のもとで生きているということである。 そしてここに居る人間は、まさにその心理に突き動かされている人たちであった。 ただ彼らはこれまで清二が接したことのないような人たちであった。 石のように鈍重なものや、植物のような神経を持ったもや、動物のように感情的で凶暴性を帯びたものまで、人間としてのなんの華やかさもない、ただ飲んで食って生きているというだけのあまりにも現実的な、そしてあまりにも赤裸々な人間像であった。 清二が新聞広告を見てこの会社に電話をかけたのは、歩いているだけでも吐き気を催すような強い日差しが照りつける暑い日だった。 電話に出たのは社長の奥さんであった。清二は仕事の内容を訊いたが、彼女は、 「仕事がきついから」 とか 「辞めていく人が多いから」 といって、あまり勧めたくないと言った口振りだった。しかし、そう言われると返ってやりたくなるもので、清二はその足でそのまま会社の事務所に行った。 社長は仕事で出かけていていなかったので奥さんが出て応対してくれた。清二を見るとますます勧めたくないといった気配だった。それは背は高かったが、あまり頑丈そうではない体を見たからではなく、おそらく清二の顔つきを見てそうした態度をとったのであろう。なぜなら、鈴木や石田や三好のように体が小さくてもやれるという例があったからである。つまり清二の顔つきを見て、何となく肉体労働には向かないと感じたのであろう。しかし、そうなると返ってやりたくなるものである。それに彼女の物腰が柔らかく温厚そうで感じがよかったので、それほど変な会社ではないと思い、その晩に入社した。そこに奥山が居たのである。 社長には翌日の朝にあったが、その顔を見たとたん、清二はこれは大変なところに来たと思った。なぜなら、その強持てのする風貌はヤクザの親分にしても良いくらいであったからである。(映画に出てくるヤクザの親分とそっくりだったからである) 国沢が来てからは、奥山の部屋では毎日のように夜遅くまで酒宴が開かれていた。以前は奥山が一人でわめくだけであったが、国沢も大きな声で喋るので前にも増して騒々しかった。奥山にとって酒を飲みながら話しに乗ってくれる国沢は絶好の相手のようで、まさに刎頚の交わりを楽しんでいるかのようであった。 それでも開きっぱなしのドアから聞こえてくるのは主に奥山の声で場の主導権は奥山が握っているようであった。 清二にとって彼らの騒々しさはあまり気にならなかったが、どうも安本は積極的に参加していない気配なので、もしかして閉口しているのではないかと思うと多少気にかかった。 木曜日の夜のことであった。清二が寝る準備をしていると、奥山の部屋から突然怒号が響いた。最初は国沢の怒鳴るような話し声だったが、すぐその後から奥山のそれにも増して大きな怒鳴り声が追った。そしてドスンガタンという音が響いてきた。そのとき、隣の部屋から久保山が、 「やめろ、オヤジやめろ」 と気迫に満ちた声で叫びながら駆けつけた。 国沢は奥山の気迫に押されたかのように後ずさりしながらドアのところにその姿を見せていた。奥山は顔を真っ赤にし怒りの形相で睨みつけながら国沢の腕をつかんでいた。国沢も負けまいとするかのように睨み返しながら必死にその腕を振りほどこうとしていた。 「こら、二人とも、喧嘩をやめろ、オヤジやめろって、ヤマちゃんも、もう良いからやめろって」 と言いながら久保山が二人を引き離すと、国沢は 「大丈夫、オレはやる気がないんだから」 とばつの悪そうな苦笑いを浮かべた。久保山は 「ダメだ、二人がいっしょにいると喧嘩になるからこっちに来い」 と言いながら国沢の腕をつかんで部屋から出すと、国沢は 「気のつえぇヤロウだ」 とあきれたような笑みを浮かべて言うと、引きづられるようにして久保山の部屋に入って行った。 清二はドアを閉めると 「しょうがないやつらだな」 と思いながら、そのままベッドに横たわった。そして久保山に言い訳めいた話をする国沢の声をかすかに聞きながら眠りについた。 うつらうつらしながら清二は彼ら二人の性格からして、毎夜酒を飲んで話しをしているうちに、言葉のくい違いや、気持ちのすれ違いにより、喧嘩が起こってもそれほど不思議ではないような気がした。しかし清二は、彼らが清二がもとで喧嘩したことに気づいていなかった。それに奥山が夜のうちに出て行って、以後二度と戻らなかったことも。すべては翌朝に明らかにされた。 翌日の金曜日、清二は国沢と同じ現場になった。 奥山が夜中に出て行ったことが、朝にはみんなの知るところとなったが、誰も気にしていないようで、そのことは話題にもならなかった。 国沢も昨夜のことを忘れたかのように、慣れない仕事ながら、こまめな印象を与えるほど黙々と働いていた。大人すぎる彼の態度に清二はどうしても不自然な感じを拭いきれなかった。それに若いトオルを親方と呼ぶ忠誠心にはなんとも用心がならない気がした。 帰りの車で清二と並んで座っていた国沢が独り言のように奥山のことを話し始めた。 「もう、ヤツはだめなんだよ、もうやる気がないんだよ。雨が降ったら仕事を休むなんていってるようじゃ。三好さんにも言われたんだよ。お前みたいなのはもう要らないって、使い物ならないからもうやめろって」 清二は当然のことを行っているなと重い、同調するかのような気持ちで国沢のほうを見ると、国沢は突然興奮して喋り初めた。 「そうなんだよ、このあいだなんか、オレのシャツ引っ張りやがってよ、ビラビラにしやがるんだから、ヤツはどこだってかまわないんだから、人が見てようが見てまいが、とにかく気のつえぇヤロウだぜ」 国沢は眼を光らせながら怒鳴るような大声で喋るのだが、清二には何を言っているのかよく理解できなかったので、国沢の鋭い視線を避けながら、ただ判ったように頷くだけだった。 清二が頷いても、国沢は同じことを二度三度とくり返した。 それによると、ここに来る前にも奥山と些細なことで喧嘩になり、そのときに自分のシャツをズタズタに引き裂かれたということのようであった。 清二は、奥山に恨み言を言う国沢に対して、同情の気持ちが起こるのであるが、興奮しながら独り言のように喋るので、どうしても相手の気持ちがつかみきれず話しかけることは出来なかった。それにその喋り方には清二の同情を拒絶するかのような雰囲気があった。 国沢は自分の言いたいことを言ってしまうと、それっきり黙ってしまった。清二ははぐらかされた気持ちであったが、かといって国沢の灰汁の強い風貌には何となく気を許せない雰囲気が漂っているので、気安く話しもかけられなかった。この際何か話しをしてお互いに気持ちを理解しあいたいと思うのであったが、奥山のこと以外で共通の話題になりそうなものは思いつかなかった。 ちょうどそのとき、車はモデルハウスが展示されている通りにさしかかった。歩道沿いには宣伝文句を書いた色様ざまな旗が風にゆれていた。その横には人生がこの上なく幸福で平穏なものだと錯覚させるに充分な美しく豪華な家々が立ち並んでいた。 清二は国沢のような年配者なら建物に対する知識も豊富できっと興味を示すに違いないと思い、車が信号待ちをしているあいだにそれとなく国沢に話しかけた。 「こんな家どのくらいするんでしょうね?」 しかし国沢は何の反応も見せなかった。聞こえなかったのかなと思い清二はもう一度言いながら国沢のほうにそっと目をやった。国沢は外に眼をやろうともせず、不機嫌そうな表情でじっと前を見ていた。家などにはまったく縁がなさそうな国沢に不味いことを言ったかなと清二は思った。 その夜のことであった。 清二が国沢の部屋の前を通りかかると、ドアのところに居た国沢に慇懃な挨拶で呼び止められた。国沢は部屋に入ってもらいたい様子だったので、それに奥山がいないということもあり、清二は、奥山を嫌っていた同志のようななんとも奇妙な気持ちで部屋に入った。 安本が歓迎するかのようにお茶を用意するかたら、国沢が帰りの車のなかでのように興奮しながら奥山のことを話し始めた。 "なぜ昨夜はあんな喧嘩になったか" "彼はどんな人間で、今までどんなことをして生きてきたか" を絶え間なく喋り続けた。 お茶を用意した安本は終始黙って聞いていたが、清二は、奥山を悪人扱いする国沢のあまりの真剣さに、義理にでも相槌を打たなければならないような気がして、決して居心地のいいものではなかった。 国沢の話から、昨夜の喧嘩の原因に自分が絡んでいたことを清二は初めて知った。 それによると、三日前の火曜日、奥山と些細なことでトラブルがあった日の夕方。清二が掃除をしに行こうとする奥山に呼ばれても、自分だけついていかなかったことが喧嘩の遠因になっていたのだった。 あのとき奥山は、援軍を引きつれ意気揚々としてはせ参じたつもりらしかったが、しかし肝心の援軍が誰一人としてついてこなかった。そのときは何をやっているんだという程度にしか思わなかったらしく、帰りの車のなかでも何事もなかった。しかし、その夜、奥山はやはり不審に思っていたのか、酒を飲んでいるうちに思い出したらしく、なぜ自分に従わなかったと、国沢と安本に問いただしたらしかった。すると清二がいっしょに来なかったので奥山を見失った自分たち二人はどこへ行けば良いのか判らなくなったということを知らされた。そこで、清二がいっしょに来るものだと思っていた奥山は、清二の反逆によって手柄をたてられなかったことがわかり、自分の顔がつぶされコケにされたと思ったらしかった。 その結果、奥山は連日のように酒を飲んでは、なぜ付いて来なかったと二人に詰問しては、清二が来なかったからいけなかったという答えを導き出して、だから清二は悪党なのだということを、全員一致の雰囲気のなかで、清二の悪口を言い続けたのだそうだ。しかし通りがかりにそれを聞き込んだ久保山に、そういう雰囲気のもとで、あからさまに人を悪く言うのは良くないと咎められたそうだが、それでも奥山はやめなかったようだ。 そこで国沢は、奥山に清二はお前の言うように悪い奴じゃないと、叱るようにいうと、奥山は突然狂ったように怒り出して昨夜の喧嘩になったということであった。 清二は自分を擁護してくれ嫌っていた奥山を追い出してくれた国沢に対して、感謝の言葉を言わなければならないと思うのであるが、国沢の言い方にどことなく気になるところがあり、ただ納得したように頷くだけであった。 それに奥山が出て行ったことをそれほど喜ぶ気にもなれなかった。 清二は決して、国沢の自分に対する悪意や他意を感じたり、国沢のいうことを信用していないわけではなかったが、なぜか彼の表情には気の許せない雰囲気が感じられたので、心のそこから同調することが出来なかった。 では奥山がどういう人間だったかということになると、国沢は声を低めて 「これだよ」 と言って、人差し指をカギ型に曲げて清二に示しながらあきれ返ったようにニヤリと笑った。 さらに話しは進むと、以前いっしょに働いていたとき、ある仲間のもらったばかりの給料袋がなくなった。場所は駅の構内で、皆で自分たちの手荷物のまわりを見たり、落ちてないかと戻ったりして探したが、なかなか見付からなくて、そこで人調べということになったらしかった。奥山は自分のことは置いといて、他のものにだけ疑いをかけ、とくに国沢に対しては衆目のもとで衣服を脱がせ調べた。 国沢は奥山自身も調べるように申し出た。というのも国沢が、給料袋をなくした男の上着から、奥山がコッソリ抜き取って自分のポケットにしまいこんだのを見ていたからである。奥山は最初拒否したが、国沢に詰め寄られてしぶしぶ応じることになった。しかし奥山は甘くタイミングを見計らって自分のポケットからその給料袋をだすと、 「なんだこんなところにあるじゃないか」 と言いながら、あたかも荷物のあいだに落ちていたかのように、それを拾い上げたのだそうだ。しかし奥山はその金を持ち主に返そうとはせず 「一度なくなった金なんだから」 と言って、その金で皆で飲み食いしようということになったらしかった。 そして奥山は、いざ食べるときになると、これじゃ安いといって、見付かった金に見合うだけの高い料理を注文したそうだ。 国沢は興奮しながら喋るので、話が前後したり同じことをくり返したりしたが、清二はどうにか以上のようにまとめることができた。 清二は彼のいうことを全面的に信じる気にはなれなかったが、奥山の性格や風貌を思い浮かべると本当にありそうな気がした。 国沢の話し振りには同調を強制するものがあった。そこで清二は、 「そういえば」 と前に奥山と同じ部屋に居たときに小銭の入った財布がなくなったことを、その犯人があたかも奥山であるかのように言った。 しかし清二はそう言ったことをすぐ後悔した。なぜなら、彼らのような人間の友情には計り知れないものがあるので、国沢が自分の言葉を真実として受け入れるほど、奥山を憎んでいるとは限らないと思ったからである。清二は、国沢が心底から奥山を悪党扱いにしているとはどうしても思えなかったのである。 国沢は憤懣をぶちまけるように、ときには語気を荒げ、ときには薄笑いを浮べてはそのほかの恨みつらみをしゃべり続けた。 清二は国沢がなぜ乗り換えたのか依然として謎だったので、彼に対してはいっこうに親しみも信頼の気持ちも沸き起こらなかった。それでいっしょになって奥山を悪者扱いする気にはなれず、それにいまさら居なくなった者を欠席裁判にかけても仕方がないと思い、ただ判ったように頷いて聴いているだけだった。 しかしそのうちに国沢は、薄笑いを浮べて、相手を威圧するように鋭い視線を清二に投げかけるようになった。そのたびに清二は薄気味悪さを覚えながらも気をひきしめてさりげなくその視線を避けるようにした。それは紛れもなく調教師のスキを狙う猛獣の眼だった。清二はますます油断のならないヤツだという気がした。 酔いがまわってきたのか、国沢は同じことを何度もくり返すようになった。清二は国沢の話の腰を折らないように、うまく間をはかって 「明日は早いですから」 と、何気なく言って立ち上がると、安本にお茶のお礼を言って、不気味なほど低姿勢の国沢を背後に感じながら、部屋を出た。 自分の部屋に戻った清二は、なんとも釈然としない気持ちであった。国沢の話からすると奥山はもう戻ってくることはなさそうであったので、これからはもう二度と顔を合わせることはないのでほっとして良いのであるが、前に出て行ったときとは違い今回は自分にも原因があったと思うと何となく後味が悪かった。それに思わぬところで恨みを買っていたと思うとあまり気持ちのいいものではなかった。 清二は寝ようとしてベッドに入ったが、どうしても奥山のことが気になりなかなか寝つけなかった。結局奥山は最後まで奥山であったと思った。始終眉間にしわを寄せた不機嫌な表情をして、まるで社会に反逆しているかのように頑固で自己本位で負けん気が強く、気に入らないものに対しては徹底的に無愛想な態度で望む奥山という男は、やはり清二自身が望むような人間にはならなかったような気がした。つまり彼が眠っているあいだに、あの苦しそうな表情が消え、柔和になった顔で眼醒め、まともな会話が成り立つ人間になっているということが。 しかし今まで二度ほど、彼の顔からあの不機嫌な表情が消えて仲良くなれそうな気がしたことがあたったのを清二は思い出した。 最初は二人で同じ部屋に居たとき、テレビを見ていて奥山が笑った。清二も見ていておかしかったので笑ってもよかったのだが、奥山に対する頑なな気持ちが解けていなかったので意識的に笑わなかった。 二度目は偶然にも銭湯で会ったときのことである。湯船から上がっていた彼の表情からは、その眉間のしわも敵意に満ちたまなざしも不機嫌そうな表情も消えており、少年のような面影を残す柔和な表情していてまるで別人のような気がした。しかしそのときも清二は意識的に無視した。 奥山は決して自分のように意識的に相手を避けたり、計算づくで無愛想な態度をとったりしたのではないような気がした。彼はあくまでも自己の生理や感情に忠実だったのであり、なんら悪意はなくまったく自然な反応ではなかったのかと清二は思った。なぜなら彼は上のものに対しても、清二に対すると同じように無愛想な態度をとりつっけんどんな口の利き方をしていたからである。 それにしても物をどこに置いたとか、物をどのように運ぶとか云う、あまりにもつまらないことから対立が生まれ、それがもとで、二人の間には、どちらに命令権があるかなどと、あまりにも些細なことから遺恨が生じた問題だと思った。 それまでお互いに気に入らないヤツとは思っていたが、決して憎みあってはいなかったのだから、ほんのちょっと折れ合えば、何事もなく済んでいたはずなのに、物のために人間同士がいがみ合うのはあまりにも情けない気がした。 もし自分が一日でも早くはいっていて、二人の上下関係が曖昧でなかったならばこんな結果にはならなかったような気がした。なぜなら、彼は上のものには決して反抗的な態度を見せずむしろ従順であるからである。おそらく自分が上なっていたならば、奥山の仕事振りを見て、多少は苛立つこともあるかもしれないが、親方たちのように怒鳴ったりせず、彼の彼なりの能力を認めて親切に指導すれば、奥山も素直に付いて来たにちがいなく、きっと長くいっしょに働くことができたに違いないと清二は思った。 清二はうつらうつらしながら思った。 奥山に対するとき、親方たちの怒声に対するときのように、人間的感情で持って反応しないで機械に接するときのように冷淡な気持ちで臨めば良かったのではないだろうかと。でもあのときは確かにそうしていたのである。そのためにかえってトラブルが起きたのである。もし自分がいつまでも意地をはらずに、あくまでも奥山の後輩つもりで、素直に従っていたら、このような結果にはならなかったのでは、、、、と。それに、もしあのときテレビを見ながらいっしょに笑っていれば、もしあのとき銭湯で声をかけていれば、お互いのわだかまりが吹っ飛んでしまっていたのではないか、、、、と。 しかし自分が今まで意識的に頑なな姿勢を取り続けてきたのは、ことの成り行き上仕方がないことのような気がしてきた。 それに終わってしまったこと今更どう言って見ても始まらない気がした。 ただこれからは、二度とこのようなことは起こしたくないと思った。幸い上にはもう奥山のような人間いないし下の者には、親方たちのように先輩面して怒鳴ったり威張り散らしたりしないで丁寧に指導すればうまくやっていけるに違いないと思った。 翌朝、社長は、全作業員を事務所に集めたまま、受話器を握りながら時には弁解するような口調で、また時には講義するような口調で、長いこと不機嫌な表情で受け答えをしていた。 しばらくしてどうやら話しがついたらしく、無造作に受話器を置くと 「今頃言ってきたっ遅いんだよ」 と突き放すように言いながら、椅子に腰をかけたまま皆のほうに向き直ると、困惑した表情で現場とメンバーの変更を発表した。 変更の指示を受けたものは急いで工具類一式を準備しなければならなかった。清二は昨日と同じだったので、じっとしていてもよかったがいちおう協力した。 現場変更はいつものことなので、皆慣れているせいかそれほどの混乱もすることなく準備することが出来たが、どうしてもある工具がひとつ見付からなかった。てっきりあると思っていた社長はその報告を受けると怪訝そうな顔をしてしばらく考え込むようにうなだれていたが、おもむろに顔を上げると罵るように言った。 「あいつだな、加藤のヤロウだな、あいつは借りたものは絶対に返さないからな」 「家にあるなら、これからとりに行きますか?」 と三好が聞くと、社長は 「いや、アイツはもうあそこには居ないよ。なんでも自分のものにしてもって行ってしまうんだから、どうしようもないヤツだよ」 加藤が来なくなってからすでに五日すぎていた。そのかん彼の怪我を心配して話題にするものもなく、少なくとも社長の前では噂にはならなかった。 まさか辞めたとは思っていなかった清二にとって、なぜ社長がみんなの居る前で加藤を悪し様に言うのか理解できなかった。それにその評価も意外であった。社長に同調して加藤のことを悪く言うものはいなかったが、辞めていって今眼の前にいなければ、どのようにでもその人間の評価が変るという、イヤな雰囲気になった。 いわば、皆を前にしても社長の言葉は、辞めていった加藤は、三好や石田や鈴木よりも、どうしようもないヤツと思わせるものがあり、ここに今居る人間だけが優秀で、社長に頼りにされていると充分に錯覚させるものがあった。 なぜ辞めるものはみんなコソコソと逃げるようにして居なくなってしまうのか清二には不思議であった。 加藤は確かに他の誰よりも仕事に取り組む姿勢が真面目だった。それに実際に仕事も出来た。だが彼は三好や石田よりも給料が安かったせいか、愚痴や不満が多く、そのために自滅したような気がした。 つまり、たとえ今は給料が安くても自分に実力があるのだから、相手にならない三好や石田にライバル意識を燃やさず自身をもって下のものを引っ張っていけば下の者もついてきて、そのうちに社長にも認められて給料も上がるだろうから、それまで辛抱すればよかったのに、と清二は思った。 親方たちはまだ社長の指示を受けていたが、用のないものはぼちぼち事務所の外に出はじめた。 外は裏通りになってたので、それに朝も早いということで人通りもほとんどなく、今は晴れか曇りか判らないくらいに朝もやが立ち込めていた。 その朝もやにまぎれて利巧そうなシェパード犬をつれた一人の若い男が、清二たちのほうに向かって歩いてきた。その犬に気づいたのか近所の犬が騒々しく吠え立てたが、シェパード犬は、チラッと眼をやっただけでまったく意に介さないといった感じで悠然と歩いていた。 その若い男はガッシリとした体つきで足取りも力強く、朝の犬の散歩の割には身なりもきちんとしてしゃれた感じであった。眉は太く眼の鋭い浅黒い厳つい顔をしていたが、どことなく弱々しそうな雰囲気が漂っていた。 清二たちがたむろするほうに近づくに従って、その鋭い眼に少年のようなハニカミを現した。その男を眼にしたとたん驚いたようにかすかに眼の色を変えた社長の奥さんに、知り合いのような軽い会釈をするとそのまま通り過ぎるように歩いていった。 毛並みの良い従順そうな犬と、その飼い主の得体の知れない雰囲気とに、奇妙なアンバランスを感じながら清二は何気なくその男を見ていたが、どこかで見たことがあるような気がした。 そこへ社長と話しを終えた三好と石田が出てきた。そしてその男の後ろ姿を見て言った。 「あっ、アツシじゃないか、なんだ今頃、犬の散歩か」 「あいつ仕事やってないのか?」 そういい終わると二人はいつものようにそそくさと車に乗り込んだ。 二人のその後の車内での噂話をからすると、その男は二年前にタクシー強盗をやり、二ヶ月前に刑期を終えて出てきたということであった。二人にとって仲の良い友達とはいかないが、かつては同じ飲み屋に通うのみ仲間のようだった。 車に乗り込んでからしばらくすると清二は、いつか夜道ですれ違ったとき、突然意味もなく自分に笑いかけた男だと気づいた。 ![]() ![]() |