ブランコの下の水溜り(14部) はだい悠
まもなく鈴木が戻ってきた。そしてごく普通の愛情に満ちた家族のようにほほえましさを感じさせながらどこかへ出かけていった。 別れてもからも行き来があったことを清二は知っていた。ただそれは鈴木が給料から養育費を払うためだと思っていた。しかし彼がときおり判れた妻の話をするとき、いくらそれが愚痴めいていても彼の言葉の端々には、まぎれもなく夫としての素朴な愛情が感じられた。それに今日のように和やかな雰囲気を見ていると、かつて国沢がいった、生活保護を受けるために偽装離婚したということがまんざら根も葉もないことではないような気がした。しかし清二はかつて彼が見せた愛想づかしが、計画的に仕込まれた芝居だとはとても思えなかった。それに彼がそう云うことをする人間にはてとも思えなかった。清二はなんとも割り切れない気持ちであった。しかし別れた親子が仲良くしてはいけないという法はない。それにヨリを戻したのかもしれないと思うと、何も疑いを持つほどのことではないような気がした。 十時ごろ清二は風呂のために外に出た。表通りにはまだ夜の賑わいがあったが、なんの感慨も沸かなかった。見慣れているせいもあったが、働きやすい気候になって眼いっぱい体を動かすので、くたくたに疲れているせいでもあった。もちろん疲労も一晩寝れば取れるという種類のものなので、いくらクタクタとはいえ肉体的には何の不安もなかった。むしろ思うように動かない肉体のおぼろげな感触と覚えながらボォッとした気持ちでいることは心地よいものであった。生き生きとして思考や感覚と云うものはまったく無縁の世界のようであった。ただ今夜もぐっすると眠りたいという気持ちだけだった。 銭湯ではお互いに見知らぬもの同士なので会話はほとんどない。黙々と自分の体を洗う男たちは、肉体の貧弱な者もたくましい者もいちようにありまままの姿をさらけ出して皆孤独に自分の世界に浸っている。ほかの者には関心を示さない裸の男たちの思い思いの表情には、何事もなく今日という日を無事終えたという安堵感や開放感は見られずむしろ無気力な感じさえする。その肉体にも生命のみずみずしさはなく、単なる動く物体としてそこにあるだけである。女風呂から聞こえる賑やかな声も遠い遠い世界の出来事のようである。 清二はそんな雰囲気によそよそしさを感じている余裕はなかった。みんなと同じように他のものには関心を示さず虚脱感のなかで、今夜は早く寝るぞと頭のなかで呟きながら、かろうじて自分の意志に忠実な肉体を洗うだけであった。 部屋に帰った清二はひんやりとする布団に入った。そしてタバコを吸っていると瞬間意識が薄れてふらっとした。まだ眠るつもりはなかったので、すぐ元に戻ったのであったが、なぜか心地よいものであった。空虚でしかも平穏な気持ちであった。鈴木の愛憎問題も、石田の闇討ち事件も今の自分にはどうでもよいことのような気がした。何もかも忘れてなににも煩わされることなく、眠れることは申し分のない幸福に違いなかった。 ここにあるのは結局、単なる孤独な男が、無表情で町のなかを彷徨い、無言のまま他人と交わり、そして特別なことを体験することもなく、殺風景な部屋に戻ってきては、湿っぽい布団にくるまって、何にも頭に思い浮べることもなく眠るという、塊のような肉体の現実なのである。 布団が温まるとともに、急激に眠気を覚えた。そして自分の口がだらしなく開いていくのに気がついた。だもこれでいいと思いながら、薄れ行く意識のなかで、自分を育ててくれた父や母の同じような姿を思い浮かべた。 十一月に入って最初の日曜日、朝から雲ひとつない快晴であった。 昼前、社長が黒っぽい背広を着た二人の男をつれて宿舎にやってきた。一人は精悍な感じのする三十ぐらいの男で、もう一人は四十ぐらいで、若い方より少し背が低かった。そして以前国沢がすんでいた部屋の前で、社長が二人の男になにやら話して、そのドアを開けると、二人の男はなかを覗き込むようにした。とくに若い方は何か変なものでも見るのように落ち着きなく眼を動かしながら入っていった。 着古した感じのする服装からして、どうも普通のサラリーマンのようではなかった。社長は部屋に居た久保山になにやら話したあと、ドアのところで外の様子を覗っていた清二のところにうつむき加減に歩いてくると、渋い表情で 「国沢のことを聴きたいそうだから、知ってることは何でも話してくれ」 とやや元気なく言った。 まもなく背の低いほうの男が国沢の部屋から出てくると、久保山になにやら訊ね始めた。何を話しているのかよく判らなかったが、久保山の驚きの声からすると、なにか大変なことが起こったことを予感させた。どうやら男たちは刑事のようだった。 しばらくして清二の部屋にやってきた。 背は低いがガッシリとした体つきの刑事は、ベッドが陰になり清二がいることに気がつかないのか、ドアのところでこわばった表情で部屋を見まわしていたが、清二と目があうと、その四角い顔の表情を崩して驚いたような笑みを浮かべながら馴れ馴れしく話しかけてきた。 「ちょっと聞きたいことがあるんだけどね、伊藤清二さんだよね」 「はい」 そう答えながら清二ドアのところに行った。刑事は国沢の部屋のほうにチラッと眼をやりながら話し始めた。 「国沢平吉って知ってるよね、殺されたのは知っている?」 「いいえ」 「国沢がいつから居なくなったのかは、知っているよね」 「、、、、、たしか、、、三週間前の月曜日、朝仕事に出てこなかったので」 「それでさ、その前までに、なにか変ったことに気づかなかったかな?」 「、、、、いいえ、べつに、、、、」 「どういう人間だった?」 「どういう人間って、普通だったと思いますけど」 「あっ、そう」 と事もなげに言いながら、今度は久保山の部屋のほうにチラッと眼をやった。そしてもう一度清二の部屋の様子に眼をやると、あまり気乗りのしない表情で言った。 「ところで、君は、、、まあ、いいか。あっそうだ。その前の日の日曜日なんだけど、君はどこに居たの?」 「たぶん午前は部屋に居て、午後からは町に出たと思います」 「そのことを誰か知っている人いるかな?」 「、、、、ええ、いますよ」 「その人は女性?男性?」 「女性です」 「名前は知ってるかな?」 「ちょっと判らないです」 「住所は?」 「住所も、、、、でも、居る場所は知っています。よかったら案内しますよ」 「あっ、、いいよいいよ、、、、そうか、、、じゃあ、今度何かあったらそのときもよろしくね」 と親しげな表情で言うと、陽射しにまぶしそうに顔をゆがめながら再び国沢のいた部屋に方に行った。あまり熱心ではないようだった。というより清二にたいしてはまったく疑いを抱いてないようだった。それは前もって清二がどんな人間であるか社長から聞いていたからに違いなかった。それに清二が正直に答えたせいかもしれなかった。しかしある意味において清二は少しも正直に答えていなかった。むしろ嘘をついていた。と言うのも、清二にとって国沢は決して普通の人間ではなかったからだ。紛れもなく異常な人間だった。それに国沢が居なくなる前の晩の約束ごとや、それ以前のゴタゴタは申し分なく変ったことであった。しかし会えてそのことをいわなかったのは、清二が日頃からこのような警察沙汰に自分が巻き込まれることに、半ば無意識的な恐れを持っていたため、それらのゴタゴタは他の誰も知らない自分と国沢とのあいだのことであり、下手にしゃべると、帰ってあらぬ疑いを掛けられ面倒なことになるのはハッキリしていたので、それに他の誰もが知らないことなので、このままだって居れば何事もなく済むに違いないと、瞬時に判断したからである。その年上の刑事は再び部屋には入らずドアのところから中の様子を覗いたりして世間話風に気楽な感じで社長と話したりしていた。しばらくして調べが終わって中から出てきた若い刑事と何やら笑顔で話しながら、社長ともに帰って行った。 国沢が殺されていた場所は二キロほど離れた、今は閉鎖されている工場の敷地内のようであった。 死体となって発見されたのは二週間前の日曜日で死後一週間ぐらい経っているということであった。そうすれば殺されたのは居なくなった日曜日あたりになる。 そこは普段はまったく出入りがなく、周囲は外から中が見えないほど樹木囲まれているので発見が遅れたらしかった。直接の死亡原因は頭を何かで殴られたためであった。ここまでの捜査に二週間も掛かったのは被害者の名前も素性もわからなかったので足取りがつかめなかったことにあるらしいが、警察でも単なる浮浪者と見たらしく、それに新聞に載るには載ったが、労務者風の身元不明の死体ということで片付けられたため、一般市民からなんら手がかりとなる情報も得られなかったようで、それで思うように捜査が進まなかったというのが本当のようであった。 この後社長は、みんなが国沢のことを話題にすることにあまりいい顔しなかっただけでなく、自分からも決して話そうとはしなかった。かつての従業員が殺されたと言うことで刑事からいろいろなことを根掘り葉掘り聞かれたことは確かであり、そのことはあまり気分のいいものではなかったに違いない。それはこのように警察沙汰に巻き込まれるというより、というのも、かつては社長自身が喧嘩で警察の厄介になったということもあり、また強姦事件や暴力事件を起こした若者を身元引受人となって従業員として雇ったりしていて、警察とはそれなりのつながりがあったのであるから、むしろ就業内容に立ち入られることを恐れたようだった。なぜなら決して法律を犯して従業員を雇っているわけではなかったが、従業員が入るときに契約書を書いたわけでもなく、いっさいの保険類もなく、そして辞めるものはほとんど全員何も言わずに突然姿をくらますと云うような、いい加減な会社の体質に触れられることは、下手をすると悪評の形で世間に取り上げかねないからである。従業員十名ほどの土建業といっても、近隣にはいっぱしの社長として通っているからには、それなりに社会的地位や名声なるものもあるわけで、それにこういう業種の社長というものは皆暴力沙汰や警察沙汰よりも、従業員に対する扱いが悪いと言う評判が不名誉と考えているフシがあり、とくに人一倍虚栄心の強い社長にとっては、世間体を気にするのは当然である。それからそんな悪評が災いして、もっとも曖昧にしておきたい部分が知られること、つまり税務署に目をつけられることは最も恐れることだからだ。 清二は時折もしかしたらという気持ちで、国沢を殺した犯人として、鈴木や、安本や、奥山の姿をふと思い浮かべることがあった。しかし鈴木の場合は一度絡まれかけたというだけのことで、それも鈴木が強い態度に出たらその後は何事もなかったと言うことなので、殺すほどの因縁はなかったはずだ。それにいくら鈴木が酒を飲んで自分を見失いがちだとしても、根は暴力的でない彼の人間性からして、どう間違ってもありえないことであった。 安本の場合は、彼は現実に絡まれたこともあり、また作業中にもトラブルがあり、日頃から快く思っていなかったことは確かで、それに国沢がいなくなつた日曜の夜の、彼には似つかわしくない不可解な言動があったからであるが、しかし、その後の、少しおしゃべりでどことなく抜けたところがある本来のひょうきんな性格に戻った彼の様子からすると、彼が怪しいとはとても考えられなかった。 奥山の場合は、充分に考えられることであった。と言うのは二人のあいだには明らかに怨恨があったし因縁も深いようである。それに二人の頑なで向こう見ずな性格からしてちょっとした生きがいから衝突すれば充分に起こりえることであった。しかし国沢の他人をすぐ侮りの目で見る暴力的な正確や、彼独自の交友関係からすれば、奥山のほかにも考えられなくはなかった。つまり彼と同じような境遇の人間と行きずりに会い、または奥山以外のかつての仲間に偶然会い、ほんの些細なことが原因で喧嘩となり殺されたと云うことは十二分に考えられることであった。しかしこれらもしょせん憶測の域を出るものではなかった。 それはそれとして清二は今度は自分のことが気になった。と言うのも、刑事には国沢とのあいだには何事もなかったように言ったが、しかし周囲の家々には、国沢が居なくなる前夜の、またそれ以前の、激しい怒鳴り声が聞こえていたはずである。もし刑事がそのことを聞き込めは、当然自分が疑われかねないからである。いくら刑事たちが捜査熱心ではないようだったとはいえ、ひょっとしたら面倒なことに巻き込まれるのではないかと思い少し不安な気持ちになった。 再び仕事が忙しくなってきたせいか、新たに従業員が二人立て続けに入ってきた。おそらく社長が新聞広告で募集したのだろう。二人は国沢のいた部屋にはいった。 一人は二十台の若者であった。 切れ長の眼をした甘いマスクの好男子であった。物分りも良さそうで、均整のとれた若々しい肉体をしており、垢抜けたい服を格好よく着こなしていた。見た感じやや気の強そうな感じはあったが、トオルやアキラほど社会を甘く見るような生意気さはなく、快活で真面目そうな感じであった。ただそれはトオルやアキラのような若者見ていたから、そう感じるのかもしれなかった。全体としてはこのような仕事には何となくふさわしくないような印象であった。その裏には、その若さとその容姿なら、それに頭もそれほど悪くなさそうなので、他にもっと割りの会う仕事があるだろうという思いがこめられていた。だからこのような仕事をするようになったのには、なにか致命的な欠陥でもあるのだろうかと邪推したくなる気持ちを抑えるとは出来なかった。 もう一人は五十ぐらいのメガネをかけた善良なサラリーマン風の男で、ごく平凡な家庭の優しくて大人しい父親といった感じで、若い男とは別な意味で、こういう仕事にはふさわしくない感じであった。このような仕事をするようになったのには何が事情があることは確かだった。 ただ清二にとっては以前にいたような、とんでもなく変な人間よりもはるかにましな感じがしたので、ほっとした気持ちであった。 ある夜半、清二は不穏な気配に目覚めた。久保山の部屋からであった。久保山が珍しく大声で話していた。非常に腹を立てているようで、怒鳴っているようにも聞こえた。だが半睡情態なのでよく聞き取れず何が起こっているのか判らなかった。ただ 「こんなんじゃ、いっしょに住めない」 と言う久保山の気迫のこめられた言葉だけを聞き取ることができた。どうやら相手は鈴木のようであった。鈴木の声はまったく聞こえなかった。 翌日、鈴木が 「今晩からこっちにとまるから」 と気の毒なほど低姿勢で言いがら清二の部屋に入ってきた。鈴木は久保山に部屋を追い出されたのである。その原因は久保山の話によるとこうであった。 鈴木は毎晩遅く飲んで帰ってきては、二段ベッドの上で、脅しつけるような声でわめいては足でベッドを蹴ったらしい。鈴木は決して久保山に対してやったわけではないのであるが、それに久保山も最初は自分が怒鳴られたような気がして心穏やかでなかったそうだが、酒乱の気のある鈴木と言うことで、多少我慢していたそうだ。しかしあまりにも毎夜と云うことでとうとう堪忍袋の緒が切れたらしく、 「夜中に騒ぐようでは安心して眠れないから、どこかの部屋にってくれ」 とはっきりと言ったのだそうだ。 久保山の性格にはそう云う単純明快なところがあった。それが鈴木が低姿勢で入ってはた理由のようであった。やはり少しは自分のしたことを気になっているらしかった。しかし清二にとっては、これから鈴木が寝泊りすることにそれほど迷惑を感じていなかったので、しょうがないなと思う反面、何も恐縮するほどのことでもないような気がした。ただ普段は、やさしく大人しい鈴木が酒を飲むとまったく人格が変ってしまうのが、なんとも不思議に思われたので、何が原因でそうなるのか、知りたい気持ちであった。 ある日、国沢を殺したのは、犬を使って新聞配達人を襲わせたと云う、あのアツシらしいと皆のあいだで話題になった。清二は新聞を読んでいなかったので、それが単なる噂に過ぎないのか、それとも警察から発表された確かなものかは、はっきりと知ることは出来なかったが、死体には犬にかまれたような傷跡があったらしいと云うこと、それに対してアツシはいっさい否認しているというが、警察ではアツシを犯人と見込んで追求していることからすると、どうやら本当に容疑をかけられているようだった。アツシが犯人として疑われるのは、彼の前科や犬による襲撃事件のせいもあるが、それよりもむしろ、あの次期彼が朝早くから犬を連れて散歩していたと云う、目撃証言によるものであろう。犬と彼の不釣合いな感じは何となく目立つものがあり、それを見た人は不審な感じとして印象に残っていたはずである。 清二は国沢とアツシの暴力的で不穏な印象を与える容貌を思い浮かべると、衝突は充分に起こりえるような気がした。 国沢はやや被害妄想的なところがあり、自分の憤りはすべて義憤だと思い込んでいるフシがあるので、相手が誰であろうと決し引き下がらない向こう見ずなところがある。そしてアツシは、誰にも相手にされず疎外感に苦しめられており、じぶんの怒りに身も心も任せてしまうような自暴自棄的なところがある。そのような二人がお互いに相手を敵意の眼で見るようになったら、瞬時に怒りが爆発的に燃え上がり、あとは修羅場と貸すであろう。あの日、朝早くアツシが散歩しているとき、国沢が偶然にも行きあったとしたら、それにもし国沢が極端な犬嫌いであったとしたら、結果は眼に見えている。 しかし所詮これも憶測の域を出るものではなかった。 石田が久しぶりに仕事に出てきた。ちょうど仕事が忙しくなりかけてきたときに、親方で在る石田が長く休むことは会社にとって痛手であったが、新しく従業員を入れて今まで何とかしのいできたのである。 階段から落ちて顔や腰を売ったと本人が言うところのその顔には、晴れや傷跡はまったくなく、足取りも以前と変らなかったが、病み上がりのせいか、かつて肩で風を切るように歩いていたような勇ましさはなく、沈黙気味でどことなくおとなしくなったように見えた。そして車のバックファイアの音に異様なほど体をびくつかせて驚いている姿は、なにかに怯えているようにも見え、闇討ちにあったのは本当のようだった。 十一月の日曜日、朝から暖かい穏かな日和であった。宿舎の皆は、それぞれに部屋の掃除をしたり洗濯をしたりしてのんびりとしていた。 鈴木は久保山に追い出されて清二部屋に来たといっても、ただ夜寝るだけで、身のまわりのものは久保山の部屋においてあるので、その部屋に何度も出入りしながら、のん兵衛のおしゃれ男らしく、ブラシで背広のチリを払ったり、靴を磨いたりしいた。新しく入った中年の男は家に帰ったらしく、居なかった。 いつのまにか、隣の家の小太りのオバさんが、例の神経質そうな眼をした犬を連れて宿舎の敷地内に入って来て、久保山と世間話しをしていた。 新しく入ってきたジュンも犬をかまい出した。犬の扱いに慣れているようにで、まったく警戒心のない表情で犬の頭をなでようとしていたが、犬は用心深げな上目遣いをしながらしり込みして、なかなか撫でさせようとしなかった。それでもジュンは全身に愛想を示しながら迫ると、どうにか撫でることができた。しかし犬は少しも嬉しそうな表情を見せなかった。久保山がジュンに言った。 「ジュンちゃん、犬好きなんだね」 「うん、好きだよ、前に家で買っていたことがあるから、可愛いもんだよね」 とジュンは得意げに言った。宿舎の周りは柵で囲まれていたので、まもなくその犬は放された。犬は険しい表情のまま不器用に飛び跳ねながら走り回っているだけで、人にはなかなか寄り付こうとしなかった。犬の機嫌を取ろうとしたのか、久保山が部屋からひときれのパンをもってきて与えた。しかしそれでも犬は嬉しそうな表情もせずにパンをくわえると久保山から離れたところに持っていった 。 「犬はものを食べているときがいちばん気をつけないといけないんだよ。下手に取ろうとすると咬みつかれるからな」 と久保山がもっともらしく言った。 清二は飼い犬にそんな犬は居ないだろうと思いながら聞いていた。清二はどうしてもその犬の眼つきの悪さが気になり、かまう気しなかったので自分の部屋に入った。 しばらくして清二は画出のため部屋を出た。外にはもう誰も居なく放し飼いにされたやせ犬だけがいた。痩せ犬はちょうど宿舎の出入り口のところで食パンを前にして座っていた。清二が何気なくその横を通り抜けようとしたが、その痩せ犬はいきなり牙をむいてうなりだしたので清二はそれ以上前に進むことができなかった。清二にはその気がなくても痩せ犬はパンを取られると思ったのだろうが、清二は自分がパンを与えたのではないが、恩知らずな犬だなと思うと苛立ってきた。しかし外に出なければならなかったので、仕方なく愛想を振りまき、なだめようとしたが、やせ犬はパンを死守しようとしてうなり返すだけで、その場を離れようとしなかった。清二は再度試みたが、結果は同じであった。犬一匹てなづけられない自分が情けなかった。犬の扱いに慣れた久保山やジュンに助けを求めてもよかったが、暗い気持ちにさせるある思いがふと頭に浮かんできたのでそうすることも出来なかった。 バカ犬に外出を妨げられたのはなんともシャクであったが、脅かしてどかすよりはリスクはないと思い、自然とその犬がその場から離れるのを部屋で待つことにした。 部屋で待っているあいだ、清二はさっき自分を暗い気持ちにさせた"思い"を鮮明に思い浮かべた。それは先ほど清二が一笑に付した久保山の言葉にたんを発していた。 久保山の言葉は正しかった。つまり久保山はあの犬の性格を見抜いていたのである。そして久保山はあの犬は普通の扱いでは手に負えないと云う事を感じっていたので、そこで自分のように眼つきが悪いと云うことだけで、ただやみ雲に毛嫌いせずに、犬がその凶暴性を発揮しないように、寛大な気持ちで犬の本来の性質に久保山自身を合わせてなだめようとしたのである。そしてこのことは久保山の国沢や奥山に対する接し方にも同じようにいえそうな気がした。というのも自分が国沢や奥山を何となくイヤな奴と思い、意識的に避け、半ば無視しがちであったが、久保山は彼らの欠点を見抜いた上で、寛大な気持ちで彼らを自分の部屋に招き、酒を振舞い、不満を聞いてやりながら、彼らをなだめたのである。それは久保山の長いあいだの人生経験よって培われてきたもので、つまらないことでトラブルを起こさないための知恵のような気がした。もし自分が久保山のような知恵を見につけていたら、国沢とあのようなトラブルが起こらなかったかもしれなかった。そして国沢も殺されることはなかったかもしれなかった。 もしかしてあの犬は、自分の犬に対する愛想が本気でないのを感じ取っていたのかもしれない。それなら国沢も、自分が彼に感じていたイヤな気持ち隠そうとして、意識的に国沢を普通の人間として尊重し親切に扱おうとする冷静な態度のなかに、かえってなんとなく冷ややかで嘘っぽいものを、そして偽善的で侮蔑的なものを感じていたのかもしれなかった。 三十分ほど経ってから外を見ると、飼い主が連れていったのか、犬の姿はもうどこにも見当たらなかったので、清二は安心して外に出た。 表通りに休日には関わらず人通りは少なかったが、夜と違った賑わいや華やかさがあり、済んだ空気のもとですきっとするような爽やかな雰囲気にたたえていた。 秋の弱い日差しを受けながら、ピカピカに磨かれた車が颯爽と走り抜けていくのが眼についた。車に乗っているのはほとんどが清二と同世代の男女や家族で、皆こざっぱりとした服装に身を包み、満足そうな表情で余暇を楽しんでいるのである。そこには不思議とかっこよさや豊かさを感じさせるものがあり、清二は自分には縁遠い世界のような気がして、羨望と疎外感を覚えながらだんだん気が滅入ってきた。 歩いている通りの前方に原色のズボンやシャツを見につけた若者たちが、はにかむようにぎらつく眼を少し野卑な感じで落ち着きなく動かしながら、たむろしているのが眼に入ってきた。その服装の派手さは、通りの雰囲気なあわせたものだろうが、表情は少しもなじんでいなかった。自分の羨望や虚栄に翻弄されている姿のような気がして、あまり見たくない光景であった。清二は表通りから外れた。そして自然と高志のマンションのほうに向かって歩いていった。 高志のマンションについた清二は玄関のチャイムを鳴らしたが、しばらく何の応答もなかった。日曜なのでどこから出かけているに違いないと思い清二は諦めて帰ることにした。外に出たところで洋子が車で帰ってくるところが見えたので、そこで待つことにした。 「遊びに来ましたよ」 と清二がうつむき加減に歩いて来た洋子の前にいきなり立って言ったので、洋子は驚いたように顔を上げた。だがすぐ笑みを浮かべながら言った。 「いらっしゃい、でもビックリするじゃない、いきなり、いま来たの?」 「さっき、でも出かけていたみたいだから、いまちょっと帰ろうとしたところ」 「いるのよ」 「寝てたんでしょうか?」 そう言いながら清二は、怪訝そうな表情で歩く洋子の後をついていった。 エレベーターのなかで清二が何となくため息をつくと、それを見ていた洋子が言った。 「どうしたのなんか元気がない見たいね」 「いやね体のほうは元気なんだけど、頭のほうがこのところスランプでね」 「スランプ?」 そのときエレベーターの扉が開いた。 「どうですか最近の高志さんの様子は?」 「ええ」 と洋子はドアに鍵をさしながら返事をあいまいにした。 清二を居間に案内したあと、洋子は高志に清二が来たことを告げるためか、何も言わずにすぐ出て行ったので、清二をその様子に何となくそっけなさを感じた。話し声が聞こえないので、高志が起きているのか寝ているのかも判らない。 静かな時間の経過に沈んだ雰囲気を感じた。ここに来るまでの滅入った気分もあってか、洋子のそっけない態度が気になり、悪いときに来た見たいな気がして、ますます気分が滅入った。まもなく洋子が戻ってきた。 「寝てましたか?」 「起きてたみたい」 「そうですか、いやね、このあいだちょっとあったんですよ。いや、喧嘩じゃないんですけどね。このあいだのこと気にしてるのかなあ、、、ボクはなんとも思ってないんですけどね。会いたくないと言ってましたかなぜ」 「そうでもないみたいなの、少し待っててくれないかって」 「ああ、そうですか」 清二は、洋子があまり高志のことに触れたくないようだったので、洋子が田舎に帰ったときのことを聞くことにした。 二十分くらいすると高志が無言で居間に現れた。このあいだのようにボサボサ頭で顔色も悪く何となく元気がなさそうであった。 「あっ、そうだ、外に散歩にいかない、こんなに天気もいいことだしねえ、行こうよ、行こう」 と清二が声を弾ませて言うと、どことなく心配そうな表情で洋子が見守るなか、高志が微かに余裕のある笑みを浮かべて頷いた。 外に出ても高志は陽射しにまぶしそうに目を細めただけで伸び伸びとした表情は見せなかった。近くの公園までの道をのんびりと歩いていたが、走り抜ける車の騒々しさが気になり、落ち着いた気持ちで話しができそうになく、お互い無言であった。 公園に入るとだいぶ静かになったので清二が話しかけた。 「寝ていたのですか?」 「、、、、、いや、僕はさっき、君が来たの知ってたよ。でも会いたくなかったんだ。黄身だからって言うわけじゃないんだ。とにかく誰とも会いたくなかっんだよ」 「でも今も会いたくないって思ってるんじゃないでしょう。そのようには見えないんだけどね、、、、」 「そうなんだよ、会いたくないと云うときの気持ちは、人と会うのが何となく不安で、面倒くさくて、ちょっと怖い気がするんだよ。でも、実際に会うと、どういうわけかそんな気持ちがなくなっているんだよ。度胸が座ったと云うか、ヤケクソになったと云うか、だから今は平気だよ」 「そうか、それは良いことだ、そうだ、歩いているのもなんだから芝生に座ろうよ」 高志は何にも答えなかったが、そのことには賛成な様子なので、二人はそれとなく道から外れ芝生に腰を下ろした。 休日に関わらず公園内の人影はまばらで相変わらず穏かであった。日差しは弱かったが風がないので、芝生の上は温かくもなく寒くもなくちょうどよかった。 清二は公園内の風景に目をやりながらのんびりとしていたが、高志はあまり興味がなさそうで、ほとんどが節目がちで、そのうちに仰向けになると眼を閉じた。しばらく沈黙が続いたあと高志が目を閉じたまま話し始めた。 「故郷思い出しますか?」 「ええ、いや、別に思い出さないですね」 「やっぱり、いいものなんでしょうね。ふるさとって、、、、洋子がこのあいだ帰ったんですけど、こっちに戻ってきたときは、わずか三日間居ただけなのに、なんか変ったなあって感じで、どことなく生き生きとした感じだったよ」 「それは離れていたからですよ。高志さんは、ずっとこの東京に住んでいるの?」 「うん、まあそのようなもんだね」 「実家は何をなっているの?」 「父は会社を経営している」 「、、、、でもさ、よく皆は田舎が良いって言うけど、都会人が思うほど良いものじゃないよ。田舎のものが都会にあこがれるように都会人の憧れだよ。感傷かな?。だって、そんなにいいと思うなら自分で住んで見ればいいんだよね。そうすれば判るんだけどなあ、都会にあこがれた田舎者が、都会に住めば、ああ、こんなもんかとなるけど、それは都会人が田舎に住んでも同じことが言えるよ、というより、大変だよ。下手をすると住めないかもしれない。なんたって人間にとって最高に良いのは、便利でこぎれいな都会に住んで、休日に自然を見たり自然に触れたり、ときには頭で思い浮かべたりする生活じゃない」 「、、、、、」 「それにどんどん変っているからね。出来るなら変って欲しくないなあと云う気持ちはあるんだけど、でもそれは人間の生活のため人間が生きていくために変っているんだから、ショウがないけどね。でもなかにはどうしても惜しいと思うようなところもあるけどね。まあ、林とか道とか、昔の建物とかが変るのはいいけど、だってこれはどこだって同じだからね。ただ、川があったんだよ、幅が五メートルぐらいのね。川底が、あれは洪積層の橙色の固い土だから、おそらく何百年もかかって侵食されたんだろうね。面白い形になっていたんだよ。細い水の流れがあったり、真ん丸い窪みがあったり、人がうまく歩けるような段差があったりして、そこでよく子供のころ遊んだもんだよ。でも今は、整備されてコンクリートの川底に変ってしまって、そう云うものはやっぱり惜しいと思うよ。でもこれも必要あってそうしたんだから仕方がないけどね。いつだったかな、確か小学校一年の頃かな、姉や洋子ちゃんや近所の女の子たちとそこに遊びにいったとき、あるところにちょうどそこだけ特別に深く侵食されていて、周りから見えないところがあったんだよ。夏で暑かったので、そこでみんなは水着もないのに泳ごうということになって、女の子たちはさっそく素っ裸になって入ったんだけど、男はボクひとりだったので、どうしても出来なくて、服を着たまま見ていると、 「何やってんの?」 と言われてね、仕方なく僕も裸になって水に入っていったよ。女の子って大胆だね」 「すると君は洋子の裸を見たんですね」 「あっ、そう云うことになりますね。でも、裸と思ってみた記憶はないですね。裸になって水浴びが出来たと云う、印象のほうが強いですよ。それにぼくのだって見られてますからね」 高志は眼を閉じてはいたが微かに笑みを浮かべていた。 清二もひじ付いて横になった。しばらく沈黙が続いたあと清二がいった。 「夜はよくねむれないと聞いたけど」 「夜眠くなくたって昼間寝ているからね。同じことさ、、、、実は僕今休んでいるんだよ。病気休暇っていう便利なものがあってね、なんの病気だか怪しいもんだけどね、、、、ほんとうはボクは君のことうらやましいのかもしれない、、、、」 「そんなバカな、ボクには君に羨ましがられるようなものなんて何にもないじゃない、どこを取ったって、あなたのほうが上じゃない」 「そう云う言い方をすればそうかもしれないけど、僕には君は自由に伸び伸びと生きているように見えるんだよ。そうは思わない?、、、、それじゃね、ボクのほうがいいと思うなら、君はぼくのこと羨ましいと思うかい?、、、、、答えられないところを見ると、ちっとも羨ましいとは思ってないってことだよね。やっぱり自分のほうがいいと思っているんじゃない」 「うぅん、そうかな?自由にのんびりとね、自分ではそう感じたことはあまりないけど、 それに最近はつくづく自由って金だなと思っていますよ」 「またか、どうして君はそう云うことを言うんだろうね。前は欲望のために生きるって言ってたり、今度は自由と金ですか?どうもボクは君のそう云う考え方に賛成が出来ないね」 「僕だって本当はあまり賛成したくないですよ、出来るならもっと気の効いたことを言ってみたいですよ。でも経験っていうか諦めっていうか、だんだんそう云う風に思うようになってきたんだよ。なぜそう思うようになったか? 今はうまくいえないけどね」 「でも、その自由には肉体の自由だけで精神の自由は入ってないんでしょう」 「うぅん、そのように分けて考えると判らなくなるけど、入っているのかな?」 「精神の自由も金次第、なにかを思い浮かべるのも金次第って云う訳ですか? でも、、、、かといって君が金に縛られたものの考え方をしているとは思えない、、、、、ボクこそますます判らなくなってきたよ。凄い真理だ、新しい真理だ」 「真理だなんで大げさだなあ、まあ冗談でいったんだろうけど、それにこの場合真理と言う言葉は相応しくないよ。それには厳密で堅苦しい雰囲気があるからね。ボクは何となく思ったことを言ったまでで、そんなふうに考えるとボクだって本当に判らなくなるよ。それに真理と云うほど公言できるものではないよ。こういうのは陰でコッソリと嘘偽りのない気持ちのときに言えるもんだよ。あなたの前だから言ったので、人前じゃこんなこと言う訳ないよ。もっと奇麗事を言うさ、、、、」 清二が話しているあいだ高志は、じっと目を閉じていた。そして再び二人の沈黙が続いた。清二はボンヤリと風景に目をやっていた。しばらくすると高志が呟くように言った。 「清君、ボクは退職しようかと思っている」 清二は 「ええ!」 と驚いたように応えながら高志を見た。高志は眼を開けてはいたが何かを見ていると云う感じではなかった。何も今の恵まれた地位を捨てるまででもないと云うことは言うまででもなかった。しかし彼は彼なりに考えているのだろうと思うと、安易に答えることは出来なかった。でも少なくても黙っていることは反対の意思表示になると思った。 清二はそのような重大な決意にいたらせるほど高志を悩ませているのはなんだろうかと云う疑問を抱きながら、今までまともな職業につかなかったために、色んな意味で決して順調じゃなかった自分自身のことや洋子のこと、そしてその他の色んなことが洪水のように頭におしよせてきて、高志を思いとどまらせるような適当な言葉が見つからなかった。清二が言った。 「奥さんには言ったの?」 「いや、まだ言ってない」 「自分でよくよく考えた上でそう結論したんだろうから、なんともいえないけど、ただ正直言って惜しいなあと云う気持ちが強いね。高志さんは昔からそう云う、のめりがちっていうか、深く考えこむ性格だったの?」 「いや、違う、学生のころは勉強に専念していたから、君のように気楽に考えられてたさ、その頃は物事を割り切って考えることが出来てたんだよ。でも最近はどういうわけかそれができなくなったんだよ。自分でもどうしてだか判らない。何をやったって頭だけはスッキリしない」 「イヤな奴ってどこの職場にもいるからね。僕はどんな職業も結局は同じだと思っているんですよ。まあ、給料が安いとか高いとか、人気があるとかないとかはあるけどね、、、、、、きっぱりとあきらめがつくならいいんだけどね、、、、」 「つくよ、ボクはそんなんじゃないよ。何のために働いているのかわかんないようじゃ勤めていたってしょうがないじゃないか、、、、、、人間にとってもっとも大事なことは人生の意味を知ることだよ。このまどっちつかずだと、それこそ生きていたってしょうがないよ、、、、もしかしたら僕のような考え方をする人間はこの社会では必要としないのか知れないな、、、、、」 「、、、、、、、、、、、」 しばらく沈黙が続いたあと、高志はゆっくりと上体を起こすと公園内の風景にボンヤリと眼をやった。そして前方のほうをじっと見ながら言った。 「あういう人間こそいちばん幸せなのかもしれないな、毎日あくせくすることもなく、自然に包まれて自由気ままに生きられるんだから、ほら鳥だって安心して近寄ってくるじゃない、、、、」 ![]() ![]() |