ブランコの下の水溜り(10部) はだい悠
清二たちは三好と鈴木が入れ替わっただけで昨日と同じ現場だった。 現場は小さいので三日目の今日には終わる予定だった。 現場につくと朝モヤは消えていたが、空の不穏な曇り空であった。国沢は体の小さな鈴木を前にして、窮屈そうに背をかがめ、従順そうに 「はい」 と大きな声で命令を受けていたが、その間不必要に大きく頷いたり落ち着きなく上目づかいでギョロリと見るさまは、 「そんなこといわれなくても判っているよ」 という雰囲気をかもし出していた。たしかに大柄な国沢は奥山と違って体力がありそうだった。それに、その狡猾そうな眼の動きからして、こういう仕事の知識も経験もありそうで、飲み込みも良さそうだった。だがいざモルタル作業に取り掛かると思うようにはかどらなかった。 五十歳をすぎているということもあるだろうが、いくら似たように仕事の経験があるとはいえ、初めての仕事にはやはりそれなりの技術求められるのである。それは 「午前でたったの二本だよ」 とあきれたように言うトオルの言葉に表れていた。その言葉には普通の人ならその十倍の二十本ぐらいはできるという意味合いが含まれているのである。それを聞いた鈴木も今日のうちに終わらせなければならないという焦りからか珍しく不機嫌そうな顔をして 「なにしてんだろう、アイツは」 というほどであった。 上の者の指導も悪く本人もまだ慣れていないせいもあったが、それにもまして国沢は要領が悪く不器用のようであった。清二も早くできる方法をアドバイスしても良かったが、現実には自分の仕事のことで精いっぱいでそのような暇はなかった。仮にたとえ言ったとしても彼が言うことをきくとは限らなかった。なぜなら彼には人の言うことを聞き入れようとしない強情そうな雰囲気があったからである。 それでも午後四時ごろはどうにか作業は完了した。と同時に朝から続いていた不穏な曇り空から雨が降り出してきた。皆は雨に濡れながらも、あわただしく道具類を車に積み込んだ。そして積み終わるとびしょ濡れのまま車に乗り込んだ。 あまりにも急いで乗り込んだので、座席の上は雨水と泥で汚くなり、何となく落ち着かない気分であった。国沢は雨に濡れ作業で泥だらけになったシャツを脱ぐと捨てるように座席の上に置いた。 あわただしさから開放されほっとした気持ちもあってか、清二は何気なく国沢のシャツを手に取ると、 「これで拭いても良いかな?」 といってそれで座席の泥を拭いた。だが拭き終わってから清二は、不味いことをしたかなという気持ちになり背筋が寒くなるのを感じた。 そのとき国沢は決してイヤな顔をしなかったが、彼の日頃の気難しそうな雰囲気からして、とっさにそう感じたのであった。 車は泥水を跳ね上げて走り出した。 しばらく沈黙が続いていたが、国沢が独り言のように話し始めた。 「安本が金がいるんだってな、今月の部屋代まだ払ってないとかで、五万円いるんだって、まだたいして働いてないのに社長が出す訳ないよな、そんなに欲しいんなら日雇いやれって言ってやったよ。トビの格好してさ、団地がいっぱい立っている現場の周りをうろついてみろって、そしたらすぐ金になる。日払いでもらえるからな、仕事が出来なくたってかまいやしねぇよ、出来ようが出来まいが金をくれるよ、払ってくれなければ騒げば良いんだから」 国沢は声は大きかったが、少なくとも前座席の鈴木やトオルに話しかけているのではないことは確かだった。そこで清二は自分に話しかけられているような気がして、ときおり国沢のほうを見るのだったが、高ぶった眼つきで話す国沢には、横槍を拒絶するようなとげとげしさがあり、どのように話しをあわせいて良いのか判らないので、下手に頷くことも出来ないまま無視したようにただ黙って聞いているだけだった。 国沢がときおり見せる毒々しい表情には、自然と警戒心を起こさせるものがあり、二人の間には親しい会話など成り立ちそうになかった。 ふたたび沈黙が続いていたが、頭に鉢巻をして悠然と窓の外を見ていた国沢が何を思ったか突然奇妙なことを清二に聞いた。 「清二君は大人しいから女にもてるだろう」 「いや、ぜんぜん」 と清二は無表情で応えた。 「そうかい、オレはだめだ、眼つきが悪いからな、女どもは皆怖がって逃げるんだよ」 国沢は人を食ったような薄笑いを浮べながらそう言うと、再び窓の外に目をやった。清二は国沢の質問に対して嘘を言えば良いのか、本当のことを言えば良いのか、ますます判らなくなっていった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 激しく行き交う車の騒音が気になり、思うように話せなかったが、道路沿いの公園に入り、幾分静けさを取り戻すと、ようやく落ち着いた気持ちになった。 久しぶりに会ったというのに、ここまで上の空で曖昧な答えしかせずまるで一人で歩いているかのように強引に公園に入っていった清二に対して、追いつくように並んで歩き出した洋子が、清二の顔をのぞきころようにして言った。 「セイくんは喫茶店みたいな所はきらいなのね」 「きらいと言う訳じゃないけど、あう云う所は意外とうるさいもんでね。大きな声で話さなければいけないんじゃない、それに周りに人が居たりすると、妙に意識して気取ったりして素直に話せないんだよね。そんなの疲れるんだよ。でもやっぱりあれだよ。向き合って話をするなんて何となく恥ずかしいじゃない」 「そうかしら、恥ずかしがることなんかないんじゃない、まったく知らない人と話すんじゃないんだから」 と洋子は穏やかな笑みを浮かべて言った。 「いや、恥ずかしいもんだよ。知らない人となら気取ったりして、自分を隠すことが出来るから恥ずかしくないけど、昔から知っている人だと隠しようがないんだよ。とにかく妙な気持ちなんだよ。田舎や子供の頃を知られているっていうのは、田舎に行っているみたいで、自分を飾ることが出来なくなってしまうんだよ。なんか裸にされているみたいで恥ずかしいんだよ」 そうは言いながらも清二は、なぜかウキウキした気分になり、自分が饒舌になるのを抑えることはできなかった。 それは秋晴れの穏かな陽気のせいもあったが、開放的な気持ちで話をすることができるうえに、その話しが通じることの嬉しさから来るものであった。 十月に入っていたので、朝夕はひんやりとしたが、昼間は過ごしやすい暖かさであった。 公園内は人影はまばらであったが、町の微かなざわめきに包まれ、テニスラケットに弾むボールの音を聞きながら、風にゆれ陽の光にきらめく、まだ青い樹木の葉を背景にして、短い余暇を楽しむようにしてのんびりと散策する人々眼にしているとますます気持ちが和んできた。 最初に見たとき洋子は変ったと思った。ちょっと見ただけでは判らないくらい顔形が変っていた。少しふっくらしすぎというきらいはあったが、それに比べて高校時代のあの開放的ではつらつとしていた面影は残っていなかった。だが、このことは同様に、先ほど会ったときに、やや驚いたように、なんの遠慮もなくまじまじと清二をみつめた洋子の表情からして、清二自身もきっと変わっているということであった。しかし、うちとけた表情をするときの柔らかい笑みのなかに、微かながら昔の彼女のにこやかでのびのびとした面影を見ることができ、清二は自然と顔がほころぶのを抑えることはできなかった。 「どうしたの、わたし何か可笑しいこと言ったかしら?」 「いえいえ、自分でも判らないんだよ、楽しいというか、恥ずかしいというか、複雑な気持ちでね」 「さっき見たときね、凄く変わったなと思ったの、出もそう云うところは昔とちっとも変ってないのね、人間の顔って正面じゃ判らないのかしら、横顔ってあんまり変らないのかしら、、、、でも昔はわたしが行くといつもそっぽを向いていたような気がしたけど、、、、」 「そうだここに座って話そう」 二人はベンチに座った。洋子のほとんど化粧をしていない顔と落ち着いた服装を見ていると、清二はますますうちとけた気持ちになっていった。 清二はくつろぐようにベンチに深く背を持たせかけ、ゆっくりと周りの風景に眼をやりながら何気なく洋子のほうを向いて言った。 「今度、帰ると言ってたけど、なにか用事でもあるの?」 「ええ、そうなの、八月におじいさんがなくなって、四十九日なの、それでね、、、」 「なくなったんですか、知らなかった。そうか、、、、ひとつの時代が終わったか、これで親父たちも解放されるか」 と清二は少し笑みを浮かべて独り言のように言った。しかし洋子は急に表情をこわばらせて清二から眼を離した。そして公園の風景に眼をやりながら言った。 「でも、それはもう昔のことでしょう。意外ときついことを言うのね」 「いやあ、つまらないことを言ってしまったよ。別に悪気があって言ったんじゃないんだ。その通りもう昔のことなんだよね。あれからもう四十年近くたっているからね。時代は変ったんだよね。親父たちだってなんとも思ってないことなんだから、むしろ親父たちはずっと恩義を感じていたようだよ。でもボクから見たらね、最初小さい頃は、親戚だと思っていたから、なんとも思わなかったけど、中学生ぐらいになるとね、親父たちのそういう言動が不思議に思うようになったんだよ。それにあなたのおじいさんのことを必要に以上に親父たちが恐れるのを見て何となく不満に思ったんだよ。たぶん親父たちの心のなかには若いころの印象がずっと残っていたんだろうと思うけど、でもこれは親父たちの世代のことだからね。僕たちの時代には何の関係もないことだからね。それに僕だってなんとも思ってないよ。あっ、なんかほんとにつまらないことを言ってしまったようだね。そうすると今度帰ったときにぼくの母に会うことになるんだね、ボクのことなんて話すつもり?」 「どう話したらいいかしら?」 「そりゃ、そうだろうね、いっそのこと会わなかったということにしたら」 「そうもいかないわよ。まさか、あんなところに居るなんて思わないじゃない、最初は信じられなかったわ、本当かしらって、、、、」 「それが本当だったわけだ。でもボクからすればあんなところじゃないよ、それは比較の問題だよ。いい所に住んでいる人から見れば、あんなところと思うかもしれないけど、別に屋根がないわけじゃないんだから。住めば都っていうじゃない、けっこう気楽で良いもんだよ。身一つで好きなように動けるからね」 「それじゃ、他にちゃんとした部屋を借りているとか、そういうのじゃないの?本当にあそこだけなの?」 「そう本当に身一つさ、なんともないよ。何にもないことが、どんなに気楽なことか、女の人には判らないだろうけどね」 「なんていおうかしら、本当に困るわ」 「困ることないさ、簡単だよ。元気そうにしていたって、それで良いじゃない。ちょっとあって話しただけで、どういうところに住んで何をしているとかは、判らなかったということにすれば、いいんだよ。大丈夫だって、母は洋子ちゃんのいうことなら何でも信じるから、心配することないよ。本当はここに居ることも知らせたくなかったんだよ。そう怖い顔しないでよ、でも、もし万が一何かが起こったときのためにということで、いちおう知らせておいたんだけど。もし今住んでいるところに訪ねてこられでもしたらそれこそ大変じゃない。以前にこんなことがあったんだよ。前はちゃんと部屋を借りて住んでいたんだけど、母がどうしても見に来るってきかないんだよ。年取っているのにわざわざこんな遠くまでね、大変じゃない。あのときは思いとどまらせるのに、本当に苦労したよ。家に帰るとかってなんとか嘘をいっちゃってさ。だいたい女性というのは、洋子ちゃんのこと言っているんじゃないよ。女の人っていうのは、住む家とか、服装とか、外見に非常に影響されやすいからね。本当に参るよ。こんなところをみたらかえって余計な心配をかけるだけだからね。洋子ちゃんでさえこんない説得が難しいのに、お袋だったらもっと大変じゃない。それに便りがないのは良い便りって言うじゃない。ねえ、、、」 「ずいぶんのんきね。親というものはそんなもんじゃないと思うわ。もっと深刻に考えているものなのよ。このあいだあったときなんか凄く心配してたのよ。どうしてこんなことになったのかって、自分たちの育て方が何か間違っていたんだろうかって、真剣に悩んでいたわよ、それにあなたのお父さんだって、、、、」 「いや参りましたね。育て方に間違いがあったとか、ずいぶん大げさだなあ、間違いなんてあるわけないのに、そりゃあ、子供のときにグレたんなら親にも多少責任があるかもしれないけど、二十歳すぎにグレたんだよ。大人の男が自分の責任でグレたんだから、親に責任なんてあるわけないじゃない。そんなこと悩まなくたって良いのになあ。だって他の兄弟だって、同じような育て方してみんなまともにやっているじゃない。おかしくなったのはボクだけじゃない、だからこうなった責任は皆ボクにあるんだよ。それに何も悪いことやっているわけじゃないんだからね。それでさ、今度会ったときに、元気でやっているみたいだから、心配ないって言ってくれればありがたいんだけどなあ、、、、、」 「ええ、そのことは判ったわ、だって、そうとしか言い様がないじゃない」 そう言いながら笑みをもらす洋子を見て、清二はほっとした気持ちになった。洋子はさらに真剣な表情で清二のほうを見ながら言った。 「でもね、いつまでもこのような生活を続けるわけにもいかないじゃないの、これから先どうするつもり?」 「これから先ねぇ、確かに先はあるからなぁ、ずいぶんきつい質問だね。でもさあ、そんな言い方だと、今のボクは落ちぶれていて、とっても不幸みたいじゃない。それにこのままいけば、ますます落ちぶれて不幸になっていく見たいじゃない。人間の幸、不幸って、そんなもんじゃないような気がするんだけどなあ。はたから見ただけでは判らない、もっと別なところにあるかもしれないのになあ。それにさボク以外の家のものは皆うまくいっているし、お袋だって別に生活に困っているわけじゃないんだから、何も悩むことないのにね。変なの一人ぐらい忘れてさ、目の前の幸せを楽しんでくれればいいんだよ。どうも女の人は自分が幸せだと思う形だけで他のものを見て、それに当てはまらないと不幸だと決めつけたり、その形に無理やり引き込もうとするみたいだね。他の人のことはかまわないで、自分がこれだと思う幸福の形をどんどん追い求めていけば良いのにねえ、どうしてこんな簡単なことが、女の人にはわからないんだろうね。お袋の場合、年のせいか、そういったところがとくに頑固なんだよなあ」 「なんか勝ってね。どうして男の人って皆そういうことを言うのかしら」 「皆だなんて、そういうことを言うのボクぐらいなもんだよ」 「そうかしら、、、、、」 そう言いながら洋子は少し怒ったように清二から顔をそむけた。それで清二は洋子が不安げな表情をしたのに気づかなかった。 「それじゃ真面目に言おう。今まで決して不真面目に言っていたわけじゃないけど、いつ頃からかはよく判らないけど、ボクは他の人と何となく違うなっていう気がしてきたんだよ。他の人が目標とすることや、ヨシとすることを皆と同じようにやっていても、イヤな思いをしたり納得が出来なかったりして、ボクの求めるものは皆と違うんじゃないかという気がしてきたんだよ。そこで自分にとって何が良いか何があっているのかといろいろ考えながら、自分が心から納得出来ることを、イヤな思いをしないで済むことだけをやってきたんだよ。そしたらいつのまにかこのようになっていたんだよ。だから、周りからみて、ボクが不幸に見えるかもしれないけど、ボクにとっては幸福で満足しているかもしれないよ。やはりこれでも納得出来ないですか?」 「、、、、、、、、、」 「それじゃ、いいですか、もしボクが仮に不幸だったしよう、世間に隠しておきたいほど落ちぶれは手、文無しになってしまったので、家族のものは嘆き悲しんでいることにしよう。でもいいですか、ここが大事なところなんですよ。どこの家だった三代も続けばそのうちに独りぐらいできるならば世間に隠しておきたと思うような変なものがいたり、知られたくない不名誉な秘密があったりするんですよ。僕の家の前の家には、子供のころ顔にやけどをしたために生涯結婚できなかった男の人がいたでしょう。酒好きで怒りっぽくいつも不潔にしていた男の人がいたでしょう。子供の頃ボクたちは"チョウスケ"とか"メッカチ"とかいってよく平気でからかったりしたもんですよ。すると本気になって怒って追っかけられたりしたもんですよ。今思うとずいぶん酷いことしたなと思うよ。その男は多少常識はずれなところがあったけどメチャクチャナ乱暴者ではなかったよね、でもその男のために嫁にくるものがいないと言われたりして、家族のものは苦しんだろうね。ヤッちゃんに家には今行方不明になっている人がいるでしょう。そのほかにも、難病で苦しんでいる人がいたり、出戻りがいたり、寝たきりの老人がいたり、酒乱の嫌われ者がいたり、どの家にも何かあったでしょう。かくしたくても隠しきれずみんな悩みを抱えながら、それでも結構うまくなってるでしょう。ボクの家にだってこのように変なのがいるじゃないですか、あんまり順調に行き過ぎて、幸福が続いていると、そのうちに不幸がやってくるんですよ。ちょうどいいじゃないですか、不幸の先取りですよ、ボクはね。よい厄払いだと思えばいいんじゃないでか。ああ、また不真面目な言い方をしたみたいですね」 「、、、、、、、、」 清 二たちの眼の前をおぼつかない足取りで歩いていた初老の男が、賑やかな完成が上がるテニスコートのほうを向いて歩みをとめると、ボールの動きに眼を追うわけでもなく、理解しがたい世界を眺めるように生気のない表情で呆然と見ていた。 うつむき加減だったようこが、穏かな表情で清二のほうを見ながら言った。 「シンちゃん、知ってるでしょう。神社の隣の、川に釣りにいっておぼれて亡くなったんだって。まだ若いのにね」 「そう、ボクよりひとつ下かな、よくいっしょに野球をして遊んだことがある。彼は体がガッシリして運動神経も良く、泳げないはずないんだけどね。たしか彼の嫁さんは、、、、」 「ええ、自動車事故で怪我させて、眼が不自由なのね、子供もいるし、なんか弟さんといっしょになるみたいよ。それに角のお店のおばあちゃんも今年の春に亡くなったそうよ」 「そうですか、亡くなったんですか。もう寿命だからね。なんか不謹慎な言い方になるけど、ほんとのこといってなんかホッとした気持ちなんですよ。三年前に帰ったときあの店の前を通るが何となく疚しい気持ちがしてイヤだったなあ。というのもね、子供の頃買い物に行っていて、ズルしたことがあるんだよ。それが見つかってね、、、、 色んな量のお菓子が入った袋があって、それぞれの先から出た紐がひとつに束ねられていて、そのうちの一本を引くと、色んな量のお菓子があたる仕組みになっていたんだよ。ボクはあのおばあさんが、菓子ケースの裏側に居て、こっちが見えなくなっているあいだに、いちばん大きな袋を引っ張って、それで動く紐を覚えておいて、おばあちゃんがこっちに出てきたとき、あたかも初めてのようにその紐を引っ張ったんだよ。そしたら見事にいちばん大きな袋が動いたんだよ。でもね、あのおばあちゃんは、怖い顔して首を振るんだよね。きっとガラスケースを通してこっちをみていたんだね。なにせ厳しい人だったから。だから今でも『子供の頃はずる賢い子だった』と思われているような気がしてね。あそこの前を通るのが何となくイヤだったんだよ。ああ、話しがなんか横道にそれたみたいだね。今度帰るのいつ頃?」 「十日頃かしら」 「そのときはよろしく頼みますよ。まあ、お袋が心配するのもわかるけどね。よくお袋がこんなことを書いてよこすんですよ。テレビで何か事件が起きるたびにハラハラするって、笑っちゃうよね。ボクが何か悪いことでもすると思っているんだよね。知らない人ばかりの都会に居ると、田舎じゃみっともなくて絶対にできないような恥ずかしいことも、多少は平気でやれるけどね。でも、テレビに出るような悪いことはしないって、あんなところに住んで落ちぶれているように見えるけどね。それにもしボクがそんなこと出来るような人間だったら、こんな人間にはなってないよ。もっとまともな別の道を歩んでいたよ。なにせ僕は気の小さな人間だからね。それにさ洋子ちゃんが近くに住んでいると思うと、そんな悪いこともみっともなくて、できないじゃないか。だってさっきも言ったけどさ、田舎や子供の頃のことを知っている人に会うとさ、今自分は田舎に居て、心の奥底をのぞかれているような気がして、自分を飾る気持ちなんておきないんだよ。子供のころの素直な気持ちに慣れるんだよ。だから悪いことなんかできっこないって。信じてくれないかな」 「判ったわ、信じるわ。あそこに居る人間がみんな清君みたいな人ならいいんだけどね。色んな人がいるみたいで」 「えっ、このあいだ仲間にあったの?」 「いえ、ほんのチラッとみただけよ。どういう人たちなの?」 「どういう人って、、、、、いい人たちだよ。そう、いい人たちだよ。ちょっとボクみたいに、世間からはみ出したような人間もいるけどね。でも悪い人間ではないよ」 「ふうん、それじゃ良かったわね」 「でも、これからはもしボクに何か用事があったら、あそこには来ないでね。電話なんかで連絡してね。そうだなあ、いつも七時までにはかえってくるから、それまでに会社の事務所に電話してくれるとありがたいんだけど、、、、」 そういい終わると清二はゆっくりとベンチから立ち上がった。遅れて立ち上がった洋子がにこやかな表情で清二を見ながら言った。 「ねえ、良かったら今度家に遊びに来ない?」 「えっ、遊びですか?苦手なんだよなあ、知らない人に会ったり、他人の家庭のなかに入るのが、、、、」 そう何気なく言ったあと清二は、人影もまばらな公園の風景に眼をやりながら久しぶりに味わう充実感を噛みしめるようにゆっくりと歩き出した。 清二は洋子に感謝したい気持ちであった。それは久しく会話らしい会話をしていなかった清二に対して、自然な気持ちで話して話しが通じることの楽しさを味わわせてくれたばかりでなく、家族のように親身になって清二のことを心配してくれたからである。 その夜の七時ごろ、清二が満ち足りた気持ちでベッドに横たわっていると、ドアをノックするものがいた。開けると国沢が立ったいた。どこからかかえってきたらしく、手には紙袋を持っていた。清二と眼があうと背を軽くかがめ愛想笑いをした。 「なんですか?」 と清二が穏かに言うと、国沢は落ち着きのない眼で部屋のなかを覗き見しながら言った。 「今帰ってきたばかりなんだけど、部屋の電気がみんな消えてるもんで、、、、」 「あっ、今日は日曜だから、みんな出かけているんでしょうね、、、、、」 暗闇を背にして立っている国沢の姿はなんとも薄気味悪いものだった。日頃から敬遠しがちな清二にとって、いったい何の用事だろうといぶかる気持ちが起こった。 清二はふと、昨日の土曜日、タバコ代のために小銭を借りたことを思い出した。そこで清二は少し間を置いて、 「ちょうど良かった。タバコを借りていたんだよね」 といって、今日買ってきたタバコを一箱をテーブルの上からとると、それを何気ない素振りで国沢に渡した。なぜ清二がそうしたかと云うと、国沢に、自分が国沢はわずかタバコ一箱代の小銭のためにわざわざ部屋にやってきたけちな男だと思っているような素振りを見せることは、彼のプライドを傷つけるような気がしたからである。というのもそういうことをいちいち気にするタイプのように日頃から感じていたからである。 それに彼がそのために来たのでないことは、彼のいつもよりやや穏かな雰囲気からしてハッキリしていたからである。国沢はタバコを受け取ると、曖昧に挨拶をして自分の部屋に帰っていった。 思いがけぬ国沢の訪問で気分が変った清二は、ふと洗濯を思いたった。 洗濯機は国沢の部屋とトイレのあいだにあった。洗濯を始めて二三分すると、国沢の部屋から突然、途切れ途切れだが、語尾のハッキリしない、怒鳴る声が聞こえてきた。洗濯機の音で、言葉の意味が良く聞き取れなかったが、まぎれもなく人間に対して怒鳴っているような気配であった。 "安本に怒鳴っているのだろうか?それにしても安本は帰ってきたような気配はない。いったい誰に怒鳴っているのだろう" と思いながら清二は、やや不安な気持ちで、そっと国沢の部屋の窓を開けると、国沢は窓から三メートルほど離れた所に座り、手には焼酎の入ったコップを持ち、怒鳴るように何やらぶつぶつと言いながら、怒りの表情でじっと窓の外の清二を見ていた。 自分のほうを見ている国沢に対して不可解さを感じながら清二は言った。 「どうしたの?」 「どうしたのじゃないよ、なにごそごそやってんだよ」 と国沢は怒りをあらわにして言った。 怒りが自分に向けられていると判った清二は少し面食らいながらも気を引き締めて言った。 「せんたくだよ」 「洗濯、なんで今頃洗濯なんかするんだよ」 「まだ七時だよ。夜中にやっているわけじゃないんだから、いいじゃないか」 「洗濯はなあ、天気の良い昼間にやるもんだよ。なんで昼間にやらないんだよ」 「いいじゃないか、いつ洗濯をしたって」 「今やったら明日まで乾くわけないだろう、オレなんかいつも朝のうちにやってんだぞ、それに蛇口がゴトゴト動いて気になるじゃないか、人が部屋に居るって言うのに、なんで断ってからやらないんだよ。窓を開ける余裕があるなら、断れねえわけないだろう。俺は誰にも教えてもらわなかったんだぞ、そこに洗濯機があるってことをな、そんじゃ、先輩としておかしいんじゃないか、それにな、なあんださつきのタバコの返し方は、あれじゃオレがタバコが欲しくて行ったみたいじゃないか!」 国沢は清二が言い返せば言い返すほど、ますますいきり立ち、まるで清二の落ち度であるかのように、終始ものすごいけんまくで怒鳴りつけるように言った。 清 二は彼の怒気を肌で感じながら、ムチャクチャ言うんじゃないよ、何も怒鳴るほどのことではないだろう、と思うと、からだが震えるほどの腹立たしさを覚えた。そして、、思いは言葉となっての喉まで出掛かるのであるが、それを声に出して言うと、興奮のあまり大声の罵りあいになりそうな気がしたので、それにそのことが近所の家々にも聞こえて、みっともないに違いないと思ったので、必死に腹立たしさをこらえながら、それ以上何も言わずに国沢を無視するかのように洗濯機に眼をやった。 清二が言い返さなかったのには他にも理由があった。それは清二が日頃から、後輩に対して、先輩ぶって威張り散らすのは止めようと心に決めていたのに、国沢の怒声を前にして、微かにではあったが、思わず 「後からきて生意気言うんじゃないよ」 という気持ちが起こり自責の念に駆られていたからである。 清二の無視にもかかわらず国沢は同じことを繰り返しながら威嚇するように喋り続けた。 "帰ってきてからまで何分も立っていないのに、もう酔っ払ったか、酒乱なら仕方がないか" と清二は思ったが、 "しかし、そんなに早く酔っ払うはずはない、それならキチガイか、キチガイを相手にできるか" と思い半ばあきれ返りながら窓を閉めた。 何か裏切られたような気がしてやるせない気持ちだった。 しかし清二か"キチガイ"と思って相手にしなかったのは結果的には良くなかった。なぜなら彼はキチガイでもなんでもなかったからだ。彼には彼なりの理由があったのだ。そしてこのことが国沢の不可解な行動に拍車をかけることになったことに清二は気づくことはできなかった。 十時ごろ清二が寝る準備をしているとドアをノックするものがいた。開けるとパジャマ姿の安本が立っていた。 「ちょっと今晩こっちにとめてくれない、いやあ参ったよ、国沢のやつ飲んでからむんだよ、眠れやしない」 苦々しい表情をした安本はそう言ういながら、部屋に上がりこむと、清二の承諾の返事も耳に入らない様子で、閉じかけたドアの隙間から、国沢の部屋の様子を盗み見るとドアを閉め鍵をかけた。 「ヤツは酒癖が悪くって、人にからむんだよ。眠れやしない、いいかなこっちに泊まっても?」 安本は落ち着きなく自分の行為を弁解するように言ったが、清二は心から歓迎したい気持ちだったので同調するように言った。 「いいよ、かまわないよ、さっきもオレにからんできたよ。やつはキチガイよ、そうだこれからずっとこっちに泊まればいいよ」 「いいかな黙ってこっちに移っても?」 「かまわないよ、いちおう明日にでも社長に言えばね。オレだって奥山といたとき、うるさいからって黙ってこっちに来たんだから、いちいちあんな国沢に断る必要なんかないよ」 二段ベッドが二つあったので清二もう一方の下に寝るようにすすめたが、なぜか安本は清二の寝ているベッドの上を選んだ。 ベッドに入ってほっとしたのか安本はおだやかに話し始めた。 「さっきの話なんだけど、奥山さんはオレが追い出したんだと言ってたよ」 「へう、そうするとオレは奴に追い出されて、こっちに逃げてきたってわけか、まあ、どうでもいいよ、とにかく静かに眠れさえすればいいんだから、好きなように言わせて置こうよ」 部屋の電気が消えて五六分後、突然安本は窓を開けベッドから身を乗り出して国沢の部屋のほうを覗うように見ていた。安本は国沢を怖がっているようには見えなかったが何となく気になるようであった。 翌日、三好の受け持っていた現場の工期がまじかに迫りそれまでのメンバーに安本が加わり五人となった。 屋上の作業のときだった。足場の上で作業をしていた三好が急にそのサル顔を崩しニヤニヤしながら手を休めると、下を見るように清二を促した。いい女でも通ったのであろう。こういうときはたとえどんなに忙しくても、手を休めることが公然と許されるのである。三好が下のほうを見ながら言った。 「ほら、みろよ、よく見えるだろう、誰も見てないと思って油断しちゃって、股なんかおっぴろげてさ、まさか上から見てるなんて思ってもないんだろうね。こういうのは上のほうからが良く見えるんだよ」 そう言い終わると三好はさらに腰をかがめて覗くような格好をした。清二が下を見ると、狭い路地を車がゆっくりと走っていた。三好の言うとおりであった。十メートルの真上からでもノゾキが出来たのである。助手席に座った若い女の短めのスカートがだらしなくずり上がり太ももがあらわになっているのが、フロントガラスを通してみることが出来た。 三好はタバコを取り出して火をつけると得意げな表情で話し始めた。 「こういう仕事をしていると色んなものが見えるんだよ、みんな上のほうまでは気をつけていないからね、前にラブホテルの近くて仕事をしていたとき、面白いことがあったよ、昼休み、いい年のおっさんが、事務服姿の若い女を乗せて入っていったんだよ、それから一時間たってから、何食わぬ顔で出てくんの、全部見られているのも知らないでよ、写真とっとけばよかったかな、イヤ、まいったよ、ナニクワヌ顔だってよ、ヒッヒッヒツ、、、、」 ![]() ![]() |