ブランコの下の水溜り(17部)

に戻る   

          はだい悠








 しかし清二はどんなに腹が立っても黒塚に対して何も言うことが出来なかった。それは彼の暴力的な性格を恐れているからではなかった。もちろん何かを言えば暴力沙汰になるに違いなく、彼は相変わらず面と向かって挑発的な言動をとらなかっただけでなく、彼の横柄な言動はいつも彼の優位性のもとで行われ、その内容も客観的に見たら、何も腹を立てるほどのことではないと思わせるような、奇妙な合理性があったからである。しかし彼の性格の二重性や卑劣さはどうしても容認することは出来なかった。そのうちに清二は彼の顔を見るだけで反射的に不愉快な気持ちになるようになった。そして彼が何を言おうとも仕事以外のことは徹底的に無視するようになり人間的親密さをもって接しないようになった。
 しかし清二がいくら彼の言動を無視しようとしても、それが意識的であるがゆえに限界があった。清二が彼が眼の前に居るときは、彼の眼を高ぶった眼として、彼の言い方をとげとげしいものとして、彼の爬虫類のような顔つきを憎憎しげなものとして感じない訳にはいかなかった。それに、彼は自分の言動が、清二に影響を与えていることを、本能的に信じていたので、清二からの一方的な無視はまったく成立せず、清二の心は彼の言動に呪縛されることから、逃れることは出来なくなっていたのである。だから清二は、彼がどんな言動を取ろうともいちおう平静さを装ってはいたが、内心はいつも彼に対する嫌悪と腹立たしさでいっぱいだった。
清二にとって黒塚はとにかく不可解であった。
 と云うのも清二かこれほど彼に対して心を開かないで冷ややかな態度をといっているのに、彼はそのことをまったく気にしていないようであった。傍でいっしょに働いていながら人間的親しみを出さないことは苦痛なことである。なぜならそれは自然な感情の流れに逆らうことだからである。だから心を開かないようにするには無理にでも、人間を忌み嫌う感情を抱いて接しなければならなかった。しかし心の奥底にいつもそのような感情を満たしていることは性格がゆがんで行きそうでイヤなものであった。 しかし彼はまったく平気なようであった。もし彼がそう云う状態をなんとも思わないのでなら、彼は内面が荒廃している利己的な人間と云うことになる。
 清二は黒塚を見ていると生きることはそれほどむずかしいことではないような気がした。と云うのも彼ようにどんなに周りのものから無視され忌み嫌われようとも、本人がそれほど気にかけないほど内面が荒廃していて利己的であるならば、他者に直接肉体的物理的な害を与えない限りどうにか生命を維持することができるからである。なぜなら彼の卑劣さや狡猾さをどんなに忌み嫌おうとも、眼前に言葉を話す肉体として現れるかぎり、どうしてもその存在を無視することは出来ないからである。それに、彼がどんなに横柄に脅迫的に振舞おうとも、彼が作業の合理性のなかに収まっているかぎり、どうしても彼をひとりの作業者として扱わざるを得ないからである。しかも清二は生きることを簡単にするために、彼のように他者との内面的共感になんら喜びを見い出せないような人間なろうとは思わなかった。また成れそうにもなれなかった。だから彼前にしての清二に出来ることは、彼に付け込まれないように、冷ややかな態度でのぞみながらも、自分を害しないように、彼に対する否定的な感情をどうにか制御しながら彼の心理的圧力にただひたすら耐えるだけだった。それに彼の陰口やデマに振りまわされないように、清二と同じように彼を忌み嫌っている鈴木や、彼に反感を抱いているほかの作業員と友情を深めることであった。
 十二月も半ばを過ぎると、夕暮れも一段と早くなった。暗くなるとまったく仕事が出来なくなるので、作業も五時までにはきちんと終わる毎日が続いていた。


 帰りの車が、どうにかすれ違えるほどの狭い通りに入った。そこは夕暮れ時の渋滞を避けて、いつも帰り道として選ぶ通りであった。
 両側が様ざまな商店が立ち並び、人通りも激しく、華やかな雰囲気に溢れており、舗道を歩く若い女性たち見物しながら走るのが習慣になっていた。少し遠回りではあったが、退屈な渋滞に巻き込まれてイライラするよりもいいことであった。少なくても女に露骨な関心を示す運転手の三好にとっては、かりに渋滞がなくても通りたいに違いなかった。
 反対側から夕方のあわただしい町並に、女性の甲高い声をスピーカーから響かせながら、選挙運動の車がやってきた。三好は急いで窓を開け満面の笑みを浮かべながら手を振った。どんな女性運動員が乗っているか見るためである。向こうも手を振られては無視するわけにはいかず、にこやかな笑みを浮かべて愛想を振りまいた。車がすれ違う一瞬の交歓では会ったが三好にとっては、この上なく楽しいことのようであった。隣に座っていた石田が言った。
「よし、またどさくさに紛れてただ酒を飲んでやるか」
「入れてくれるかな?」
「大丈夫だよ、当選すりゃあ、そんなこと言ってられないよ。支持者のような顔してさ、いっしょに万歳バンザイしてりゃあいいんだよ。前にオレに頼んだ男、今回は何も言ってこないんだよな、今度も当選すると思っているんだろうな、なにせ前はオレが入れなくても楽勝だったからな。でも新人も強力だっていう噂だからな、まあ、どっちみち当選したほうに行けばいいんだよ」
「、、、、頼まれても入れなかったのか、笑っちゃうな」
「そんな暇ないよ」
「、、、、国沢っていたろう、殺された。奴は××党の党員だって聞いたけど本当かな?」
「党員じゃないよ、党友とかいってたよ」
「そうだろうな、あんなのが党員だったら、××党もおしまいだな」
 からかうように話す二人の会話が耳に入ったようで、後ろの席に座ってた黒塚がニヤニヤしながら誰かに話しかけると云うのでもなく呟くように言った。
「党員の悪口を言っただけでもソ連では刑務所に入れられるんだってなあ、あそこには遊び人や浮浪者はいないっていう話じゃない。とにかく使い物にならない人間は皆シベリアへ送られるんだってよ」
 清二は知ったかぶりしやがってと思いながら聞いていた。しかしその真偽はともかくとして、彼のいうことは、もっともらしく聞こえ妙に訴えるものがあった。それに本も新聞も読まない人間がなぜこういう知識を持っているのか不思議であった。


 十二月の末のある日、忘年会が行われた。
 ちょうどこの日は給料日でもあった。宿舎で外出の準備をしているとき鈴木が給料明細を見ながら悔しそうに言った。
「なんだ、給料が下げられているよ。千円も、せっかく上がったと思っていたのになあ、こりゃあひどすぎるよ。こんなに下げられたんじゃ生活できなくなるよ。これはたぶん、給料下げた分今日の忘年会の費用にまわしたんだな。清ちゃんは下がってた?」
「よく見なかったけど、たぶん下がってないと思うよ」
「ひどいな、オレの分だけ下げたのか」
 鈴木は明らかに腹を立てていた。それは鈴木でなくても、なんの理由もなく給料を下げられれば誰だって腹を立てるに違いなかった。なぜなら給料の上げ下げに関してては、それがどんなにわずかな金額であっても、それによって自分の価値が決定されることになるから、敏感に反応するのである。まして日に千円となると、それは鈴木の言うとおりに生活に関わることであり、単なる腹立ちではすまなかったに違いなかった。
 清二は最初は信じられなかった。と云うのも従業員が社長にどんなに不満を持っていようとも、少しでも給料を上げてやれば、それはどうにか解消するものであった。
 それはまた、社長が口先でどんなにいいことを言ったり、いっしょに飲んだりするよりも、給料を上げてやることのほうが、強い信頼関係を気づくことが出来るのであるから、社長自らが、従業員の操縦手段や信頼関係を気づく手段を放棄して、あえて不満や不信を招くようなことをやるとは思えなかったからである。それに忘年会の費用を捻出するために、わざわざ鈴木の給料を下げるほど、社長がけち臭い人間には思えなかったからである。しかし忘年会費用のためかはどうかは別として、鈴木の給料が下がったのは本当だった。ただし鈴木の場合、理由が考えられなくもなかった。と云うのも十二月に入って鈴木が休みがちになったからである。それで社長が怒って給料を下げたとも思えなくもなかった。しかし仮にそうだったとしても勝手に下げるの少し横暴のような気がした。清二は社長に不信感を覚えながら暗鬱な気持ちになった。そして鈴木に同情するように声をあらげて言った。
「いったい従業員をなんだと思っているんだろうね。こき使うだけこき使って、まるで独裁者じゃないか。めちゃくちゃだよ。もしかしら加藤さんも給料下げられて辞めていったんじゃないの?」
「そうかもしれないな、、、、でも社長にはいいとこもあるよ、仕事には厳しいけど、、、、いっしょに呑むときは、仕事のことを忘れて、友だちのように付き合うからね、、、、、」
 清二の同情で腹立ちも収まったのか鈴木は落ち着きを取り戻してそう言った。 しかし清二は彼の社長をかばうような言い方にはどうしても承服が出来なかった。。確かに、社長は飲み屋では権威をひけらかすようなことはなく、気前よく振舞っているようであった。しかしそれと自分の価値が決定される給料のこととは、本質的に別問題である。鈴木がそれ以上何も言わなかったが、清二の頭からは社長に対する不信感は消えなかった。もし自分が何の理由もなく給料を下げられたらおそらく辞めるだろうと思った。


 忘年会は繁華街の料理屋で行われた。みんな日頃の不満や労苦を忘れたかのように楽しそうな笑みを浮かべながら会は進んでいった。黒塚でさえ、最初はややかしこまってはいたが、そのうちに満足げな笑みを浮かべるようになった。ただで飲んで食えるとなれば、楽しくないはずはなかった。清二にとって黒塚と酒席を同じにすることは不快なことではあったが、幸運にも彼とは席が離れていた、それに社長も同席していたので、普段のように調子に乗って喋り捲ることもなく、人が変ったように大人しかったので、彼の存在を気にすることなく楽しむことが出来た。日頃から忌み嫌っていた鈴木や少なくとも不快感を抱いていた他の者も楽しい酒席とあってか、彼を特別扱いしているようには見えなかった。
 料理も食べつくしみんなの酔いもまわり和やかな雰囲気で終わりかけようとしていたとき、突然黒塚の脅迫的な声が高々と響いた。
「何だと、オレを誰だと思っている。オレはなお宅そんなことを言われる人間じゃないんだ。その辺の半端もんとちょっと違うんだぞ」
 それは黒塚の横隣に座っていた村岡と云う男に向かって発せられたものであった。そのカマキリのようなアゴを上げ高ぶった目つきで村岡を睨みつけながら、声を荒げて話しかけている黒塚の態度は、紛れもなく村岡を威嚇しているものであった。その興奮振りからして黒塚はここはどこであるか、周りに誰がいるかを忘れているかのようであった。
 村岡は十一月ごろに入ってきた四十過ぎの温厚そうな男だった。ほとんどしゃべらずいつもニコニコして怒りや憎しみとは無縁そうな、黒塚のように裏表のない大人しい人間であった。仕事に対してはそれほど積極的ではなかったが命令を素直に聞くので黒塚よりもはるかに扱いやすかった。結婚していて子供もいると云うことであったが、彼の詳しい話しによると逃げられたということであった。彼がそれ以上話そうとはしなかったので、その理由を清二は知ることができなかった。真面目そうで酒乱でもなさそうなので、どうしてそうなったのか不可解であった。ここに来る前は自動車の整備工をやっていたと云う、倒産したのでそこを辞めたのか、それとも何か不始末をしでかしていずらくなってやめたのか、彼が何も言わなかったので知ることはできなかった。
 村岡は最初黒塚に何を言われても黙ってうつむいていたが、そのうち
「ようし、表に出ろ」
と叫びながら黒塚の方を突いて立ち上がった。
 直接威嚇されたのでさすがの村岡も腹にすえかねたのであろう。今まで黒塚は決して面と向かって相手を威嚇するようなことはしなかったのであるが、酔っていたこともあり、それに村岡の日頃の大人しそうな言動からして、まさか手向かっては来ないだろうと、無意識的な侮りの気持ちからそうしたに違いなかった。
 少し遅れて立ち上がった黒塚に村岡は
「文句あるなら表に出ろ」
と叫びながら黒塚の方を激しく突いた。村岡は完全に自暴自棄になっていた。肩をつかれてよろめいた黒塚の腕をつかんで村岡が外に引きずり出そうとしたとき、久保山と鈴木があいだに入った。あまりにも予想外のことだったので清二はあっけにとられてみていた。村岡が制止も聞かずなおもつかみかかろうとするので、社長が大声で言った。
「村岡我慢しろ、ほら早く引き離せよ」
 三人がかりでどうにか村岡を押しとどめることができた。そして村岡の剣幕にけおされて、少しうろたえ気味の黒塚に向かって社長が凄みのある声で怒鳴った。
「黒塚、そんなことやっていると、つぶすぞ」
 清二は、つぶすぞと云う言葉の意味が、おまえを抹殺するぞと云う意味なのか、それとも、この楽しい雰囲気の宴会を台無しにしてしまうぞ、と云う意味なのか判らなかった。ただそこには、ひと筋縄ではいかない荒くれどもを統率するヤクザの親分のような威厳と迫力があった。そのあまりの迫力に度肝を抜かれたのか、黒塚は先ほどまでの威嚇的な態度を忘れたかのように急にかしこまりだした。脅迫に耐え切れずに最初に手を出したのは村岡であったが、挑発したのは黒塚であったので場の雰囲気としては、まぎれもなく村岡に同情的だった。社長が黒塚を怒鳴ったのも、そのことを見抜いた上でのことのようだった。もちろん清二は最初に手を出そうが出すまいが村岡に味方するつもりであった。と云うのも、もしあのように脅迫されたら自分も同じようにやるだろうと思ったからである。
 後で村岡の隣に座っていた者から聞いたところによると、二人は仕事の話に入り、黒塚が独りよがりの不満をもらすので、村岡が
「いろいろ不満もあるだろうが、皆我慢してやっているんだから」
といったところ黒塚が急にいきり立ったということであった。
 二人は離されて外に出た。黒塚は久保山を相手に
「どうしてあんなことになったのか、自分でもよくわからない」
と神妙な顔つきで言っていた。それを聞いた若いジュンが
「とぼけやがって」
と掃き捨てるように行った。清二はそれがとぼけなのか本心なのか判らなかった。村岡は興奮が収まらないようであった。清二は彼の腕をとって歩きながらいった。
「あんなバカほっといて、飲みにいこう」
「ごちゃごちゃいうもんでな」
と村岡は滅入ったように顔をしかめて言った。
 村岡は自分のやったことをだいぶ気にしているようであった。
 黒塚は帰され残りのものは再び飲みに行った。
 二軒三軒と飲み歩いているうちに皆バラバラになりいつのまにか清二は鈴木と二人だけになっていた。
 黒塚が居なくなったあと、清二の関心ごとはいつ鈴木が酒乱に豹変するかだった。その変り際をじっくり見たいと思っていたのであったが、ここまでの鈴木は普段の話の判る人の良さそうな鈴木であった。清二は決して彼が酒乱に変ることを望んでいるわけではなかった。むしろ今の和やかな関係が続くことを臨んでいた。清二は、今は自分と居て何もシャクに触ることがないから彼は変らないのだろうと思った。
 歩道を歩く若い女に陽気に声をかけたりする鈴木をやや後にして、清二は繁華街を歩いた。しばらくすると突然後ろから凄みを効かした声で鈴木が清二に言った。 「おい、飲みに行くぞ」
 振りかえると先ほどまでの陽気な鈴木と違い酒乱にスイッチの入った鈴木が居た。目が座り正気の失った鈴木になっていた。清二は先が思いやられると思い帰ることにした。鈴木の声には凄みがあったが、ただをこねる子供のようなところもあったので゛、どうにかなだめてタクシーに乗せた。
 鈴木はタクシーの運転手にまで傲慢な態度でからみだしたので、仕方なく宿舎に着く前に表通りで降りた。
 ちょうどそこに石田や三好が通うスナックがあった。鈴木はなじみの店のように脇目をふらずに入っていった。清二も何気なく後からついていった。宿舎にも近く鈴木も知っている店のようであったので、大それたことは起きないだろうと思ったからである。

 店には痩身でやや勝気そうな顔をした三十過ぎの女主人と、これも三十過ぎでやや太目の女性客が居た。鈴木は女性客の隣に席を取った。そして知り合いであるかのように気安く話しかけた。そのオンナは場慣れた感じのする受け答えや、その大きな目に少しも感情の変化を表さない表情からして、したたかで男勝りな感じがした。まもなく鈴木は
「女の癖に、生意気言うな」
とか言ってその女に絡みだした。清二は、鈴木の知り合いかなと思っていたので黙って見ていた。
 その女は最初は無愛想にしていたが、鈴木の絡み方がしつこくなってくると
「何よ、あなたは私といったいどういう関係があるの」
といって不快感をあらわにした。どうも知り合いではなかったらしい。鈴木がなおもしつこく絡むので女主人が
「あなたのような人はもう来なくていいから、さっさと帰ってよ、でも、その前に、このあいだの分払ってよ」
と怒りの表情で言った。
 鈴木は女主人をにらみつけながら言った。
「いつの分だよ」
「今年の五月よ」
「そんなの知らないな、飲んだ覚えはないぞ、いい加減なこと言うとひっぱたくぞ」
「ちゃんと記録に残っているわよ」
「いくらだ」
「、、、二千六百円」
「何だ、それっぽっちか、帰るぞ」
といって鈴木は席を立ち外に出ようとした。それを見て女主人が叫ぶように言った。
「ちゃんと払ってから帰ってよ」
 鈴木は憮然として表情でポケットから財布を取り出すと、それをカウンターにたたきつけ、そのまま勢いよく外に出て行った。
   女主人は財布を調べた。だがなかには壱銭も入ってなかった。
「なんだ空っぽじゃない、人をバカにして、あう云うのは人間のくずね。あなた、あう言うのと付き合っているとろくなことないわよ」
「そうよ、あういうのと付き合っていると同じに見られるわよ」
 女たちは清二を思っていったのだろうが、清二は屈辱的なものを感じ素直に受け取ることが出来なかった。それは鈴木への友情のためでもあったし酒を飲まないときの彼を知っているからであった。
 二分ほどして再び鈴木が入ってきて席に座った。
「お金入ってないじゃない」
と女主人冷ややかに言いながら財布を鈴木の前に放り投げた。鈴木は財布を手に取りながら言った。
「そんなはずないよ、抜いたんじゃないの?」
 女主人はあきれ返ったような表情をして何にも答えなかった。鈴木はもうムチャクチャであった。そのとき一人の男の客が入ってきた。石田であった。石田は清二たちのほうにチラッと眼をやっただけで、清二たちと離れてカウンターの端のほうに座った。
 石田が入ってきたせいか、鈴木は何となく落ち着かない素振りを見せ始めた。そして先ほどまでのような威張った態度をとらなくなり、声を低めて話すようになった。しかし、しばらくして、鈴木は何を思ったか突然石田のほうを見ながら、聞こえよがしに言った。
「自分だけでいい思いをして、オレは給料下げられたんだぞ」
「それはお前が悪いんだよ。オレには関係ないだろう」
「何を偉そうなことを言って、、、、」
 石田は絡まれて黙っているような男ではないと判っていたので、清二は鈴木の方を見ながらやめるように目配せしたが、酔っている鈴木には判らなかったようだった。 「おい、いい加減にしないと、その服泥んこになるぞ」
と石田が言った。しかし石田の脅しも鈴木には効き目がなかった。鈴木はなおもブツブツとイヤミなことを挑発的に言い続けた。清二もあきれ返りもう勝手にしろという気持ちであった。恐れていたとおり、石田が席を立って鈴木のほうにやってきた。鈴木は石田に向かって
「何だよ」
といったが、その声には力がなかった。石田が胸倉をつかんで引っ立てようとすると、完全に逃げ腰である鈴木は、よわよわしく
「何すんだよ」
 と言いながら席からずり落ちた。勝負はすでに決まっていた。石田はなおも腕をつかんで引っ立てようとしたが、鈴木は怯えたように
「何すんだよ、止めろよ」
と言いながら、床に体を横たえたまま石田の手を振りほどこうとした。まさにトラと猫であった。女たちが
「止めなさいよ」
と言って止めに入ったが、清二はあまりにも惨めで情けない姿をこれ以上見たくなかったので背を向けた。女たちといっしょになって止める気はしなかった。と云うのも鈴木の自業自得と思ったから、それにどんなに腹を立てても石田は戦意を喪失したものに暴行を加えるような男ではないと判っていたからである。鈴木の一連の言動には、とりつかれたように自分を苛められるほうへと持っていこうとするかのように、そして、それはまるで自分から進んで苛められることを望んでいるかのように見えた。
 腹の虫が収まったようでまもなく石田は席に戻った。鈴木はふてくされたように黙って出て行った。しばらくして石田が自分のやったことを弁解するように言った。
「誰だって怒るだろう。あんなこと言われたら」
「うん、まあ、酒乱ですから、弱いくせに喧嘩売るんですから、ほんとに困ったもんですよ。ここに来る前も絡んでどうしようもなかったんですから、、、、」
 何事もなく済んだが、石田はやや後味が悪かったようだ。
 その女性客は強いものが好きなようで石田のとなりに座って飲むようになった。清二は今部屋に帰っても鈴木の荒れる姿を見るだけだと思ったので、もうしばらくいることにした。その女性客は女らしい話し方をするようになっていた。和やかや雰囲気になったころ、石田が清二に帰るように言った。どうやら石田はその女性客を狙っているようで、そのためには清二が邪魔なようであった。
 清二は鈴木はもう眠ったろうと思い帰ることにした。
 部屋に帰ったが鈴木の姿はなかった。
 ベッドに入って十分ほどすると、ドアを乱暴に閉めたりストーブを蹴ったりして鈴木がかえってきた。だいぶ苛立っているようであった。鈴木はベッドに入っても、厳格に苛まれるようになにやらブツブツ言ったり、うなり声を上げたりしてなかなか眠ろうとしなかった。清二は彼が眠るまで眠った振りをしていた。


 翌日。目覚めると鈴木は普段の人の良さそうな鈴木に戻っていた。昨夜のことはまったく覚えていないようだった。


 午後、清二は高志のマンションに出かけた。昨日高志から会社に電話があったのである。洋子が実家に帰って居ないから遊びに来ないかということであったが、清二は今日は忘年会があるから明日行くと約束したのだった。


 ドアが開けられ、パジャマの上にセーターを着込んだ高志が出迎えた。
 居間ではなくその隣の六畳ほどの部屋に通された。高志専用の部屋のようであった。最近になって使い始めたように机と本棚と、壁には大自然の風景のカレンダーが掛けてあるだけだった。
 絨毯の上には布団が敷かれたままになっていた。本棚には学生時代に読んだと思われる専門書や科学書、それに小説や哲学書など、あらゆるジャンルの本が並べられてあった。机の上は丸められた紙くずがあったり、本が積み重ねられていたりして乱雑な感じであった。高志は布団の上に腰を下ろした。髭もそらず伸び放題であった。顔色はよく気分はよさそうであった。高志が布団の上で座りなおしながら話し始めた。
「実はこれ万年床なんだよ。洋子にはだらしなく見えるだろうけど、ボクにとってはいいことなんだよ。これだと好きなときに起きて好きなときに眠れるから、不眠症に悩まされることもないんだよ。それに洋子に余計な心配をかけなくても済むしさ。せっかく部屋があるんだから有効に使わないとね。ここに居ると雑音は入ってこないしまったく自由気ままでいいよ。独り者の君に影響を受けたかな、、、、」
 高志には清二が始めてあったときのように生き生きとしてものが感じられた。高志は言葉を続けた。
「、、、、ボクは、年があけたら退職届をだすんだよ。これでイヤな奴ともおさらばだ。ほんと言うとこのあいだまで迷っていたんだよ。未練があってどうしても踏ん切りがつかなかった。でもこのままだと、ボクはダメになることは眼に見えていたから、キッパリと決断したんだ。やっぱりボクは君の影響を受けているんだよ。というのもこのままだとボクはダメになると判っていても、いざ止めたらどうなるんだろうと、ちょっぴり不安があったんだ。でも君のようにたくましく生きている人間を見ると、どうにかなるもんだとなんか勇気付けられてね。それで決断することが出来たんだよ。これで僕も自由気ままに生きられる訳だ」
「あのう、別には、ボクはたくましくも自由気ままにも生きていないよ。ただ前にも言ったけど、自分に合っているっていうか、なるべく自分に無理のない、疲れない生き方をしているだけだよ」
「そう、そうなんだよね、ボクも何も、自分の神経をすり減らしてまで、イヤなことをやることはないって気づいたんだよね。ボクも君と同じたよ。まあこれで地位とか名誉とかは捨てなければならないけどね。でも自分の自由には代えがたいからね。当然君は賛成してくれるよね、、、、」
「うん、まあ、そうだね、とにかく、、、、」
「どうしたの、ハッキリしないね、賛成じゃないの?」
「いや、賛成だよ、自分で納得して決めたことなんだから、後はもう、何をやろうと自分の責任だから。自分がやることに責任がもてるってことは、すごく良いことだから、まあ、とにかく何をやろうと自分に合ったいき方をすることが大事だから」
「うん、そうなんだ、何をやろうとね。でも心配には及ばないよ。ボクはもうとっくに何をやるか決めているからね。このあいだ学生時代の友たちが来たときは、言わなかったんだけど本当は決めていたんだ。だって奴らに言うと、きみには無謀だとか、大変だっていうに決まっているからね。僕はね、自分が物書きに向いていると思っているんだよ。小説家とか詩人、ふん、むしろ詩人かな、SF作家でもいい、でも流行作家にはなりたくない。うまく行けば金にはなるだろけど、でも目先のことにとらわれ俗物に迎合して金をもうけようとは思わないよ。 だってそう云う人間は十年もたてば時代が変って忘れられてしまうよ。それに物を書くのは金のためじゃない、金のために才能を切り売りしたくないよ。ボクは人がなんと言おうと、自分がなっとくしたものを書きたいんだよ。目先のことにとらわれない、もっと普遍的な、時代を超えたといったほうがいいかな、そう云うものを書きたいんだよ。決して金とか名声のためじゃないんだ。だってそう云うものはあくまでも結果だからね。ボクは現代の風潮にうんざりしているんだよ。誰だってそう思っているに違いないんだろうけど、君だってそう思っているよね。ただなぜかあんまり言わないんだよね。みんな何となく格好悪いと思って、たぶん本音を言わないんだろうね。もうボクも言わないよ。言うとボクも目先のことにこだわっていることになるからね。つまらないことは無視することにするよ。よく人が、二十一世紀の未来に向けてとか言うじゃない、でもそれは未来でもなんでもないよ。目先のことを言っているだけだよ。あれほど現代的なものはないよ。だって、二十一世紀を現代の単なる延長としか考えていないからね。本当に未来のことを考えるなら、二十二世紀や二十三世紀、いやもっと先のことを考えないといけないんだよね。何千年、何万年先の人類はどうなっているとか、どんな生き方をしているようになっているとかね。そう云うところに人間の普遍的な問題があるので、そうしないと本当に時代を超えた考えは生まれてこないと思うよ、それに未来のことだっていえないと思うよ、、、、、まあ、こういうわけだからボクがやろうとすることは、君のように直接社会には役立たないだろうけど、でも長い目で見れば人類にやくにたつようなことをしたいんだよ。でも金とか名声とかを目的にしなければどうにかなると思うんだ。こうやって部屋に居てさ、目先のつまらないことに惑わされないで人類の未来を見据えながら、そう云う仕事が出来たら本当にいいだろうね。外に出てイヤな奴らと付き合ったり、くだらないことに関わったりすることなく、気の会うものたちだけと友だち付き合いしてさ、何にも煩わされることもなく、何にも縛られることもなく自由気ままに暮らしていけたらどんなにか気楽でいいだろうね。まあ贅沢は出来ないだろうけどね、でも人並みの生活が出来ればボクはいいと思っているから、なんてったって自分の自由には変えがたいからね。それに、、、、、」
 高志の話は終わらなかった。高志は布団に上に仰向けになり興奮気味に話し続けた。その表情には作家としてうまく行くかどうかの不安は少しもなかった。清二は決して生易しいことではないような気がした。しかし彼が本当に自分のやりたいものを、そして自分に合ったものを見つけたやろうとしていることは、とてもいいことだと思った。たとえ前途多難であっても、それによって彼が初めて会ったときのように、再び生きることへの積極的な姿勢を見せ始めるようになったからである。おそらくこれで今まで彼を苦しめていた憂鬱症からも解放されるに違いないと思った。
高志は話が途切れたので
「ああ、そうだ」
と言いながら起き上がると、机の上から一枚の紙切れを持って着て清二に渡した。
「このパズル暇つぶしにやってみて、立て、横、斜めの数の合計が皆同じようにするんだよ。」
 それは一から二十五までの数字を、経て、横、五つずつ合計二十五の升目に入れて、縦、横、斜めの数の合計がみな同じにするものであった。清二は意気込んで取り組んだがなかなかできそうになかった。
「ほんとに出来んのかよ」
「できるよ」
「止めた、何時間かけてもできそうにない。これ一から九までじゃだめ?」
「それでもいいよ」
「うん、これなら出来そうだよ、、、、ああ、どうしても、斜めの合計が合わないよ、、、、、、あっ、やっとできた。合ったよ。これくらいならできるけど、さっきのはほんとに出来るの?」
「こうだよ」
「、、、、、、あっ、合ってる。斜めも合ってる」
「一から四十九までも出来るよ」
「えっ、気が遠くなりそうだよ」
「奇数の二乗の数ならいくらでも出来るよ。そりゃあ、ただ適当に思いつきで組み合わせていたら本当に気が遠くなるよ、いつまでたっても終わりはしないよ。法則があるんだよ。このあいだ新聞にこのパズル出てたんだよ。最初は君のようにやってたんだよ。でもどうしても出来なくてね、新聞にはできるって書いてあるし、それなら何か法則があるに違いないと思ってね。朝から夕方までかかってやっと見つけたよ。数学で"行列"って言うのがあるだろう、あれに似てるんだよ。ちょっと違うけどね。それだとどんな数字でも出来るんだよ。ただ偶数はだめだよ。なぜ偶数がだめのか、証明しようとしたけど、結局判らなかった。まあ、出来ないからできないんだろうということにしたけどね。
「へえ、頭がいいんだね」
「だめだよ、おだてたって、これがね、僕が始めて発見したのなら胸張って発表してもいいんだけど、だいぶ前に発見されいたことだろうからね。それに出題者だって知っていたに違いないからね。大して意義は無いんだよね。まあ、遊びだからね。別に役に立つことでもないし、、、、」











     
  に戻る