ブランコの下の水溜り(3部) はだい悠
いつもより早く眠れるというせいもあったが、清二は今日の色んな出来事が頭に浮かんできてなかなか寝付けなかった。 ムチこそ当てられないものの家畜のように罵られている三郎の姿、全身を震わせて重いコンクリート版を持ち上げる奥山の姿、不安定な高い足場の恐怖、上の者たちには遥かに及ばない自分の体力と技量、そして肉体の強靭さだけが要求され、つねに苛立ちと怒声に支配された作業を思うと、いかに生きていくためとはいえ、自分がこれからやっていけるのだろうかと不安になった。 体力と技量は慣れと経験によって何とかなるだろう、しかし、そうなるまでに、三郎のように罵られても自尊心が傷つくことなく耐えられるだろうか? 根に持つことなくいられるだろうか、彼らは個人的な感情で、また主人のような支配欲を満足させるために怒鳴っているのではないことは確かである。あくまでも作業安全にかつ迅速に進めるために怒鳴っているのである。だから彼らの怒声は感情のない大きな音のサインだと思えば良いのである。こちらも感情を殺して冷静に対処すれば良いのである。まだ信頼を得ていなく、技術も体力もないのなら、怒鳴られてもある意味しかたがないことである。オレには出来るなどと三郎のように虚勢を張ってみたところでなんにもなるまい。それは自分を偽っていることになる。仕事が出来ないことは確かなのだから、かえって自分が惨めになるだけだろう。ましてや、過去の自分を持ち出して、本当の自分は違うんだなどと言ってみても何の慰めにならない。今の仕事に関してプライドの持ちようがないのだ。だがそれにしても神経に触る怒鳴り方ではあるが。それも彼らの性格と体験から出てきた流儀と思えば仕方がないことではあるが。それにしても最近満足に寝ていないのによく体が持つな、と清二は思った。 なんとなく結論めいたものが出て、清二は気持ちが落ち着いてきた。そしてようやく眠気を覚えてきた。うつらうつらしながら少なくとも今は夢を見ることなく、朝まで我を忘れて眠れることはひとつの幸福だと思った。 次の日、三郎は気分が悪いといって仕事を休んだ。明らかな仮病であった。親方の石田も休んだ。これは周期的な嫌気病から来る二日酔いのためであった。事務所では不機嫌さをあらわにした社長の独断により、メンバーの再編成が行われた。 メンバーの編成に当たって、親方たちが社長に意見を言うことはなかった。ましてや社長が不機嫌なときはただ黙って従うだけだった。 清二は久保山と、陰で怪物とあだ名される四十過ぎの親方と若い男の四人で、昨日と違う現場に行くことになった。 皆が事務所から出てきたとき、ひとり外に居た奥山が下水溝に今朝食べたものを吐き出していた。 怪物の名前は加藤といった。気の荒そうな性格を思わせるようながらがら声で、身長は百八十センチをこえ、痩せ型ではあるが、筋肉質の強靭や肉体を持っていた。 目は細く銀縁のメガネを掛け、そのヒヒに似た面構えは怪物というあだ名にふさわしかった。 若い男の運転で車は現場に向かった。しばらくすると加藤が若い男に話しかけた。 「なあ、アキラよ、石田さんをどう思う? あれは二日酔いで休んだんだぞいったい仕事を何だと思っているんだろう」 アキラは車の運転に夢中なのか黙っていた。加藤の声は普通に話しているときでも大きかった。がらがら声の上に大きいとなると、清二は威圧されたような気持ちになり何か近寄りがたいものを感じた。 「良い、行け!」 免許取立てで信号に従順なアキラに加藤がそういった。 「良いの?」 「良い、行け、こういうときは行って良いの、場合によっては守らなくても良いんだ。流れに任せては知らなければならないんだ、何事も経験だよ」 「加藤さんは運転できるの?」 「できるよ、うまいもんだよ、でもだめだ免許がないから、、、、」 「なくしたの?」 「くれないんだよ、オレには、警察は免許をくれないんだよ、、、、」 と加藤は、その容貌からは想像も出来ないようなおどけた調子で言った。 「なあんだ、あれ、オットッと、お転ぶぞ、あっ、また、危ない、オットッと、あっ、大丈夫だ、、、、」 そう言いながらアキラは、なにかをあざけるように無邪気にケラケラと笑った。清二は、病気の野良犬でも見て笑っているのだろうと思い、アキラの視線のほうに眼をやった。するとそれは野良犬ではなく、まだ人通りの少ない舗道を薄汚い酔っ払いがよろめきながら歩いているのだった。 「朝っぱらからなにやってんだ」 とアキラが侮るように言った。 「いいから前を見て運転しろよ」 と加藤に横から声を掛けられたアキラは、しかられた子供のように首をすくめ、おどけた表情を作り、もう可笑しさを堪えきれないといったふうに、体を左右に動かした。 十八才のアキラは目鼻立ちは整っていたが、顔の割には額が狭く、野卑な言動が伴うときは、すばしっこいイタチを思わせた。その猫背気味の肉体はまだ大人の体になりきってはいなかったが、いまの仕事に耐えられるほどの鍛えられた若々しさに満ちていた。そしてその大きな澄んだ目と落ち着きのなさから、根っからのひょうきんさを思わせるが、時として若さ特有の、世の中を甘く見る高慢さ(人間社会を舐めきる傲慢さ)が垣間見られた。 新しい現場は、分譲住宅のニュータウンとして大手K建設によって計画され、まだ建設途中にある七八階から十四五階だてのビルディングが林立するところだった。 現場の休憩所には様ざまな下請け業者が続々と集まってきていた。一日はK建設の社員による朝礼とラジオ体操によって始まる。 K建設の社員の身奇麗な服装と、下請け業者のうす汚れた作業服姿の対比は、終日管理業務に明け暮れる人間と、技量と体力をかけて仕事をする人間を現していたが、はためには差別的な光景と映らないわけではないが、それは人間社会を支配する冷徹な合理性による結果なのであろう。 休憩所から現場までは歩いて五分ほど離れていた。夥しいほどの作業員が一群となってきょうも暑くなりそうな陽射し受けながら、もうすでに分譲され人が住み始めている明るく塗装されたマンションを横目に、会社や学校に急ぐ普通の人々とともに、少し遠回りの道を現場に向かった。ほとんどが日焼けた顔でで、薄汚れた作業服姿の人々のその黒ぐろとした歩みは、明るく清潔感のあるサラリーマンや女学生のあいだでは異様であった。すでに人々が入っている建物には、その棟ごとに微妙に違うパステルカラーの塗装が施され、ほとんどのベランダには布団や洗濯物が除いていた。棟と棟のあいだには芝生や、高木から低木の様ざまな樹木が植えられ、その木々の葉は朝の光にまぶしいくらいであった。レンガ色の舗道のところには花壇が在り、それぞれの棟の横にはごみ置き場や駐車場があり、全体としては整然とした雰囲気をたたえていた。まるでそこは、色彩豊かなコンクリートと樹木と、そして便利さと快適さに囲まれた、明るく幸福そうな人間の住む理想的な空間のように思われた。 ガードマンに警備され、鉄柵に囲まれた現場は、トラックが通るたびに、石ころやセメントの塊でゴツゴツする道が烈しく埃を舞い上げる。灰色の肌をむき出しにしたコンクリートの巨大な塊、戦車のようにキャタピラで移動する地上五十メールもあるクレーンが、いまにも倒れかからんとするかのように、それが未経験な清二を圧倒した。 「ほらもたもたするなよ」 と加藤が戸惑い気味の清二にどなるように言った。 清二たちの仕事は地上四十メートルもある鉄骨にコンクリートの外壁を取り付けていく仕事であった。 十八才のアキラよりも格下である清二はいつものように一人でモルタル作りをやっていると、三十メートル上方で作業をしている加藤の声が聞こえてきた。彼の遠くまで響くがらがら声は、生まれつきもあったが、長いあいだの経験と必要性から鍛えられてそうなったものである。現場の騒音と雑然とする雰囲気のもとでの危険な作業には、大きな声での掛け声や合図が、いかに大事かを身を持って知っているからである。さらに彼の掛け声は作業者の気を引き締め作業そのものに軽快感を与える役目をしていた。 清二は一時間ほどかかって、荷揚げ用にエレベーターを利用してモルタルを作業現場まで運んだ。 「いつまでかかってんの、もう九時半だぞ」 と加藤がとがめるように言った。 「荷揚げ用のエレベーターが他の人たちが使っていたもんで」 「そういうときはいっしょに乗せてもらえばいいんだよ」 加藤のいうことはもっともであった。清二は他の業者が忙しそうに働いているのを見ると、いっしょに乗せてもらうのが仕事の邪魔をしているような気がして、言い出せなかったのである。というのも彼らがある限られた時間を独占的に使用することが許されていたからである。それはその使用をめぐって業者間にトラブルが起きるのを避けるために考え出されたものである。それに清二はこのような現場での微妙な人間関係や暗黙のルールを知らない新参者ということも在って、いっしょに乗せてもらうことに気が引けたのである。しかし弁解を少しも認めようとしない加藤の言い方は気に障った。しかも清二にとっては新しい現場であるにもかかわらず、曖昧な指示しか与えられずいちいち自分で道具類を探さなければならなかったということが、いくらか遅れたことに関係があると思うと、少し腹が立った。しかし怪物にこういう細かい配慮をもめることは、なんとなく無理なような気がして、諦めるより仕方がなかった。 コテからこぼれたモルタルが、落下して烈しく地面にたたきつけられ、跡形もなく飛び散っていくのが清二の目に入ってきた。地上三十メートルの足場での作業は、注意を要するが、取り付けられた足場が揺らぐことがないのでそれほど恐怖心は起こらなかった。それに足場と外壁のあいだには決められた間隔で、工具や、人間が落ちても、そこでとどまるように防護ネットが取り付けられていた。また完璧に近い安全対策の一環として足場の外側にも細かい網目のネットが張り巡らされ、それを切り裂くナイフでも持っていない限り、恐怖心は起こりようがなかった。それでも盲点は在った。安全な通路から足場までのあいだ、地面まで何もないところがあった。そういうところをまたぐときは股間に痺れを感じた。 「おい、清二!安全ベルトをかけろよ」 と加藤が声をかけた。 「ジャマ臭くって、、、、」 たしかにジャマである。移動のたびごとに止め具の架け替えは面倒くさくイライラさせるものがある。それに安定した姿勢での作業であったので、多少の注意力を持っていれば、失神でもしない限り、落ちようがなかった。加藤が苛立って言った。 「良いから掛けろって、後で安全に対する考えがナットランって言われるのは、オレだよ、元請の社員がいつどこで見ているかわかんないんだよ」 「やつら陰険だからな、隠れてみているからな」 とアキラが言った。 清二は思った。安全ベルトの掛け替えでイライラして、その方がかえって事故につながるのではないかと、事故は自分さえシッカリと気をつけていれば起きようがないのではないかと、もし万が一自分の不注意で事故が起き怪我をするとすれば、安全ベルトをしていなかった自分が悪いので、それは自業自得と言う者で、他人には関係ないだろうと。 そのとき久保山が物知り顔で言い聞かすように言った。 「清二君、かけたほうが良いよ、安全ベルトをしてないと怪我しても労災はおりないよ」 その言葉に清二は作業を中断して安全ベルトを足場にかけた。 暑い中での作業で頭がボォッとしながらも、清二はふと変なことが気になった。それは <安全ベルトをしてないと労災はおりないよ> という久保山の言葉であった。そもそも安全ベルトをしてないからこそ怪我をしたのであって、労災保険はもともと怪我ためにあるのであろう、どんな状況での怪我であれ、労災保険の対象とならないのはどう云うことか? そう思うと清二はどうしても久保山の言ったことが納得できなかった。 「おい、清二、そっちのモルタル入れは終わったか?」 緊張と暑さで顔から汗たらしながら作業に没頭していたが、加藤のガラガラ声は清二の耳によく響いた。 「いや、まだです」 「遅いな、オレなら三十分で終わるぞ、もう二時間も経っているじゃないか」 それは明らかに皮肉であったが清二はそれほど不快には感じなかった。むしろ弁解の余地を残す開放的なものが感じられた。そして清二は言った。 「入れるだけなら三十分で終わります。そこまで準備するのが大変なんですよ」 加藤は、ほとんど指示を与えない石田や、怒声で人を動かそうとする三好らの閉鎖的な感じとは違い、ハッキリと理屈が通る雰囲気を持っていた。 それに指示も部分的には明快だった。 「そこが終わったら、すぐこっちに入れろよ」 「はい!」 と清二はありったけの大声で答えた。 というのも加藤の荒っぽい命令口調には人を威圧するような気に障るものがあった。そこで清二はそれに負けまいとするかのように、それにあたかも鬱憤晴らしをするかのように、出来るだけ大きい声で返事をするようにしたのであった。 昼食は、まだコンクリートの肌がむき出しで、将来は綺麗に内装が施され、色んな家庭劇が演じられるであろう部屋の床に座って始められた。 加藤が天井のほうに手を伸ばしながら言った。 「なあ、久保さんよ、ずいぶん低いと思わない、これに天井が付くともっと低くなるよ」 久保山が答える。 「最近のものはみんな低いんだよ。拙者はどうもこういう団地には住む気にはなれん。息苦しくてどうもダメだ。どうせ住むなら一軒家だ。縁側があってそこから小便できるような家じゃないとダメだ」 清二もそういえばずいぶん低いなと思いながら天井を見上げた。 まだガラス窓もないビルの十階を吹き抜けるかすかな風が涼しく感じた。 加藤は自分が親方であることを自覚しているせいか、食事中も会話を絶やさなかった。 彼は久保山と何か通じるものがあるらしく、今日は初対面で在るにもかかわらずもう気心が知れたもの同士のように親しげである。しかし清二には依然として近づきがたいものがあった。おそらく久保山の物知りそうな話し方や、似たような仕事での豊富な経歴を髣髴とさせる様な少し禿げ上がった容貌や、現場慣れした態度がそうさせていたにちがいない。加藤が珍しく声を低めていった。 「良いよな、酒飲んで休めるなんて、、、、なあ、久保さんよ、石田さんは二日酔いで休んだんだぞ」 「彼のことは、言ってもしょうがないからね。まあ、ハッキリ言って親方失格だからね」 「でも、もらうものは人並み以上にもらっているんだぞ、毎日酒を浴びるほど飲んでも余るくらいもらっているんだから」 「なに、同じくらいもらっているんじゃないの?」 「いや、ぜんぜん、そう思う、同じくらいもらってもおかしくないと。ハッキリ言ってオレはやつらより仕事していると思うよ。この会社はオレでもっているといっても良いよ」 清 二には、そのことは虚勢でもないように思えた。彼は明らかに石田や三好よりも体力や技量や指導力の面で優れているように見えた。 「アキラ、ちょっと前に石田さんといっしょに仕事していて、どう思った?」 アキラは弁当を食べることに夢中で返事を曖昧にしていたが一息つくように 「あのチビ」 と悪気なく言った。 加藤は愚痴を言っている最中でもそれほど表情を変えなかった。顔の皮膚は溶接焼けでただれ、老人のそれのようにあまり動かない硬い皮膚のようで、年齢の不確かさを感じさせるものが在った。怪物とあだ名される割には、その細い目の奥に神経質そうに小さい瞳が動いていた。 弁当を食べ終わったアキラに、加藤が心配げに言った。 「アキラよ、そんなに早く食べると胃を悪くするぞ、大丈夫か?」 「大丈夫、なれているから」 「若いうちは良いけど、そのうちに確実に悪くするぞ」 「少年院でもよく言われたっけ、早く食べるなって、どんな食べ方したって勝ってだろうにね、、、、」 そう言いながらアキラはその曇りのない眼をキョロキョロさせた。 「アキラお前なにやったの?」 「窃盗だってよ」 と他人事のように言った。 「まだ少年だから、手錠はかけられなかったな、オレはちゃんとかけられたもんね。あれはあんまり気持ちのいいものじゃないね。夜家の前にパトカー止められてよ、刑事が入ってきて、加藤だなって言うんだよ、テレビとおんなじよ、喧嘩でね、空手をやっていたから、回し蹴り一発で相手の肋骨を三本折ったんだよ。あう言うときは何でも怪我をさせたほうが悪者になってしまうんだよ」 二人の会話を久保山は笑みを浮かべて聞いていた。 開放的な場所のせいか、二人の会話には屈託がなく、むしろ楽しい思い出を語っているような軽やかさが感じられた。 食事を終えてくつろいでいた清二に、アキラがなれなれしく話しかけてきた。 「セイちゃんは何歳なの?」 「二十八」 「まだ独身?それじゃ右手のお世話になっているんだね」 そう言うアキラの目には好奇の色が輝いていたので、清二は生意気なガキだと思いながらも、自分が左利きなので 「左利きのお世話に、、、、」 と機転を利かせて言い返せなかったことがシャクだった。 清二はいずれベランダになるに違いないところに出て外を眺めた。 地上三十メートルから眺める風景は、今朝道を歩きながらのぞき見たそれとはかなり趣きが違っていた。棟と棟はやわらかい曲線を描く道でつながれ、その道は何かを暗示するかのようにレンガ色と緑色で塗り分けられていた。そしてその道の両側には様ざまな植木だけではなく、ところどころに子供の遊び場や、丘をまねたような大地の起伏や、円形の舗装された広場が在った。その広場には幾何学模様が施されいた。マンションとしてのたんなる居住空間だけでなく、周りの自然環境も整えられ、至れり尽くせりの申し分のない環境に見えた。 清二の目に作業員休憩所から現場までのほとんど一直線に近い道が入ってきた。あそこが工事関係者が通ってはいけない道なんだなと思った。というのも朝礼でK建設の社員から注意事項の一つとして周知があったからである。その理由は一切知らされなかったので、なぜそこを通ってはいけないのか疑問として残った。 清二は眠気を覚えたので食事をした場所に戻った。アキラがひとりで眠っていたので清二もコンクリートの床の上に横になった。 薄れ掛けていく意識のなかで清二は、今見た風景を思い浮かべた。建物といい広場と良い樹木といい道路といい、すべてが何か意味を持たされているかのように、あまりにも整然としているように思われた。この場所は、草一本、砂粒一個にいたるまで意味があるように計画されているような気がした。これは科学的知識と経験が豊富な人間の頭のなかで、 「人間にとってこれが最善の環境である」 と考えられ、美しく整然とムダの内容と計画されたものに違いない。しかしそういう支配的な人間の構想や思惑からまったく外れた無意味で無秩序で忌避したい空間がどこにもないような気がした。こういう環境に対して、ある日誰かが、ふと息苦しさを覚え反抗的な気分になりはしないか、そしていつも上空から見下ろしている支配的な人間の満足感やほくそえみの元で、実際は操り人形のように不自由に生きているのではないかと。 「寝るんじゃないよ、もう一時すぎているぞ」 と怒鳴る加藤の声で清二たちは目覚めた。 清二は起き上がったが心臓がドキドキしてすぐに動けそうになかった。アキラは自分が今どこに居るのか判らないらしく不安げに周りを見わたした。それは暗闇に取り残され親を捜し求める子供のように、怯えた目をしていた。そのうち自分がどこにいるのか判ったのか眼を閉じてうなだれていた。 「いいか、これからが事故がいちばんおきやすいからな、気をつけて行こう」 という加藤の声で午後の作業が始まった。 今工事しているところより、さらに上方十メートルのところからつり降ろされたウインチのワイヤーに、コンクリート版をゆわえた帯を引っ掛けると、版が傷つかないようにと、それを両手で抱えた加藤の気合の入った「ゴウ」という掛け声とともに、真剣な表情の久保山がウインチのスイッチを入れる。ワイヤーで吊り上げる版の先端には、足場と鉄骨のあいだの三十センチの余裕しかなく、どんなに慎重にウインチを操作しても、版が風や振動で揺れたりすると、周囲にぶつかったりする。そのたびに欠けやすい版を心配する加藤の「ストップ」という罵るような声が掛かるが、かといって久保山がそのことを予測して言われる前に止めると、版の重さに耐えている加藤は、早く重さから開放されたいためか、「止めるな」と怒鳴るような声が掛かる。次にいったん吊り上げた版を空中にぶら下げたあと、加藤は足場と鉄骨のあいだをまたぐようにして、版を設置場所まで用心深く押していく、そして、「降ろせ」という号令で、久保山のスイッチ加減により静かに降ろすが、その速度が遅すぎると「遅い」と、早すぎると「早い」といちいち苛立つ加藤の声が掛かる。 版を降下させるとき、スイッチを持つ久保山と版を支える加藤の呼吸が合わないと、版が設置場所からはずれ、その反動で加藤が飛ばされかねない、なにせ版の重さは百キロ以上あるから。さらに版を結わえている帯が足場に引っかかっているのに気づかずにスイッチを押し続けたりすると、版が帯からすり抜けて落ちてしまうことがある。地上まで落ちれば当然晩は粉々になる。たとえ人を傷つけなくても、加藤は頭を下げたくないK建設の社員に頭を下げ始末書を書かなければならなくなるだろう。 だから久保山には眼と耳に神経をあつめた慎重な操作が求められる。しかし、いかにキャリア豊かな久保山でも、思い通りにやりたい加藤の要求には添えかねているようであった。 版の上方はアキラがとめ、下のほうは加藤がとめる。かなり神経に触る加藤の号令の元で、久保山は、加藤の要求に答えられない自分への苛立ちからか、それとも加藤への腹立ちからか、つねに怒ったように顔を真っ赤にして無言であった。 それにしても加藤の傷ついた動物のような苛立ちは、なにかしら三好や石田に共通するものが在った。 清二が下でモルタルを作っていると、自転車に乗って見まわりに来たK建設の社員が、清二に声をかけた。 「ちょっと、あなた、いつもそのようにヘルメットをかぶっているの?」 清二が怪訝そうに見ていると 「あごひもが外れているよ、ちゃんとかけなさい」 と社員は無表情で言った。 その言い方は感情を殺して丁寧であった。しかし清二は不快感を覚えた。その社員のいうことは間違いではなかった。それにその言い方も決して人に不快感を与えるようなものでもない、だがどうしても清二は原因のわからない反発心を覚えるのであった。清二はこの作業が一段落してからアゴ紐をかけようと思って、そのまま作業を続けていると、自転車にまたがってじっと見ていた社員が 「どうしていわれたらすぐかけないの」 と子供を叱るように言った。清二は腹を立てるよりむしろあまりの情けなさに苦笑いが浮かんできた。そして清二が最も嫌悪すべき感情"おれは、、、、"という、いまの自分には心に浮べることさえ恥ずかしいと思っている言葉が脳裏を掠めた。それは自分を抹殺してしまいたいほど忌まわしい瞬間であった。 清二は荷揚げ用のエレベーターが降りてくるのを待った。それは青空を背景に空中に浮かぶように止まっていた。じっと見上げていると、強い日差しを顔面に受けるので、暑さで気分が悪くなりそうになった。 まもなく上のほうから稼動の怒声が響いた。 「おい、早くモルタルもってこい」 しかしエレベーターは上に上がったままでいっこうに降りてくる気配はなかった。かといって清二は二十キロもあるバケツを抱えて三十メートルも階段を昇る気はなかった。再び加藤の声が響いた。清二は無性に腹がたってきた。 そして「やってやろうじゃないか」と呟くと、バケツを肩に担ぎ上げ、階段を昇り始めた。もはやヤケクソであった。自分の怒りに任せていると不思議と力が沸き起こり、昇るのもそれほど苦痛ではなかった。それでも途中へばりそうになると「バカたたれ」「わからずや」などと独り言のように加藤をののしってはいっきに昇った。それでも五分近く掛かった。今日何度目かは判らなかったが、全身汗まみれになっていた。 午後の作業終えた清二は、独りで空の弁当箱を下げて作業休憩所に向かって歩いた。どんなに年上とはいえ新米が皆の弁当箱を持つのがこの社会のルールである。加藤はK建設の事務所に作業報告をするので、他のものが後片付けをしている間に現場を早く引き上げていってしまった。 夏の陽はまだ高かった。 休憩所に近づくにしたがって、"安全第一"とか安全に関する標語が書かれた看板やグリーン地に白十字の旗がいたるところにあるのが目に付いてきた。しかし清二はそれらを見てもなんとなく白々しい気持ちになるだけだった。一日の作業をおえた人々が休憩所に集まってきた。洗面所には泥と汗を洗い流しにやってきた人々は過酷な作業から解放されたためか、皆一様に素朴な明るさをあらわにして、はしゃぐ子供のように単純な喜びに浸っていた。清二は冷たい水道の水を頭からかぶり続けた。生き返る思いであった。 建設の事務所に行っていた加藤が帰ってくるのを待って、車が発進した。開口一番加藤が愚痴るように言った。 「いや、言われたよ。安全ベルトをしてない奴がいるって。やっぱりどこかで見張っていたんだな。清二よ、ちゃんとやってくれよな」 「やってたつもりだけど」 「今日じゃないんだよ、昨日だよ、写真に撮られたんだよ、トオルのやつバッチリ映ってんの、証拠写真を突きつけられればこっちはなにも言えないからな。メガネをかけて太くて鈍そうなのいるだろう、いつも暇そうにぶらぶらしているの、やつが撮ってんだよ。ヤツはあれしか出来ない能無しなんだよな」 「ああ、あのデブか」 とアキラがはき捨てるように言った。 「いるんだよそう云うのがどこに会社にも」 と久保山がいうと、加藤が追うように言葉を続けた。 「いいか、注意を三回受けると始末書を書かなければいけないんだよ。その始末書が三枚たまると出入り禁止になるんだから、ちゃんとやってくれよな。あとそれから作業後の掃除がなっとらんて、それもやってくれよな、とにかくうるさいんだから、、、」 「いやあ、そうなんだよな、こういう大きなところはさ、規則規則でうるさいんだよ」 と久保山が付け加えた。 加藤の今にも気が滅入りそうな言い方には気の小さい怪物を感じさせた。そして清二は皆の話を聞きながら、アキラの言うようにK建設の社員は陰険な奴らだという印象を強くした。 しかしK建設の社員にとって、万一事故が起き誰かが怪我をすれば、安全管理不行き届きということになって、自分たちの責任問題となるので、彼らも必死なのである。それで安全対策やその設備がソツがないほど行き届いているのである。 彼らは、安全ベルトが絶対に必要なゴンドラ作業や不安定な姿勢での作業は別にして、何が起こるか判らないという想定のもとで、たとえば作業中に突然失神したり、突風で吹き飛ばされたり、上から何かが落ちてきてそれに巻き込まれたり、足場の取り付けが悪かったりと、様ざまな偶発的なことを考慮して、安全ベルトを着用させているのである。しかしこのようなことは、たとえ作業中でなくても高いところを移動しているときはいつでも起こりうることではあるが。しかし現実には、いかに自分の身を守るためとはいえいちいち命綱をかけていたら、紐が作業上の邪魔になったり、作業の遅れの原因になったりすることは事実なのである。とくに移動作業の場合にはそれはハッキリしている。 アキラは、道を歩いている女子高生や中学生を見ると、日焼けた笑顔覗かせ盛んに声をかけた。それはまるで近所の女友達にかけるような気軽さである。ほとんどの少女たちはその陽気に弾んだ声につられるように、アキラの野性的な笑顔を見ると、屈託のない笑顔を見せた。まれには恥ずかしそうに顔を赤らめ下を向いたまま無視しがちなものもいたが、不快さを表すようなものはほとんどいなかった。ときに、ベンチに腰をかけ話している少女たちに「見えるよ」とかけると、その少女たちは、若いオス鹿による誘惑的な雰囲気を楽しんでいるかのようにベンチから飛び上がっては、通り過ぎるアキラたちの車に無邪気に手を振っては、その天真さをあらわにしていた。 アキラがそういう少女たちだけを意識的に選んで声をかけているのかどうかは判らないが、照れることも悪びれることもなく堂々としたそのかけ方には、他のものには真似できない本能的なタイミングのよさがあった。清二には若い彼らだけに共鳴しうる特別な波長のようなものがあるように思えてならなかった。 加藤も手持ち無沙汰からか若い女を見ると「サヨナラ」とか「綺麗だね」とそのガラガラ声で声をかけるが、ほとんどの女性は冷やかしと受け取っているようにで加藤にはまったく見向きもせず無視しているようであった。すると加藤は無視された腹いせか「気取るんじゃないよ、ばかやろう」と罵った。 ![]() ![]() |