ブランコの下の水溜り(28部) はだい悠
しばらくすると、ふと、風のようにやさしく額を撫でられるような感触を覚えた。 幻覚に違いないと思いながらも清二は、今まで自分が意識的に排除してきたものが、苦しんでいる自分を慰めようとして、手を差し伸べたのたろうかと夢見こごちに思った。 再びその感触を覚えた。だが今度は先ほどよりも強く、しかも幻覚でないとわかるくらいハッキリとしていた。 清二は突然のように人の気配を感じた。そしてそのままの姿勢で、目をゆっくりと開けてみると、ひとりの見知らぬ男がしゃがんで自分の顔を覗き込んでいた。その男は、薄暗いなかでも、はっきりとわかる愛想笑いを浮べながら馴れ馴れしく話しかけてきた。 「あんちゃん、仕事あるぞ」 手配師であった。 清二は相手にしたくなかったので、その男から目を離すと無視するように再び眼を閉じた。だが、その男は、清二のすぐ横にやってきてしゃがむと、手に丸めて持っていた新聞紙をぶらつかせながら再び馴れ馴れしく話し掛けてきた。 「なあ、あんちゃんよ、仕事があるぞ」 清二はその男のしつこさに腹立たしさを覚えたので、その男を睨みつけながら立ち上がると 「吸血鬼め」 と頭のなかで呟きながら、その男を無視するように歩き始めた。だがその男はなおも呼び止めるように言った。 「なあ、いま何やってんの?仕事がほしいんだろう、、、、、」 清二は近くに棒切れでも落ちていたら、それを拾って殴りかかりたいほどの怒りを覚えた。 それは、浮浪者のような人間から搾取することによって生きている彼のような人間に対する怒りというよりは、自分が彼のような人間から、浮浪者同然の人間と見られたからであり、また、それが当たっていなくもなかったので、余計腹立たしく怒りを覚え、彼を抹殺したい気持ちになったのであった。 自分は彼のような人間から漬け込まれるほど、落ちぶれたような素振りや表情をしているのだろうかと思うと、情けなさと屈辱感でいっぱいだった。惨めな気持ちが体全体を蔽った。だが、手配師が見抜いたように自分は何者でもなく、単なる失業者に過ぎないことも確かであった。清二は何もする気にもなれず、すべてを投げ出したい気持ちであった。 かつての高志の考え方や生き方は観念的かもしれなかったが、自分が以前高志に、いかにも自分のほうが地に足の付いた生き方や考え方をして優れているがごとくもっともらしく言ったことも、今の自分の状態からすれば、それらもすべて観念的なことのように思われた。 とにかくもうどうでもよい気持ちであった。 清二は彷徨うように歩いた。気が付くと繁華街に出ていた。そこはまだ人通りが多く夜の華やかさを残していたが、清二にとっては、人々の姿はなんともよそよそしいものに思われ、何かちょっとしたきっかけで暴力的なことが起こるようなとげとげしい雰囲気にしか感じられなかった。 清二は周囲の風景に無感動な気持ちで当てもなく歩き続けた。そのうちに駅の前に通りかかった。何処に行こうと云うハッキリとした目的地は思い浮かばなかったが、ひとまず電車に乗ることにした。 改札を通り抜けてから、清二は奇妙なことに気づいた。それは駅員の後ろ姿を見ながら改札を通り抜けたからであった。 清二はホームに行こうとして改札のところに来たとき、そこに出口とか入り口とか、と表示されている文字を持て、どちらを通るべきなのか一瞬わからなくなったが、とっさに出口を選んで通り抜けたのであった。 清二は、自分が間違ったことに気づいたが、なぜそうなってしまったのか、考えないことにした。なんとなく面倒くさく、それにそんなことも、もうどうでもよかったからだ。 電車に乗った清二は、車窓に映る自分の顔を見た。自分の顔とは思えないくらい、他の人間と同じようによそよそしく無表情であった。でもこれで良いのだ、仕方がないことだと思った。 清二の頭のなかには行き先はなかったので、何処で降りてもよかった、またこのまま乗っててもよかった。だがそれまでの駅より多くの人々が降りたとき、清二は思わずつられるように降りてしまった。 駅を出たが、そこは繁華街ではなかった。 人通りは少なく、周りに灯りの消えたビルやマンションが立ち並ぶ寂しいところであった。清二は再び当てもなく歩いた。 はるか遠くに黒ぐろとした高層ビルを望みながら、廃墟のように静まり返った広々とした工場の前を通ったり、うすぐらい高架線路の下をくぐったりして、ここがどこであるのかまったく判らないまま、ただひたすら歩いた。 そして傍らを通り過ぎる車の排気ガスのにおいを感じながら信号の赤を目にしたとき、ふと、何ひとつ満たされることなく、硬く握り締めた手に滴り落ちるほどの汗をかきながら、人間と妥協しない飢えきった獣のように苦痛に顔をゆがめて、不快に、惨めに、寂しく虚しく、さ迷い歩いていた二十歳頃の自分の姿が脳裏を掠めた。清二はあのころの孤独に再び戻ったような気がした。 そのうちに頻繁に人々とすれ違うようになり、周囲の町並も、だんだん華やかさや賑やかさを増し初めてきた。清二はそのまま歩いた。 そして前方に、昼と見間違えるほどの明るさのなかを夥しい人間が歩いているのが眼に入ってきた。清二はここがどこであるのかようやく判った。そこは深夜でも路上に溢れんばかりの若者たちでいっぱいになり、明け方まで人通りが絶えることがない、この大都市のなかで最も華やかで賑やかなところであった。そして、ある者には感覚的で夢幻的であり、またある者には先鋭的で虚栄的であるという、夢や、感覚や、また本来の欲望から作られた欲望まで、すべてを満足させてくれるところであり、まさにこの都市の脳髄であり、昼も夜も働き続ける心臓みたいなところであった。 しかし清二は若いときから、あまり好きではなかった。人ごみにもまれて、歩いたり色んな店に入って遊んだりしているうちに、だんだんまとまりの付かない気持ちになっていくだけなので、しかもその後には不快な疲れしか残らないと云うので、とても、華やかな雰囲気に酔いしれて楽しむという気にはなれなかったからである。 それに、そこに集まる人間たちの表情や行動を見ていると、 「いったいこいつらは何を考えているんだろうか」 とか、 「いったいこいつらは何を望んでいるんだろうか」 などと不可解な気持ちになるだけなので、人間の集団のなかで、我を忘れて楽しむと云うよりも、むしろますます孤独感を覚えるだけであったからである。 清二にとって、彼らは集団のなかで自己を埋没させながらも、知らぬまに病的に肥大するプライドや、虚栄心に翻弄されながら、熱狂的な生だけではなく、熱狂的な死をも、盲目的に望んでいるとしか思えなかった。そもそも心臓というのは、心臓から遠く離れた所にとっては、生命の源となる血液を絶え間なく送り届けてくれて、欲望を充足させてくれるあり難い所なのであるが、心臓そのものの内部は、血液が流れるだけの単なる空洞に過ぎなく、体中から集まってくる血液によって次から次へと送り出されるように、ただ通り過ぎるだけのところなのである。だから、人間たちが、都市の心臓部であるがごときこの歓楽街に、夢や快楽や、欲望の充足を求めて集まってきても、次から次へと集まってくる人間に寄って弾き出されるように虚しく通り過ぎるだけで、何にも満たされることなく、何にも残らず、ただ不快な疲労しか残らないと云う結果になるのも、当然のことかもしれなかった。 しかし、清二は、その夥しい人々の群れに向かって歩いた。後で吐き気を催すような不快感に見まわれて後悔しようとも、今の愛も友情も夢も希望も見失い、生きることに自信をなくし臆病になった清二にとっては、そんなことはもうどうでもいいことで、後はただ群集の人となるしかなかったのだ。 清二は群衆にまぎれた。 ありふれた町並はなんの印象も残さない車窓の風景のように通り過ぎていくだけだった。 絶え間なく行き交う人々と歩みをともにしながら、清二はふと、もう二度と会うことのない、かつての仲間たちのこと次から次へと思い浮かべた。 そしてその原因が、本人の飲酒や、またその生来の性格にあるにせよ、周囲と協調できずに、ただいたずらに衝突を繰り返して、結果的にはこの社会からはじき出されて破滅していく者たち、奥山や国沢や黒塚のことが無性に気になり、彼らに思いを馳せた。 清二は最後の最後まで奥山とは心を通わせた会話が出来なかったが、でも常日頃から、その原因のすべてが奥山にあるとは思っていなかった。 清二に対して、なぜか敵愾心むき出しにする奥山に対して、もう少し対処の仕様があったのではないかと思っていた。それには久保山の彼ら(奥山、国沢、黒塚)に対する姿勢にヒントがあるような気がしていた。久保山は、彼らを自分の部屋に呼び、いっしょに酒を飲みながら彼らの愚痴や言い分を寛容な態度で聞いては、少なくともいっしょに仕事をしている間はトラブルもなく楽しくやっていこうと努力していたことである。だが清二にとって、彼らが自分の性情に逆らってまで周囲と協調しようとすることと同じくらいに、清二にとっても彼らに寛容な態度に接することはむずかしいことであった。ただ清二は先輩の奥山に対して意地を張らずに、もう少し後輩らしく敬意を持って接していれば、と思わないでもなかった。そして、もしあのとき奥山に声をかけていれば、もっとうちとけた関係は変ったのではないかと思った。 それは彼と銭湯であったときのことである。湯船からあがり脱衣所に居た彼の眉間からは、シワが取れ苛立ったサルから少年のようや穏かな表情を見せていたときである。もしあのとき自分が彼の開放的な気持ちを感じとって、こちらから親しみを込めた笑みを浮べながら声をかけていたら、それまで二人の間に立ちはだかっていたすべてのわだかまりが消えて、心が通い合うようになっていたかもしれないと清二は思った。 次に清二は国沢のことを思った。 国沢の場合は、奥山より遥かに捉えどころがなく手ごわかったが、だがあのとき清二は奇妙な体験をしていた。 あのときとは、国沢が清二に対する憤懣に耐え切れずに、その怒りにまかせて清二の腕をつかんで、その勢いのまま清二を壁に押し付けたときであった。 そのとき国沢の怒りは紛れもなく頂点に達していたようだったが、しかし、その数秒後には急速に腕をつかむ力が弱まっていくと同時に、その怒りも収まっていくのを清二は感じ取ることができた。そして最悪の事態は避けられたのである。 なぜそうなったのか、そのとき清二は不思議な気持ちであったが、でも同時に清二はそのときなんとなく国沢が清二の肉体に触れることによって、つまり清二の肉体のぬくもりを感じることによって、国沢は何かに安心して急激に落ち着いていったような気がした。 いまにして思えば、それまで清二は国沢を警戒して冷静に言葉だけでしかコミュニケーションをとってこなかったのだが、それが彼にとっては、清二の気取った態度、つまり冷ややかに自分を見下すような態度に見えて、国沢にとっては無性に我慢が出来ないものであったかもしれない。つまり久保山のように接して彼の性情に合わせて対応していれば、あのようなイザコザは起こらなかったのかも知れないと思うのである。 だがそれも清二にとっては国沢がが自分のガサツな性格を変えることができないように清二にとっても不可能なことのように思われた。 次に黒塚のことを思った。 黒塚の場合は、彼は奥山や国沢よりも遥かに多くに致命的な性格の欠点を持っていた。 だから彼とは折り合いをつけると云うのはほとんど不可能に近かった。 彼と妥協をしてどんなに寛容に接しようとも、彼の偏狭な性格は変りようがないのだから、彼がこの社会から弾き出されていくのを、当然であるかのごとくのように見ているしかなかった。 だが清二はあるとき信じられない彼の隠された能力を見たことがあった。 それは彼が会社に書面を提出したときだあった。清二が彼の筆跡を見たとき衝撃を受けた。これはいったい何事が起こったのかと思った。それは彼の字のうまさが、自分や他の者よりも遥かに抜きん出ていて、いままでに見たこともないくらいに綺麗で、感動すら覚えるくらいであったからである。そのとき清二は混乱しその事実を受け入れることはできなかった。そんなことはあるはずはない、そんなことは信じられないことだと、妬みを覚えるくらいに否定したがっていた。でもそれは紛れもなく真実であった。 もしあのとき、清二が素直な気持ちで、字が綺麗ですねと黒塚に言ったら、彼は柄にもなく、きっと照れ笑いを浮べて満面に喜びを表したに違いないことを、清二はまざまざと思い浮べることができた。そしてそれがきっかけで、その後の彼との関係改善や、彼のその後の社会への対応の仕方に変化を与えたに違いと思わざるを得なかった。だが実際、清二はそのときはまだ、彼を絶対的に拒絶する頑なな心に支配されていたためにそれが出来なかったのだ。 清二は彼がその美しい文字を書いているときの気持ちを思った。いつも怒りや不満に満たされ自分の殻に閉じこもっていた彼の心が、その美しすぎる文字を書いているときだけは、きっと子供のように純真で穏かな開かれた心になっていたに違いないと思った。 だが今はそれもすべては過ぎ去ったこと、仕方がないことのような気がして清二は自分の意識からそれらを遠ざけるように考えることを辞めた。 でも、清二は不思議と自分が落ち着いていくような気がした。 さらに清二は歩き続けた。 そして気がつくと清二はまだ立ち寄ったこともない見知らぬ町の駅前に居た。 おしまい ![]() ![]() |