ブランコの下の水溜り(7部) はだい悠
鈴木はベッドに腰を下ろしてうつむき加減にタバコを吸い始めた。しかしどうにもいたたまれない様子で、急いでタバコをもみ消すと、ふたたび外に出た。 翌日、鈴木は昨夜のことを忘れたかのように、いつもの人の良さそうな鈴木に変っていた。そしてその晩から鈴木は久保山の部屋で寝泊りするようになった。 九月の最初の日曜日、前々から鈴木に頼まれていた引越しの手伝いをすることになった。引越しといっても鈴木自身のではなく、別れた妻が隣町に住んでいるので、そこまで以前住んでいたアパートから家財道具を運ぶことであった。 日曜とはいえ、清二にはもともと何もすることがなかった。かといってこの間の様に目的もなく町に出て、暑い中をほっつき歩く気にもなれなかった。しかしそのまま部屋に居て奥山と顔をつき合わせているのも、気が滅入りそうなことなので、多少疲れるとは思いながらも、仕事と違って気楽にやれるはずだと思うと、引越しの手伝いは楽しいことのように思えた。 車は会社からトラックを借りた。運転手はアキラであった。 雲ひとつない快晴であった。清二にとっては、ドライブに行くようなウキウキとしたき踏んであった。 トラックをアパートのわきの道路に止めると、さっそく路地を通って運び出す作業に掛かった。鈴木の指示で、まずタンスなどの大物から運び出した。若いアキラは仕事とは違って、非常にはつらつとしていた。清二は寝すぎたせいかすこし体がだるく思うように動かなかった。それでも垣根や植え込みの緑に眼をやりながら気楽な作業は心地よいものであった。 十時をすぎていたので陽射しは強く、清二は暑さが気にかかったが、途中の路地の木陰の涼しさはなんとも気持ちの良いものであった。 周囲が緑の植え込みに囲まれた家々を眼にしながらその平穏そうな生活を思うと、自然と気持ちが和んできて、トラックに積み込む手も遅くなりがちだった。のんびりとしている清二に対して、アキラが怒鳴るように言った。 「コラ、もたもたするんじゃないよ」 それには仕事をしているときのような苛立ちが含まれており、清二をにらみつけるように見るその高慢な眼つきは、ある種の人々を怒鳴りつけるときのような侮りがハッキリと現われていた。ある種の人々とは、彼がプータロウと言って、忌み嫌いさげすむ浮浪者やゴロツキのことである。 その声に清二は一瞬唖然とした。そして和やかな気分に変わって、悪夢のようなささくれた気分が襲ってきた。 言い知れぬ不愉快さのあまり清二は無言のまま前と変らぬ速さで積み込み始めたが、「これは仕事じゃないんだよ」と思うと、なんとも腹立たしかった。清二はそのことをアキラが怒鳴ったときに言い返せばよかったのだが、あまりにも予期せぬことだったので驚きのほうが先立ち、とっさに思い浮かばなかったのである。 そして清二は、アキラから怠け者のように思われ、ゴロツキのように怒鳴られたのかと思うと、なんとも情けない気持ちになった。ふと「オレは、おまえみたいな、、、、」という言葉が脳裏を掠めた。今まで無用なことと思い意識的に捨て去っていた自尊心がよみがえってきてどうにもやりきれなかった。 しかし体力がみなぎっている若いアキラの目に自分がそのように移ったのら仕方がないような気がした。なぜなら確かに自分はノラリクラリやっていたのであり、それに、この場合自分がそれ以外の者であるような証拠や根拠を何も示していないからである。 それに今まで仕事の上でも、不慣れなもの未熟なものとしての自分しか見せていないので、動作だけで人間の価値を判断しがちな若いアキラの心には自然と侮りの気持ちが生まれてきても不思議ではないのである。だから今までの二人の関係からして、動作以外のことで自分の価値を判断してもらい、普通の人間として扱ってくれるように、若いアキラに期待することは所詮無理なのである。 ようするにアキラは仕事と手伝いの区別がつかなかっただけのことである。それに若いうちから、怒声の飛び交う荒々しい職場に入り、怠けようとするものは怒鳴りつけて働かせろ、という雰囲気のなかに居たら、生まれつきの性格がどうであっても、感化されやすい若者にとって、自然と先輩のやり方を真似るようになるのは仕方がないような気がした。 自分が彼のように若かったとき、まだ実社会に入っておらず、少なくとも彼よりは恵まれた環境のもとで安穏としていたと思うと、屈辱的な気持ちもだんだんやわらいできた。 トラックの荷台は家財道具でいっぱいになった。 ロープをかけ終わってこれから出発しようとしたとき、鈴木が大家らしき人から呼ばれた。 しばらくして鈴木が乗り込んでくると、はき捨てるように言った。 「チクショウ、最後の最後までケチつけやがって」 清二にはそれほど人が悪そうな大家には見えなかったので、鈴木の言葉には何か深い意味があるような気がした。 落ち着きを取り戻した鈴木に清二が訊いた。 「別れたからって、引越しすることないんじゃないの、鈴木さんは宿舎に寝泊りするんだから、奥さんは前のところに居ても良いんじゃないの?」 「そうもいかないんだよ。色いろと問題があってね。評判があまりよくないんだよ、とにかく周りがうるさすぎるんだよ」 鈴木はさりげなくいったが、ようするに鈴木たち親子は今まで周りになかかと迷惑をかけすぎて、あそこに住めなくなったということらしかった。 二十分ほど走ると、となり町に着いたが、別れた妻が住んでいるという肝心のアパートが見つからなかった。須田の指示で電柱の番地表示に注意しながら、バックしたり、同じところを何度も通ったりして探したが、なかなか見つからなかった。そのたびに鈴木は 「おかしいな、前来たときこんなところあったかな?」 とか 「ここには見覚えがある」 とかと、清二たちに気兼ねするかのように、呟くようにいった。 ついに鈴木は車に乗って探すのを諦めたように、住所を持った紙を持って車から降りた。通りすがりの人に訪ねている鈴木を見ながらアキラがののしるように言った。 「まったく、はっきりしないんだから、ねえ」 清二はなんとも思っていなかったので、同調を求めるようとするアキラに気まずさを感じた。 鈴木は小走りで戻ってきて、あわただしく席につくと興奮気味に話しはじめた。 「判ったよ、行き過ぎていたんだって、ここに来る前右にいく道があったろう、それなんだって、それを真っ直ぐ行くんだって」 ようやくアパートが見つかった。 新興住宅地らしく、道路は綺麗に整備されていたが、所々に空き地を残し、古い家々に混じって、まだ植え込みや塀が整っていない真新しい家々が立ち並ぶなか、道路際にやや黒ずんだ黄色い壁の古そうな二階建てのアパートがぼつ然とあった。 周りの家々と比べるとどことなく貧相に見え、その反対側には草も伸び放題の広い空き地があり、何となく寂しげな感じのするところであった。前にすんでいたところよりも環境が良いようには見えなかった。 部屋は一階の道路側であった。 アキラと清二がロープをはずしているあいだ、鈴木は 「おい、オレだ、あけろ」 と言いながらドアを叩いてあけてもらうと、 「家具を持ってきたぞ」 と言ってなかに入って行った。しかしなかからは、 「いらないわよ、置くとこないじゃないの」 とあまり歓迎しない返事が聞こえてきた。 ムッとした表情で戻ってきた鈴木に清二はいろいろな意味を込めて 「降ろすの?」 と聞いたが、鈴木は黙ったまま荷物を降ろし始めた。洗濯機を玄関の横におくと 「いらないって言ってるでしょう、そんなところにおかれたら、ジャマになるだけでしょう」 となかから叫ぶ声が聞こえてきた。しかし鈴木はそんな声を無視するかのように、清二におき場所を指示すると洗濯機の座り具合を確かめたりして中止しようとする気配を見せなかった。 ソファーやステレオを部屋に運び入れようとすると、別れた妻がうろうろしながら 「そんなの要らないわよ、置くとこないじゃない、いい加減にしてよ、もうやめてよ」 と悲鳴に近い声で言った。間取りは台所つきの一畳ほどの板の間と六畳のひと間であった。まだカーテンも家具らしきものもなく、さっぱりとした感じの部屋であった。 オシメをした男の子がホッポリ出されたように部屋の隅に座っていた。例の女の子は母親と共にうろうろしながら入って来る清二たちを睨みつけるように見ていた。 鈴木はなんと言われようと意に介しない様子で、次々と運んできたものを中に入れた。清二はなんとも気が咎めて、なるべく周りを見ないようにしてすぐ部屋から出るようにした。タンス類は狭い玄関のドアから入りそうになかった。窓のサッシをはずしてそこから入れることにした。 別れた妻が、車からたんすを降ろそうとしている鈴木たちの様子を窓からけだるそうにじっと見ていた。だがその眼は不思議な眼であった。それは苛立つ眼とか怒った眼とか冷たい眼とか言うようなものではなく、しいて言うならあまり感情が感じられない覚めた眼、変化する内面を持たない人形のように、または死んだ魚の硬直した眼のように表情のない眼ということになるだろうか。清二と鈴木が窓から入れようとすると、彼女は「そんなもん入れたら、寝るとこなくなるじゃないの、もう止めてよ」と叫ぶように言った。しかし鈴木は相変わらず何もこたえようとせず顔を赤くしながら力を込めると強引になかに引き込んだ。 清二が一人で車のところに戻ってきたとき、なかからガシャという音が聞こえてきた。アキラが何かを察知するかのような眼をして一瞬手を止めた。清二が窓の外からのぞいてみると鈴木が塵取りを持って割れたガラス片を拾い上げていた。どうやら部屋の壁に立てかけてあったまずガラスが倒れて割れたらしかった。子供には怪我がなかったようだ。 別れた妻が烈しくなじった。 「あんたが来るといつもこうなんだから、何にも良いことしたためしはないんだから、イヤなことばっかりするんだから、もういい加減にして帰ってよ」 鈴木はひたすら押し黙ったまま、しかし苛立ちは抑えきれないといった様子で、顔を真っ赤にしながらガラス片をかたづけていた。 別れた妻が 「子供を見ていてね」 と言って外に出た。ガラス屋に電話しに出かけたようだ。 清二が車のところに戻ってきて、タンスをおろそうとするアキラに 「まだ良い」 というと、何が起こったのかよく理解していないアキラは、早く帰りたいのか、それとも強い陽射しにさらされていることに耐えられないのか、じらされたことに苛立つような表情を見せた。 鈴木が片付け終わったころ、別れた妻が戻ってきていった。 「今日は休みでやってないんだって、ねえ、どうしてくれるのよ、今晩このままここで寝ろって言うの、お金、ガラス代置いてってよ、こんな事ばっかりするんだったら、もう二度と来ないでよ」 返す言葉のない鈴木は、やり場のない怒りを必死にこらえるように、真っ赤な顔をゆがめ、いまにも爆発しそうな表情で中から出てきた。それはもし何か手に持っていたら癇癪を起こして投げつけてしまうのではないかと思われるほどだった。 「なに、言ってんだ、自分だってやることやってないじゃないか、冷蔵庫には酒しかはいってないじゃないか、酒ばっかり飲んでいるんだから」 そう言う鈴木の体は小刻みに震えていた。 窓に立ってみていた別れた妻が叫ぶように言った。 「もう、もって帰ってよ、置くところがないじゃないの」 確かにもう置くところがなかった。一瞬ちゅうちょした鈴木は、なにを思ったか 「ここに置こう」 といって空き地を指差した。残った家具類を空き地に置き始めると、別れた妻が悲鳴に近い声で叫んだ。 「止めてよ、そんなところに置かれたらこまるのは私じゃない、いったいどうしようって言うの?」 近所の家々は窓を締め切ったまま、静かであったが、じっと一部始終を聞いていると思うと、清二は居たたまれない気持ちになった。 「どうしますか、もって帰りますか?」 と清二は怒り狂う鈴木を気遣って、おもねるように言った。しかし鈴木はもう完全に自棄になっていて、清二のいうことは耳に入らないようであった。 入りきれなかった家具類を空き地におろし終り、 「さあ、行こう」 という鈴木のまだ苛立ちの残る掛け声とともに、あわただしく車に乗り込むと 「ああ、生成した」 という鈴木の独り言を聞きながら、逃げるようにして車は走り出した。 清二はなんとも後味が悪かった。自分が、別れた女を暴力でいたぶる非道な男の共犯者のような気がした。 宿舎に帰る前、遅めの昼食のために食堂に入った。二時をすぎていた。 他の客がいなく涼しかったが、清二はどうしても落ち着いた気分にはなれなかった。 冷静さを取り戻した鈴木は気を使うかのようにさかんにビールをすすめた。ねぎらいの意味でそうしているのだろうが清二は、喜んで飲む気にはなれなかった。 外は黄色い日差しのなかを車が埃を舞い上げながら烈しく行き交っていた。 清二は何となく頭が重くまとまりがつかない気分であった。女主人の愛想なさが気に障って仕方がなかった。 それからしばらくしたある日の夕方。仕事から帰ってくると、空き地にもう一棟プレハブ住宅が建っていた。朝にはなかったが、プレハブだから一日で建つのである。 九月にはなっていたが、残暑が厳しく、夜になってもそれほど気温は下がらなかった。 清二と奥山は相変わらず奇妙な関係だった。それに鈴木がいっとき舞い込んだときから、扇風機を夜どうしつけるという習慣が復活していた。 鈴木がいるときはそれほど気にはならなかったが、どういうわけか奥山がつけっぱなしにしていると思うと気になってよく眠れなかった。しかしもう一度ごたごたを起こしたくなかった。かといってこのまま我慢するのもシャクだった。入ったころは、先輩と思って多少遠慮はしていたが、いまでは彼は出戻りではないかという思いであった。 彼流のやり方を真似れば、こっちが上だと思って行動しても良いのであ。それで下である奥山が相変わらず我が物顔でいるのはどうしても気に入らなかった。それに同じ部屋に居ても、息苦しい関係にはもううんざり出会った。 その晩、奥山がいつものように電気と扇風機をつけっぱなしにして寝ているあいだに、清二は新しく建った部屋に移った。何の会話もなくお互いに無視しあうなかなのだから、それに朝になれば判ることだからいちいち後輩の奥山に断る必要はないと思った。ただ社長がどんな思惑で新しい部屋を建てたのか判らなかったので、それ が不安だった。 部屋にはまだ水道とガスがついていなかったが、新しい布団があった。シンナーの臭いがしたが、これで安心して眠れると思うと、それほど苦にはならなかった。 翌日部屋を移ったことを社長に報告すると、その日の夕方から水道とガスが使えるようになった。 翌日は晴れ晴れとした気分であったが、奥山と顔を合わせるのはなんとなく気まずいものがあった。しかしそこは今までのように無視してとぼけるしかなかった。 町場の現場は一段落したので、全員でK建設の現場に行くことになった。しかしそのためにはもう一判分の道具類を急いで準備しなければならなかった。 このことは社長の頭のなかに前々から入っていることであるが、親方たちにとっては、その日の朝までわからないのである。 朝にあわただしく準備することは今に始まったことではなかった。もう悪習慣のようになっていた。このように朝にばたばたすることは、久保山の絶好の批判の対象であった。しかし絶対権力を握っている社長の前ではどんな知恵者もどうすることもできないのである。 思うように準備が出来なかったのでなかなか出発できなかった。親方たちがいつものように苛立ち始めた。あまり遅くなると朝の渋滞に巻き込まれてしまうからである。わずか十分二十分の遅れが現場に到着するときには一時間の遅れとなるときがあった。新人の清二にとっては、なにを準備して良いのか判らずただ親方たちの指示で動くだけであった。それでも朝のうちは体が思うように動かないので、ついボンヤリとしがちであった。親方たちは自分たちの苛立ちをお互いにぶつけ合うことが出来ないので、そういう清二がカッコウの標的となった。それに比べて奥山は不思議なほどこまごまとして、要領がよかった。 いつのまにか他のものは全員車に乗り込んだが、まだ積み終わっていないものがあると思っていた清二だけが、車に乗らずに外でうろうろしていた。というのもモルタルの道具が積んでいないような気がしたからだ。車から三好が怒鳴った。 「清二、なにモタモタしてるんだよ、早くしろ」 清二は 「まだモルタルの道具が」 と言おうとしたが、加藤が追い討ちをかけるように「こら早くしろ」と怒鳴ったので 「いいや、どうせオレが使うんじゃないから」 と思いながら急いで車に乗り込んだ。 その清二に久保山が苛立ち気味に説教をするようにいった。 「いいか、朝だからって、だらだらしてはダメだよ。もっと機敏に動かなきゃ」 その言葉に清二は、このように全体が苛立った雰囲気のもとでは、これ以上何をいってもムダだという気がしたので、弁解できない悔しさは残ったが、黙っていることにした。清二は 「このわからずやめ、いいか、どうせ困るのはそっちなんだから」 と頭のなかで罵りながら、無性に苛立つ自分を慰めた。 いつでも、このような苛立ちは上のものから流れてきて下の者で止まるのである。 現場にはやはり遅れて九時過ぎに着いた。 清二が思っていたとおりモルタルの道具は乗ってなかった。しかし結局困るのは清二自身だった。奥山といっしょに使用しなければならないからである。コテとバケツは二つずつあったので、わけることができたが、モルタルを作るプラスチック製の容器は共同で使用しなければならなかった。 石田班と加藤班に分かれて作業は始まった。石田班は鈴木とトオルと奥山であった。三好は一人だけでみんなと違う仕事にまわった。 二つの班の現場は離れてはいたが、お互いに見えるところなので、それにやることはまったく同じなので、作業の進み具合はお互いに比較することが出来た。 加藤はちょくちょく作業の手を休めて、石田たちの仕事振りに目をやった。明らかにこちらが進んでいるのが判ると、めったに見せない笑顔で、 「あんまりはかどっていないようだな、やつらにはあのぐらいしか出来ないだろう」 と言った。加藤は競争心をむき出しにしていた。と言うのも、同じ仕事をやって、自分のほうが進んでいることが社長に報告できれば、日頃から思っている"石田や三好より自分のほうが優れているということ"を社長に認めさせることになるからである。 こちらの作業がはかどるのは清二の作業の速さによるところがあった。ひいては、それは自分のほうが奥山より優れているということを、公然と認めさせることになるので、清二はおのずと張り切らざるを得なかった。 清二が高所で作業をしていると遥か下方を、強い日差しを受けながらとぼとぼと歩いている奥山の姿が眼に入ってきた。奥山は無造作に容器のモルタルをバケツに入れて持って行った。清二はそのモルタルは自分が汗水流して作ったのだと思うと、なんともシャクであった。そこで清二は次からは自分に必要な分だけ作ることにした。 大手建設会社の現場では安全対策が行き届いているので、高所作業をしている間はその真下付近には"上部作業中"とか"出入り禁止"とかと書かれた垂れ幕が掲げられたり、立て看板が置かれたりする。清二がその垂れ幕をくぐって外に出たとき、建物の内部を見まわっていたK建設の社員に後ろから呼び止められた。 「おいおい、ダメじゃないか、ここは出入り禁止だよ」 清二はやや驚いて後ろを振り向いたが、かといっていまさら戻るわけにも行かなかった。 その社員はいかにも生真面目そうなメガネをかけた若い社員だった。清二はまだなにか言いたげな表情の若い社員と二三秒目をあわしていたが、作業当事者まで出入り禁止と言うことはあるまいと思いながら、そのまま無視することにした。 K建設の社員を仲間内で話題にするとき、たいていは能無し扱いであるが、その社員はいつもボロクソにけなされていた。歩いていてすれ違ったときなどには、加藤は「あの、バーカ」と聞こえよがしに罵った。清二は何もそこまで言うことはないだろうと思うのであるが、すぐ調子に乗るアキラなどは、侮るような眼つきで後ろを振り返ると、ぎこちない手振りをしてせせら笑った。と言うのもその若い社員は滑稽なほど不器用だったからだ。朝礼のあと壇上の社員の先導でラジオ体操をやるとき、彼は操り人形のような動きしかできなかった。清二が最初に眼にしたときは笑いをこらえることが出来ないほどであった。石田が 「あのバカ、不真面目なんだよ」 と侮蔑するように言うとき、おそらく頭にはそういう光景を浮かべているのであろう。 なぜか清二の仲間たちは、K社員の動作や容姿の欠点に、異常なほど関心を示していた。そしてそれがその人間の致命的な欠陥であるかのように取りざたして、まるで社員に対する劣等感の裏返して思われるほどに、彼らをこき下ろすことが楽しそうであった。だが彼は頭が悪いと言う意味でバカでないことは確かだった。 にもかかわらす彼が特別に忌み嫌われ愚弄されるのは、単に運動神経が鈍いだけではなく、その若さに似ず無愛想な表情や、生意気そうな話し方、それに彼の生真面目さから来る杓子定規なやり方によるところがあったようだ。 午後の休憩時間には行ったとき、他のものに遅れて足場から降りてきたアキラがモンキースパナを投げつけるように置いた。いつになく満足そうにタバコを吸いながら床に座っていた加藤が、それを見てたしなめるように言った。 「工具を投げるなって、いつも言ってるだろう、職人は工具を大事にする者だって、また久保さんにしかられるぞ」 そう言いながら加藤は少し笑みを浮べて久保山の方を見た。しかし久保山はそれほど表情を変えなかった。加藤にしても珍しく久保山におもねるような態度であった。どうやら加藤は、久保山の毅然とした態度や、ときおり見せる堂々とした批判的な言動が気になり始めているようであった。というのも、二三日前にモンキースパナがなくなったとき、工具の管理が出来てないということで、加藤が、それはあたかも久保山の責任であるのかのように騒ぎ立てたのであったが、結局アキラが現場に置き忘れたということが判った。そのときに久保山は自分の言い分をハッキリ言ったらしかった。 加藤が嬉しそうな顔をして言った。 「久保さん、このあいだ社長が言ったこと聞いた?社長が行っただろう、加藤にも歩合を出さなくてゃいけないなって、」 「いや、聞いてない」と久保山はうつむいたまま気のない返事をしたが、加藤は話し続けた。 「言ったんだよ。ようやく判ってくれたようだな、それじゃなきゃもうこれ以上働く気がないもんな」 アキラが怪訝そうな顔をして訊いた。 「歩合って、なに?」 「歩合っていうのはな、その人の働きに応じて給料を上げてくれることだよ」 「今までもらってなかったの?」 「もらってないよ」 「石田さんたちも?」 「いや、やつらはもらってたよ。もらってないのはオレだけだよ。だから今までは、オレが働いた分は皆やつらが持っていったようなもんだよ。オレはそんなにもらってないんだよ。でもこれからは皆にもう少しおごれるようになるかもしれないな」 加藤は怪物の名にふさわしくない笑顔で終始話し続けた。社長に認められ給料を上げてもらうことが、よっぽど嬉しかったようだ。いつもの肩ひじを張った様子は微塵もなく、ときおりそのヒヒのような容貌に茶目っ気さえ感じられて、見ていて気持ちが和むものがあった。しかし久保山は興味がなさそうにムスッとしていた。 休憩が終わり作業が始まった。 「おい、清二、こっち急ぐから早くモルタル入れろ」 と加藤がそのガラガラ声で命令した。しかしそれにはいつもの威張り散らすような響きはなく、たんなる大きな声であった。 モルタル作業とは、コテ板に載せたモルタルを、バナナ上の大きさに、コテの腹でうまくすくい取り直径五センチ、長さにメートルほどの穴に、それがいっぱいになるまで次々と落とし込むことであった。 清二は毎日同じことばかりやらされているので、自分でも速いと思うくらいに熟練していた。清二は加藤がそばで見ていたので自分の技を見せ付けるかのように、普段よりすばやく手を動かした。それを見ていた加藤が表情をくずして言った。 「オレより早いじゃないか」 今まで加藤から、ただ遅いというだけで怒鳴られ、単なる手元としてしか扱われていなかった清二にとっては「ざまあ見ろ」という感じでなんとも気持ちよかった。 その日の夕方、仕事から帰ってくると、奥山はその足で買い物に出かけた。清二はちょうどいいやと思い、そのあいだに自分の荷物を新しい部屋に移した。 とにかく奥山とは顔を合わせたくなかった。あわせれば二言三言何か言わなければならなにだろう、かといって何か言う気はさらさらなかった。社長に許可を取っているので疚しいという気はなかったが、それでなんとなく気が引けた。これは成り行きなのだと思うことにして自分を納得させた。 新しい住処にも落ち着いて、これから食事に行こうと思っていたころ、開きぱなしのドアを通して、酔っ払った奥山の声が、聞こえてきた。久保山の部屋で飲んでいるらしかった。 「、、、、、どういうつもりなんだろう。夜中に居なくなったと思ったら、朝まで帰ってこないんだから、こっちだって気になるよ、、、、、、、」 どうやら清二が黙って部屋を移ったことが気に障っているようであった。久保山が言い聞かすように言った。 「ヤマちゃんよ、それはいいの、誰がどこで寝ようとそれはかまわないの」 「そうそう久保山さんの言う通り」と清二は呟きながら外に出た。部屋の前を通るときチラッと眼をやると奥山のしかめっ面が見えた。鈴木はいないようだった。清二は自分のやったことがそれほど非常識な行動ではないことが判り少しホッとした気分であった。 風呂からの帰り道を歩いているとき、通りの向こう側のスナックから、何となく不自然な形で出てきた若い男が、清二と反対側の方向に歩いていた。赤シャツに白いズボンといかにも遊び人風であったが、どこかで見たような気がした。顔は判らなかったが、体のガッシリとした力強い歩き方、以前に夜道で、突然自分に笑いかけた男だと判った。清二はその後ろ姿を見ていると、派手な服装の割には孤独そうな雰囲気が感じられて気になった。 宿舎に帰ってきた清二が通りがかりに久保山の部屋をのぞくと鈴木の姿が見えた。鈴木と奥山が烈しく言い争う声を聞きながら眠りについた。うるさいというより毎日夜遅くまで飲んだくれて騒げる体力がうらやましい限りだった。 翌日、K建設の現場にはだいぶ早めに着いた。 朝礼が始まるまで清二たちは休憩所で休んでいた。 アキラの横に腰をかけていたトオルが口を尖らして周りの者に訴えかけるように話し始めた。 「、、、、汚いんだから、オレ一人残して、みんな逃げるんだから、オレはてっきりみんながいると思ったよ。それで向かっていったら、いつのまにか皆いなくなっているんだよ。オレ一人じゃ敵いっこないよ。もうかこまれてボカボカやられたよ、これを見ろよ」 少し特異顔でそう言うと、腕をまくって青みがかったあざを見せた。たいした怪我でもなかったので、それほど敵前逃亡したアキラを恨んでいようでもなかった。三好が言った。 「顔は大丈夫みたいだけど、殴られなかったのか?」 「だって、顔は必死に隠すもん」 三 好が決まり悪そうな笑みを浮かべているアキラに言った。 「お前らダメじゃない、一人置いて逃げるなんてだらしないぞ」 アキラがややムキになって応えた 「だってあれだよ、こんなに大きいのがぞろぞろ出て来るんだよ。みんな加藤さん見たいのばっかしなんだよ。一人だと思っていたら違うんだよ、敵いっこないよ、初めっから判っていたら喧嘩しないよ」 「こっち何人いたんだい?」 「向こうと同じくらい」 「それにしても一人だけ置いて逃げることないだろう」 「おいてなんか逃げないよ、いっしょに逃げたと思ってたんだよ」 久保山はあきれ返ったようにニヤニヤしながら聞いていたが、石田は二日酔いのせいかテーブルに伏せて死んだように大人しかった。 トオルはアキラとおなじ十八歳である。この仕事始める前までは、アキラといっしょに暴走族を楽しんでいたようであった。年令の割にはどことなく大人びた顔をしており、鼻が高く切れ長の大きな眼をして少し男前だった。伸張は百七十センチほどで背筋が通りガッシリとしていた。アキラほどこせこせした感じはなく、このまま順調に行けば将来男気のある大人になる雰囲気を持っていた。ただカッとすると見境がつかなくなり、すぐ暴力に訴える向うっ気の強さがあり、また自分の仲間以外のものに対しては極度に敵対心を持ち、悪者扱いにするという若者特有のイキがる傾向があった。しかし普段はオウヨウでのんびりとしたところがあり、仕事に対してもアキラよりも辛抱づくよひたむきだった。また上のものにも従順で下のものを怒鳴りつけたり、年上のものを侮ったりする傲慢なところはなかった。大人たちの会話にもアキラのように気軽に口を挟んだりせず、まだつやのある頬に居心地の悪さを感じさせながら、遠慮がちに黙って聴いているほうが多かった。そしてときどき退屈そうにうつむき加減になる大きな眼には、大人の世界には入りきれない戸惑いや不安をのぞかせていた。 どうやら今は若者から大人へ移行する不安定な時期にあたっているようだった。それよりときおり見せるのであるが、暴走族時代の名残からか、他の車に進路を妨害されたりすると、車のまでから顔を出して相手を威嚇するように怒鳴ったりした。そのときの形相には凄みさえあった。 作業に余裕の出てきた清二は、入ってきたころのようにモタモタして加藤を苛立たせ怒鳴られることはほとんどなくなった。そして、体力的にはまだきついところもあったが、だいぶ楽な気持ちでその日の作業を終わらせることができるようになった。 帰りの車に皆が乗り込んでいたが、奥山の姿だけが見えなかった 。 「帰るとき言わなかったのか?」 と前座席に座っていた加藤が言った。 「いったよ、でもなにやってんだか、モタモタしちゃって、もう知らないよ」 と鈴木が突き放すように言った。 「でもいっしょにやってたんだろう、それなら遅らせないようにさせろよ」 と加藤は鈴木を非難するように言った。 休憩所の建物の陰に奥山の姿が見えた。 「早くしろ」 と加藤が小さい声で怒鳴るように言った。 それが聞こえたかのように奥山は、西日をまともに受けてまぶしそうに顔をしかめながら小走りで車に向かってきた。そしてあわただしく乗り込むと、席に着く前に車が走り出した。顔を荒らす余裕もなかったのか額に大粒の汗が光っていた。 二十分ほど走ったろうか、加藤がいきなり驚いたように言った。 「ああ、石田さん、石田さんに言うの忘れてた。どうしたんだろう、朝言われたんだよ、二日酔いでダメだから、休憩所で寝てるって、あそこで夕方まで寝ていたのかな、良いよね、あそこにいなかったから、居たら出てきたよね。もう帰っちゃったよね」 そういう加藤は、意外なほど不安をあらわにして、ほかの仲間に同意を求めるように気弱であった。 ![]() ![]() |