ブランコの下の水溜り(13部) はだい悠
国沢は少し落ち着きを取り戻したらしく、つかんだ腕を放して清二から離れた。そして幾分和らいだ表情で言った。 「おめえは情けない奴だな、おめえみたいに後輩を苛める奴は、ここにいたって何の役にもたたねえ、誰があいだに入ったっておめえが悪いに決まってんだから、このこと社長が聞けばおめえなんかすぐに首だぞ、明日おめえのこと社長に言って、辞めさせてもらうからな、、、、」 その言葉を聞いて清二は突然希望の光を見たような気がした。そして国沢に言った。 「それじゃ、明日社長にあいだに入ってもらって話しましょう。それでどっちが悪いかはっきり決めましょう」 「よし、いいだろう、どうせおめえが全部悪いんだから。それじゃ約束だぞ」 と言いながら国沢は真剣な表情で土色の節くれだった自分の小指を差し出した。そして躊躇する清二の小指に強引にまきつけて指きりげんまんをした。 清二は彼の真剣さに押されて思わず応じたが、あまりにも彼の風貌に似合わない行為に、なんとも奇妙な気持ちになった。それは先ほどまで氷り漬けになっていた体に急に血が通い始めたような感じをともなっていた。 国沢は部屋を出て行くタイミングが見付からず何となくおちつかない様子であったが、ドアのところで清二のほうに振り返り、じっと見ながら言った。 「お前は、バカ、利巧か、どっちなんだ」 そう捨て台詞のようにいい残して国沢は外に出て行った。 明日話し合いによってたとえどんな結果になろうとも、これですべてが解決すると思いながら清二はほっとした気持ちでベッドに入った。 翌日の日曜日、清二が目覚めたとき時計は九時をまわっていた。清二は国沢との約束を思いながら急いで身支度をしたが、自分から進んで果たすべき約束ではないように思われて、国沢が来るまで待つことにした。 しかし国沢はいっこうに現れないので清二は部屋の掃除や洗濯をしながら待つことにした。 だが国沢の部屋はドアが閉められ人がいるような気配はまったくなかった。 十時ごろ清二は国沢の部屋のドアを叩いた。返事はなかった。清二はドアをあけてなかに入った。国沢の姿はなかった。部屋は普段どおりで特別に変化はなかった。国沢は着替えなどの身のまわり者はまったく持っていなかったので、ちょっとした都合で出かけているのか、永久にトンズラしたのか、清二にはまったく判らなかった。 清二は自分はちゃんと約束を果たそうとして朝から待っていたのだから、後で国沢から約束を守らなかったなどと文句を言われることはあるまいと思い、午後からは洋子の家に行くことにした。 高志のマンションについた清二は何度もチャイムを押したが中からはなんも応答もなかった。どこかに出かけているのかなと思い三十分ほどドアのところで待ったが、周囲に出入りする人たちに不審そうな目で見られるので、またの器械にしようということにしてマンションを出た。そしてふとある思いに突き動かされるようにしてそのまま町に出た。 夜になっても国沢の部屋に灯りがつかなかった。 清二がベッドに入ってうとうとしかけたころ、誰かが入ってきた。どうやら安本が帰ってきたらしかった。清二は寝た振りをしていたが、安本は電気もつけずに隣のベッドに腰をかけると話しかけてきた。 「清ちゃん、起きてる、清ちゃん」 清二は仕方なく今目覚めたかのようにうなり声を上げながら、薄目をあけて安本を見た。安本はうつむきかげんに座っていた。少し息が荒く酒を飲んでいるようだった。そして清二が目覚めたのを認めると不安そうに眼をギョロつかせながら、遠慮がちにやや呂律がまわらない声で話し始めた。 「清ちゃん、オレ嘘を言わなかっただろう。こうやってちゃんと戻ってきたよね。前借りの金をもってそのまま逃げるようなことしなかっただろう。清ちゃんは、オレが逃げるような男じゃないと思っていたよね。国沢みたいなプータロウじゃないって判っていたよね。オレは国沢より仕事が出来るよね。俺は少しチャランポランなところがあるけどでも嘘つきじゃないよね、オレが今まで言ったことは皆本当のことだよ。信じるよね」 「うん、信じるよ」 「本当に、信じてくれる」 「ほんとうだよ」 「これからもオレのこと信じてくれる」 「信じるよ」 「それじゃ、俺たちは、友達だよね」 そう言いながら安本は真剣な表情で手を差し出した。握手しようというのである。清二は彼の突然の行為に多少薄気味悪さもあって途惑い感じたが、それまでの彼の話し方や態度に芝居じみたものはまったく感じられなかったので、彼の真剣さに答えるためにわざわざベッドから体を起こし手を差し伸べた。そして 「そうだよ、友達だよ」 と言いながら握手をした。 だが清二がふたたびベッドに横になっても、安本はそこから動こうとしなかった。そしてしばらくうつむいて黙っていたがふたたび顔を上げ先ほどの話をもう一度最初から繰り返しと、また握手を求めた。清二はふたたび同じように相槌を打ち、そしてベッドから体を起こして握手に応じた。しかしそれでも安本は納得がいかないようだった。 その後に二度三度と同じことを繰り返した。清二そのたびに相槌をうち握手に応じた。何が彼をそんなに恐れさせ不安がらせているのか、清二にはまったく見当すすがつかなかった。いくら酒を飲んでいるとはいえ、彼のしつこさに清二は早く眠りたいせいもあり少しうんざりした。しかし彼に対する友情の気持ちには最初の握手のときと変化がなかったので、それに不機嫌な態度を見せると彼はますます不安がるのではないかと思い、今度もちゃんとベッドから起き上がり、彼の顔をシッカリと見ながら丁寧に心を込めて話しかけた。 「そうだよ、俺達は友達だよ。今までいっしょに辛い仕事をやってきたじゃない。友達なら信じないわけないじゃない。でも明日の朝は早いからもう寝たほうがいいよ。大丈夫だって、俺たちはこれからもずっと友達だから、、、、」 薄暗い部屋で話していると妙に感動的でさえあった。 ようやく安本は納得したらしく、清二がベッドに横になると、すぐ彼もベッドにあがり何も言わなくなった。 翌日の朝も国沢の姿は見えなかった。久保山によって 「国沢は部屋に居ない」 と報告されたが、社長はただ頷くだけだった。それによって皆はおそらく国沢はやめて言ったのだろうと暗黙のうちに了解した。というのも今まで人がやめていくとき、社長には仲間にも何にも告げずに突然いなくなるのがほとんど習慣のようになっていたからである。 清二には国沢は社長があいだに入って話し合えばきっと自分が振りになると判断して逃げたとしか思えなかった。 結局この後も国沢の姿をふたたび見ることはなかった。そして国沢のことを誰も積極的に話題にすることはなかった。ただときおり休憩時間などに、今までやめて言っていろいろな人間が批判や笑い話の対象として話題になるとき、作業もできず食えない人間の例として国沢が取り上げられることはあった。 それによると鈴木も絡まれたということであった。だが鈴木は強い態度に出たためそれ以後はつけ込まれるようなことはなかったということだった。 どうやら国沢は外見的に弱そうな人間だけを標的にすることは確かなようであった。しかし清二はもう終わったことなので自分が国沢に脅迫されたことは誰にも言わなかった。 安本は昨夜の誓いを忘れたかのように、その表情には不安に苛まれた真剣さはなく、少しおしゃべりで軽率な感じのする本来の自分に戻っていた。彼はその後彼なりの真面目さで仕事に励んでいたが、二週間後の給料日に残りの給料をもらうと、さっそくよそ行きの服に着替えどこかに出かけていった。清二は彼は自分の荷物を持っていかなかったので、それに今までの人たちのように、何も言わずに辞めていくはずはないと思っていたので、てっきり帰ってくると思っていたが、結局彼もそのまま戻ってこなかった。 安本は部屋に居るときは酒を飲まなかったので、大人しかった。でも後で鈴木から聞くところによると、外では評判が悪く、少しハラハラさせるところがあったようだ。飲み屋では酔いに任せて一匹狼を気取り地元のヤクザの名をあげて侮るような態度を見せたりして自分からすすんで挑発的な態度を取ったということであった。 どうやら彼はヤクザ指向の人間のようだった。しかし清二は日曜日の夜に見せた彼の真剣な態度を見せ掛けとは思っていなかったので、彼に対する友情の気持ちに変化はなかった。 十月も半ばをすぎると、外での作業にはちょうど良い気候になってきた。弱い日差しとはいえ、力仕事であるため忙しく動いているだけで、汗が流れるのであるがすぐに涼しい風が吹くので気持ちよく働くことができた。 清二は三ヶ月目にしてようやく力仕事にも慣れてきたせいか、朝晩の手足の痛みも感じなくなり、肩や腕にもだいぶ筋肉がついてきて一日の作業における体力的な自信がもてるようになった。それに仕事の全体的な流れを把握できるようになり、自分から率先して動けるようにもなってきた。 しかしそれでも親方たちにはまだ遠く及ばないものがあった。なぜなら、いくら頭で全体の流れが判っていても、ここの作業においては、まだまだ未熟であったので親方のようには、無駄なく迅速に動くことは出来なかったからである。このような仕事において、その人間の力量は、いかに要領よく実践的に体を動かせるかによって決定されるのである。 そ れに体力的に自信がもてるようになったといっても仕事そのものが楽になったということではない。作業の要領を覚えてきたので以前よりははるかに多く動くようになり一日の肉体的疲労感はそれほど変らなかった。ただ不慣れな危険作業に対する戸惑いや不安から起こる精神的な疲労感は明らかに少なくなったとうことは確かであった。だがそのおかげで夜は何も考えずにぐっすりと眠れることはいいことであった。 作業そのものは相変わらず危険をはらみ、重労働だが、目的が眼に見えて手で触れることが出来る単純なものであったので、余計な神経を使うことなくむしろ伸び伸びとしてものがあった。作業場の危険に対しても、少なくとも仕事は人間にとって生きることを目的とした生命活動の一環であるから、自己の生命活動に身を任せていれば、余計な考えが生まれてくる余地はなく、まったく自然に反応できるので、侮りの気持ちを持たないかぎり、ほとんど安全なのである。 作業そのものに対しても、思いコンクリート版と人間の体力と技量との関係から生まれてくる現実的な法則が厳然としてあるので一個生命体としてその限界を自覚しながら、それにしたがっているかぎり、少しも不自然な感じはなく、作業中はそれほど肉体的には苦痛とはならないのである。 そして作業が終わればその成果を見ながら開放されたことを喜び、夜は疲労のあまり何も考えることなく口を開けて死んだように眠るという、あまりにも明確で単純な日々なのである。 おおよそ団体作業は、はためにはどんなに過酷に見えようと、その作業に夢中になっている本人にとっては自己の信頼する触覚の世界のなかで動いているかぎり、そこには物と人間の積極的意志との均衡状態から生まれる自然的一体感があり、感傷的気分から見るほどの辛さはないのである。そして、そのときの精神も肉体的限界を脅かすものでないかぎり、また他人や機械の強制でない限り、あくまでも自由な意志であれば、純粋で透明なのである。だからもし、そういう精神状態において、事故によって重いコンクリート版が体にのしかかりその肉体的限界をはるかに超えた重みに耐えかねて圧死するとき、その透明な一体感から直ちに死へと直行するので、案外諦めもつき、それほど苦痛も感じないのかもしれない。 清二にとって奥山や国沢のような人間がいなくなった今、ある意味で本当に気楽な世界であった。親方たちの動物的な苛立ちや怒鳴り声がさえなかったら、これからもやっていけそうな気がした。しかしそれも清二が未熟でまだ親方たちに信頼されていないから起こることで、これからはそういうことも少なくなっていくに違いないと思わざるを得なかった。 十月も末のある日。仕事からの帰り、車を運転する三好はいつもの帰り道と違う、すし遠回りになる道を進めた。そしてしばらくのあいだ住宅街の狭い道を走らせた。そしてある古い家の前に来ると、急に徐行させながら言った。 「やっぱり誰もいないな」 「夏に出てくるというので、その前に家族は皆アツシを怖がってどこかへ逃げたらしいからな、あういうことをやっちゃ、家族にも見放されるよ」 と助手席の石田が家の様子を覗き見ながら言った。 家族が離散した犯罪者の家の見学であった。 夕闇が迫るなか、玄関のとは開けっ放しにされ人の気配はなく、庭の草も伸び放題でどことなく荒れ果てた感じであった。あの利巧そうなシェパード犬も見当たらなかった。三日前のことである。アツシがシェパード犬をけしかけ、新聞配達人を襲わせたということであった。原因は新聞を入れるように何度も頼んでも、いっこうに入れようとしないことに腹を立てたらしかった。幸い怪我は軽かったようだが、アツシは逮捕された。彼の狂気じみた行動はただちに新聞に取り上げられ、事件に翌日には朝からその話題でもちきりだった。 アツシの家の前を通り過ぎると車は元のスピードに戻った。石田が言った。 「十日ぐらい前、あいつ一人でわめいてんの、オレや他の客、相手かまわず悪態ついてんの、なんせ荒れると手がつけられないからな、誰にも相手されないんだよな」 「小学校のころは大人しくって目立たない子供だったんだって、それが中学校の頃から急におかしくなったんだって、、、」 「そうだろうな、アイツ一人だけだよな変なのは、他の兄弟は頭もよくて皆シッカリしているからな、、、、」 「妹がいるんだよな、また肩身の狭い思いをしているんだろうな」 「今なにしてるんだろう?」 「どっかで事務員してるそうだよ。でもこれじゃ帰ってこれる訳ないよな」 どうやら三好はその妹ことが特別に気になるらしかった。 日も暮れて、清二が宿舎に着いた車から降りて路地に入ろうとしたとき、そこから十メートルほど離れた薄暗い道の端に、どことなく落ち着かない不審な人影が眼についた。よく見るとそれは洋子の夫高志であった。どうやら清二が帰ってくるのを待っていたようであった。 清二は急いで作業服を着替えると、ふたたび高志のところに戻った。そして申し合わせたわけでもないのに二人は自然と表通りに方へ歩き出した。清二が先に話しかけた。 「歩いてきたんですか?」 「ええ、ボクは免許持ってないんですよ。どうも好きになれないんですよ。運転できるからってそれほどいいことはないんですからね。考えようによっては悪いことばかりですよ。歩くのはイヤですか?」 「いや、そんなことないです」 「このあいだ来てくれたんですか?」 「ああ、いきました。でも出かけているみたいでしたね」 「ええ、まあ。洋子が君が来るってことを話してくれればよかったんですけど、何にも話してくれなかったもんですから。それで、洋子は何か言いましたか?」 「ええ、何をですか?」 「ボクのことですよ、、、、君にはいろいろと話すんでしょう、、、」 「いろいろといっても、田舎のことぐらいですよ。そういえば、どことなくあなたのこと心配そうでした」 「やっぱりね、それでこのあいだ君が様子を見に来たんですか? いや、ほんとはこんなこと言っちゃいけないんだ。心配かけている原因はすべてボクにあるんだから。自分でも情けないなあって、、、そうだどっかに入りましょう」 二人は喫茶店に入った。そこは広々として客も少なくゆっくりと話し合えるような場所だった。 高志はこのあいだのように頭をきちんと整髪していなくむしろぼさぼさ気味で顔も照明の成果それほど青白く感じなかった。だが何かにせきたてられているような不安そうな感じは変らなかった。それにメガネをかけていなくても、視線を長くあわせることが苦痛そうな内向的な感じは変らなかった。 清二は窓ガラスに映った自分の顔が気になった。色白で端整な顔立ちの高志に比べて日に焼けて浅黒い顔の皮膚が疲労でたるみ、眠そうな眼をしたしまりのない表情はいかにも労務者風で野卑な感じさえあった。清二は角度を変えたり手でなでたりしながら窓ガラスに映った自分の顔を見ていると、高志が話しかけてきた。 「どうしたんですか?」 「いやね、自分ではもっとましな顔をしてると思っていたんだけど、こりゃあ本当に労務者の顔だね」 「寒くなってきましたからね。これからはどんどん寒くなるから、外での仕事は大変でしょうね」 「じっとしてるなら大変だろうけど、体を動かしているからどうにかなるでしょう」 「実はこのあいだのことなんだけど、せっかく来てくれたのになんか君を責めるようないやみなことばかりいって、怒らせて帰したんじゃないかって気にかかってね。ボクは自分のことだけしゃべって、君のいうことを聞かなかったみたいだからね。なんかつまらないことを一方的にいって君を退屈させたみたいで、でも君には言い易い雰囲気があったんだよね」 「あのときは本当にもう寝なくっちゃなあって思っていたんですよ。怒って帰ったんじゃないです。それにそれほど退屈でもなかったです。なんか疲れが出てうまく頭がまわらなくて何も言えなかったんですよ」 「そうでしょうね。君はそんなことで怒るように人には見えませんからね。あのとき君はほとんどしゃべらなかったけど、でも最後に凄いこといいましたよ、普通なら「人はパンのみに生きるにあらず」なんて言うんたけど、君の場合は確か、『パンの作りかたを知らない人間の話しは信じない』とか、『信用できない』とか、あのときはずいぶんきつい捨て台詞だと思いましたよ」 「そんなに凄いことを言ったとは思わないけど、確かそのようなことをいったような気がします。でも単なる思い付きですから」 「君にとっては思い付きかもしれないけど、ボクにはとても気にかかりましたよ。はっきりいって、打ちのめされたような。あれはこういう意味なんでしょう。社会というものは本当は食料や物を直接生産している人々で成り立っていると云う、たとえなんでしょう。それはそうだと思いますよ。それを言われるとボクみたいな仕事をしている人は何もいえなくなりますよ。君たちから見れば何にも生産的なことはしていませんからね。そう思われても仕方がないですよ。だって現実に僕も有意義なことをしているとは思ってませんからね、ちょっと頭と口を使えばどうにかなりますからね。頭を使うといったって何にも創造的なもんじゃないですから」 「いや、困っちゃったな、ボクはそんな大げさなことをいったつもりはないんですよ。それに、たとえとして言ったんでもないです。パンを使ったのはたとえかも知れないけどパンでなくても何でもいいんです。トマトでもキュウリでも家具でも、実際に自分の手で物を作る人のことをいったんですよ。そういう人たちの言うことは素直に受けされるんですけど、そうじゃない人たちのいうことはもっともらしく聞こえますけど、しょせん頭のなかだけのことのような気がして、何となく真面目に受け取れないということで、それほど深い意味はないんですよ。それに社会には物を作る人たちだけが大事だとは思っていませんよ。それ以外の人たちも社会にはどうしても必要だと思ってますよ。皆それぞれ自分の選んだ職業で自信や誇りや生きがいを持ってやっていることは立派だと思いますよ」 高志はそれまで何となく視線を避けがちであったが、清二の話しの途中から苦しそうな表情でうつむいてしまった。清二は決してえらそうな口振りでいったわけではなく、むしろ押さえ気味にときおり視線をはずしながら笑みを浮かべていったつもりであったが、彼を不安がらせたようだった。 洋子の言うとおり彼の不安そうで内向きな感じは最近になってからのような気がした。なぜなら彼がもともと内向きな性格であるなら、黙ってうつむいていることにむしろ安堵感が現れるはずだからだ。彼をオドオドした表情にさせているのは、彼のうちから沸き起こってくるものに対して、なにかが邪魔をしてそれをうまく出させないようにしているからのような気がした。 清二は最後のほうに、高志の自分を卑下するような不安そうな態度に、同情を寄せるような気持ちでいったのだが、高志はしばらくうつむいて黙っていた。そしてゆっくりと顔を上げながら独り言のように話し始めた。 「自分で選んだ、、、自信、、、生きがい、、、必要、、、僕も必要だと思いますよ。でも僕にとっては必要にでないかもしれない。それに他の仲間だって、自分で選んで、自信や生きがいを持ってやっているようには見えないね、、、、、でもこんなこと言うのはおかしいね。ボクが生きがいをもってないからって、他の者までそうだと決め付けるのは、、、、それじゃ君は、自分で選んで自信や生きがいを持ってやっているわけですか?」 「答えにくい質問ですね。自分で選んだのは確かだけど、自信と生きがいとなるとね。僕も正直言って自信がないですよ」 「洋子から聞いたんですが、君はかなり優秀だったそうで、今の仕事をやるような人じゃないって言ってたよ」 「それは跳んだ買いかぶりです。優秀だなんて、、そうあのころは鶴と亀でしたよ」 「月とすっぽんじゃなくて、鶴と亀です、面白いことをいいますね」 「そうです、あの人は鶴のように上空を美しく跳んでいました。それに比べてボクは、泥のなかを這いずりまわって見上げているだけでしたから」 「優秀じゃないと言うならそれはそれでいいですけど、でも今の君を見ているとどうしてもそうは見えません、君はすぐ話を茶化すような言い方をするけど、ボクにはちゃんとした考えを持ってやっているように見えますよ。それに意志の強さも感じますよ。だってう通なら人が敬遠するような仕事を自分から進んでやっているんですからね。今の仕事をやっているのは何か深い訳があるんでしょう」 「深い訳なんかないですよ。成り行きですよ。しいて言うなら働かないと生きていけないからです」 「でもそれなら、今のどっちかと言うと割に合わないしごとを選ばなくても、他にいっぱいあるでしょう。あえて今の仕事を選んだのには、それなりの経緯や考えがあったからだと思うんですよ」 「それはあると思います。こんな言い方をするとふざけているように見えるかもしれませんが、決してそうじゃないですよ。なにせ過去のことですから、何年ごろにどんな考えを持って行動していたとか、ハッキリしないんですよ。ただ若いころは明らかに、こういう仕事はよいとか悪いとかと批判的に見たり、自分に合っているとか合っていないとかと判断したりして、自分が心から納得いくような、つまり、なんていうのかな、やっていて疚しさを感じないと言うか、ようするに何をやっているのか分からないような変な仕事じゃないのだけを選んだことは確かですよ。何をやっているのか判らないような仕事は自分の行為に責任もてませんから。でもその結果、今の条件も環境も悪い、あなたに言わせれば、現代の奴隷みたいな、肉体労働をしているのは皮肉な話しかもしれませんね。でも今の仕事ははたから見れば、汗さ誇りにまみれた力ら仕事で、大変じゃないかと思うかもしれませんが、けっこう開放的で楽しいですよ。少し割に合わないところもあるけど、自分で納得しているからそれほど苦にはならないですよ。でもどんなに今の立場に理屈をつけようとも、結局は皆と同じで生きるためには働かなければならないと云うことなんでしょうね。だっていくら自分にあってないとか、心から納得が出来ないといって、選り好みをしようとしても、そういう仕事しかなかったら生きていくためにはイヤでも従わなければなりませんからね。あとそれから、あなたはさっき、ボクを褒めるようなことを言いましたけど、でも仲間のなかにボクをよく見てくれるものはあまりいませんよ。最初の頃はボロクソに怒鳴られたりしてね、酷いときにはバカ扱いをするものもいましたよ。このしまらない顔じゃね。それに仕事もできなかったもんだから仕方がないと思いますけど。とにかく仕事が出来なきゃ能無し扱いですから。あんな怒られ方すると悔しくて涙が出るほどへこむときがありましたよ。自分ではそんなに馬鹿だとも頭がいいとも思ってないんだけど、まあ、人がどう見ようと勝手ですけどね」 「まあ、そうでしょうけど、見る人はちゃんと見ていると思いますよ。でも君がそういうことをなりふりかまわずというか、気楽に話すのを見ていると、君はまだ正直に言ってないことがあるような気がするんですよ。と言うのもね、さっき君は生きがいとか自信とか持ってないような言い方をしたけど、僕にはどうしてもそうは見えないですよ。やっぱり生きることに自信を持っているように感じますよ」 「そうですかね、、、正直言って自分でもよく判らないてすよ。仕事のほうは最近やっと自分でもやれそうな気がしてきたけど、生きるとなるとね、、、、自信はあまりないですよ。ほんと、だって極端に言えば、明日はどうなるか判らないからね。今は仕事がいるけどちょっとして社会情勢の変化で、いつ仕事がなくなるとも限らないからね。そのときは何の保証もないから本当にオマンマのいく上げになっちゃうよ。まあ、そのように先のことを考えればちょっと心配になるけど、でも自分ひとりなら体が丈夫な限り、どうにかなると思いますよ。じゃ何十年後はどうなるんだということになりますけど、そのときはそのとき、そこまで先は考えないようにしているんです。あなたに言わせれば少し楽観的すぎるかもしれませんが。こんなもんですよボクの持っている自信と言うのは。あとそれからこのような仕事をしていると色んな人間が集まってくるんですよ。前にも話したけど、ほとんどが流れ者でそれもひと癖もふた癖もあるようなノン兵衛で、付き合いにくいものばかりなんですよ。三週間ぐらい前だったかな、変なのがいてね、まあそれ以前にもいたんだけど、そいつは酒を飲むと訳の判らないことで絡むんだよ。ちょっと暴力的な男でね。あのときは自分でもどうして良いか判らなかったよ。でも幸いにもその男は自分のほうからどこかに雲隠れしたから、何事もなく済んだけどね。はっきりいってあのときは本当に生きる自身を失いかけたよ。でもそれは自分の力で解決したわけじゃないから、これからもあんなことが起こらないとも限りませんよ。だから今は自信ありそうに見えるかもしれませんが、そのうちに自信喪失した今よりももっとしまらない顔を見れるかもしれませんよ」 清二は終始笑みを浮かべながらそう言ったが、高志は表情を崩さなかった。そして小首をかしげながら少し苛立ったように話しはじめた。 「ボクには君のそういうあっけらかんとした程度がどうも納得できない。まあ、それはそれでいいとして、ボクにはちょっと判らないことがあるんですよ。君はさっき、生きるためには働かなければならないって、それはみんな同じだと結論したけど、でも、そのなかには何か大事なことがかけているような気がするんだけど、つまり人は何のために生きるかってこと、どうですか、、、それほど変な質問じゃないでしょう。食うために生きるとか、働くために生きるとか言わないでくださいよ、、、、」 清二は思わず考え込むようにうつむいてしまった。しかしやや疲れているせいもあって、答えらしい答えは浮かんでこなかった。清二は答えを見い出そうと、過去に自分がどんな考えを持っていたか、記憶をたどってみたが、様ざまな考えや感じたことが同時に浮かんできて、ボォッとした頭では言葉で表現できるほどはっきりとした答えにはまとまらなかった。それにそれらは明らかに現在の気持ちや考えと違っていた。清二はしばらくのあいだ困惑した表情でうつむいていたが、なにかを思いついたように突然顔をあげて言った。 「今現在こうやって生きていることで、答えになりませんか?だめですか?つまり生きようとする衝動を感じているために生きるっていうのは、、、、」 「つまり欲望を感じるために生きるってことですか?」 「うぅん、そういう言い方をすればそうかもしれないけど、でもちょっと違うような気もします。それにその生きようとする衝動の前では、どんな理屈も屁理屈になるような気がするんですよ」 「君はずいぶんおかしなことをいう人ですね、欲望を感じるために生きるのですか、、、、ボクはどうしても納得が出来ませんね。それだと自分の欲望のままに生きるってことになりかねませんよ。かといって君が欲望の赴くままに生きているようにも見えないし、どうも僕には君と言うのがさっぱりわからなくなりましたよ。どうやら僕と君とは何か根本的に違うところがあるみたいです」 「そうですかね、そんなに違わないような気がしますけどね、、、、」 「もう出ましょうか」 店内はいつのまにかに客も増え、騒がしくなっていた。どうやら高志も騒々しさが苦手のようであった。清二は頷いて席を立った。 「きもちがいいね」 と外に出た高志が清二に声をかけるように言った。 その声には今までにないような快活さと生き生きとしてものが在った。確かに店内の生暖かいよどんだ空気に触れていたせいか、外の澄んだ空気はひんやりとして気持ちがよかった。 二人は目的を決めることなくゆっくりと歩き出した。 町の賑わいに包まれているとお互いに思うように話しが出来ないので清二は華やかな風景を楽しむかのように黙ったままのんびりと歩いていたが、高志はうつむき加減で、その表情には先ほどのよう陽気さはなく、いつのまにか急ぎ足になっていた。しばらくすると、街路樹の整った広い道ではあったが、商店街でないため人も車も時折通るだけの静かな通りに入った。だいたいの方角から言って高志のマンションに向かっているようであった。そしてふたたびゆっくりと歩くようになった高志が不快そうな表情をして言った。 「さっき見たでしょう、僕たちが喫茶店から出てくる前に入ってきて隣に座った連中を」 「ああ、若い男女ですか」 「違うよ、その後ろに座った黒っぽいスーツを着た男たちだよ」 「ああ、銀行員風の」 「違うね、彼らは銀行員じゃないよ、役人だよ。銀行員はもっとこせこせしているよ。あのシラッとした顔つきは役人だよ。それも上級のね。自分はいかにも頭がいいんだぞと云う風にさ、もっともらしく偉そうにしゃべっていたじゃない、ボクはどうもあう言うところがどうも気に入らないんだよね」 「自信過剰なところね」 「それもあるけど、自分ひとりではなんにも出来ない奴らさ、自分の考えではなく、上からの命令でしか仕事をしてないから、あんな顔になるんだよ。君だってあう云うタイプきらいじゃないの?」 「きらいじゃないけど、苦手なほうですね。関わりたくないと云うか、でも所詮すむ世界が違うから、、、、」 「あう云う主体性のない奴らがどんどん出世するんだよね。まったくイヤな奴らだよ」 「いっそのことあなたも偉そうにしてみたら?」 「僕にはできる訳ないじゃない、、、、」 怒ってようにそう言う高志は少し早足で歩き始めた。しばらくお互いに黙ったまま歩いたあと清二が弾むように言った。 「僕のことおかしいおかしいって言うけど、あなただっておかしいですよ。それに寡黙って聞いたけど、そうでもないじゃない、、、、」 清二より少し前を歩いていた高志はその言葉で振り返るとやや表情を曇らせながら言った。 「やっぱり聞いているんじゃない。洋子は他に何を言ったんですか?」 「、、、、、、」 「そりゃあ、最近あまりしゃべらなくなったのは確かです。それにはちゃんと原因があるんです。ボクのほうにね。相手が誰であろうと自分でもどうしようもないほどしゃべりたくないときがあるんです。なぜか判っているんです。でも気分のいいときはどんどんしゃべりますよ。今日はちょうど気分がよかったんです。他にどんなことを言いましたか? ボクが変だと言ったでしょう。そりゃあ変に見えるでしょうね。無理もないですよ。僕を病気だと思っているらしいんですよ。いま流行りのウツ病ってやつね。でもボクはそうじゃないですよ。自分でも判っているんですよ。それなのにボクを病院に行くようにすすめるんですよ。病院でいったい何が判ると言うんですか。僕の体は健康ですよ。あくまでも精神的なものなんですよ。他人にどうして僕の内面が判ると言うんですか、どうせ彼らは偉そうなこと言って、本から学んだ適当な病名をつけるだけですよ。時分でも原因が判っているのに、他人にこういうことで悩んでいますって言えるわけないでしょう。もしそれで解決するなら子供だましですよ。自己欺瞞ですよ。僕にちゃんと原因が判っているんです。言えないこともないですよ。でも人には言いたくないです。だって俗物に言ったって判るわけないですよ。それに他人にはまったく関係ない僕自身の精神的な問題ですからね。人間はそう云う問題は自分の力で解決しなければならないんですよ。ていうか自分自身でしか解決できないんですよ。自分のことは自分がいちばん知っているんですよ。君にはひどいと思えるかもしれないが、このあいだついに暴力を振るいましたよ。でもボクは自分を見失ってそうしたんじゃないですよ。そのときの気持ちを今でもはっきりと覚えていますわ。僕のことを思ってくれるために、そうなったんだから洋子にだって悪いと思ってますよ。そんなボクが病気なわけないでしょう。ボクは自分でもイヤになるほど自分のやることは何から何まで判っているときがあるんですよ」 いつのまにか先ほどの広い道から車も人影もない薄暗い狭い道に入っていた。道の片側は住宅地であったが、その反対側は鉄柵が設けられた樹木の多い公園のような場所であった。高志はふたたび早足で歩きながらなげやりに言った。 「どうして皆あくせくするんだろうね。今の世のなか生きていたってろくなもんじゃないのにさ。毎日同じことの繰り返しじゃない。食って飲んで金のために働いて。どうせ人間は死ぬんだよ。それも独りで、いくら金があったって、家族がいたって、死ぬときは皆孤独なんだよ。生きることにどんなもっともらしい理由をつけたっていずれはみな死ぬんだよ。死んでしまえば何もないのさ。僕には判っているんだよ。生きているときだって人間はお互いに分かり合えないって、永遠に孤独なんだよ。現に君とボクがこうしていたって何にも理解しあっていないじゃない。君はボクの言うことが頭のなかだけのことと思っているんでしょう」 「いや、そうは思わない。だって頭のなかだけの人は、あなたのように、なんていうのかな、なにかを恐れているていうか、不安そうというか、そう云う言い方をしないからね」 と清二が何気なくそう言うと、高志は政治のほうを見ながら歩みをとめ急に興奮して話し始めた。 「えっ、ボクがいったい何を恐れていると言うんですか?ボクのいったいどこが不安そうなんですか?」 「、、、、いや、ただ何となく、思い付きですから、、、、」 「そうなんだ、君はいつも思いつきとか言ってごまかすんだから。君は本当は判っているのにわざと判らなそうな言い方をしてり、自信があるのになさそうな振りをしたり、そう云う上から見下ろすような態度はイヤミなんだよ。ボクはそう云うとぼけた人間を見るとイライラして来るんだよ。もう君なんかと話したくない、君なんか明日にでも仕事がなくなって野垂れ死にでもすればいいんだ、、、」 そう言って高志はふたたび早足で歩き出した。 「ボクはそんなつもりで、、、いったいどうしたの?」 と清二が後を追いながら言ったが、高志は無言で清二を振り切るように歩き続けた。 しばらくのあいだ五六メートルほどの距離を保って歩いていたが、高志が急に立ち止まって振り返ると落ち着きを取り戻した表情で言った。 「もういいよ。ここで別れましょう。気分が滅入って何も話したくないから、それじゃ、さようなら」 そう言い終わると高志はすばやく振り返ると、清二に背を向けて薄暗い道を早足で歩いていった。あまりにも突然なので清二は唖然として高志を見送った。しかしその行為に悪意はまったく感じられなかったせいか不快感は残らなかった。それよりも変なところに迷い込んだなと云う気持ちであった。 清二は今来た道を広い通りに向かって歩き始めた。そして同情的な気持ちで高志のこれまでの不可解な言動を思い起こした。 翌日の夕方。会社の事務所を出て帰りの車に乗り込むと、みんなはさっそく、酒好きの久保山を中心に、秋の夜長をいかに楽しむかなどと、楽しそうに話し始めた。しばらくして社長との打ち合わせで遅れた三好が乗り込んできた。 酒の楽しみ方はまったく違っていたが、同じ酒好きとしての久保山が、和やかな雰囲気に乗じて 「ヨシさん、今夜もお楽しみなんでしょう」 とにこやかな表情で三好にカマをかけた。しかし三好は余裕のない表情で答えた。 「今夜は飲んでられないんだよな。ヤッタ奴を探さなければならないんだよ。あれは階段から落ちたんじゃないよ。誰かにやられたんだよ。まず夕べ、どこで、誰と飲んでいたか、調べないとな、、、、」 その言い方には兄貴分がやられたので、復讐に燃える弟分のような意気込みがあった。車のなかはいっきょに沈んだ雰囲気になった。 「鈴木、石田さんが夕べどこで飲んでいたか知らないか?」 「いや、夕べはは会わなかった。いったい誰だろう」 と鈴木はやや憤慨しながら言った。 昨夜石田は闇討ちにあったらしく、三好はその犯人を探し出そうと云うのである。 今日石田は仕事を休んだ。 また例の二日酔いでズル休みをしたのだろうと、ほとんど者は思っていたが、どうやら違うようだった。 三好が朝迎えに云ったとき、石田本人は酔っ払って階段から落ちたと言ったそうだが、三好はそうは見ていないようだった。顔を腫らし布団からもおき出せない状態からすると、どうも闇討ちにあったことは確からしかった。 三好は犯人を捕まえて仕返しをしてやろうという意気込みであったが、それが余所者の仕業なのか、日頃から快く思っていない飲み屋の常連客の仕業なのかまったく見当がついてないようだった。それに彼の意気込みが自分の忠義立てを部下に見せるためのものなのか、それとも縄張り内での単なる掟破りを生かしておけないと云うものなのかは定かではなかった。 同じ界隈を飲み歩いている仲間としての鈴木は、いちおう憤慨して同調的な態度をしてしたが、他の者の反応は冷ややかであった。というのも清二たちにとっては別世界の出来事でもあり、また石田のような気性であのようにスカして歩いていたら、いつかはそういう目に会うだろうと予感していたからである。 宿舎に帰ってしばらくすると、久保山が清二の部屋にやってきた。鈴木がどこにいったか知らないかということであった。久保山に促されるようにして外を見ると、鈴木の別れた妻が二人の子供を連れてきていた。久保山と話しているあいだ清二は、暗闇でもじっと自分を見つめる彼女の視線が気になった。薄暗いところにたたずんでいる姿には、いたいけな子供をつれわざわざ遠くから訊ねてきたんだと思わせるものがあり、以前から何となく眼を合わせることに苦痛を感じていた清二にとっては、なぜか憐れみを求めるような視線に感じられて意識的に見ないようにしていた。 三日前が給料日だったので、どうやら生活費を受け取るために来たようであった。 ![]() ![]() |