ブランコの下の水溜り(24部) はだい悠
「なに、三好さんといっしょに作業をしていたの?」 「いっしょにやっていたかどうかは、その日は別の現場に行っていたから判らないけど、三好さんの話だと、怖くてできないならやらなくてもいいって言ったらしいよ。でも、木村さんは、大丈夫と言って慣れない足場作業をやったらしいよ、、、、、伊藤さんの腰の方はどうなの?」 「うん、だいぶよくなったかな」 「そう、よかったね。だめだよ、伊藤さん、気をつけなくちゃ、低いからって油断したんでしょう、、、、これから町に遊びに行くんだけど、いっしょに行かない?」 「うん、でもまだ、長く歩いていると痛くなって来るんだよ。もう少しよくなってからにするよ、、、、」 腰の方は本当は大丈夫であった。だが、なぜか外を出歩くような気分にはなれなかったのだ。 ジュンが帰った後、清二は何もしないで横たわっていたが、なかなか気分が晴れなかった。むしろだんだん苛立っていくようであった。それは黒塚の気違いじみた行為や、その後のその処理の仕方を思うとどうにも納得ができないものがあったからである。今まで黒塚の暴力的で自分勝手な言動のために周りのものがどれほどイヤな思いをしてきたか、またそのために、職場の雰囲気がささくれ立ったものになっていたことは確かであり、それに今後もそのようなことが起こることは明らかであるから、この際黒塚の行為を表ざたにして彼をやめさせるべきだと思っていた清二にとっては、そのことを社長に知らせようとはせず、何事もなかったかのように処理しようとした元山にやり方にはかなり不満であった。 世知に長けた元山は、黒塚の今後のことを思ってか、それとも社長にあらぬ心配をかけさせまいとしてか、お山の大将気分で、内々に済ませようとしたようであったが、しかしそれは、日頃黒塚から恐れられているものだからできることであって、直接包丁を突きつけられた人間にとってはたまらないことであったに違いない。それに以前黒塚と暴力沙汰を起こした若いジュンにとっても、そのような人間といっしょに仕事をしたくなくなるのも当然である。 清二は黒塚とはもう二度と顔を合わせたくないほどの不愉快な気持ちになった。 しかしそうは思うものの黒塚の気違いじみた行為そのものは納得できない気もしないでもなかった。なぜなら、彼の日頃の言動や性格を思いあわせると、それほど考えられない行為ではなかったからである。黒塚が社長に酒を飲ませられてから、仕事にやる気を見せ始めたと云うのも、まさにそのいい例である。彼は異常なほど自尊心が強く利己的で、いつも虚勢を張って生きている人間である。しかもその半面異常なほど小心で卑屈な人間であり、社長を、強さと権威を持った絶対者のようにあがめ恐れて、奴隷のように服従したり、社長の見え透いたお世辞やおだてに乗って、虚栄心を満足させたりして、群れの最高位のものと動物的感情的つながりを持つことによってしか、動けない人間なのである。 そこでうぬぼれの強い黒塚は、調子に乗り、親方のように仕事を任せられた気分になったようである。しかし仕事が出来ないことは以前と変わりなく、そのことを彼自身も判っていたに違いない。それを正直者の部下の男に、間接的にではあるが、仕事が出来ないようなことをずけずけと言われたので、彼が怒り狂うのは当然といえば当然のことである。黒塚は情けないほど卑劣で滑稽で惨めな人間なのである。そして彼は、自分の気質や感情に正直すぎるほど正直な人間でもあるのである。それに清二はこの会社の事なかれ主義的体質をいまさら批判するのも愚かしいことのように思われた。もし社長が従業員同士のトラブルを許さず、そう云うことにきちんとけじめを付ける人間であったなら、元山はあのような処理をしなかっただろうし、会社自体ももっと発展するか、別の形になっていて、従業員も今よりもっと優秀な人間だけになっていたことは確かであるからだ。所詮いま目に見えるとおりにあるしかないのである。つまりあのような性格の人間が社長をやり、従業員の出入りが激しく、その数もせいぜい十数名ほどのところでしかないのである。そしてその従業員のほとんどが、何がしかの欠点や弱点を持ち、ひと癖もふた癖もあり、しかも年を食っている割には何の完成された技能もなく、普通世間でいう半端な人間たちであると云うのも当然といえば当然のことなのである。なぜなら、他では使い物にならない人間だけが集まってきているからである。だからこのような人間集団に公正さやけじめを求めることは最初から無理なのである。それに清二は、順が辞めるのも返って良いことのような気がした。なぜなら、このような体質の職場で、しかも決して質のいいとき思えない人間たちのもとで、辛抱して仕事を続けていても、何にも有益なことがないのは確かであるからだ。もしかすると他のものよりもはるかに将来に可能性を残している若いジュンにとってはマイナスなことかもしれないからだ。 そのようにどうにか納得のできる結論が出たことで清二は、気分がスッキリするかと思っていたが、いっこうにその気配はなかった。そして自分をモヤモヤとした気分にさせている最大の原因は、黒塚の気違いじみた行為や、元山のでしゃばりではなく、自分が事故を起こしたときの状況が正確に伝わっていないことや、木村が現場で落下して怪我をしたことであることに気づいた。 清二は、木村や彼の妻のこと、そして三好との関係や、木村が事故を起こしたときの三好の言い訳めいた状況説明を思い浮かべていると、もしかして、三好はわざと高いところをい所に怖がる木村に、危険な作業をさせたのではないかと云う悪魔的な疑念が生じてくるのをどうしても抑えることはできなかった。それは何の証拠もないことで、清二のまったの邪推に過ぎなかった。だが、三好の日頃の言動には、そのように疑われる余地を残していることも確かであった。 ともかく真相は三好自身にしかわからないことであった。いやもしかすると三好自身でさえ、判らないことかもしれなかった。なぜなら、もし仮に清二が疑ったようなことが、そのとき三好の意識の中もあったとしても、苦し紛れにとっさに出た思いつきや言葉が虚偽であったとしても、それを真実と思い込んでしまう三好の自己欺瞞的な性格や、すでに彼はその事実を否定する言動をとっていることを思い合わせると、そのことが再び彼の意識に蘇ってくることは永久にありえないからだ。 清二どうにも割り切れない気持ちであった。そうもう何がなんだか判らなくなった。すべてがいやになり自分もジュンのように辞めたい気持ちになった。 外はいつのまにか夕暮れであった。 窓の外の建物が西日を受け、いつにもまして赤々と染まっていた。それは表通りの騒音が微かに聞こえてくるだけの穏かな夕暮れであったが、清二はなんとも言えない不快感や苛立ちを覚えながら、気分のほうは恐ろしいほど滅入っていくだけであった。そしてもう何もする気になれず、すべても投げ出したい気持ちでじっと横たわっていた。 どのくらいの時間たったろうか、ふと、スピーカーから流れるような声がどこからともなく聞こえてきた。そしてその声はだんだんと大きくなり、夕暮れ時の静かな家並みに響き渡るようになった。 それは語りかけるように穏かであった。 「、、、、、、、、、、、、、、 なんていってたか忘れました。後で書きます。 たぶん次のようなこと あなたがた堕落した人間は、、、 、、、、、、、、、、、、」 それらの言葉は不思議なほど清二の心を引き付けてはなさなかった。そしてとりつかれたように聞き入っているうには清二は、その場に駆けつけみんなが見ている前でひざまつき、その声の主に慰められている自分の姿を感動的な気持ちで思い浮かべることができた。 しかし、 「あなたがた、堕落した人間たちは、、、」 というのを聞いて、急にそのような気持ちから覚めてしまい、笑いさえこみ上げてきた。ずいぶん思い上がったことをいうものだと思った。その声の主がいったい何を持って人間の堕落と判断して、そして同じ人間に向かってどうして堕落していると非難できる権利があるのか、清二にとってはまったく不可解であったからであった。それにそのような強迫的な言い方では、聞くものがマゾヒストでない限り、ただ反発を覚えるだけだと思った。そして清二は、その場に駆けつけ皆の見ている前でひざまつき、その声の主に慰められていると云う自分の姿を、熱に浮かされたようにして思い浮かべた自分に嫌悪を覚えるようになった。確かにそれは感動的なことに違いなかった。しかしそれは、どこかで見たり聞いたりしたことがあるようなものであり、また誰でも容易に思い浮かべられるようなものでもあり、あまりにも出来すぎたものであった。それに、そのときの自分の気持ちと云うのは、周囲を意識した芝居じみたものであり、しかもただ単に自己満足的で自己陶酔的なだけである。だから清二には、その声の主が言っていることと、そのひざまつく自分の姿とはどうしても相反するもののように思われた。それにそのような人間たちが集まっている集団と云うのは、なんともいやらしいもののように感じられた。と云うのも、そのような人間集団は、その声の主が周囲の人間に向かって堕落していると決め付けているように、外部に対して当然独善的で排他的にならざるをえないからである。しかし人間が徒党を組んで何をやろうとも、自由であるので、たとえ彼の言動が独善的で脅迫的であろうとも、またそのために周囲の者に直接的にも間接的にも害悪をもたらさないかぎり、それはかまわないことだと清二は思った。それに今の自分にとってはそのような集団は何の役にもたたないことはハッキリしていた。 結局清二は再び何がなんだか判らない混沌とした状態に陥り、すべてを放棄したい気持ちになった。 翌日の午後、清二は高志を訪ねた。 曜日であったので、洋子はすでに帰ってきていた。ただ高志はまだ眠っているようであった。清二は高志がおきるまで居間で待つことにした。家事が一段落したらしい洋子が入ってきて清二の前に座った。そして窓の方を見ながら言った。 「もう、すっかり春ね、、、」 「うん、そうだね、こんなに天気がいいと、こうしているのが何かもったいないくらいだよ、、、、、」 「でも、大事に至らなくて、本当によかったわね」 「いや、もともとたいした怪我じゃなかったみたいだから、、、、」 洋子が壁にかかっている時計に目をやったあと、清二の顔を覗き込むようにして言った。 「起こしてみる?」 「いや、いいよ、このあいだ無理に起こしたからね、ずいぶん気分が悪かったみたいだったよ」 洋子が何かを案ずるかのような表情でうつむいた。だがすぐそれを打ち消すかのように笑みを浮べながらゆっくりと顔を上げながら言った。 「あの人は本当に困った人よ。このあいだも変なこと言ったのよ」 「変なこと?もしかして、それ、仕事を辞めたってこと?」 「そうじゃないわ、そのことはもう良いの、申し方のないことだから、それにそのほうが、あの人にとって良いみたいだから、そうじゃなくて、離婚の話なの、、、、、、、」 「離婚?またどうして、それでなんて言ったの?理由は何なの?」 「理由は言わなかったわ。というより、このままだと、おそらく、わたしたちは離婚することになるかもしれないようなことをポツリと言っただけなの、、、、だから詳しいことはわたしにわからないの、、、、、、」 清二はいかにも不可解といった表情をして窓の外に目をやった。しかし内心は、その理由として思い当たるフシがまったくない訳でもなかった。と云うのも、最近の高志の言動からして、もしかして、こういうことになるのではないかと云う予感めいたものを感じていたからである。 かつて高志が、どうしてもなじめない勤めを辞めて、物書きになると、生きることへの積極的な姿勢を感じさせながら興奮気味に言ったとき、清二は高志が自分にあったものを見つけて、本当に自分のやりたいことをやろうと強いることはいいことだと思った。しかし何となく不安を覚え、心の底から賛成と云う気持ちにもなれなかった。と云うのも、そんなに簡単に収入えられるような物書きになれるとは思えなかったからである。そのとき高志は、イヤな人間と付き合ったり、つまらないことに煩わされたりすることなく、ひっそりと部屋に閉じこもり、お金や名声を目的とせず、自分の納得のいくものや長い目で見たら人類の役に立つようなものを書きたいと言った。 しかし、現実にそうしていくためには、生きていかなければならなく、それは理想的なことに違いなかった。もしかしてそのときの高志の頭には、物書きとして軌道に乗るまでは裕福そうな実家や、洋子に援助してもらおうという考えがあったのかもしれない。もしそうなら、それはそれで良いことであった。だがそのときの高志は、そう云うことよりもむしろイヤな勤めから開放され、物書きとなることを夢見るあまり、それがうまくいくかどうかも、また洋子といっしょに住んでいることさえも、まったく目に入ってないと云う感じで、それはまるで、自分が他人の人間とは、関わりなくこの世界に生きているかのようであった。つまりそのときの高志の言動には清二から見ればどことなく甘さが感じられたのである。そして、最近の高志はそのことにようやく気づいたようである。というのも最近の高志が、以前のように、気が滅入りがちで苛立ちやすくなり、厭世的なことを言ったり、不可解な行動をとったりするようになったのは、ただ単に物書きとしてうまく行ってないことだけが原因になっているとは思えないからである。そしで高志は、今のままの状態だと、自分は洋子に頼りきった生き方しかできないことに気づき、男としてのふがいなさからか、それとも、洋子への申し訳なさからか、あのように離婚するかもしれないなどと、言ったに違いないのである。 「そんなに焦ることはないんだと思うんだけどなあ、、、、、」 と清二は窓の外に眼をやったまま呟くように言った。そのとき、足音がしてパジャマ姿の高志が居間の扉の前を通り過ぎた。どうやらトイレのに行ったようだった。 その帰り再びそこを通りかかったとき、清二は、高志のほうを見ながら「おはよう」と大きな声で言った。だが高志は不機嫌そうな表情で清二のほうをチラッと見ただけで、そのまま通り過ぎていった。 「今日も眼醒めが悪そうだなあ、、、、」 と冗談ぽく言いながら清二はようこの方を見ると、洋子は戸惑いの笑みを浮べながら席を立った。 だがそれは高志の所に行くためではなく、残っている家事のためようであった。 清二は少し時間をおいてから高志の部屋に行った。 高志は布団の上に横たわっていた。 「おはよう、どう気分は? わあ、いい天気だな、、、、」 そう言いながら清二は窓のほうに歩いていった。 「、、、、、わざとらしいんだよな、ボクはきらいだって言ったろう、天気が良いのは、、、」 「なんかムズムズしてくるよ、まさに散歩日和だね、、、、」 「用事は何なの?」 「そう冷たいこと言わないでよ、せっかく遊びに来たのに、もう腰の方はだいぶよくなったもんでね、、、、」 「まったく現金なんだよ。ほんとに楽天的な人には敵わないよ」 「そうか今日のボクは楽天的に見えるか、でもそれはいいことじゃないの、だってあなたの望んでいることだらね、両方が滅入ったような顔をしていたら、僕たちはどうしようもなくなるはずじゃないの、、、、」 高志は怪訝そうな顔をしてみていたので、清二は座って話し続けた。 「、、、、、ああ、もうイヤになったよ。だいぶ前になるけど、こういうこと言ったの覚えている? そのうちに自身を喪失したしまらない顔を見られるかもしれないって、今のボクはまさにそれなんだよ。顔のほうは休養充分でしまって見えるかもしれないけど、頭のほうはもうグチャグチャだよ、、、、、」 「何があったの?」 「いや、特別何かがあったって訳じゃないけどね、ただ何となく、いやになってね。もう何もやる気がしなくてね、どうしようかなと思っているよ、、、、ほんとのこと言って、怪我をしたころまでは、夕方に一日仕事が終わっても満足感も開放感も沸かなかったし、何となくイライラしたようなまとまりの付かない気持ちだけが残っていて少しも楽しくなかったんだよ」 「それは、今の仕事が原因?」 「うん、そうだな、仕事のことっていえば、仕事のことかもしれない。ほんとは仕事そのものはイヤでもなんでもないんだけどね、どうも、そこに集まってくる人間が、がさつというか、無神経というか、自分さえよければ良いと云うようなものばっかしでね、いっしょに協力して働いている気がしないんだよ。彼らはそんなことはなんとも思ってないみたいだけど、ボクはどうも納得が出来なくてね。とくに最近は、こういうことは以前はまったくなかったんだけど、他人の態度や行動が異常に気になって、どうでもいいようなことに本気で苛立ったり腹を立てたりして、このままだと自分が、周りの人間のように、暴力的で冷たい人間になっていくような気がしているんだよ。そんなことにかまわずに、自分も他のもののように、好き勝手にと、感情をむき出しにしてやればいいんだろうけど、どうもそれもできなくてね、もともとさ、あう云うところに集まってくる人間たちに、友情を求めるって言うのは、間違いかもしれないね。今はもうみんなの顔を見るのもイヤで、、、、、やっぱり今まで我慢していたところがあったからな、それがいっぺんに出たのか知れないな、、、、」 「、、、、、そうですか、君がね、あの君が生きることに自信をなくしたんですか、、、それならもうあとは死ぬしかないですね、、、、」 と高志は笑みを浮べて冗談ぽく言った。 「そりゃあ、そうなんだけど、でも、死にたいっていうほど自信をなくしたわけでもないしね。もっと混乱して自分が判らなくなるほど気が滅入ったりすれば、死ぬかもしれないけどね。でもそれほど滅入ってもいないしね。ボクは人間と云うものは理性的には自殺できないと思っているから、今のままだと結局石にかじりついても生きていくんじゃないの、、、、」 「理性的に自殺ができないかな?」 「、、、、できないこともないだろうけど、現にそう云う人もいるからね。ただボクは、自分でいつ頃からそう思うようになったのかははっきりと判らないけど、、何となくそう思っているんだよ。よくあるじゃない、若者が、いまでは子供でもあるけど、偉そうなことを書き残して自殺するって言うのが、でもあれはどうも、頭でっかちで独りよがりっていうか、自己欺瞞におちいっていると云う感じがするんだよ。だって頭の働きは一種の生命活動だからね、それで冷静に死ぬことを考えるのは、なんとも奇妙じゃないか、根源的な自己矛盾と云う感じがするよ。まあ、しかし、さっきも言ったように、自分で自分側からなくなり、生きる気力も失い、発作的に自殺するって云うのは、別だけどね。でもボクはどうも人間は、本質的には自分からその理由を見つけて死ぬようにはできていない気がするよ、、、、、、」 身じろぎもせず黙って聞いていた高志は、清二が話し終わっても何にも答えようとはしなかった。何となく間の悪い沈黙が続いたあと、高志が言った。 「隣のばあさん、死んだよ。三日前かな、なんか急だったみたいだよ、あっけないもんだね。やっぱり壁の向こうは、ばあさんの部屋だったよ、それ以来何にも聞こえないからね。それでさ可笑しいて言えば可笑しいことに気づいたんだよ。棺おけって言うのはエレベーターに入らないみたいだよ。みんなで担いで階段を降りていったみたいだからね。このマンションは、なんでも整っているから便利で住み心地もいい方なんだろうけど、死んだ後のことは計算されていなかったみたいだね。とにかくこれで、もう二度と会うことはないから、安心して外に出られるよ」 「、、、、、高志さんは、その婆さんのこと感じが悪いって避けていたようだけど、でも、もしかしたら、そのばあさんは高志さんと知り合いになって何か話をしたかったのかもしれないよ。確かに見た目は感じがわるいところがあったけどね、でもむこうでは、高志さんのこと感じが良いと思っていたかもしれないじゃない、、、、、」 「まさか、そんなことある訳ないよ、、、、、」 と高志はやや不快そうな表情をして言った。しばらく沈黙が続いたあと、高志の表情が元にもどったのを見て清二が話し始めた。 「ボクはそんなに焦ることはないと思うよ、そんなに最初から順調に行くなんてことは、滅多にないことだからね。それまでは、余裕がありそうだから、少しぐらいは脛をかじったってかまわないと思うよ。奥さんだって、そんなに負担とは感じてないと思うよ。もう少しさ、あんまり細かいことにこだわらず、そのうちにどうにかなるぐらいの気持ちでさ、のんびり構えていればいいんじゃいの、それにやっぱり自信だよ。オレは絶対にやれるんだってもっと自信を持っても云いと思うよ」 「、、、、なぜ、そのように奥歯に物の挟まったような言い方をするの?君はいったい何が言いたいの?」 「何って、、、、、じゃあ、はっきり云うけど、さっき奥さんから聞いたんだよ。離婚どうのこうのって、それはあなたが作家としてうまく行かなく収入もなく、まったく生活力のない夫と云う引け目を感じているから、そう云うことを言ったんだろう、、、、」 「、、、、そんなんじゃないさ、、、、、いいじゃない、僕たち離婚したって、君には関係ないよ。そうだ、君は洋子のことが好きみたいだし生活力もあるから、ボクと別れたあと、君が洋子と結婚すればいいよ、洋子はまだ新品同様だよ」 「やめろよ、そんな言い方、、、、、前に話しを聞いたとき、正直言うと、どことなく現実離れしたところがあって、少し甘いなと云う感じがあったんだよ。でも、本当にやりたいと云う情熱が感じられたし、そうする方があなたにとってはいいことだと思ったので、少しも反対しようという気持ちがおこらなかったよ。ボクは高志さんがあのときの情熱を忘れてさえいなければ、きっとやれると思うよ。だから、少々周りに負担や迷惑をかけても気にすることはないと思うよ。開き直ってもっと堂々としてればいいと思うよ。 「、、、、そうじゃないよ、そのことはもういいんだよ。もともとボクは、作家として成功しようとか、それで収入を得て、生活費の足しにしようとかいう考えはなかったからね。 だいいち僕にはそう云う才能がないよ。作家として成功するには、社会の動きや人々の考えていることに、敏感に反応してさ、無意識のうちに読者の願望や知識欲を満足させるようなことが書けると云う、生まれもった才能が必要なんだよ。僕にはそんな才能がないことぐらい初めから判っていたさ、それにそのように、読者を意識しないで自分のために、自分の納得のいくものとか、長い目で見て人類の役に立つようなことを書いたって、どうせ自分は死ぬんだし、人類そのものだって、いずればこの地球上から消えてしまうんだからね。毎日あくせくとさ他の無意味なことをやるのと同じぐらいに、無意味なことだよ。皆年老いて死んでいくだけだよ。何にも残らないのさ、それならいっそのこと何もしないほうがましだよ、、、、」 清二は、高志がこのあいだのように厭世的な気持ちになっていると思った。ただこのあいだよりは感情的で自暴自棄になっている感じだった。高志は続けた。 「今、君は、ずいぶん変なことをいうやつだなあと思っているだろう。好きなように思ってかまわないよ。そうさ、ボクは病気よ、頭がおかしいんだよ。社会が僕のような変人を必要としないのも当然だよ。でも、君だって可笑しいよ。自分から死ぬ理由が見つけることはできないと言っておきながら、かといって生きる理由を見つけることなく生きているんだからね。ボクには何があろうとも石にかじりついてでも生きてやろうという、君のような人間が羨ましいよ、、、、」 清二には高志の言うことが皮肉っぽく聞こえたので笑みを浮べて答えた。 「ない訳でもないさ、、、、、」 「欲望の赴くままに生きるって奴だろう。それでいいさ、他人がどんな気持ちで生きようが、ボクには関係ないよ。どっちみち後何十億年もすれば地球はなくなるんだよ。人間の栄光か、笑い話だな、、、、、」 「その前にさ、、、、この島国日本がなくなるよ。だから今のうちに世界に向かって偉そうな顔をしてたほうがいいよ。いずれは世界を流浪しなければならなくなるんだからね。まあ、そんな話はともかくとして、確かに高志さんの言うとおりだよ。でもなんか変だな、、、、、」 「何が?」 「、、、、ボクのいうことを可笑しいと言うけど、あなたの言うことも可笑しいよ。だって何もしないほうがましだと思っているのに、色いろなことを考えているじゃない、それも熱っぽくね。そこには生きるために何かをやるのと同じような生命力を感じるよ。それじゃ言うことと、やることが矛盾しているじゃない。もし本気でそう思うなら、考えることも話すこともしないはずだよ。それにさ、高志さんの話を聞いていると、そのように考える力は、自分ひとりの力で身につけたんだと思い込んでいるような感じがするよ、つまり、子供ときから親とか友達とか、周りの人間たちのおかげで、自然と考える力を身につけてきたはずなのに、その考える力でそう云う考える力を否定しているような気がするよ。それはまるで花が自分の根や茎がなくても咲くことができるんだといっているようなもんだよ、、、、」 「そうすると、君は、ボクは自分のことしか考えていない利己的な人間だというの、、、、まあ、いいか、そうかもしれないな、現にボクは、他人のために何かをやっているわけじゃないからね。そう思われても仕方がないよ。ボクは本当はこの世に役立たない人間かもしれないよ、、、、、」 「そう自棄にならないで、そうじゃなくて、、、、なんていうのかな、、、、確かに、人は皆年老いて死んでいくだけで、何も残らないかもしれないけど、でもそのことから結論してさ、なにもしないほうがましだと、はたして言い切れるんだろうか、ボクは言い切れないような気がするんだよ、、、、」 「ボクには言いきれるよ、しょせん君と僕とは、生き方も考え方も違うんだよ、、、」 「そんに違わないよ、あなたがこのあいだ、この重力のある地球上で、何十億年もかかって進化してきて人間が、この地球から抜け出して生活するのは不可能に近いと言ったことと、ボクの言っていることとは、根本的には同じ考え方から来ていることだと思うよ。それに高志さんは決して利己的な人間ではないよ。このあいだ話していたように、自分の心の動きや感情に敏感なあまり、他のことには目が行かないだけだよ。あなたは他の人より自分自身に関心を持っている人間なんだよ。そのために自分から、身動きの取れない状態にしている傾向はあるけど、でも自分以外のことには関心を持つが、自分自身に関してはまったく判らないと云う人間よりはいいことだよ。少なくとも、自分を知ると云うことは、ある意味では、人間を知ると云うことだからね。後それからね、さっきあなたは、ボクが欲望の赴くままに生きているようなことをいったよね、それはたぶん、去年の秋頃に、ボクがいったことから来ていると思うんだけど、でもボクはあのとき、そうは言ってないよ。正確には、生きようとする衝動を感じているために生きるって言ったんだよ。それからそのときは、その生きようとする衝動の前ではどんな理屈も屁理屈になるっても言ったよね。あのときは頭がボォッとしていて、うまく説明ができなかったけど、でもあのときの理屈が屁理屈になると云うのは、あなたの言うことがボクから見ればどことなく、頭の中だけのことのような感じがしたから、そう言ったんだと思うよ。そこには、たぶん、ボクよりも恵まれた状態にあるあなたに対する羨みから、そんな暢気なことを言っていたら生きていけないよという、反撥心も多少あったんだろうけど、でもそう云うことは別にしても、少なくとも、あなたよりは切羽詰った状態にあるボクから見れば、あなたのいうことは、どこかで聞いたことがあるような、余裕のある人間だけが言うことのような気がして、何となく観念的で甘いなあと云う感じがしたことも事実なんだよ。それじゃ、生きようとする衝動を感じてるために生きるって言うのは、どういうことなんだと聞かれるとちょっと困るんだよな。ただ青年期を経てこの年まで生きてくるあいだに、少なくとも人並みにいろいろなことがあったね、そしていつ頃からそう思うようになったのかはハッキリと判らないけど、結論として人間は自分から死ぬ理由を見つけて死ぬことはできないと思うようになったことは確かなんだ。だから、現在何のために生きているかって聞かれたら、生きようとする衝動を感じるから生きるとしか答えようがないんだ。それは生命の衝動や、生きようとする欲望と言い換えても同じことかもしれない。だからあなたが思うような意味での欲望とは違うような気がする。むしろ、そう云うこととはまったく無関係な、追いつめられて切羽詰った精神状態にあるときの気持ちを言い表したものかもしれないよ。つまり、群集にもまれて生きているうちにいろいろなことで厭世的になって、これ以上生きていてもしょうがないと思った人が、欲望を満たすものが身近にないような無人島に置いてけ堀にされたら、おそらく、生きていてもしょうがないから、何もしないでおこうなどと云う考えは消えてしまうだろうね、最初は何もしないかもしれないが、そのうちに飢えや渇きや寒さを覚えてくるに従って、生命の衝動を感じるようになり、結局はあるがままの生命力で何とか生き抜こうと努力するだろうと云うことだよ」 「、、、、、、だがね、ボクは君が思うような恵まれた状態にはないよ、単なる失業者過ぎないよ。そう云う人間の言うことがそんなに観念的で甘いものかな?それにボクは追いつめられて切羽詰った状態にあるけど、全然生きようなどと云う気持ちにはなれないよ。それからね、もしボクが何もないような無人島においてけぼりにされたら、生きようなどと、そんな無駄なことはしないよ。生き延びても、どっち道死ぬんだから、これはいい機会だと思って、飢えと渇きに任せて何もしないで死ぬのを待つよ。それよりも何もしないほうがましだと思っている僕が、どう間違ってもそんな無人島に行っておいてけぼりにされるなんてことはあり得ないよ、、、、」 と高志は珍しく小ばかにしたような薄笑いを浮べながら行った。高志は少し依怙地になっているようであった。 「それはたとえばの話しだよ。すぐ揚げ足を取るんだから、、、」 気まずい沈黙が続いたあと、洋子が入ってきて、友人と外出することを告げると、そのまま出て行った。 「またあの不幸ぶる女が来たのか」 と高志は呟くように言った。そして再び沈黙が続いたあと、清二が話しかけるように言った。 「、、、、、、確かにあなたの言うとおり、人類も地球もなくなって、最後には何も残らないよ。でも人間の栄光はあると思うよ、、、、」 「いっさいがなくなると云うのにかい? 「、、、、、、、うん、いやあるというより与えられたと言ったほうが良いかも知れない、それはこの世に生まれたときに、与えられているような気がするよ。つまり、そのときに両親が愛情をこめて微笑みかけてくれたに違いないからね。そのことが人間にとっての栄光なんだよ。だから誰にもあるはずだよ。もちろんそう云う愛情のもとでの本当に喜ばしい無邪気な子供のころの思い出というのも、大人にとっては輝かしいものになるだろうけどね。でもこの場合、あなたの言い分に従って、そう云う思い出だって最後にはなくなるって言ったほうが良いかな、、、、、、」 「、、、、ボクは、人並みに親の愛情を受けて育って来たには違いないと思うけど、でも子供ときの思い出と云うのは、良い事よりもむしろイヤなことのほうが多いよ。決してそんなに輝かしいものじゃないよ、、、、」 「その通りだと思うよ、人にはその時期を人生の黄金期のことのようにいう人がいるけど、決していいことばかりじゃないことは確かだよ。子供が自我に目覚めたときの親と子の愛情関係は何となくギクシャクしたものになるからね。そう云うことよりも、むしろボクの本当に言いたいのは、思い出となる以前のことだよ。つまり、親の栄光に満ちた愛情と云うのは、子供にとってはほとんど無意識のものなんだよ。だから思い出となって残らないんだよ。それは今こうして考えたり話したり意識したりする元になるものが、すべてそう云う愛情のおかげなんだよ、、、、」 「、、、、、、無邪気な子供ね、ボクはどうしても子供と云うものが好きになれないよ、君は好きみたいだね、、、、」 「好きとか嫌いとか云う問題じゃないような気がするよ。確かに、色んな子供がいるけど、でも現実には、憎たらしい子供は憎たらしいと思うしかないし、可愛らしい子供は可愛らしいと思うしかないよ。それらにあくまでも自然の産物だからね。人間が作るとか作らないとかって言えないような気がするよ、、、、、」 高志が急に興奮して話し始めた。 ![]() ![]() |