ブランコの下の水溜り(19部) はだい悠
二月になった、だんだん寒さがますばかりで、寒風にさらされながらの外での作業には、かなり厳しいものがあった。でも体を充分に動かしているせいか、それほど苦にはならなかった。 それに、今では以前のようにいちいち親方の指示を仰がなくても、ほとんど自分から進んで動けるようになっていたので、作業に専念することができ寒さを気にしている余裕などなかったからである。 町場といわれる小さな現場は、他の業者とかちあうことはなく、それに安全上のさまざまな制約がないため、作業がしやすいと云う長所があった。しかし安全上の制約がないと云うことは、安全対策がおろそかにされていると云うことである。そのため小さな現場では、たとえば、足場が腐った丸太ん棒をつなぎ合わせたものであったり、人が落ちたり物を落としたりしても、それを止める安全ネットがもうけられていなかったりして安全対策が不十分な場合が多かった。しかしそう云う目に見えるところは、作業員自信が気をつけていれば、設備が不十分であることをあらかじめ判っているのでどうにかなるものであった。だから安全対策が不十分であると云うただそれだけの理由で事故につながると云うことはほとんどないのである。問題は作業者自身が自分の目や手足で直接安全などうか確かめないで、安全設備が行き届いているから、この足場はちゃんと取り付けられているはずだとか、どんな場所でも安全なはずだと、かってに思いこむことにあった。 清二は地上十メートルほどの足場の上を作業しながら歩いていた。そこは道路側であったので、足場の外側に刃物が落ちても歩行者に怪我何ようにと、ビニールシートがはられてあった。ただそのシートは風が吹くときは飛ばされないようにと、足場に立ってちょうど腰の辺りになる横の補強棒の内側を通してあった。それで足場からは横の補強棒がシートに隠れて見えないようになっていた。 清二は足場が狭いので、それに体の安定を保つ意味もあって、その見えない横に体を持たせかけながら作業を進めていった。そしてあるところに来て何気なく体を横棒に持たせかけるように倒すと、そのまま倒れるままになりバランスを崩した。 清二はとっさに持っていた道具を手から放してシートにしがみついた。シートがはだけそこから十メートル下の道路が眼下に広がった。 あると思っていた横棒がなかったのである。まさに命拾いした瞬間だった。せい゛し自分の作業も終わり足場から降りた。 そしてちょうどすれ違う格好で黒塚が足場に上がった。 何のために上がったのだろう軽く思いながら清二は次の仕事に取り掛かろうと歩き出したが、急に不安な気持ちになった。黒塚がその危険なばしょに行くような気がしたからだ。清二の頭のなかは、 「まさか」 と云う思いと 「でも万が一」 と云う思い が交錯した。日頃から無視の立場をとり続けていたせいか、清二は素直に彼にその危険な場所を教える気になれなかったのだ。 しかし清二は仕方なさそうに大きくため息をついて振り返り、黒塚が上がって行った場所にまで戻り、足場に目をやった。思っていた通り黒塚が不安定な足取りで、その危険な場所に近づいていた。清二が叫ぶように言った。 「黒塚さんよ、そこんとこ、横の棒がないから、危ないよ」 「わかっているよ、そのくらい。もう十日もここに来てるんだぞ」 と黒塚は薄笑いを浮べていった。 清二は 「お前なんか落ちて死ね」 と本気で思いながらその場を離れた。 夕方も五時を過ぎると、真っ暗になるのであったが、工事が遅れがちであるため、投光器をつけて六時近くまで作業は行われた。工事に一区切りが付き今日の作業が終わりかけようとしていたので、清二はほっとした気持ちで手を休めボンヤリとしていた。そこはちょうど屋上であったので、投光器に照らされた作業員の姿が巨人となって、隣の高いビルの白い壁面に影絵のようにくっきりと映し出されているのが目に入ってきた。それは平面的な単なる動く人影に過ぎなかったのであるが、清二は、いっしょに仕事をしながら眼にしていた仲間たちよりも、はるかに奥行きも温かみもある生き生きとした肉体のように思われ、その動きのひとつひとつに生命力に満ち溢れる者を感じながら時間が流れるのも忘れてじっと見ていた。それは感動的でさえあった。そしてもうすでに作業から開放されていたとはいえ、疲労のためにボォッとしてまとまりのない気分であったものが、だんだん充実した気持ちになっていくような気がした。 清二が見入っているあいだに投光器は消され 「帰るぞ」 と云う石田の声が響いた。 清二はあらためて作業から開放された喜びに浸りながら暗闇のなかを仲間たちと共に帰りの車にむかって歩き出した。 しかし清二は、彼らの姿を見ても、先ほどのような感動を覚えることはなかった。それは疲労感を全身に表しながら、重そうな足取りで歩いている単なる黒い物体に過ぎなかった。みんなは思い思いに作業服の埃を払い落としながら無言のまま車に乗り込んだ。 車が走り出しても、誰も何も言わず沈んだ雰囲気が続いた。それは単に疲れているためだけではなく、六時までい働かされたと云う不満を感じているからのようであった。しばらくして車を運転している黒塚がもったいぶりながら言った。 「鈴木って野郎もずいぶんひでぇ男だな。飲み屋の付け五十万もあるんだって、払えなくて、それで逃げ出したんだろう」 その話は清二にとって不可解であった。いったい誰からそう云う話を聞いたのだろうかと思った。確かに、鈴木は給料日の夜には、ほうぼうの飲み屋の借金を払いまわり、そして次の日にはタバコ代しか残らないような生活をしていたことは事実である。しかし五十万とはいかにも大げさであった。おそらくそれは黒塚が鈴木が相当の額を借金していることを耳に挟み、自分勝手に考えた金額に違いなかった。あまりにも作り話めいているせいか、黒塚の言ったことに対してこれといった反応を示す者はないかった。清二は頭のなかで"ほら吹き野郎"と呟きながら腹立たしい気持ちになった。しばらくして再び黒塚が話し出した。 「三好さんもだらしない男だなあ、あの借金取りは地回りだろう、会社まで来られてよ、いま逃げまわっているんだろう、まったくどいつもこいつもみっともないな」 今度のはデマカセではなかった。そのことは周知の事実だった。 給料日の夕方、会社の前で、三好が仕事から帰ってくるのを待っている男がいた。その男は三好から飲み屋の付けを取り立てるために来ていたのであった。黒塚の眼には地元のヤクザのように映ったらしい。 その日、その男と三好はみんなから離れて路地の暗がりで長いこと話ていたが、何事もなく分かれたので、てっきり解決したものと思っていた。しかし次の日三好は理由も知らさずに仕事を休んだ。そして次の晩、再びその男が会社に現れた。どうやら三好は払わないで逃げたようであった。それは三好が借金を払う気がなくて逃げたのか、それても払う金がなくて逃げたのか、他の者には判らなかった。その日以来、三好は今日まで仕事を休み、行方をくらましているのである。 黒塚の言い方は、隣に石田がいるにもかかわらずまぎれもなく三好を非難するものであった。それは黒塚が車を運転しているために勢い込んでうっかりしゃべったと云うものではなかった。と云うのも以前はだれもが石田と三好は周囲のものが入り込めないほどの固い友情で結ばれているに違いないと思っていたのであったが、最近はそうでもないと云うことがだんだん知られた来たからである。とくに黒塚は、誰とだれがうまく行っていないかと云うことを敏感に嗅ぎつける能力を人並み以上に持っていた。そして少しでもうまく言ってないと判ると、そう云う二人のあいだに入って、お互いの相手が眼の前に居ないときに、その相手を誹謗するようなことを言いながら、その本人にへつらうような態度を取ったりして、二人を仲たがいさせるような言動を平気でとるのであった。しかし隣に座っている石田は何の反応も示さなかった。どうやら疲れて眠っているようであった。 会社の事務所に戻り、石田が工事の進み具合を報告しているとき、電話が掛かってきた。黒塚にであった。黒塚は神妙な顔つきをして、女のようにか細い声で話し始めた。黒塚が気持ち悪いほど、低姿勢に振舞っているのは、社長が眼の前に居るからではなく、その電話の相手によるためのようであった。 そのバカ丁寧な話し方からして黒塚は電話の相手に何かについて謝っているようでもあったし、なにかを催促されていて、もう少し待ってくれるようにと頼み込んでいるようでもあった。他のものは長電話の黒塚を残して帰りの車に乗り込んだ。しばらくすると黒塚が乗り込んできた。ジュンの運転で走り出すと、まもなく黒塚が高ぶった眼つきで話し始めた。 「いやあ、まいったよ、このあいだ喧嘩してな、怪我させたんだよ。弱いくせにオレに喧嘩売るからそうなるんだよ。まったくふざけた野郎だよ。人に喧嘩売っといて負けたくせに、治療費を払えって言うんだからなあ、、、、、」 黒塚は先ほどの縮こまっていた自分を忘れているようであった。喧嘩したのは本当のようだった。と云うのも、三日前の朝、清二が何気なく黒塚の横顔を見たとき、目じりからマブタにかけてアイシャドウを塗ったように青くなっているのに気づいた。 そのときに何にも知らなかったので本物のアイシャドウのように思え、なんとも薄気味悪い男だなと思ったのであった。どうやらそれは喧嘩して殴られたためにできた青あざの様だった。しかし黒塚が言うようにそれが売られた喧嘩であり、またその喧嘩に勝って相手を負傷させたかどうかは、先ほどの電話をしている態度からしてなんとも怪しいものだった。 車が石田のアパートの前で止まった。そして石田を降ろすと、再び走り出した。黒塚がみんなに聞こえるような大声で罵るように言った。 「ふん、まったく、何考えてんだ、遅くまでこき使いやがってよ、もう七時過ぎだろう」 それは紛れもなく車から降りた石田を頭に思い描いて発せられたものであった。 まさにあきれるほど見事なカメレオン振りであった。しかしそれは少なくてもみんなの不満を代弁するものであり、また何となく同調を誘うようなタイミングのよさがあったので、それほど不快感を感じさせるものではなかった。黒塚もそのことを無意識のうちに感じ取っているようであった。黒塚はさらに言葉を続けた。 「やる気があるんだかないんだかハッキリしない男だよ。だらだらと仕事をしやがって、まったくどうなってんだろう。この会社は、三好の野郎は逃げまわっているしさ、ヤクザににらまれたらただではすまないぞ、もう帰って来れないだろう、俺たちが居なかったら今頃は大変なことになってたよ。なあ、久保さんよ、いつも話しているように、この会社は俺たちで持っているようなもんだよな」 話しているうちにますます調子づいたようで、黒塚は不適にも笑みを浮べるようになった。しかし今度は明らかに言い過ぎであった。彼は自分のいったことに周りのものが同調しようがしまいがまったくお構いなしのようで、自分の虚栄心だけ満足させればいいようであった。清二はただ苦々しい気持ちで聞いているだけであった。 それから二三日してから行方をくらましていた三好が何事もなかったかのような顔をして仕事に戻ってきた。三好はその件に関しては何も言おうとしなかったので借金を返したかどうかは知ることはできなかった。しかし、開き直ったような変によそよそしい平然とした態度からして、支払ったようには見えず、ほとぼりが冷めたから出てきたと云う感じであった。ただ社長が裏では動きまわていたようであったので、いくらか借金の肩代わりをしたのかもしれなかった。しかしそれも三好のことを心配してと云うのではなく、親方である三好がいないと仕事にならないと云うためのようであった。三好が雲隠れしているあいだに、彼の素行に関するさまざまな噂が耳に入ってきた。それによると、彼が飲み代を払わないのは、男が取り立てにきた店だけではなく、他にも数件あるということであった。そしてそう云うことは今に始まったことではなく、彼がこの町に住み付いて以来ずっと続いているということであった。だから、いまだに付けが踏み倒されたままになっている店では、彼を出入り禁止にしているということであった。 出所の曖昧な噂話に過ぎなかったが、十日以上逃げまわっていたわりに、平然とした態度でみんなの前に姿を見せた大胆さからして、どうやらそれは本当のようであった。それに日頃の彼はすばしっこい動きや、ずる賢いサルのような容貌からして、借金の取立て矢を言葉たくみにあしらいながら、あざ笑うように逃げまわっているさまは、充分に考えられることであった。 K建設の現場が再開された。そんなある日久保山がK建設の社員とトラブルを起こし会社を辞めなければならなくなった。トラブルといっても暴力沙汰を起こしたわけではなく、ちょっとしたことから社員を怒鳴りつけたと云うものであった。その社員は久保山の侮辱的な言動を問題にして訳ではないので、別に辞めるほどことではなかったのであるが、久保山は自分の行為にどうしようもない後味の悪さを感じたようで、自分から辞めることを社長に申し出たのである。 そのトラブルは、久保山とその社員との間のまったくの個人的な問題なのであるが、二人の背後にある、K建設、一次、二次、三次下請けと連なる力関係が、そうでないものにしてしまうのである。 その力関係は単に仕事の発注受注関係から生まれてくるものであり、表面的にはまったく事務的なものであるが、しかしいざ何か感情的な問題が起こり、その情報が、元請け、下請けと流れるあいだに、その事務的関係が、"お世話になっている"とか"世話をしている"とかと云う人間的感情的な関係にすりかわり、妙に重苦しいものとなって、下位の会社の従業員に心理的圧力を与えるようになるのである。そのために、その力関係はまったく目に見えないものであるにもかかわらず、いやかえってそうであるためかもしれないが、普段から暗黙のうちに、より下位の会社の従業員に屈従的な態度をしうるように働きかけるのである。だから上位の会社の人間に対して、反抗的な態度を取ることは、常識的な人間にとっては、罪を犯したような後味の悪さを感じさせるのである。 それで久保山は、いくら自分に正当性があっても、またその社員が問題にしなくても、彼の雇われの身分としての長い経験と習慣から、自分の言動の重大性を敏感に感じ取っているようであった。 それは謝れば済むような問題であった。しかし本来は謝ると云う筋のものではなく、またそれはいったい誰に謝るべきかはハッキリしないことであり、それにプライドの高い彼にとっては、自分に非がないのに、ただ生活費のために、これ以上屈辱的な態度を強いられることは、我慢の出来ないことであったに違いなかった。しかしかといって、ことの重大性を感じているので、いちがいに無視も出来ず結局はトラブルの責任をとる形で辞めたようであった。 清二はそのとき近くに居たので、彼が顔を真っ赤にして怒鳴りつけるのを見ていた。しかしあまりに突然のことであったので、その理由を知ることはできなかった。後で久保山から聞いたとこによると、その社員は日頃から横柄な態度をとっていたということであった。少なくともK建設の社員と云うものにコンプレックスを抱き、何となく不満に思っているものにとっては、そう云う態度は頭にくるものであり、怒鳴りつけた理由として充分に成り立つのである。しかしこういう現場での人間観察を熟知していて、社員の横柄な態度にも慣れきっているはずの久保山がなぜ、そのときに限って、顔を真っ赤にするほど怒ったのか、不可解なことであった。ただし最近の久保山の様子からして考えられないことでもなかった。と云うのも最近の久保山は以前のように仕事に対して積極的でなくなり、黒塚といっしょになって、親方の命令を無視したりして孤立するような行動をとるようになっていた。それはみんなが仕事をしているにもかかわらず隠れて酒を飲んだりして、そのだらしなさが目に付くようになり、以前のように気骨の人らしい、気迫のみなぎった表情がだんだん見られなくなってきていた。少なくても言うことと、やることが目に見えて矛盾するようになってきていた。久保山がそう云う行動をとるのは、ただ単に親方たちに対する反抗の気持ちからではなく、自分の体力の衰えにより思うように仕事が出来ないことや、自分より遅く入ってきたものに先を越されつつ居ることに気づき始めて、だんだん自暴自棄な気持ちになってきていたからに違いなかった。それならば当然、気持ちのなかに鬱積したものがありちょっとしたことでも苛立ちやすい状態にあったに違いなかった。そんな状態であったために普段なら何とか我慢できるものであった社員の横柄な態度も、無性に腹の立つものとなり、あのようなラシクナイ言動に及んだものと考えられる。 しかし清二は、久保山が、その日に限ってあのような突拍子もない言動に及んだのは、彼があることのために、普段よりもさらに苛立ちやすい状態になっていたからだと云う気がした。そのあることとは一人の男の存在である。 その男は新しく入ってきた者で、ちょうどその日から働き始めたのである。名前は元山といい、年は三十五六で、背はそれほど高くはなかったが、やや太目のガッシリとした体つきをしており、体力は充分にありそうであった。石田の紹介で入ってきたと云うことで、三好とは顔見知りのようであった。だがまだ独身のようで流れ者であることには変わりはなかった。 ここに来るまでは色んな現場仕事をしたそうだが、この仕事だけはやったことがないと云うことだった。ただ最近は仕事がなくぶらぶらしていたと云うことであり、ちょうどそう云うときに、石田や三好と飲み屋で知り合ったようであった。 元山のシッカリとした言葉遣いや物怖じしないしゃべり方には、抜け目のなさや頭のよさを感じさせるものがあった。そしてその落ち着き払った自信過剰とも思われる落ち着き払った表情には、我の強さや世知に長けたしたたかさを感じさせるものがあった。 だから同じ流れ者といっても、黒塚や奥山や国沢とは、まだ別の意味で一筋縄では行かない雰囲気があった。ただそう云う人間よりは、はるかに穏かな顔つきをしており話しの通じる人間のようであった。 元山はいくら似たような仕事での経験があるとはいえ、初めての仕事の現場にもかかわらず、少しも不安な表情を見せることなく、傲慢と思えるほど堂々としていられる男であった。 今までの久保山は、新しく入ってきたものには、気軽に話しかけたりして、なにかと面倒見がよかったのであるが、元山に対してだけは、少しも話しかけようとはせず、なぜか無視するような態度を取った。むしろ元山とは仕事の上でかかわりを持たなければならなくなったような場合には、あからさまに不快な表情をして、避けるように態度を見せた。 元山と久保山とは、年こそ違うが、その世知に長けたような物怖じしない態度といい、我が強く自陣過剰そうなところといい、性格的には、同じタイプの人間のようであった。ただ元山のほうは体力に恵まれ仕事も出来そうで、それに三好や石田と知り合いと云うことなので、少なくとも久保山には反対側の人間であった。そして性格的に似たような人間ということも会って、久保山は無意識のうちに彼をライバル視したに違いなかった。しかし体力に恵まれ仕事が出来そうだということで、ひそかに元山の優越性を感じるとともに、これからは石田や三次に近い存在と云うことが気になり、今までのように自分の主張を強引に通したりして、仲間から孤立するような行動は取れないと云うことを敏感に感じ取ったに違いなかった。 元山の優越性から来るこれからの仕事でのやりにくさは、当然プライドの高い久保山の気持ちを不穏なものにしたに違いなかった。だから、その日久保山ははもと山の存在によって、いつもより苛立つ安い状態になっていたことは充分に考えられることであった。 しかし清二の目から見れば、話のわかる温厚そうな人間であったので、久保山が、いくら自分と似たような人間とはいえ、また自分よりは仕事ができそうとはいえ、初心者の、それに年下の元山に対して、不快な顔をするほどに敵視するのはだいぶ不可解であった。ただ後に、若いジュンが、久保山について、彼は自分よりも優れているものには近づかないし、そう云うものを認めようともしないと評価したことがあった。そのとおりであった。確かに久保山は自分よりは下のものに対してだけ、たとえば、奥山とか国沢とか黒塚とか、明らかに自分が主導権を取れる人間にたいしてだけ面倒身がよかった。だからもし久保山が、そう云う劣等コンプレックスを克服できないでいたとしたら、元山の貫禄があり大物らしさを感じさせる風貌から、清二が考えている以上のやりにくさや圧迫感を、久保山が感じていたのかもしれなかった。それは久保山の長いあいだの現場仕事の経験にって、体に染み付いたものに違いなく、もしかしたらそれは単なるやりにくさや圧迫感を超えて恐れに近いものかもしれなかった。 辞めて行く久保山に対して、ほとんどの者は彼の頑固一徹な気性を思うと仕方がないことだと考えたようで、それほど惜しむ気持ちを見せなかった。しかし、親方たちは自業自得だと思ったようで、冷ややかであった。 それは今まで彼の批判的な言動や反抗的な態度のために多少やりにくさを感じていたからであった。確かに、久保山の反抗的な態度は職場の雰囲気をギスギスしたものにしている要因のひとつになっていたからであった。ただ黒塚だけは久保山が辞めると判ると、こんな思いやりのないところには居れない、自分もいっしょにやめるといって盛んに同情的な素振りを見せていた。だがそれも口先だけで結局は辞めなかった。会社にとっても久保山は単なる手元に過ぎなかったのでそれほど痛手にはならなかった。 清二は久保山が辞めたことによって、いつのまにか、自分が石田や三好につぐものになっていたことに気づいた。わずか半年のあいだに三好と石田を除いて全員がやめていったのである。半年前の夏、何にも知らずに入ってきて、毎日オロオロしていたときと比べて、現在の自分がそれほど技術を身につけたとは思えないので、なんとも不思議な気持ちであった。しかし他のものと比べてみると、はるかに自分のほうが色いろなことを知っているので、三番目であることに自信を持つことができた。どうやら知らず知らずのうちに技術が身についていたようである。 元山は若いジュンの部屋に入った。 清二の思っていたとおりも富山は人との付き合い好み冗談の通じるまともな感じのする男であった。元山の自分と他人との違いを必要以上に比較したりする、そのもったいぶったしゃべり方や、その自信過剰とも思える落ち着き払った表情には、傲慢そうなところや世知に長けたしたたかさが感じられ、何となく鼻に付くものであったが、その反面、そのふっくらとした穏かな顔つきを子供のように崩して笑うときなどは愛嬌さえ感じられて好感がもてるものがあった。だから清二は、三好や石田よりも自分やジュンに近い人物のような気がした。ただ元山は今までの流れ者にたがわず酒好きで毎日のようにジュンを誘って飲み歩いていた。 辞めた久保山を不穏な気持ちにさせたに違いない元山の大物らしい言動や風貌が、周囲の者にどういう影響を与えているかは、黒塚の元山に対する言動のなかに、はっきりと見て取ることができた。黒塚は元山より遥かに年上で仕事のうえでも先輩であるにもかかわらず、元山を"さん"付けで呼び、顔色を覗うような卑屈な笑みをうかべて元山に接していた。だから元山の前では決して威嚇的な態度や横柄な態度をとることはなかった。黒塚ほどではなかったが、三好や石田にもあった。三好や石田は元山に対しては、仕事の上でも私生活の上でも遠慮がちに振舞った。 元山は脅迫的な態度をとるような暴力的な男ではなかったが、なぜ彼らが、元山を恐れるように距離を置いた態度をとるのか、清二には不可解であった。むしろ仕事に不慣れな元山が、そう云う特別な扱いを受けることに不満であった。確かに元山は喧嘩になれば強そうであった。しかし元山は酒を飲んでも飲まなくてもごく普通に筋の通った話のできる人間であるから、喧嘩になるはずはなかった。それにもかかわらず、久保山や黒塚だけではなく、三好や石田までも一目も二目もおいたような態度で接するのは清二にとっては奇妙なことであった。しかし、彼らにとっては、元山のそのツヨソウと云うことが、もしかしたら恐れさせている原因かもしれなかった。 と云うのも彼らの人間関係のあり方はおたがいの人間性や精神性を基準にするというよりは、むしろお互いの容貌や体つきから来る、気迫や威圧性などの感覚的なものから自然と生まれてくる優位性や順位性を基準とする本能的動物的なものであるからである。そしてそう云う人間関係の背後には暴力的なものが潜んでいるから、人に対するとき、相手が自分より強いとか弱いとか、喧嘩になれば勝つとか負けるとかいう闘争意識を前面に押し出しながら、接しなければならなくなるのである。しかしその闘争性は、ある意味恐怖心の裏返しでもある。だから、彼らのような人間は相手がまぎれもなく強そうであれば無意識のうちに気持ちが萎縮して、仕立てに出るような態度にならざるをえないのである。清二は彼らのような気持ちで人間に接しているつ者はなかったから、本山に対して恐れる気持ちは少しも起こらなかった。それは若いジュンも同じようであった。そこで清二は元山やジュンよりも仕事を知っている立場にあるものとして、彼ら二人との友情を深めていくことによって、職場の雰囲気を親方たちや黒塚によって作り出される苛立ったものから、和やかなものにして今までよりも楽しく仕事がやっていけそうな気がした。 毎夜のようにも富山に付き合わされて飲み歩いていたジュンが、元山に対して、彼は自分のことや仕事のことしかしゃべらないから面白くないと不満を漏らすようになった。ジュンは同じ部屋の住人ということもあり、また元山のおごりということもあってか、誘われるままについていったようだ。しかしジュンはほとんど酒は飲まないので飲み屋での快楽的な雰囲気を楽しむだけのようであった。それをいくらオゴリとはいえ愚痴を聞かされるだけなら不満が出るのも当然であった。 元山は、三好や石田と同様に、給料のほとんどは飲み代に消えていた。それに年下のものには決して払わせようとはしなかった。太っ腹というべきか、何か下心を持っていると云うべきか、不可解な行為ではあったが、元山は、人との付き合いを好み、そこに楽しみを感じる人間のようであったので、なにか見返りを期待しているようではなかった。清二は元山に誘われたことがあるのでジュンと三人でのみに言ったことがあった。そのときの元山には、自分がおごっているんだという態度がありありと見えた。他人におごることによって元山は、自分は思いやりのあるところや、面倒見に良さを示そうとしたのでろうが、給料のほとんどを酒代に消えるような人間からおごられても、何となく、だらしなさだけが気になり、少しも楽しくないのである。おそらく元山は兄貴づらして若者をつれて飲み歩くことに格好よさを感じているに違いなかった。それはまったく自分の虚栄心を満足させるだけの行為であり、顔の広いこととか、酒豪であることとかが自慢となる人間たちの世界にだけ通用する男の美学と云うものから自然に生まれてくる行為に違いなかった。清二にとっては反吐が出そうな男の美学ではあったが、長いあいだ、飲み歩いている彼にとって体に染み付いているもののようであった。彼は自分が楽しいことは他のものも楽しいに違いないと云う、完全なる思い違いをしているようであった。それに飲み屋での彼の言動は何となく横柄であった。それは、彼はおごることによって、自分が上位のものであるかのように思い込んだためである。なぜなら友情に支えられていない"おごるおごられる"の関係は、自然と上下関係にならざるをえないからである。しかし清二にとっては、勝手に兄貴面されたり、己の虚栄心を満足させるために自分が利用されることには、反発を覚えた。それは男の美学にまだ毒されていないジュンも感じているようであった。それに元山は、ジュンの言うとおり、共通の話題ではなく、仕事に対する愚痴や自慢話など、ほとんど自分に関したことしか話題にしなかった。仕事のことなど忘れて楽しみためにのみに来た清二にとってはあまり気分のいいものではなかった。酒を飲んだときに仕事の話をするのは決して悪いことではなかったが、それがなんら建設的なものではなく単なる個人の愚痴に過ぎないときほど不愉快なものはなかった。その元山の愚痴のなかで、黒塚を非難したものがあった。しかし清二は同調することはできなかった。なぜなら元山の言いたかったことは、奴は自分よりも働きが悪いのに、同じ給料であると云うのは解せないと云うものであり、黒塚に対する清二の不満と本山のそれが本質的に違っていたからである。確かに元山は黒塚よりも仕事が出来た。しかし彼の自己本位の不満には帰って反発を覚えるものがあった。清二はそれで彼といっしょに飲むのがイヤになった。だからいろいろと新しいことを経験して楽しみたいと思っている若いジュンにとっては、毎夜のように狭い範囲のしかもなんら発展性のないことだけを聞かされていてはうんざりするのも当然であった。その後清二たびたび飲みに誘われたがすべて断り続けた。いっしょに飲んでも元山を小山の大将にするだけでちっとも楽しくないからである。しかし順は同じ部屋に住んでいるためかすべてを断ると云うわけにも行かないようで、ときおり仕方なく付き合っているようであった。 そう云う酒の付き合いを別にすれば、普段の元山はやや独りよがりな傾向はあったが、穏かで開放的で笑いを共有できる話のわかる人間であったので、それほど付き合いにくさはなかった。 仕事における元山は、初めてであるにもかかわらず、要領がよく、その体力に任せて作業振りにはさすがなものが会った。ただ清二やジュンが作業のやり方を教えても、素直に従わないところがあった。決して命令するように教えているわけではないのであるが、元山は薄笑いを浮べて冗談を言いながら清二たちに言われたことを茶化しては自己流のやり方を押し通した。それは黒塚のとった行動と同じことで、年下の清二たちに教えせられることを潔しとしないプライドの高さから来るものに違いなく、また清二たちのようには、まだ仕事ができないので、虚勢を張っているに違いなかった。しかし清二は、元山が素直に従わないのなら、それはそれでいいと思った。なぜなら後で困るのは元山自身であるからだ。ただ少なくとも元山よりは仕事の内容を知っているジュンはあからさまに不満を漏らした。そのうちにジュンは楽しくもない酒の付き合いに無理やりつき合わされているということもあってか、だんだんと元山と対立するようになった。それは黒塚とのようにちょっと間違えば喧嘩になるような陰湿なものではなく、お互いの立場を認め合った上で言い争う近親憎悪的なものなので、それほど職場の雰囲気をささくれ立ったものにするものではなかった。 元山は仲間たちとの和やかな雰囲気を好む反面、相手の気に触ることや皮肉めいたことを平気で言ったり、詐欺師のように言葉巧みにカマをかけるようにことを言ったりして、相手の気持ちを翻弄するよなところがある男であった。それは本山の意識的な悪意からというよりは、彼の頭のよさや勘のよさから来るものに違いなかったが、清二は、彼の抜け目なさやしたたかさを感じてスキを見せると付け込まれそうな圧迫感覚えた。 清二は彼の探りを入れるような言動を何とかかわすことができたが、ジュンはそれに対してあからさまイヤな顔をしたり、腹を立てたりしてまともに反応した。しかし元山は、そのことにまったく意に介さないようで、本人もジュンに対抗するかのように本気になってジュンを苛立たせるような言動を採り続けるのである。このような矛盾した行為に元山自身はまったく気づいていないようであった。だから彼にとっては、そのことによってジュンに対する自分の優位性を確立してジュンを思い通りに支配しようとする自然的行為のようであった。しかしジュンは彼の言動に翻弄されるほど盆暗ではなかった。それに性格的には勝気がところがあったので、元山の露骨な意地悪やからかいに対して反抗的な態度になるのは無理もなかった。 ![]() ![]() |