ブランコの下の水溜り(20部) はだい悠
清二はアパートを借りてそこから通うことになった。 それは金に余裕ができたためでもあり、また宿舎だと何かと不自由な面もあったからである。それは自分が宿舎を出て部屋を空けることによって、趣味や考えがまったく違うために対立する本山とジュンが同じ部屋に住まなくていいようなになるだろうと云う考えがなくもなかった。 毎朝五時過ぎになると三好が迎えに来るのであった。朝早くからあっちこっち住む従業員を迎えに行くと云うのが親方である三好の役目であった。石田の家の前に車を止めて軽くクラクションを鳴らすと、まもなく石田が出てきて助手席に乗り込んだ。 石田を見るのは酔ったぶりであった。石田は気分が良さそうに笑みを浮かべて三好に話しかけた。 「奴がもし昨日の朝来てたら、オレは刺すつもりだったよ。前の晩から包丁を研いでいたからな、奴の太い腹、刺しがいがあるだろうな」 奴とは石田の義兄である社長のことである。石田は昨日までの三日間仕事を休んでいた。理由は判らなかった。しかし石田にとっては休むための特別な理由など必要なかった。二日酔いで気分が悪いとか、なにか面白くないことがあって仕事をやる気がしないとか、それだけで充分なのである。それはたとえどんなに仕事が忙しくても変らなかった。これは石田にとっては習慣のようになっていた。一ヶ月に一度は、二三日無断で休むことがあった。しかし社長にとっては、石田の我がまま振りは当然許せないことであった。なぜなら、ほかの従業員に示しが付かないことであり、そのために工事が予定通りに進まないからである。社長も石田も、お互い頑固で、向う意気が強く、暴力的であるから、そのたびに対立して険悪なムードになるのである。とくに石田は機嫌のいいときは話のわかるまともな人間なのであるが、いったんへそを曲げると、相手が誰であろうと何をするか判らなくなるほどに狂ってしまうのである。おそらく今回は長いあいだの因縁もからみ、相当険悪な対立になったに違いない。だから今は笑って話したのであるが、そのときは本気でそう思っていたのかもしれないのである。狂ったときの石田は、辛らつで、人寄せ付けず、暴力的で見境がなくなり、自暴自棄になって、もう仕事は止めたとか、何かでかいことをしてから死ぬとか、この世の終わりみたいなことを言って、まったく手がつけられなくなるのであるが、時間が立って機嫌がよくなれば、憑き物が落ちたように大人しくなって、自分がいったことを忘れたかのようにけろっとした顔で、再び仕事に出てい来るのである。石田にとっては何よりの薬は休暇なのである。石田は本質的に怠け者でも遊び人でもなく、仕事に対しても、いくらか職人気質的なものをもっている気骨のある男であるから、休んでいるうちに体が疼き出すようで、気分さえ回復すれば、結局再び働きざるを得なくなるようであった。 かつて清二は、石田のそのような行動を批判する仲間たちに同調していた。しかし最近は、それはそれでいいような気がしてきた。なぜなら、石田のわがままな行動が周りに迷惑をかけるといっても、そのために仕事がなくなり他の従業員が路頭に迷うわけでもないからである。むしろそうすることによって、石田自身が新たに生きる気力を取り戻すならいいことであった。人間的感情的迷惑をかけるわけではなく、どっちみち、彼は彼なりに生きられるのだから、周りでとやかく言うべきほどのことではなく、むしろある意味では、健康的で気楽な生き方として尊重すべきことであった。 三好が言った。 「アツシが近いうちに出てくるかもしれない。アツシはどうも国沢をやってないみたいだよ。現場に落ちていた証拠品がアツシのものではないみたいだよ。そりゃあ、そうだよな、犬にかまれたような跡があるといったって、野良犬かもしれないからな。前科があるからって、なんでもかんでも疑われちゃ、アツシも気の毒だよな」 「新聞に出ていたの?」 「いや、このあいだ飲んでいたときにそう云う話が出て、、、、」 「でも、出てきてもなあ、今度、誰か面倒見る奴いるかな、あいつも飲むと滅茶苦茶なところがあるからな、また、何かやらかそうだよ、、、、」 石田の話し方にはだいぶ余裕があった。もう完全に気分はよくなっているようであった。 車は他に二人の従業員を乗せるとそのまま会社の事務所に向かった。宿舎に住んでいるものは本山が運転してつれてきた。 それから二日後、K建設の現場で作業をしていたとき、元山が手を休めて傍らで仕事をしていた防水工に話しかけた。 「あんちゃん、大変だね」 その防水工は元山のほうチラッと見ただけで作業を続けた。二十歳ぐらいの男で、冬にもかかわらずに日焼けしたように肌は浅黒かった。 防水工事とは、建物の屋上などの表面にどろどろに溶かしたコールタールを塗りつけ、それを自然にかたまらせて、雨漏りがしないようにすることである。それは異臭と灼熱の暑さのもとでの真っ黒になっての作業であった。 元山が言葉を続けた。 「どのぐらいの温度があるんだ? 夏は地獄だろう、でも冬はいいね、暖房が効いて、、、」 ようやくその若い防水工ははにかむように笑った。だが作業は続けた。 その場を離れながら元山が清二につぶやくように言った。 「この仕事も割があわないけど、あの仕事はもっと割があわないよ。あれだけはやらないほうがいいよ」 元山の言うとおり、夏の炎天下なら相当な温度になるに違いなく、本当にやりたくないと清二は思った。でもそれは誰かがやらなければならない仕事であった。そして現実に、どんなに格好が悪く、割に合わない仕事でも、少しも不満を漏らさずに、まるで自分の宿命であるかにように黙々と働いている若者がいることは確かなのである。 清二が再び作業に取り掛かったとき、突然怒鳴り声と何かが倒れるような音が、ジュンと黒塚が作業をしているほうから聞こえてきた。まもなくジュンが姿を現し清二たちのほうに歩いてきた。ジュンは不快そうなに顔をしかめてだいぶ興奮しているようあった。ただならぬ気配を感じ取った元山がジュンに言った。 「どうしたんだ?」 「あのやろう、ふざけやがって、ぶん殴ってやったよ」 ジュンははき捨てるようにそう言うと、大きく呼吸を見出しながら資材のうえに腰を下ろした。本山が黒塚のいるほうに歩いていった。清二はついに起こったかという気持ちであった。 久保山がいなくなっあと黒塚はますます孤立して行った。 元山と云う黒塚にとっては最も気にかる人間のせいもあったが、久保山といっしょになって反抗的な態度をとっていながら、久保山がいなくなったからといって、手のひらを返したのように、すぐには協力的にできないと云う自業自得な面もあった。確かに黒塚は以前のように横柄な言動をとらなくなり大人しくなったのであったが、でもそれは、仕事のことでもいっさい会話をせず、仕事に対しても非協力的で、いいつけられたことも満足にやらず、まるで親に怒られてふてくされた子供のように、いじけて勝手な行動をとっているだけであった。そのため作業に差し支えるような行き違いが頻繁に起こるようになり、他のものから不満が出ていた。とくに最近の行動には目に余るものがあった。 清二は文句なしに順に味方するつもりであったが、うつむき加減で必死に不快感に耐えている彼になんと言っていいか判らなかった。どんなに正当性があっても、先に手を出したと云う暴力行為にはいいようのない後味の悪さが伴うようであった。だいぶ落ち着いてきたようだったが、それでも少し興奮ぎみにジュンは話し始めた。 「アマガエルのやろう、いっしょにやる気がないんだよ。勝手なことばっかりしくさってよ」 「いいんだよ、あんな奴、殴られて当然だよ」 「偉そうなこと言ってたくせに、まったく弱いんでやんの。ビビリやがって、向かってこないんだよ。ほんとに張り合いがないよ」 とジュンは、最後に方に行くに従ってだんだん興奮しながら言った。 ありったけの同情をこめていった清二の言葉も、彼の興奮を鎮めることはできなかった。当事者でない冷静なものが、どんなに同情的な言葉を投げかけても、本人と同じような気持ちにならない限り慰めにはならないようであった。むしろ本人は周囲のそのような態度によそよそしさだけを感じて、ますます孤独感を深めていくようであった。ジュンは紛れもなく自分の不快感と孤独感にさいなまれて苛立っていた。清二はもう何も言うことはできなかった。いつかこのようなことが起こるだろうと予感は付いていた。しかし、若い順にそれをやらせてはいけないことだった。今回の場合なら、止めるか、それともジュンに代わって殴るかのように、少なくとも、年上のものがジュンが直接手を下さないようにしなければならないのである。 こうなることがよそう付いていたのなら、黒塚とはいっしょに仕事が出来ないと云うことを、社長に言って、彼を辞めさせてもよかったのだが、しかし黒塚に対する不満は各人各様であり、それにそれぞれが無視の立場をとることによって、どうにか我慢ができるものであったので、彼を辞めさせることがみんなの共通の目的にはならず、意識的に共闘して彼を追い出すには至らなかったのである。ただ清二は黒塚が入ってまもなくのころ、彼のあまりのわがままぶりに腹をたて、暴力行為に及びそうな気持ちになったことがあった。そのときは結果的には手を出さなかったのであるが、もしそのときやっていれば黒塚問題は何らかの形で決着が付いていたに違いなく、村岡もジュンも暴力を振るわなくて済んだことは確かだった。 元山が戻ってきて言った。 「だめだよ、本気でやっちゃ、ジュンが本気でやったらあんなの軽くいっちゃうよ」 ジュンは黙っていた。元山がジュンに話し掛けるように言った。 「大丈夫みたいだよ。それにしても、おかしな奴だな。何にもなかったみたいにシラッとしてんの」 清二はジュンが怪我をさせてしまったのではないかと心配だったが、それを聞いて安心した。 「慣れてんじゃないの。あう云う態度じゃ、他でも何度もやられているはずだよ」 「そうだろうなそれであう云うふうになったんだろうな」 その日は夕方までジュンを黒塚に近づけさせないで作業をさせた。元山の言ったとおり黒塚は何事もなかったかのように大人しかった。ただいつもよりは顔を紅潮気味で焦点の定まらない目を潤ませ、動作も放心したようにぎこちなかった。それはまでガキ大将に苛められ泣きべそをかいた後の子供のようであった。親方たちはジュンと黒塚のトラブルをたいしたことではないと思ったらしく社長には報告しなかったみたいだった。そのことが公にされて黒塚問題がどんな形でもいいから解決することを望んでいた清二にとってはがっかりであった。しかし報告すべき立場にないからどうすることもできなかった。 夕方それぞれ住居に向かって車を走らせているとき、運転手の三好が、歩道から車のほうを見ている女に手を振った。それに答えて女も笑みを浮べて手を振った。ほんの一瞬であったが清二は印象にとどめることができた。中肉で女にしてはやや背が高く、目の大きな三十前後の女であった。夜の光には生えそうな化粧をしており異様に輝く落ち着きのない眼や、笑みを浮べたときの唇の開き具合に何となく下品さが感じられた。服装も派手気味で垢抜けた感じはあったが、全体の雰囲気としは、どことなくまとまりのなさが感じられ、飲み屋の女と云う感じでもなかった。三好が声を弾ませながら石田に言った。 「あれ、あたらしいオレの女、人妻だよ」 「どこで知り合ったんだよ」 「飲み屋でね」 「だんなは何をやってんだい」 「判らない、とにかく真面目なんだって、酒もタバコもやらない、働くだけなんだって、そんなんじゃ、いっしょに住んでたって楽しくないよなあ、女も外に出てあぞびたくなるよな。なんてたってクソ真面目な男ほどつまらないものはないからなあ、やっぱり男は浮気できるようじゃなくちゃなあ、どう石さんも頑張ってみては、、、、」 「うん、そうだなあ、女か、、、、若いときはさ、綺麗な女を見ると、胸がキュッと締め付けられるようなことがあったんだけど、最近はそんなことは全然ないよ、年かなあ、、、、、」 「胸キュッなんて関係ないよ。とにかく使えるもんさえ使えればいいんだよ、、まだ大丈夫だろう」 車が石田の家の前に止まった。 再び走り出した車は清二と三好だけになった。 三好はなぜか鼻歌が出るくらい気分が良さそうだったので清二以前から疑問に思っていたことを訊ねた。 「三好さんは、飲み屋の付け、払ってないの?」 「払ってるよ、なんで?」 「いや、このあいだヤクザみたいな男が取り立てに来ていたみたいだから」 「あれは、払ったんだよ。半分だけど。払ってるのにしつこく来るんだからなあ」 「半分?」 「そうだよ、あんなの半分払えば充分なんだよ。それでも儲かるんだから、だって原価は半分以下だよ。オレは店に損はさせてないよ」 「、、、、なるほどね、、、、そんなに迷惑はかかってない訳か、、、、」 と清二は思わず同調するように言った。三好があまりにも自信に満ちたような言い方をするので、もっともな話しのように思われたのである。 「そうだよ、決して迷惑なんがかけてないよ。オレは壱銭も払わずにさ、踏み倒して逃げるような人間と違うよ。オレはあれだよ、飲んで暴れたりしてさ、他の客に迷惑かけるわけじゃないから店では評判がいいんだよ。オレが行くと楽しいってんで、金なんか払わなくてもいいから、飲みに来てくれっていう店がいっぱいあるんだよ」 「、、、、、、、、、、、、、」 三好の話には妙に説得力があるので、少しも不合理な感じを与えず清二はキツネにつままれたような変な気持ちであった。その気持ちは部屋に帰ってからも続いていた。 黒塚はジュンに殴られても、そのときは自分に悪いと気づいていたのか、さして手向かうこともなく、そして少なくともみんなが周りに居るあいだは、何ごともなかったかのように平静とを装っていたが、清二は彼の性格を思うとそのままでは収まらないだろうと云う気がした。 その予感は当たった。その晩宿舎に帰ると黒塚は殴られたときの悔しさがこみ上げてきたようで、我慢しきれずにジュンの部屋に挑発的な態度で乗り込んだようだった。しかし勝気で怖いもの知らずなところがあるジュンの"勝負をつけようじゃないか"と云うけんまくに気おされ、それに元山が止めに入ったと云うこともあり、何事もなく済んだようだった。 その後の黒塚の態度には何もかも忘れたかのように、それ以前と比べてそれほど変化はなかった。順に対して特別の態度をとるわけではないので、殴られたことをうらみに思っている様子もなく、相変わらずいじけた子供のように無言で、作業に非協力的で自分勝手な行動をとっていた。 清二は今回のトラブルで、黒塚がいずらさを感じて辞めていくことを密かに期待していたが、どうやらやめそうな気配はなかった。 黒塚はどうやら自分を制御できない人間のようであった。相手が自分より強そうであれば、自然と卑屈になって目立たない行動をとるようになり、弱そうであれば自然と横柄になって、威嚇的な行動をとると云うように、自分の動物的本能的なものによってしか行動できない男のようであった。 黒塚はその多重人格的な言動や異様な容姿から周りからあざけりや侮蔑の意味を込めて"カメレオン"とか"エロガッパ"とか"アマガエル"とか、様ざまなあだ名をつけられていたが、清二は、もし疫病神が人間の形をして存在しているとしたら、おそらく黒塚のような人物に違いないと思った。 と云うのも、黒塚の自己本位的な言動には、ただ苛立たされるだけなので周りのものは、彼が辞めていくことを期待して、彼を忌み嫌って無視するのであるが、厚顔な彼にとっては、そのことはまったくこたえていないようだった。それに彼はあからさまにサボったり自分から先に手を出したりすれば、辞めさせられことが判っているようで、尻尾を出さない程度に、巧妙に、自分のわがままぶりや、狡猾さや卑劣さを発揮しながら、居座り続けるのである。周りのものがそんな彼を見て、どんなにあきれ返り苛立ちながらも皆で嫌がらせをして追い出すほどのことでもないため、どうすることもできないのである。 まさに疫病神に取り付かれたときのように自然に出て行くまで辛抱するしかないのである。 三 月に入った。朝晩の寒さはまだ厳しいものがあったが、作業しているときは防寒服はまったく必要ないほど和らいできた感じだった。 ある日のK建設の現場の朝。 工事のために現場に向かって歩いていると、すでに完成したマンションから出てくるこざっぱりした人たちや男女の学生たちとすれ違ったりするのである。清二たちの前を若い夫婦が横切り横断歩道を渡っていった。スーツ姿の三十前後の夫は、才気にあふれたエリートサラリーマンと云う感じであった。まだ一才にも満たないと思われる子供を抱えた美人でスタイルがいい若い妻は、ミニスカートから美しい足をのぞかせ、いかにも暖房の聞いた部屋から出てきたといった軽装で、おそらく近くに駅まで夫を見送りに行こうとしているのであろう。それを見ていた元山が言った。 「バッカじゃないの、なに考えてんだ、、、、」 「イヤな野郎だ。あうやって見せびらかしているんだよ」 と石田が不快さを表しながらはき捨てるように言った。 それは幸せそうで微笑ましさを感じさせる風景に違いなかった。しかし、そう云う世界に永遠に手が届きそうにない者たちから見れば、刺激的で妬みを感じさせるものでしかなかったのだ。 昼前、清二たちが忙しく作業しているところに、三人のK建設の社員が見まわりにきた。彼らか清二が電動カッターでコンクリート版を切断するのをじっと見ていたが、その作業が終わると幹部社員と思われる四十過ぎの温厚そうな男が若い社員に話しかけた。 「これは防塵マスクをかけさせたほうがいいな、、、」 「体に悪いでしょうね」 これはコンクリート版を切断するとき、白い微細な粉塵を大量に舞い上げるので、それを吸い込んだら体に悪いだろうと、作業員の健康を気遣って言ったものだった。 しかし清二は素直に受け取れなかった。むしろ余計なお世話だと思った。いちいち防塵マスクを義務付けられたら、たまったもんじゃないと思った。それはいかにも部外者らしい発想であった。確かに版を切断するときの粉塵はものすごかった。顔や作業服が真っ白になり、息が詰まるほどであった。だから相当に吸い込むらしく体に悪いことは間違いなかった。だがこれが工場のように管理の行きどいた定められた場所での主要作業ならば、必要であろうが、このようなときどきのしかも野外の移動作業の場合には、マスクの所在をきちんと管理して作業のたびにいちいち取り付けたりはずしたりすることは、現実的には面倒くさく、それが作業の遅れにもつながるので実際にはほとんど役立てることはできないのである。おそらく幹部社員は安全管理や健康管理の教育を受けた経験豊かな人間に違いなく、管理者としての思いやりを示したのであろうが、微妙なことがわからない所詮部外者としての思い付きであるため、自己満足的なものになりやすく、現実の作業者の気持ちとのあいだにはどうしても隔たりができるのである。このように管理者のせっかくの思いやりが実情から遊離したものなら、かえって作業をやりづらくして作業者を苛立たせるもととなり、作業者にありがた迷惑がられることは安全管理の面でも往々にしてあった。それは責任回避的傾向から来る抽象的思考によって考え出されたところの対策や設備は万全であるから規則に従って作業をすれば安全であるはずだと思っている人間と、至るところに落とし穴のある現実の複雑さのなかで実際に作業していて常に危険にさらされている人間の感じ方の違いから生まれるのである。 現場での昼食にはいつのまにか子猫が付きまとうようになっていた。みんなから弁当のおかずをもらって食べているのである。その子猫は生後二ヶ月ほどで、工事が何ヶ月にも及ぶために近くの野良猫が住みつき生んだもののようであった。親猫はときどき見かけたが、人間が近づくと野良猫のすばやさで姿を消した。その子猫も最初は通気孔から顔を覗かせるだけで人間を避けていた。しかしみんなが面白がって弁当のおかずを与えているうちに、子猫は餌の誘惑に負けてか、通気孔から出て姿を見せるようになった。それでもまだ見慣れぬ人間を恐れてか、いくぶん及び越しであった。だが最近はようやく人間にも慣れ、媚びるように鳴きながらみんなの足元にまとわりつくようになっていた。そして今では昼休みなどには人間の腕のなかで喉を鳴らしながら眠るほどになっていた。 とくに可愛がったのは三好と元山であった。昼食をとりながら元山と三好は、可愛らしい泣き声を上げてまとわり付く子猫におかずを食べさせたり自分の膝の上に乗せたりしているのを横目に見ながら、石田が不快そうに言った。 「人間でさえ、気に入らない奴がいるっていうのに」 石田の言葉は暗示的であった。それにはどういう具体的意味がこめられているのかは判らなかったが、雰囲気としては元山と三好の行為を批判するものであった。 清二も子猫に対してもできるだけ無関心を装い、彼らの行為には批判的な気持ちであったので、石田の言いたかったことは何となく判ったような気がした。 寒さの中で腹をすかして震えている子猫に餌をやり、ぬくもりを与えて可愛がることは、人間の自然的行為で、決して批判されるべき行為ではないかもしれない、だか、かといって彼らは子猫を自分の部屋に連れて行き養い育てると云うのではないのである。ただ眼の前に愛情を受けるべきかわいいものがいるから、かわいがっていると云うだけに過ぎないのである。結局は見捨てるのである。ちゃんと親猫がいて、しかも野生化しつつある子猫に人間のぬくもりや、人間に頼る気持ちを覚えさせてから、捨てると云うことはかえって残酷なような気がした。それならたとえ、飢えや寒さに苦しもうとも、野良犬に追いかけまわされようとも、人間に頼らず、野良猫としての知恵を身につけ、狡猾にたくましく生きさせるほうがふさわしいような気がした。 午後の作業に入ってしばらすると、別のところで作業をしていた三好が清二たちの仕事振り見にきた。そして注意深く見たあと清二に言った。 「なんだこの版、表裏反対にはってんじゃないの?」 「あっ、そうなんですよ。でも今からやり直すのは大変なんだよね、一枚ぐらい良いでしょう、、、」 「だめだ、きちんとやらなくちゃ」 と三好は子猫を可愛がっているときからは想像も出来ないほどの厳しい表情で言った。清二の投げやりな姿勢がよっぽど気に触ったらしかった。 だが清二は、三好が思うほどいい加減な気持ちでいたのではなかった。かつて三好自身が同じようなことをやったとき、素人にはちょっと見たぐらいでは気づかないと云うことでそのままにしたのを見たことがあるので、今回も許されると思ってそう云う言い方をしたのだった。 コンクリート版には厳密には裏表があり、それをきちんとそろえて取り付けていかなければならないのであるが、ごくまれに注意不足から反対に置かれていることに気が付かないでそのまま取り付けることがあるのである。 だが今回の場合清二は取り付ける前に気づいていた。そこで清二は元山にそのことを注意したが、元山はこのくらいならいいだろうと云うことで、清二の指示を無視して強引に取り付けてしまった。元山の清二の指示を無視する傲慢な態度は今に始まったことではなかった。それに対して清二は少なくとも彼よりは仕事のことを知っている立場にあるものとして多少不満を感じていたが、いい加減なやり方をしていると後で困るのは元山自信だと思い半ば諦め気味に、今まで彼の好きなようにやらせていたが、今回のように元山のいい加減なやり方の結果が自分の責任にされることはかなり気分の悪いものだった。それにもしそれが元山がやったのであると判れば、三好はあうまで厳しくは言わないだろうと思うと、僻む気持ちもなくはなかった。ただ三好がそれほど重要でないことに厳しくしたのは相手が清二であると云うよりは、三好自信がが苛立っているためであった。おそらくこれが午前であったら一枚ぐらいならいいだろうと云うことで済んだに違いなかった。午前の三好は、たとえどんなに作業が進まなくても、卑猥な冗談を言って人を笑わせたり、作業に対してもいい加減なところがあり、部下の失敗ににも寛容であったりして陽気にひょうきんに振舞っていることがほとんどで、めったに不機嫌になることはなかった。しかし午後になると、たとえ仕事がうまくいってても、決まって人が変ったようにイライラし始めるのである。そして部下のちょっとしたミスや不手際をまるで鬼の首とったかのように厳しくなじったりするようになるのである。 三好のそう云う傾向は清二が入ってきた当初から少しも変っていなかった。なぜそうなるのかあまりにも突然であることが多いので清二には原因は判らなかった。ただ、彼はアル中気味なので、アルコールが切れてそうなるのだろうと清二は思っていたが、ほんとうのことは判らなかった。 夕方作業が終わりかけようとしていたとき、ふたたび三好が清二たちの仕事振りを見にきた。そして苛立ち気味に言った。 「まだここまでしか進んでないのか、五時までには終わらせるように」 「いやちょっと無理かも」 「無理じゃないだろう、やるきになりゃあ、できるよ」 「でも五時までじゃ、時間的に無理ですよ。どんなに急いでも一枚取り付けるのに、最低でも以後噴火借りますから、あと十枚はとても、、、」 「そうじゃないんだよ。できるできないじゃないんだよ。やる気なんだよ。できなくてもやろうていう気持ちを見せなければならないんたよ」 「やる気は、、、、、、」 と清二はもう何も言えなくなってしまった。 みんなが見ている前で上のもの同士が些細なことで言い争うのはみっともないと思ったからであった。でもそれよりは三好の言い方にも、もうこれ以上何も言っても無理だという気持ちにさせるものが強かった。 以前と違い、清二は仕事に関わるいろいろなことを知るようになってくると三好のあらが目立つようになり、最近では何かと言い返すようになっていた。それが三好にとっては気に入らないのかもしれなかった。でも清二は三好が親方として力量不足だからといって彼を侮ったりしたことはなく、親方としての三好に対する敬意は失わないつもりでいた。だから決して反抗の気持ちで言い返したのではなかった。それに仕事の上での三好の厳しさや苛立ちは、ある意味で筋の通ったものであり、彼の性格上仕方のないことだと思っていた。だが今回のようにあまりにも理屈にあわないことをいって自分を押しとうそうとする態度にはやりきれないものを感じた。 清二は会社の三番目として少なくとも他のものよりは三好に信頼されていることはたしかであった。それに仕事を離れたときの三好は話のわかる温厚な人間であったので気難しい石田よりも友情が育ちつつあるのを感じていた。だがそれも何か表面的なもののような気がした。 今回の彼の見せて強引な態度にはそれ以上入っていけないような彼の閉鎖的な自我から繰り出された冷酷さや倣岸さしか感じなかったからである。それでは友情が深まりようがなかった。清二の気持ちのなかには何か裏切られたような割り切れなさしか残らなかった。 帰りの車では三好はいつものひょうきんな人物に戻っていた。彼は仕事が終われば、自分が苛立っていたことを忘れたかねように部下に気を使い、親切でやさしくなるのである。それが彼の自分を評していう"仕事にはきびしいが、普段はやさしい"と云うことかもしれなかった。確かに仕事で彼に怒鳴られたりして厳しい扱いを受けると、イヤな奴、冷たい奴、と思い話もしたくないほど不快な気持ちになるのであるが、仕事が終わって親切にされると奇妙にもはその頑なな気持ちが揺らぎ、まるで彼が部下思いのやさしさに溢れた人間のように思えてきて、彼に全幅の信頼を寄せても良いような笑いだ気持ちになるのである。それは理屈ではなかった。それに三好自身もそうなることを計算して、そう云う態度をとっているようでもなかった。 しかし清二は反発を覚えた。なぜなら、それは紐が女を操るためにとる手段と同じであるからだ。彼らは普段は女を冷たくそして暴力的に扱い、そしてごくたまにやさしくすることによって、あたかも自分の本質がやさして人間であるかのように女に錯覚させて、女を従属させ支配としようとするのである。それは人間を感情的にアヤつっと動物的な主従関係を作ろうとするもので、なんら人間的なものではなく、そう云う関係から健全な友情が生まれるはずはなかった。それは男と女のあいだでは多少は許される関係かもしれれなかった。しかし男同士のあいだでは反吐が出そうな関係なのである。 みんなは仕事から開放された喜びからか、屈託がなく話しをしていたが、清二はその喜びよりも、三好に対する不信感がなかなか拭いきれなかった。それで会話には参加せず滅入った気持ちでじっと窓の外に目をやっていた。 外は暮れかかっていた。信号待ちで車は止まった。道路沿いの小さな公園で二三歳ぐらいの子供とその母親が遊んでいるのが見えた。その幸せそうな光景は今自分が不快な場所に居ることを忘れさせてくれるほどに微笑ましいものであった。 そして清二は思った。あのような光景を排除したり、あのような光景以外に人間の幸福や平和のイメージを求めたりする行為や考えは、たとえそれがどんなに創造的であってもすべて悪のような気がした。車がふたたび走り出した。それでもじってみている清二に元山が話しかけた。 「あんまりじっと見ないほうが良いよ」 「どうして?」 「あれは朝鮮人だよ。朝鮮人はなじろじろ見られると怒るよ。怒ると怖いぞ」 ![]() ![]() |