ブランコの下の水溜り(6部)

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          はだい悠








 清二は宿舎に帰る車に乗り込んでいたが、奥山と三郎がまだ事務所に居るので、 車はなかなか出発できなかった。
運転手の三好が苛立った。
「何やってんだよ、あいつらもたもたしてると置いて行くぞ」
「ちょっと待って、社長に用事があるみたいだよ」
と久保山がなだめるように言った。
 まもなく二人が乗り込んできた。手には封筒を持っていた。
 久保山が奥山に話しかけた。
「なに、やめるんだって、ふたりとも」
「うん、前借りができないんじゃ仕方がないよ」
「拙者に言ってくれたら少しぐらいまわしてやったのに。まあ短いあいだだったけど、縁があったらまたどこかで会おう」
 その封筒には今まで働いて分の給料が入ってるらしかった。清二は手首や腕のうずきを感じながら、じっと身動きもせず、眠った振りをしていた。
 宿舎に帰ると、二人はさっそく身のまわりの整理を始めた。その様子を見ていて清二、なんとも複雑な気持ちになった。しかし彼らと別れるときの跋の悪さや、また辞めて行く人間とこれ以上顔をつき合わしている必要もなく、それにそのときまでの煩わしさ思い、いっこくも早くこの場から逃げ出したい気持ちになっていた。清二はいつもより早く夕食のためになにげなく外に出た。


 清二が宿舎に戻ってきたとき、部屋にはいつものように電気がついていたので、二人がいないことを確かめるようにして恐る恐る入った。
 部屋は殺風景な感じを与えるくらい、綺麗に掃除され、きちんと片付けられていた。清二はえも言われる安堵感を覚え、いままで相当な心理的圧迫を受けていたことに気づいた。今晩から、自由に安心して眠れる楽しみを思うと、夢のようであった。しかしその反面、やめて行った二人のことを思うと、少し気の毒な気がした。
 彼らはまた、どこかで、ここと同じように、罵られあざけられたりしては、そのたびに虚勢を張ってみるのだが、結局自己の無力さを思い知らされるだけで、同じような挫折を何度もくりかえして、自分たちを受け入れてくれる会社を捜し求めながら、あっちこっちと流れていくに違いないと思った。また清二は、彼らが辞めることになった原因に多少自分も関係しているのではないかと思うと、もう少し妥協しておればよかったかなあ、後悔の気持ちが起こり、彼らに悪いことをしたなという気がしてきた。
 しかしそうは思っても、彼らが辞めたことは不可抗力のような気がした。なぜなら清二が権威や暴力的言動で彼らをやめさせたわけではいからである。奥山は、最初から、どんな先入見に捉われていたか判らないが、清二を気に入らないやつだと思っているように、つっけんどんな態度をとった。それに対しては清二も同じような態度でのぞむしかなかった。奥山にとって、自分のとった態度はあくまでも己の感性に忠実な行為であったに違いなく、また清二にとっても、それは自分の感性に忠実な反応であった。それは対等な場に居る人間同士のお互いに違う生き方や考え方の衝突なのである。だからどちらが正しいか間違っているかなどとは言えないのである。そのためにますますお互いが頑なになり、気に入らないやつだと思うようになり、気まずい雰囲気になっていったことは確かである。だからそれは清二が奥山を苛めて追い出したということにはならないのである。もし彼らが辞めなければ、逆に清二が辞めなければならなかったかもしれないのである。それに彼らが辞めたのは、仕事に対する彼らの精神的肉体的な面に問題があったのであって、清二との折り合いの悪さが直接の問題なのではないのである。
 だがあえて奥山の側に立ってかんがえれば、清二が、奥山が思っているような後輩として振舞わなかったということがあったかもしれない。つまり先住者としての彼を敬い、恐れ、彼の生活(つまり部屋のしきたり)にあわせて、起きたり寝たり、そして酒を付き合い、話を合わせては、先住者の権威を絶対と認めて、多少のわがままや横柄さに眼をつぶって彼の流儀に従わなかったことである。だが彼の流儀はあくまでも彼と同じような人間にだけ通用するのであって、同様に清二にも、自分なりの流儀や付き合い方があるので、どちらが優先されるべきなどとは誰にも言えないのである。これはまったく対立する二つの流儀の衝突なのであるから、清二の側に落ち度があったとは言えないのである。
 、だがもし仮に、奥山の威張り散らす態度に目をつぶり、敵意に満ちた無愛想な態度にも耐えながら、彼の望むように彼らの流儀に従ったとしよう、明日の仕事のことを考えずに夜遅くまで酒を飲みながら、とりとめのない話に付き合うとしよう、しかし彼に合わせるということは、彼のように詭弁を弄したり、虚勢を張ったり、自我をむき出しにして言い張ったりして、支離滅裂な世界を共有するということである。しかしそれでも結局は決裂するであろう。なぜなら彼と世界を同じにするということは、彼が現す不満や不機嫌や憎悪や怒りの感情に、清二も同じような感情でもって応えなければならないからである。それに彼の自己中心的な性格からして、彼は決して自分の世界しか認めないからである。そして彼の天邪鬼的な性格からみらるように、彼自身も絶えず自己と決裂しているから、いつまでたっても、到底どんな妥協もありえないのである。そのときに清二も、三郎のように自己を抹殺して盲目的に服従しない限り、帰って二人の関係は破滅的な結末を迎えなければならなくなるだろう。ようするに清二と奥山の対立は"永久に相容れない二つの世界の衝突"なのだ。どちらが正しいとは言えず、また、どちらにも言い分があるのだ。


 日曜日の朝、好きなだけ寝ていても誰にも文句は言われないのだが、習慣のせいか、清二は七時に目覚めた。意識に上ってくるのは、夢の印象ではなく、思うように動かない肉体だけだった。
 窓からは強い陽射しが差し込んでいた。清二はトイレにいったあと、入り口のドアを開けっ放しにして、もう一度眠った。 清二がふたたび眼が覚めたのは、夢のさなかであったが、それほど不快な印象を残さなかったので、目覚めと同時に忘れることが出来た。
顔 や上半身には汗がにじんでいた。低いトタン屋根のせいか室内の温度は温室のように高まっていたのである。時計は十時半をまわっていた。生ぬるい水道の水で汗を洗い流すと、ドアのところに行き、強い日差しでまぶしい外の様子に眼をやった。部屋の前の庭はまだ一度も手入れがされてないように、雑草も延び放題で空き地のように雑然としていた。周囲の家々はこの暑さにもかかわらず窓も締め切ったままで奇妙なほどひっそりとしていた。久保山の部屋はドアを締め切ったままで、部屋に居る気配はなかった。清二はふたたびベッドに戻り退屈そうに横になったが、室内の温度だけがどんどん上がっていく気配だけが感じられた。この暑さの中で町に出るのも億劫であったが、かといって一日中蒸し風呂のような部屋に居るのも耐えられそうになかった。清二は身支度を整えると外に出た。だがこれといった目的があるわけではなかった。


 狭い路地を挟んで接する隣家の女性とすれ違った。目に落ち着きのない痩せ犬を連れて、太めの体を引きずるようにして歩いていたその女は、清二に挨拶をした。その眼には怪しむ気配は微塵もなく、むしろ素朴な好意といったものが感じられ清二には意外であった。というのもあのように庭も荒れ放題のプレハブ住宅に住む人間は、得体の知れないやつらと、よく思われてはいないだろうと、清二が勝手に思っていたからである。
 十分ほど歩くと、駅を中心にして強大なビルが立ち並ぶこの町の繁華街があった。清二にとって人々で賑わう町の風景は久しぶりであった。
 日曜であっても人通りも烈しく、その賑やかさも普段と変らないものであったが、清二はなぜか、以前のような気後れをする感じとは違って、町の賑わいに冷静な気持ちで接することが出来た。
 以前は賑やかな雑踏を眼の前にするだけで、知らず知らずのうちに身構えるような圧迫感を覚えたものであったが、今日は楽な気持ちで、むしろ少し覚めた気持ちで歩くことが出来た。
 それはおそらく清二が今まで、町の印象的な華やかさまにだけ眼を奪われて気持ちの上で圧倒されていたからであった。また以前は歩いている人々のよそよそしい表情や、若い女性の眼を奪われる美しさだけが気になり、自分には入り込めそうにない世界なのだと、あたかも自分が余所者であるかのように勝手に思い込んでいたからである。だが今は少し多面的な眼を持ち始めていた所為からだろうか、それほど気にならなくっていた。
 いや、それよりむしろ、いま現在、精神的にも肉体的にも、どうにかこうにか自分の居場所が定まっているという、安心感と充実感がそうさせている最大の要因であったようだ。というのもそれまで清二ずっと無職で生活にも不自由していたからである。 しかし何の目的もなく歩いているということは、以前と変わりなかった。それに何かを楽しむという気持ちになれないことも以前と同じであった。

 歩きながら清二は、舗道の敷石やマンホールの取り付けが悪いのが気になった。陽に焼けた肌を誇るようにむき出しにした若い女性たちの姿も見苦しいものであった。ビルとビルの間の物置のように雑然として隙間や、その上の黒くすすけた排気口が眼に入ってきた。そこから吐き出される熱気を思うと気分が悪くなってきそうであった。当てもなくさ迷い歩いても、体は汗ばむだけで、だんだん雑踏も煩わしいものになってきた。信号待ちをしながら清二は、涼しさと展望のきく場所を捜し求めるように、強い日差しに照らされたビル群に眼をやった。

 しばらく歩いたあと、デパートにはいった。清二は三階の喫煙所まで上がるとそこに腰を下ろした。
 そこからはちょうど、おびただしい人々が駅からあらわれ、また消えていくのを見下ろすことが出来た。
 駅から出てきた人々はみなそれぞれの表情で繁華街へと散らばっていく。それらの人々を眺めながら目的もなくここにいる自分おもうと、清二は良い知れぬ孤独感を覚えた。しかし、彼らの表情のなかには、自分がうらやましがるような目的があるようには見えなかった。目的もなくここに居る自分と彼らを比較してもそれほど違いがあるようには見えなかった。むしろ、町の華やかな風景に眼を奪われることもなく淡々とした表情で歩いている大多数の人々のなかで、人ごみに居心地が悪そうに、ちょっとはにかむ自意識過剰な青年たちの姿が、ときおり眼につき気になった。なぜならそれは彼らと同じ年頃時の自分の姿と同じような気がしたからである。
 彼らはもうしばらくのあいだ、都会の喧騒と華やかな風景から、良い知れぬ圧迫を受けては戸惑い、またそこから生まれてくる幻想に惑わされては鬱屈した自分をもてあましながらその若さを浪費しなければならないだろうと、清二は思った。

 気分が回復したあと、清二はその場を離れたが、何かをするというわけでもなく、ふたたび雑踏のなかを当てもなくさ迷い歩くだけであった。その後清二は涼しさや空腹ために、パチンコ店、喫茶店、本屋と立ち寄ったあと、夕暮れ近くになって帰ってきた。だがただ暇つぶしのためにだけ出かけたような気がして何の充足感もなかった。
 しくなりかけた部屋のなかで仕事とは違う疲労感を覚えながらベッドに横たわっていると、今日の一日はまったくの徒労としか思えなかった。

 十時ごろ、清二が寝ようとしたとき、鈴木が興奮気味の表情で入ってきた。これから久保山の部屋でいっしょに飲もうということであった。鈴木はもうどこかで飲んできたらしく、呂律も怪しく、酔っ払い特有のしつこさで清二を誘った。清二は明日は早いからと何度も断っても、鈴木は駄々こねる子供のようになかなか諦めようとしなかったので清二は申し訳なさそうに丁寧に断ると、鈴木は少し不満そうな表情をしながらようやく出て行った。
"ミヨシ""カトウ""オヤジ"などと批判的に話す二人の会話を耳に品が清二は眠りについた。


 夜明け前に降り出した雨は、朝皆が事務所に集まってきたときにはいちおう止んでいた。それでも空には今にも振りだしそうに、アツイ雲が垂れ込めていた。おそらくまた振り出すだろうということで、K建設の現場は取りやめになり、清二は新しい現場に行くことになった。

 顔を隠すように額に手を当て、不機嫌そうにうつむいている社長の前で、従業員たちは戦々恐々として次の言葉を待った。重苦しい沈黙が続いたあと、社長は寝不足気味の顔を上げてボソボソと呟くようにいった。
「だれか鈴木を知らないか?家にいってもいないんだよ。あのやろう、いったいどこに逃げやがったんだ、、、、」
 その最後のほうはあきれたようにやや笑みを浮かべていたが、皆は黙ったまま応えなかった。
 鈴木は夕べ久保山の部屋で飲んだあと、そのままそこに泊り込んだのであった。そして雨も降りそうだということで、久保山を口止めしてズル休みをしたのだった。車が走り出すと同時に石田がなげやりに言った。
「ああ、やりたくねえ、どうせ雨が降るのにな、行ったって今日は仕事にならないよ」
「でもダメなんだよ。朝オヤジに言ったんだよ。『今日は一日雨みたいで、できないかも』そしたらへそ曲げたんだよ。仕事やりたくないように思われたんだろうね」
と運転席の三好が応えた。
「そうなんだよな、どんなに雨が降っていようと、大丈夫です、やりますって云うような顔をしてないといけないんだよ。少しでもやりたくなさそうな顔をすると、すぐ顔色をかえるからね、それにしてもこんなときに休みやがって、鈴木のヤロウ何考えているんだろうね」
「鈴木もダメだよ、土曜日に親父といっしょに飲んだのになあ。最近皆がしっくり行ってないんではないかってオヤジがいうんでよ。これからは協力してやっていくようにって、無断で休まないようにって、あれほど念を押されたのに、自分でも何度も頷いていたくせに、次の日はころっと忘れてしまうんだから、どうしようもないよ」
「オヤジなんで顔色悪いんだ、体でも悪いのかな?」
「違うよ寝不足だよ。夕べも遅くまで飲んだんだろう、これからまたひと眠りするんだろう」
 新しい現場には七時前に着いた。まだ早いというのか、それとも大雨が降るかも判らない曇り空に、あたら茎がしないのか、親方たちは珍しくシートに背を持たせかけたままで、誰ひとりとして動こうとはしなかった。三好が空を恨めしそうに見上げながら
「降るなら今のうちに降ってくれたらなあ」
と、作業を始める前に雨ならば、社長への作業中止の理由として立派に通るに違いないという思いをこめるかのように言った。
 清二は充分な休養で疲れが取れているはずだと思っていたが、なぜか体が重く、眠かった。そして今のうちに雨が降ってくれることを願いながら、空を見上げた。空には相変わらず厚い雨雲が低く垂れ込めていた。うっとうしい気分のまま清二は皆のようにシートにゆったりと背を持たせかけ眠るかのように眼を閉じた。すると清二は急に気分が落ち込み何もしたくない気持ちになった。今まではただ夢中でやってきただけであった肉体作業も、いまそれらをひとつひとつ冷静に思い返しながら、これからいちいち自分の気力や筋力に訴えかけてそれらの作業を成し遂げなければならないと思うと、恐ろしく過酷で死ぬほど苦痛なもののように感じられ、逃げ出せるなら逃げ出したい気持ちになった。
 清二はこのような静かな時間がこのままずっと続いてくれることを願った。
 車のなかから、小学校の校庭が見えた。薄暗い曇天のもと人気ない風景が広がっていた。そして雨に埃が洗い落とされてみずみずしい葉をつけた生垣のあいだから、ブランコが見えた。そのブランコの下に鏡のように空を映す小さな水溜りがあった。それを見ていると清二の頭のなかに自然と、無邪気にブランコで遊ぶ子供たちの姿や、その賑やかな風景が浮かんできた。そして清二は青空を見るような気持ちで、曇天の下の陰鬱な風景を眺めることが出来た。しかしそのうちに清二は、子供のころの自分は決してブランコ遊びが得意ではなかったこと、というよりも、集団のなかでうまく自分を出すことができずになかなか乗れなかったこと、さらにそのときのブランコにまつわる忌まわしい出来事が思い出されて、必ずしも自分は無邪気で楽しい子供時代を過ごしたわけではなかったように思われた。


 雨は午後になって本格的に降り出した。そしてその後も止みそうになく大粒の雨が降りつづいた。結局これ以上作業は出来ないということで、石田が電話で社長に許可を取ると、現場を引き上げることになった。
 事務所には機嫌を取り戻した社長の顔と、酒と、温かい飲み物が待っていた
 全身が雨に濡れ、社長の機嫌をあんじながら鬱陶しい気持ちで帰ってきた者たちにとっては、どんなねぎらいの言葉よりも嬉しくほっとするものであった。そして今朝の不満や、いままでの軋轢を忘れたかのように親方たちは談笑にはずむのであった。


 奥山たちが辞めていってから五日後の夕方。
清二は車を降りると狭い路地を宿舎に向かって歩き出した。部屋の入り口まで五六メートルに達したとき、なかから人の声が聞こえてきた。すると清二はその声が誰であるのか判別する前に、憂鬱な気分に襲われた。そして入り口に近づくにしたがって、その聞き覚えのある声が誰であるのかハッキリと判った。五日前にやめていった奥山の声である。悪夢のような瞬間だった。なぜ、どうしてこんなことが、と清二は烈しく自分に問いただした。信じがたい気持ちで部屋に入った。自分の眼を疑いたくなるほど紛れもなく奥山の姿がそこにあった。
 部屋に入ってきた清二に、三郎が例の様子を覗うようなまなざしで、「よお」となれなれしく挨拶をした。清二は笑みを浮かべて軽く頭を下げた。というよりあまりの動揺で声が出なかったからだ。気が沈み絶望的な気持ちであった。奥山の甲高い声を聞いているだけで体が震えてきそうであった。清二はかつて自分が奥山を前にして常々自分がどんな気持ちでいたかがハッキリと自覚できた。
 三郎は政治が今朝まで寝起きしていたところを平然と占有していた。そのために清二はふたたび二段ベッドのうえに追いやられることになった。清二は自分の縄張りを侵害されたように気がして、腹立たしさのあまり、いまにも全身に震えがきそうであった。しかし必死の思いで冷静を保ち、着替えを済ませると恥辱的な思いてら二段ベッドの上に上がった。

 部屋にはもう一人の男がいた。奥山のうまい話に乗られて連れてこられたのであろう。三十前で頬はこけ、眼はやみあがりのようにギラつかせ、身長は清二ぐらいあったが、かなりなせていてひ弱な感じだった。肉体労働には不向きのように見えた。だが奥山の仲間らしく口だけは達者そうだった。
「もう一人の人ってこの人なの?」
とその男は、清二にチラッと目をやりながら奥山に訊ねるように言った。
 その穏かな話し方から、丁寧で礼儀正しさを感じさせるものがあったが、その軽い響きからどことなく調子のよさを思わせるものがあった。
 清二は初対面の緊張と、先住者としての高ぶる気持ちを覚えながらも、その男にはなんの含むところもなかったので、対当の気持ちを表すかのように、何気なく、しかし毅然とした態度で、自分の名を名乗り、軽く頭を下げた。しかしその裏には、こいつを敵にまわしたら、三対一になって、今度は自分が追い出されかねないぞという、無意識の恐れから来るとっさの判断があった。その男は間の悪そうな笑み浮かべてひょこっと頭を下げた。名前は小川といった。
 動揺が収まってきたので、清二はなぜこういう事になったのかを考えた。彼らは前払いをしてもらった給料を使い果たしてのか、それともまたどこかで失敗をして、そこに居られなくなってふたたび戻ってきたのであろう。もしそうなら奥山たちにとっては、どんなに罵られあざけられても、ここはまだ住み心地の良いところに違いない、と清二は思った。それにしても社長はどうしてまた雇う気になったのだろう、と思うと、どうしても社長の考えが理解できなかった。
 小川は目障りなほど落ち着きがなかった。やせた手足を伸ばしてだるそうにベッドに上がっても、休むのでもなく、下の奥山と三郎のほうにぎらつく目を向けながら、二人の会話に同調するように、ときどき相槌を打っていたが、そのうちにふたたび下に降りてきては、出戻りであることを少しも遠慮しない様子でテーブルの前にどかっと腰を下ろして焼酎を飲んでいる奥山の話しにおもねるように
「そうですよね」
などと相槌を打ったり、ラーメンをいっしょに作っては
「美味しい、美味しい」
と連呼しながら食べたりして、修士二人に気を使いながら、当たり障りのない様に動きまわっていた。彼にとって、そのようにして二人にあわせていることがむしろ楽しそうであった。そしてときおり卑屈な笑みを浮かべて三郎にタバコをたかっていた。
 小川の身のまわりには荷物らしい荷物はなかった。手ぶらで来たのか、それとももともと何も持っていないのか、清二には判断しようがなかったが、ただこせこせとした態度や間延びした喋り方から奥山たちの同類であるように感じた。しかしほ奥山や三郎のようほど、我は強そうでなく、付き合いにくい感じはしなかった。ただ着替えがないのか、暑いといってはパンツひとつで歩きまわる姿は無神経さを感じさせた。
 六畳ほどの狭い部屋に四人の男が住むことは、以前にも増して清二の生活空間が少なくなることであった。そして奥山の相変わらずの態度、清二にとっては限りなく息苦しいものであったが、諦めるより仕方がなかった。

 十時ごろ、それまでときおり気分が悪いといっていた三郎が、急にベッドに横たわり頭が痛いといってうなり始めた。そのうちに今にも死にそうな勢いでわめき始めた。 奥山たち三人は、今日の午後に宿舎に着いたが、三朗は暑いということで上半身裸になり扇風機をつけたまま夕方近くまで寝ていたらしかった。それでどうやら体調を崩したらしかった。
 三朗の突然のわめき声を聞いて、小川は驚いたように上から降りてくると心配そうに声をかけた。しかし三郎は
「痛い痛い、頭が割れそうだ」
とわめき声を上げるだけであった。小川が「大丈夫か」と何度も声をかけては見たものの自分ではどうして良いのか判らない様子で、ただうろうろするばかりであった。
 酔いつぶれたようにかべに背を持たせかけ眼を閉じてうなだれている奥山は、眠っているのか何の反応見せなかった。様子を見に下りていった清二に小川が不安そうな表情で
「氷があればな、氷を買ってこなくっちゃな、まだ売っているかな?」
と半ば独り言のように言った。清二がどのように痛いのかときいても、三朗は頭に両手を当て子供のように苦しがるだけであった。小川がうろうろしながら
「氷が、、、、」
と先ほどと同じことをくり返した。
 清二には、三郎の表情から、それが我慢できないほどのものなのか、それても我慢できるものなのか、判断が出来なかった。
 いつのまにか起き上がっていた奥山が、不機嫌さをあらわにして
「甘えすぎだよ、大げさなんだよ」
と突き放すように言うと、そのまま自分のベッドに横たわった。それを聞いて小川は急に大人しくなり、何事もなかったかのように自分のベッドに上がりこんだ。
 奥山の言うとおり、清二は少し大げさような気がした。しかし眼の前で苦しがっているものを放っておくわけにも行くまい、氷で気分が少しでも楽になるならと思い、氷を買いに外に出た。だがその裏には奥山へのあてつけがあった。
 氷をあてがうと三郎は大人しくなった。


次の日の夕方。仕事から帰ってきた清二が部屋に入ると、先についた奥山と、仕事を休んだ三郎がなにやら話していたが、小川の姿は見えなかった。
 三郎は朝皆が出かけるときは死んだように眠っていたが、どうやら元気になったらしく、帰って来た清二には目もくれず、ベッドの上に腰をかけていた。清二は別に夕べのお礼を期待したわけではなかったが、奥山と以前と変らぬ親密さで話しているのを見ると、なんとも割り切れない気持ちであった。そして清二は、二人を結び付けている奇妙な友情には自分が入り込む余地のないこと改めて感じた。
 奥山の話しによると、小川は午前まではいっしょに働いていたが、昼食後急に姿が見えなくなったということであった。どうやら仕事がイヤになりトンズラしたらしかった。
 どんなに辛くても、仮にサボってでも夕方まで何とか辛抱すれば一日分の給料がもらえたというのに、彼は日当八千円よりもあと半日の苦痛から逃れることを選んだのである。つまり彼は半日の労働と、朝と昼の食事を引き換えたのである。もちろんそんなに仕事がきついなら、午後からは休んで午前の分だけ給料をもらうことも可能であろう。しかし彼にはそのことで、あの強面の社長に掛け合う勇気はたぶんなかったに違いない。
 その後二人の話を聞いていても、いま彼がどこに居るかは判らなかった。しかし二人はそれほど心配しているようでもなかった。
 次の日、三郎はまた休んだ。理由はどこかの階段を踏み外して足を捻挫したらしてということであった。しかし夕方清二が帰ってみると三郎の姿はなかった。こう休みがちでは三郎もいずらくなったに違いなかった。
 結局部屋には奥山と清二の二人だけになってしまった。
 話し相手のいない奥山は静かであった。いそいそとラーメンを作っては、いつものように焼酎入りのコップを片手に持ち、部屋に居るのは自分だけであるかのようにテレビにかじりつきながらもくもくと食べていた。ときおりテレビを見ながら笑った。だがたとえおかしくても清二もいっしょになって笑うことはなかった。もちろん二人の間には会話はなかった。部屋のなかの音といえば、テレビと奥山の笑い声ぐらいで、二人の人間がいっしょに住んでるとは思えないくらいに静かだった。お互いの存在を無視するかのように、まったくの沈黙が続いているということは、なんとも奇妙なことだった。それに相手を意識的に無視して黙っているということは、清二にとっては別の意味で息苦しいものであった。同じ部屋に居ながらお互いまったく会話がないのは奇妙であるが、奥山が一方の二段ベッドの下に、清二がもう一方の二段ベッドの上に居るもの奇妙なことであった。


 しかしそんな気まずい関係も長くは続かなかった。
二日後の夜。鈴木が突然部屋に入ってきて、 「今晩からよろしく、頼むよ」
といった。清二がどうしたんですかと訊くと、鈴木は
「もうこれ以上は我慢できない、女房とは別れてきた」
と腹立たしそうに言った。鈴木はそれ以上言いたくない様子だったので、清二も後は何も聞かなかった。
 鈴木が来たことによって部屋の雰囲気が和やかになったかというと、そうでもなかった。鈴木と奥山は、長いあいだの付き合いによって感情のしこりが残っているもの同士のように、折り合いが悪かった。
 鈴木はどこからか持ってきたのか、小さなテーブルを自分のベッドの傍らに置き、その上にビール瓶やコップを乗せて、自分だけの空間を楽しむかのようにくつろいでいた。今までのように勝手に振舞えなくなった奥山は居心地が悪そうであった。
 たまに会話があったとしても、鈴木からの一方的なもので、それは奥山が今まで自分の物のように占有していたテーブルの上や流し台の乱雑さを指差しながら、
「これからは綺麗にしような」
とか
「ちゃんと片付けなければダメだよ」
とか、奥山への説教じみたものだった。鈴木は目上であり、その言うことももっともであったので、奥山はなんら言い返すこともなく黙々と片付けるだけであった。
 二人がそわそわと寝る準備をはじめ、先に寝ることになった奥山が、鈴木がまだ利用しているにもかかわらず、扇風機を断りもなくとめた。それを見て鈴木が声を荒げていった。
「なんで止めるんだよ」
「うるさいからだよ」
「それはお前のわがままじゃないか」
と鈴木が興奮しながら言うと、ふたたび扇風機をつけた。
「オレじゃないよ、清二君がうるさいと言うから止めるんだよ」
と奥山は不機嫌さをあらわにして怒鳴るように言い返すと、そのままベッドに横たわった。なんとも具合の悪いものになってしまったと清二は思った。そして申し訳なさそうにして鈴木に釈明した。 「いや、どうも神経質なもんで、耳について眠れないんですよ。寝るときだけお願いします」
しかし鈴木は、清二のほうにチラッとバツわるそうな眼をむけただけで、相当に興奮していた様子で清二のいうことを聞き入れようとはしなかった。
 清二は妙な結末になったことに後味の悪さを覚え、なんとも腹立たしかった。それは依怙地な鈴木に向けられたというより、むしろ強引なやり方で問題をこじらせてしまった奥山に向けられたものであった。しかしこうなっては諦めるより仕方がなかった。それに奥山のときと違ってそれほど気にもならないのは不思議であった。
 それから二日後、怨念のごとく反目している奥山と鈴木に決定的に衝突するときがきた。
 流し台で後片付けをしていた奥山が突然腹立たしげに言った。
「足りないな、誰だ捨てたの、人がせっかくとって置いたのに」
 何事かと思い清二が見ると、奥山が肉などを入れたなプラスチック製の容器の束を棚から下ろし手に持っていた。何に使うのか清二に判らなかったが、どうやら奥山はそれを集めていたらしかった。奥山が棚を指差しながら清二に言った。
「ここに置いていたのちょっと足りないんだよ。清二君が捨てたの?」
「そんなの知らないよ」
と清二は少しぶっきらぼうに言った。
 奥山は
「勝手なことするんだから」
と怒りをあらわにすると、ぶつぶつと独り言を言いながら、容器を棚に戻した。
 鈴木がいなかったので、奥山の怒りはどうやら鈴木に向けられているようであった。 彼の異常とも思える怒りからすると、他人にはつまらないと見える容器も彼にとっては人にも触らせたくない、大事なコレクションのようであった。しかしなぜ彼がそれほどプラスチック容器に執着するのかわからなかった。それに顔色を変えてまで怒ることでもないような気がした。ひょっとして自分が鈴木の代わりに捨てていたかもしれないと思うと、清二にとってはなんとも冷や汗がでるような出来事だった。
 十時ごろ、仕事から帰るとそのままどこかへ行ってしまった鈴木がかえってきた。だいぶ酒を飲んでいるらしく、顔は真っ赤で少しよろめきながらはいってくると、いきなりなんで様だ、こう毎日散らかしやがってよ、と声を荒げて言いながら、自分のベッドの周りを何かを探すように見まわした。その声には人を怯えさせるような凄みがあった。それは清二が想像にもしなかったような変容振りだった。以前三好が、
「奴は酒癖が悪い」
と言っていたが、このことなのかと清二は思った。奥山はいつもより早めにベッドに入っていたが、その奥山に向かって鈴木が怒鳴った。
「ヤマ、起きろ、なんだこれは、こっちに来て見ろ」
 奥山はしかめっ面をして起き上がると、鈴木のところに行った。
「ヤマ、これを見ろ、なんで片付けないんだよ」
と言いながら鈴木はベッドの後ろの落ちていた薄汚れたパンツを指差した。
「それはオレのじゃないよ」
「おまえのじゃないなら、誰のだよ、三郎のだろう、三郎はおまえの友達じゃないか、それならなんで片付けないんだよ、こんな汚いのいつまでも放っておくんじゃないよ」
「そんなら訊くけど、あそこに置いてあったの、捨てたの鈴木さんか、なんで人に黙って捨てるんだよ」
「そうだよ、そりぁ、お前が早く片付けないから悪いんだよ、なんか文句があるのか、生意気だぞ」
「なんだと」
「なに、やるきか」
 その言葉を最後に、二人とも今にも飛び掛らんばかりの勢いで相手に近寄った。二人の怒気からして清二は危機感を覚えた。
 二人はほとんど身長が同じなので鏡に映った我が身を見ているように、じっと向かい合っていた。それはまるで優劣を競い合う動物のようであった。しかしお互いに相手の眼を睨みつけるだけで、どちらも手を出そうとはしなかった。
 そして五秒ほどにらみ合うと、ほとんど同時に相手の眼から視線をそらした。
 思わぬ展開に清二はやや呆然としながらも、何事もなかったことにほっとした気持ちであった。









     
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