ブランコの下の水溜り(16部) はだい悠
若い男が年上の男のほうを見ながら真剣な表情で言った。 「先輩、最近ボクはつくづく女性は顔じゃないって思うんですけどね」 「君は訳の判らないこと言うね。それじゃ何か、不細工なのがいいって言うのかい?」 「そう云うわけじゃないんだけど、、、、」 「君だって美しい女性を見るとはっとするだろう。綺麗な女性の前に出ると意識してさ、何となく紳士的に振舞うだろう。美しいと云うだけで自然と敬意を払われるようになるんだよ。もし誰かの奥さんが綺麗だと、仲間と話題にしたりして、その男をうらやましいて思うだろう。その男を特別な眼で見るようになるだろう。そのようにな、奥さんが綺麗だとその夫も自然と敬意を払われるようになるんだよ」 「先輩の奥さんが性格が悪いだなんて言ってんじゃないですけどね。でも僕はやっぱり綺麗よりも、性格がいいほうが、、、、」 「馬鹿だね、君も。女の性格がいいとか悪いとか、そんなに大差ないんだよ。皆同じよなもんだよ。ようは男がイニシアチィブをとって堂々としていれば、多少性格がよかろうが悪かろうが、女も黙って従うようになって、夫婦関係もうまく行くようになるんだよ」 言いくるめられた幹事の若い男は、納得しがたいように苦笑いを浮べていたが、その笑いには頭の良さそうな顔つきの割には、意外なほどの貧相さが現れていた。 若い男がポケットからタバコをだして吸おうとした年上の男に言った。 「先輩ずるいですよ。タバコを吸うと出世できないぞって人に辞めさせておいて、自分では吸うんですか?」 「それはアメリカのビジネスマンの話じゃないか」 「日本もいずれはそうなりますよ」 「大丈夫、その話は太っててタバコを吸う人のことだから。あいにく僕は太ってないよ。それにさ、タバコを吸ったからってこの僕が出世できないわけないじゃない、まあ、いいよ、そんなにいやなら止めるよ」 「いやじゃないですけど、でも吸うのを止めて初めて判ったんでけど、タバコの煙って周りに大変迷惑をかけているんだよね」 「自分で吸ってたって人の煙はイヤなもんだよ」 このときタバコを吸っていたのは清二だけだったので、なんとも決まりが悪く、ますます居心地悪いものになっていった。年上の男が退屈そうにうつむき加減に聞いていた高志のほうを見ながら言った。 「ところでさ、高志、今度君が退職するかもしれないって聞いたんだけど、それほんとなの?」 「いや、ボクは、辞めるなんて誰にもいってないよ。おかしいね、そんなこと誰から聞いたの?」 「うん、いやね、ちょっと耳に挟んだもんでね、、、、」 「でも、そうなるかもしれないな」 「まあ、はっきり言って、ボクは反対だよ。それで次に何をやるかちゃんと決めているんだろうね?えっ、なにまだ決めてないの?それならなおさら反対だよ」 「決めてないわけじゃないよ。ただまだ、人に言うほどのものじゃないからね」 「何をやるのかわかんないけど、大変だよ。侵食なんて、それにいくら君が優秀だからといっても、脱サラなんてそんなにうまくいくもんじゃないよ、最初からやり直さなければならないんだからね。いったい何をやるの?」 「うん、それはまだ言えない」 「ずいぶんのんきだね。ボクは君のこと心配して言ってんだよ。君だってもう三十だろう。男はさ、少なくとも三十までにちゃんとした人生設計を持って、自分の職業を固めないと、後世に名を残すような人間にはなれないよ。ぼくから見たら君のような職業は生活も安定してなんら老後の心配もなく、うらやまして限りだよ。それなのに何の不満があって辞めるなんてこと考えるんだろうね。ところで子供いないみたいでね。そうだろうね。だからそんな暢気なことをいってられるんだよ。早く子供を作りなさい。そうすればそんな暢気なことを言ってられなくなるから」 志はこれ以上はなしたくないといったふうに不快そうな表情で聞いていた。年上の男はさらに言葉を続けた。 「最近、休んでいるんだって、いったいどうしたっていうの?」 「どうやら頭の病気らしいよ」 「頭の病気って?」 「、、、、うぅん、人とあったり、話したりするのが億劫でね、最近は外にも出る気がしないよ。とにかく会いたくない人と話していると気が滅入ってくるよ」 「なんだそれは、憂鬱症か?昔の君はそんなんじゃなかったじゃない、、、、そうすると部屋にずっと居るのか?それじゃますます気が滅入ってくるよ。君は人より真面目なところがあるからな、それがいけないのかもしれないな。どうスポーツをしたり、バカ騒ぎをやったりして気分転換をしてみたら、そうだたまには僕のうちに遊びに来ないか?ふうん、そうだ君はゴルフをやってたろう、今度ボクとゴルフをやろう、そうすれば気分もスッキリして変なことも考えなくなるよ」 「遠慮するよ、ボクのはそんな単純なものではないよ。ゴルフをやったからって気分がよくなるようなものではないよ。人間の頭はそんなに単純なものではないよ。君のような人間には判らないよ。そうなんだよ、、、、ボクには判っているよ。何もかも、皆、ボクのせいだよ、、、、もう終わったんだ、、、、ガラス、、、ガラスを割っただけなのに、、、、どうして、、、、」 「うぅん、こまったもんだ、、、、まあ、誰にだって、人生一度や二度はイヤになるときがあるんもんだよ。現にボクだって、二年ほど前、仕事がうまくいかなくて悩んだことがあったよ。でもやめるなんてことはぜんぜん考えなかったなあ。とにかくつまらないことにくよくよしないで、自分にはできるんだって思ってやれば、どうにか乗り越えられるもんだよ。それにしても大変だよ。このマンションのローンだってまだ残っているんだろう。奥さん経って大変だよ。でも惜しいよ。高志のような優秀な人間が辞めるなんて、社会にとっては大きな損失だよ」 「なんだ、隣の棟だよ」 と先ほどから窓の外を見ていた若い男が席に戻りながら言った。 高志が話している最中にサイレンの音が聞こえたので、窓から外の様子を見ていたのである。年上の男が言った。 「なんだって?」 「消防車じゃなくて救急車、隣の棟で病人が出たみたい」 「あっ、そうそう、今日ここに来る前に大変なことがあったんだよ。痴漢を捕まえたんだよ、なあ。それが変な痴漢でな、まあ、痴漢は皆変なんだろけど、とにかく変なんだよ、ちょっと頭がおかしいんじゃないかと思うよ。普通はさ満員電車で触ったりするんだろうけど、違うんだよ、みんなが見ている駅のなんだよ。あれはどうみてもおかしいよ。ちょうど僕たちが改札を出たときだよ。ひとりの男が女の腕をつかんで引きずるようにして引っ張っていこうとしてたんだよ。女はつかまれた腕を振り解こうとしてたから、男とは反対の方向に行こうとしてたんだろうな。そうだなあ、男は三十前で、見た感じは善良そうで、ただ服装からして会社員と云う感じではなかったな。女は二十歳ぐらいで、大人しそうな美人タイプだったよ。それで女が泣きそうな顔をして『いやぁ、助けて』って叫ぶんだよ」 「それは知り合いじゃなかったの?」 「いや、違う、ちゃんと聞いたよ。知ってる人かって、そしたら知らないっていうんだ。止めろって言って手を離させようとしたんだけど、なにせ力いっぱいつかんでいるから、なかなかはなれないんだよ。女が泣き出しても、人がいっぱい集まってきても放そうとはしないんだよ。最後は四五人の男で羽交い絞めにして腹を殴ったりしてようやくはなさせて、そのまま交番に連れて行ったよ。女はぶるぶる震えて泣いていたよ。つかまれた腕が真っ赤になっていてよっぽど強い力でつかまれたんだろうな。その男も交番ではさすがに大人しくなったよ。でも言うことがおかしいんだよ。『オレがいったい何をやったんだ』って言うんだよ。まったく何を考えているんだろうね。外見的にはまったく普通の男だよ。でも自分で何をやったかまるっきし判ってないんだよ」 「あの男は異常性格なんですよ。あう云う男は社会から隔離しないと、そのうちに大変なことになるよ、いつもっと大それたことをしでかすが判らないからね。とにかく今はあう言うわけの判らない人間が多すぎるよ。」 と若い男が言った。年上の男の興奮気味の言い方と違って若い男のそれは冷たいほど落ちついていた。それには言葉を論理的に組み合わせていると云う知的なは感じはあったが、眼の前に居る聞き手が、どう受け止めようとかまわないと云う言葉の相互浸透性を無視したエゴイスティックな感じもあった。 清二はなぜかその若い男が言葉を冒涜しているような気がした。 世間話はさらに続いたが、清二は相変わらず居心地が悪く退屈であった。清二はトイレに立った。そしてトイレを出たが、そのまま居間に戻る気がしなかった。洋子が食堂に居たので帰りの挨拶のために入った。 「あの、今日は、これで帰りますから」 「ええ、もう少しいいじゃないの、どうせ明日は休みなんでしょう」 「うん、そうだけど」 なぜか清二は椅子に腰をかけた。 「高志さんは元気が出てきた見たいじゃない」 「そうね、、、、」 「ここは、分譲?それとも賃貸?」 「買ったの」 「それじゃまだだいぶ残っているんだ、たいへんだな」 「そうでもないわよ。うちと向こうのお父さんが出してくれたから」 「うん、そうか、それはよかった。それじゃボクはこれで帰りますから」 「そうを、まだいいのにねえ」 清二は洋子に送られて部屋を出た。マンションを出て夜道を歩き出したが、気分がスッキリせず何となく心細さを感じた。自分にはあう言うところは場違いなのかなと思った。二三分すると後ろから 「おうい」 と叫んで走ってくる者が居た。振り向くとそれは高志であった。高志は清二に追いつくとやや呼吸を乱しながら言った。 「どうしたの黙って帰ったりして」 「うん、友だちは帰ったの?」 「まだ居るよ。いいんだよ、あんなのはほっといて。不愉快なことばっかり言って、それに学生のときは友達だったかもしれないけど、今は違うよ。彼は口では心配しているなんて言ってるけど、ほんとうは僕の様子を探りに来たんだよ。僕のまいっているところを見に来たんだよ。おかしいじゃないか、ボクが退職するなんて、誰にも言ってないのに、知ってるなんて、おそらく僕の同僚の誰かから聞いたんだろうね。アイツは変わり者だからもうダメだとか、使い物にならないとか、まあ、言いたい奴には言わせておくさ」 「あの人たちは仲間じゃなかったの?」 「違うよ、彼らは商社マンだよ。若いのは彼の部下で、ボクとはまったくの初対面だよ。彼は今でも僕のことライバルだと思っているんだよ、学生のときからそうだった。何かにつけて張り合おうとするんだから、ボクにはその気がないのにさ、そのライバルが落ちていくのを彼は確かめに来たんだよ。不愉快な奴らだよ。ところで何か用事があったの?」 「いや、別になかった。ただ何となく。そうなんだよ、今日仕事の帰りに見たんだよ。駅の近くを歩いているのをね。それでどうしているのかなと思って。どうしても最近、うまくいかなくってね、まあ、イヤなことには違いないけど、でも自信をなくすほどのことじゃないよ。まあいわゆるスランプって奴なんだろうな、、、、、高志さんは元気そうで何よりじゃない。人に会うのは億劫でも、あう云う人ごみは好きみたいだね」 「変なとこ見られたもんだね。好きって云うわけじゃないよ。ブラッと散歩していたら、どういう訳か偶然女学生の大群に巻き込まれたんだ。最初は歩きづらいから横道にそれようと思っていたんだけど、そのうちに自分でも判らないんだけど、妙に気分がよくなってきてね、そのまま彼女たちにまぎれるようにしてずっと歩いていたんだよ」 「わかるよ、その気持ち、誰だって気分がよくなるもんだよ。みずみずしい声、可愛らしい顔、若々しい肉体、快感だよ。扇情的なんだよ。おもわず後ろから抱きついたりしてな、、、、」 「もしそんなことしたらさっきの痴漢と同じじゃない」 「ああ、あれね、不思議な話だ。でもボクにはそんな度胸はないから大丈夫だよ」 「度胸ね、、、、ボクにはその男がそんな異常性格だとは思わないんだけどね」 「、、、、、、そうだな、あれはちょっと、雰囲気に流されて言いすぎたのかな。堂々とあんなことをやるのは明らかに異常なこと何だろうけど、その男にとってはそれなりの理由が会ったことは確かなんだろうね。人前であることを忘れさせてくれるような、というより、人前であるからそうしたのかもしれないけど。その女にとって痴漢男はまったくの見知らぬ男だったかもしれないけど、その男にとってはそう思っていなかったかもしれないからね。たとえばその男は、毎日のようにその女と電車に乗り合わせていて、以前から綺麗な人だと思って、恋心を抱いていたのかもしれない。そこで今日たまたま眼があったりして、そのときに女が落ち着かない素振りを見せたかもしれない。そうなれば、その男にとっては、当然思わせぶりな行為に見えるだろうね。その男がとくに思い込みの激しい性格なら、恋の幻想を勝手に膨らませることはありうるからね。男が恋をするとヒロイックな気分になるから、それで人目もはばからずあう言う行為に及んだのかもしれないよ。それに周り者がつかんだ腕を放そうとしても、放さなかったのは、本人は自分の行為を恋する男の正常な行為と思っているので、周りのものが干渉するように騒ぎ立てて痴漢扱いにするので、かえって向きになったのかもしれないね。でもいくら恋をしていても、見知らぬ女にそう云うことをするのは、普通じゃ考えられないことだから、その男は精神が病んでいるところがあるんだろうね」 ゆっくりではあったが歩きながら話しているので清二のいうことがよく聞こえなかったのか、高志は無表情のまま何にも答えなかった。そしてしばらくしてから深刻そうな表情で言った。 「でも、その男、どうして自分は何にもやってないようなことをいったんだろうね」 「、、、、さっきも話したように、それは自分のしたことがそんなに悪いことだとは思ってないからじゃないの。べつに傷つけたわけでもないから、それで交番で冷静になってみると、興奮してたときの自分を思い出せなかったんじゃないの、、、、」 「そうだろうか、ボクは彼が嘘をついているような気がするよ。彼は自分がやったことを全部判っているはずだよ。思い出せないはずはないよ。彼は罰せられるのが怖くてしらばくれているんだよ」 「うぅん、いくら興奮していても、何もかも忘れるんてことはないだろうけど、でも彼はそもそも忘れるような人間だから、あう云うことをしたのかもしれないよ。酒乱の人間と同じだよ。僕の周りにはそう云うのがいっぱい居るけど、自分のやったことは不思議なほどなんにも覚えていないんだよ。次の日には皆けろっとしているからね」 高志が苛立っているようだったので清二なだめるように穏やかに言ったが効き目はなかった。高志は興奮気味に言った。 「、、、、なぜ、潔くしないんだ。ボクならはっきりと正直に言うよ。ボクは自分で何をやったかはっきり覚えているよ。そのとき、どんなに興奮していても、あとで思い出せないことなんてことはないよ。その痴漢は自分をごまかしているんだよ」 「うん、そりゃあ、僕たちはいくら興奮していたって自分のことは覚えているよ。でも、彼は、、、、、」 「、、、、なぜ嘘をつくんだろう。彼のような人間は裁判の時には自分の罪を軽くしてもらうために、自分に有利なことを言って、不利になることは言わないんだろうね。自分に有利であろうと不利であろうと、?自分のやったことを、思ったことを感じたことを正直に言わないんだろうね。ボクだったら正直に言うよ。嘘を言って罪を軽くしてもらったってなんにもならないだろう。正直に言って罪が重くなっても、それはそれで真実が現れるならいいじゃないか。何にも恐れることはないじゃないか。どうせバツを決めるのま同じ人間じゃないか。しょせん裁判では真実は現れないよ。検事だって職業柄が過大に罰を科そうとするだろうし弁護士だって自分の面子のために詭弁労してまで、罪を軽くしようとするだろう。どうしてそんな駆け引きをしなければならないのだろう。なぜ自分のやったことを、そのときに思ったことを正直に言ってはいけないの?でも仮に正直に言ったとしても、裁判官が俗物だったら真実なんて永久に現れないよ。ボクはそう人間たちの裁判では裁かれたくないよ」 「、、、、、、、、、、そうだなあ、ボクもそう思うよ。でもさ僕たちのように平凡に生きている人間には裁判なんて無縁なことだよ。普通に生きていたら、そんなことには巻き込まれないよ。だからそんなに深刻に考えるほどのことじゃないよ」 二の言ったことが気に入らなかったのか高志は黙ってしまった。 いつのまにか車がまったく通らないとおりに出ていた。しばらくのあいだ二人とも黙って衣類ていたが、高志が急に立ち止まり話しはじめた。 「悪いけど今晩はここで別れよう。このまま居たらまた喧嘩に別れをしそうだから。せっかく来てくれたのに、今日は取り込んでいて何も出来なかったけど、そのうちににまた遊びに来てね。洋子も君が来るのを待っているから。それじゃ、あっそうだ、さっき困ったようなことを言ってたけど、何か言いたいことあったんじゃないの?」 「いや、たいしたことじゃないよ。ちょっとしたスランプ」 「そうか、それはよかった。いつもボクのことばかり言って悪いと思っているよ。でもボクはね、本当のこといって、君のようにひたむきに頑張っている人間を見ると、ほっとするんだよ。君のような人間まで滅入っていたら、僕たちはどうしようもなくなるもんね。それじゃ、サヨウナラ」 「気をつけて」 清二は再び歩き出した。しばらくして周囲の風景に見覚えがいるような気がした。そして今歩いているところは、かつて高志がいきなり興奮して一方的に別れの言葉を残してそのまま去っていったときに二人で歩いた通りであることが判った。 黒塚が辞めていった。誰も彼を邪魔者扱いにしてたり、彼に対して嫌がらせをしたわけではなかった。むしろ、彼のわがままぶりに不満を感じても、短気で暴力的な性格の彼と、あまりかかわりを持ちたくないかのように、文句も言わずに耐えているものが多かった。それに彼は日頃から 「オレは前の仕事では今よりも何倍の給料を取っていた」 とか 「この仕事をやっているのは、次のもっと金になる仕事が見付かるまでの単なるつなぎでそのうちに辞めてやるよ」 と嘘ぶいていたので、まったく彼自身の事情によるもののようであった。ただ、彼が辞めることになった直接の原因は、社長が前借りをさせてくれなかったことであった。 その日清二は黒塚と現場が同じになり、終日社長や親方たちに対する彼の不満や悪態を聞くハメになった。もちろん親方である石田や三好が眼の前に居ないときである。清二は不快であったが、とにかく聞こえない不利をするしかなかった。ただ、腹がたったことは、彼が今日で辞めると清二に言っておきながら、夕方帰るときになると、石田には 「明日からは電車で通うから」 と平然と嘘を言って、隣町の自分の家まで、清二たちがいるにもかかわらずわざわざ遠回りをして、車で送らせたことであった。 と云うのも彼は会社の車を借りて通勤していたので、明日から来ないと云うことは会社の車で帰ることは出来なかったからである。 清二は彼のずうずうしさや卑劣さに腹が立ち、そして彼の姑息な計算高さやカメレオンぶりにあきれて、よっぽど本当のことをばらそうと思ったが、今日で最後だと思うと何とか我慢することが出来た。 鈴木は黒塚が辞めていくことにそれほど喜びをあらわにしなかった。だが清二は祝杯をあげたい気持ちだった。と云うのも後に残った人間は皆話しの判るまともなものばかりで、これからは不快な思いや苛立ったりすることなく仕事をやっていけそうな気がしたからである。 ある土曜の夜、清二は銭湯で三好と石田にあった。彼らは少し飲んでいるせいか激しく陽気であった。仕事が終われば人が変ると云うことは多少予想がついていたが、これほどとは思わなかった。二人で大声でふざけあって笑ったり、バンダイのところで飛び上がって女風呂を除こうとしたり、清二に水をかけて喜んだりしてまるで子供のようであった。彼らの下品な行為は紛れもなく傍若無人であったが、陽気で無邪気であったので、それほど周囲の者に不快感を与えているようではなかった。 風呂から上がると、二人は清二を飲みに誘った。清二は夜も遅いからと最初は断ったが、三好が笑みを浮かべながら命令するように、しつこく誘うので仕方なくついていくことにした。 清二は普段から仕事を離れたら彼らの命令には従う必要はないと思っていたのであるが、このときの言い方には、仕事のときのような冷徹さはなく、むしろ親密さが感じられたからである。それに彼らの強引な誘いに決して悪い気はしなかった。なぜならそのことは少なくとも自分は彼らに信頼されていると云うことであり、その親密さには、四ヶ月目にしてようやく、彼らに友情らしきものが芽生えてくるのを感じたからである。 車で五分と掛からないところにあるスナックに入った。 ホステスの歓迎振りからして、彼らがよく通う店のようであった。店には四十過ぎと三十過ぎと二十台半ばの女が三人いて、他の客も多かったが、三人分の席はあいていた。 清二は彼らに誘われて飲むのは初めてであった。清二は彼らの日頃の態度からして、飲み屋ではさぞかし我が物顔に振舞うのではないかと思っていたが、そうでもなかった。機嫌が良いせいもあったが、他の客に気を使い、友好的であった。ただ石田は顔をほころばしてホステスをからかったり、触ったりしながら下品さをあらわにした。女のほうもそのことには慣れているようで少しもイヤな顔をみせずむしろ楽しんでいるかのようだった。その反面三好は石田よりも紳士的でホステスの前では甘える子供のようであった。終始愛想笑いを浮かべ、話し方も子供のように曖昧で、女の注意引くようにいじけるまねをしたりして、可愛い子振った。彼がどういう意図でそう云う台度を取るのか清二にはからなかったが、四十男の三好の異様な可愛い子振りには度が過ぎたものが感じられ、あまり見られたものではなかった。 清二は彼らの会話には入らなかった。というより入れなかった。なぜなら彼らとのあいだにはまだかなり隔たりがあると感じていたので、彼にの会話に入ることはおこがましいことのように感じられたからである。それに共通の話題になりそうなこともまだなかった。だから二人が勝手に自分たちだけで女をからかったりふざけあったりして楽しんでいることは、清二にとっては帰って気楽であった。そのうちに石田が三好に何やらささやいたあと店を出て行った。 三十過ぎの女が、清二を三好の部下と見たのか二人に話しかけるようにいった。 「三好さんはやさしいから下で働く人はいいでしょう」 「でも、オレは仕事のときはきびしいよ。やさしいのは仕事が終わってからだよ」 と三好は嬉しそうに言った。 女は三好の可愛い子振る態度をやさしさと感じているようであった。それに三好自信もそう云う態度をやさしさの表現と思っているようで、女にそのように受け取られたことに凄く満足そうであった。しかし清二は彼のそう云う態度にわざとらしいものが感じられ、女のように素直に受け取ることは出来なかった。まもなく三好はカウンターにうつぶして眠ってしまった。酔いがまわっせいもあったがホステスが他の客のところに行ってまわって来なくなったのである。しばらく眠って閉店になってもまだ眼覚まさなかった。女が肩をたたいたりして起こそうとしたがなかなか目を覚まそうとしなかった。最後に頬をたたかれたり口に氷を押し込まれたりしてようやく目を覚ました。三好はふらつきながら外に出た。そんな様子を見て女が清二に言った。 「三好さんは、どんなに酒を飲んでも、運転は大丈夫だから」 金を払わないで出たから、三好はつけで飲んでいるようであった。女の言うとおり三好は車に乗ると急に元気を取り戻した。運転も危なげなかった。そして素面のときにように言った。 「あれ、オレの彼女だよ」 「ええ、どれですか」 「いちばん若いの」 「ああ、二十五六の、ちょっとポテッとした、、、、」 「二十五六じゃないよ。まだ十九だよ。朝鮮人なんだよ」 清二は酔っているせいもあって、三好のいった言外の意味を正確に捉えることは出来なかった。女は特別な容姿はしていなかったが、まぎれもなくオンナであった。 親方である三好に誘われて初めて飲んだのではあったが、清二はなぜか、楽しかったと云う気持ちには全然なれなかった。共通の話題がないため、これといって何も話さなかったせいもあったが、何となくちぐはぐな感じが残っており、また三好はこれでも好意的に振舞ったのではあろうが、清二にとっては、彼の態度に独善的なものが感じられなくもなかったからである。だからこれによってそれほど友情が深まったと云う気がしなかった。 ある日、仕事から帰ってみんなが事務所に集まっているときに、社長が三好に何気なく言った。それによると黒塚が今日社長を訪ねて来て再び使ってくれるように頼んだということであった。そして社長は再び採用を決め、黒塚は久保山の部屋に入るということであった。清二は意義を申し立てたい気持ちであったが、もう社長が決めたことなので何も言うことができなかった。ただ苦笑いを浮べて鈴木やジュンと顔を見合わせるだけだった。おそらく黒塚は社長の前で殊勝顔で振舞ったのだろう思った。この前黒塚が辞めて行ったとき、彼が常日頃裏ではどんな言動を取っていたか、また、辞めていくものだからといって決して容赦しないで、彼の悪行を洗いざらい話しておけば良かったと清二は後悔した。 帰りの車に乗り込んだ清二は鈴木に言った。 「明日からはまた、わがまま坊主に引っ掻きまわされるよ。これは恐怖ですよ」 鈴木は笑みを浮かべて聞いているだけであった。もちろん清二は冗談のつもりで言ったのだった。と云うのも、少なくとも黒塚は、あれほど悪態をついて辞めていったのであり、また出戻りということもあって、多少の肩身の狭さを感じているはずであるから、今度は幾分大人しく振舞うに違いないと思ったからである。それにこれからは彼の性格があらかじめ判っているので、彼が自分勝手な行動をとろうとも以前ほどまともに腹を立てることもないに違いないと思ったからである。 しかし予想は大きくはすれた。黒塚は大人しくなるどころか、以前にも増して傲慢になり我がままぶりを発揮した。それは再び働きだしたその日から始まった。その異常さは不可解なほどであった。 黒塚は少なくとも以前よりも積極的に仕事をしようとした。しかし、彼にとっては不慣れなしかも他のものから見れば、でしゃばりとも思えるような重要で目立つ仕事を選んだ。それは彼が他のものより、とくに前に、彼より遅く入ってきた者より仕事が出来ないことはハッキリしていたので、彼は自分にもできると云うことを見せようとしたためのようであった。 しかし掛け声を上げやる気を見せてもしょせん虚勢に過ぎなかった。彼には体力も技量もないので思い通りに行かなかったり失敗したりした。そのことは親方たちを苛立たせた。それは彼が仕事が出来ないと云うことが、みんなの前で宣告されているようなものであった。彼もそのことを感じたようであった。そしてプライドの高い彼はそのことはどうにも我慢が出来なかったらしく、ヒステリックに苛立ち、周囲の者に聞こえるように大声を上げた。それは紛れもなく侮りは許さないぞと云う威嚇行為であり、動物のように本能的でさえあった。 仕事しているときに大声を上げたり怒鳴ったりするのは、ほとんど三好や石田だけで、それも作業上のことなので、下の者はある程度我慢もし容認もされたことであった。しかし黒塚の大声はまったくエゴイスティックなもので異様であった。だから他の者は彼に対してこころよく思ってないことは確かであった。だが彼の異常さを感じ取ったのか、それほど気にかけていないように普段とおりに冷静に作業を進めていたた。それに彼に面と向かって威嚇されたわけではないのであるから。 しかし彼がいくらいきり立っても作業がうまく行くはずはなかった。それでも彼は不慣れな作業を諦めようとはせず、まるで自分ひとりで仕事をしてるのかのように苛立ったり大声を上げたりして尊大に振舞った。 彼を付け上がらせているのは、いくら彼かわがままに振舞っても、周りのものがあえて何も言わなかったことにあることは確かだった。それに彼自身も、周りの人間は大人しそうと本能的に感じ取り、自分には何も言わないだろうとタカを括っているようでもあった。彼は以前のように、人を見て半ば意識的に自分の言動を決めていることはハッキリしていた。なぜなら親方である三好や石田の前では相変わらず苛立ったり反抗的な態度を見せたりはしなかったからである。むしろ親方たちが苛立ったり怒鳴ったりすると自分も大声を上げたりして、それに同調して彼らにおもねるような 言動を取ったりした。 黒塚を異常なほど興奮させているのは、彼がせっかくやる気を起こしてやろうとしても、失敗をしたり思いどおりに行かなかったりするために、自分に対する腹立たしさや、親方から叱責されたりする為だけではないようであった。彼のヒステリックな言動に対して周りの者がそれほど気にかけようともせず冷静な態度で居ることにもあったようだ。つまり周りのものが彼を無視して作業を進めることは、彼が仕事が出来ないと云うことを、よりいっそう際立たせることになるからである。彼はそのことを敏感に感じといっているようであった。どうやら彼が、自分には出来ない仕事を無理やりやろうとして半ば無意識的に虚勢を張るのは、他のものより仕事が出来ないと云う劣等感を感じ取っているためのようであった。 だから彼の興奮は容易には収まらなかった。そしてときおり親方たちが眼の前に居ないとき、自分の苛立ちを弁解するかのように、 「オレは人に怒鳴られるのはイヤなんだ」 とか 「オレはかっとすると何をするか判らない」 などと声をあらげて言った。そのときの彼の眼は傲慢さを通り越して狂気に近いものがあった。それは紛れもなく、もし今後自分に対して舐めた態度をとったら、暴力を行使するぞと云う、周りのものに対する脅迫であった。しかし他のものは彼が仕事を出来ないからといって決して侮っているわけではないのである。ただ彼の子供じみた行為にあきれ返り、出来るならあまり関わりたくないと云うのが本音のようであった。 彼は周りのものが大人しいことをいいことに、ますます調子に乗り、他人の失敗に対しても、まるで自分が親方であるかのような言い方で叱責するようになってきて、その横柄さが際立つようになってきた。 他の者がいくら彼の言動を子供じみたものとみなし気にかけまいとしても、長くいっしょに作業をしていると、彼の横柄さは、作業の妨げとなることがあり、それに他のものも彼ほどでなくてもプライドを持っていることは確かで、彼の度を越した横柄さは明らかに他のもののプライドを刺激するものがあるので、他の者はどうしても彼の言動を気にするようになったりして、だんだん苛立って不満を表すものが出てきた。日頃から黒塚に対して他のものより同情的であった久保山でさえ 「何カッかしているんだろう」 と不満を漏らした。 清二も初めのうちは彼の言動に半ば諦め半ばあきれて、それにいちいち気にしていたら仕事にならないので、他のものと同じように無視しながら、冷静に振舞っていたのであったが、やはりどうしても気に触るようになり、だんだん苛立ったり腹を立てたりすねようになっていった。 出戻ってきた最初の日ほどではなかったが、その後も黒塚は自分の感情に任せて行動した。 あるときは傲慢に横柄に脅迫気に、またあるときは姑息に卑劣に狡猾に振舞った。そんな彼に対して誰も何を言わないのは彼の暴力的な雰囲気を恐れているからではなかった。周りのものは彼の行為が子供じみたものと見抜くほど、大人であったから、彼のわがままを多少は不満に思いながらも容認しているようであった。 それに親方たちも、彼に対しては他の者に対するように、強い態度で命令したり怒鳴りつけたりすることは殆どなかった。それはおそらく彼は他の人間とはどこか違うと感じているらしく、まともな扱い方では通用しないと云うことを感じているようであった。しかし清二は彼に対して決して寛大に離れなかった。彼が戻ってくるまでは少なくとも和やかな雰囲気のもとで作業が行われていたのであったが、彼が戻ってきたために、全体が苛立った雰囲気になり、人間関係が何となくギスギスしたものになったかと思うと、どうしても彼の自分勝手な行動を許せなかった。 彼は親方たちが苛立って怒鳴ったりすると、自分も同調して怒鳴ったりした。自分が怒鳴られるのはイヤだと言っておきながら人を怒鳴るのは平気なのである。 とくに彼は高いところに居るときはその性癖を発揮した。少なくとも彼から怒鳴られるのは筋違いと思っている清二にとっては苦々しいものであった。しかし清二にとって最も苦々しいことは、彼がそのように親方たちにへつらうような態度をとっておきながら、彼らが目の前に居なくなると平気で悪態をつき清二に同調を求めることであった。 ![]() ![]() |