ブランコの下の水溜り(26部) はだい悠
清二が興奮気味に話しているあいだ、終始真剣な表情で聞いていた高志は清二が言い終わると穏かな笑みを浮べて話し始めた。 「今までは、君からいろいろ話を聞かされてきたけど、君は地味でまともな仕事ばかりをやってきたって感じだね。しかもそれはみんな割りの合わない仕事でね。君とボクが組めば、何をやったってうまく行くなら、いっそのこと世間をあっと言わせるようなことをやろうよ。どっかの銀行から金を騙し取るとかさ、金を溜め込んでいそうな家から、ちょっと失敬するとかさ、その後に金遣い気をつけて大人しくしていれば絶対にばれないよ。なんか君と組むと割りのあわない仕事をさせられそうだよ。人生は短いんだ、この際ぱぁっと派手にやらないか?」 「それもいいね、ちゃんと計画を立てやればうまく行きそうだね。あう云うのは、いかにもやりそうな人間がやるから目をつけられ捕まる可能性が高いんだよね。僕たちなら誰が見たってやりそうには見えないからね。それに悪いことをした人間と云うのは、そのあとみんなの前で自分のやったことを言いふらしたり、それとなく態度に表したりする傾向があるからね。ボクは大人しくしていられる自信があるから絶対に捕まらないだろうね。でも本当に成功したら病み付きになりそうだね、、、、、そうそうさっき、割に合わないといったけど、割に合うようなことをやっている人間と云うのは、ほんのひとにぎりだよ。それも一時的でね。自分だけが割に合うようなことをやっていると思うのは、成功者といわれる人々だけがマスコミに取り上げられたりして、目立つから、そう云う人間が周りにいっぱいいて、自分は永久に割の会わないことをやっているように勘違いするからなんだよ。本当は大多数の人間は地味でまともな仕事をやっているんだよ。それに成功者と云うのは、その何百倍の失敗者と、普通に平凡にやっている無数の人たちのおかげで成功者と言われるのだからね、、、、、、」 「、、、、、どうもボクは、その成功者というイメージはすきじゃないよ。確かに、彼らは男性的で精力的でそう云う才能に恵まれた人たちなんだろうけど、でもね彼らは、自分たちは勝者なんだから、何をやろうと、どんなに金をもうけようと、自由だと云う感じでね、まるで自分たちのためにこの世界はあるんだと言わんばかりの態度をとるからね。そう云う才能はさ、もっと社会の不幸や悲劇を少なくするような方向につかってくれるのが望ましいんだけどね。でも今のままだと逆に彼らが自由奔放にやっているために世界の不幸や悲劇が起こるみたいだよ。だから正直言って、銀行強盗をやるような人間の気持ちが判らないわけでもないんだよ。僕にはどうしても成功者といわれる人たちを人間的に好きになれないよ。これはそう云う才能のないボクの僻みかな、、、、」 「、、、、まあ、しかしその一方では、そういう力や才能がない代わり、社会に不幸や悲劇が起こるのを押さえるような役割を果たしているひたむきな人間が、そう云う成功者と同じくらいに存在していることも確かなようだよ。つまり、、、、、選ばれた人とか成功者と呼ばれる人たちが社会を動かしていると云うのは、錯覚に過ぎないよ。そう云う人間はあくまでもそうでない人間より、運とかそう云う才能に恵まれていたために、偶然に近いぐらいの確率で、そう云う役割を負わされているに過ぎないのだよ。ただ、こういう言い方をしてしまうと、あまりにも味気ないので、そう云う人たちは、自分の力で功なり名を遂げたとか、自分は他の人間よりは偉いんだとか、そのおかげでそうでない人間よりも、立派な家に住み、贅沢ができるんだと、と云う幻想的な価値を必要としているんだよ。それにそう云う人たちに才能がありすぎるのも困りもんだよ。優れた指導者のおかげで、国家や企業が繁栄したと云うことは、裏をかえせはそう云う人間がいなくなれば、だめになると云うことだからね。そのときはいいかもしれないけど長い眼で見たら、プラスマイナスゼロだからね。要するに、そう云う才能なんて、適度であればいいんだよ。そんなに優れた人間がいなくたって社会それなりに動くもんだよ。むしろあなたの言うようにさ、そう云う優れた人物がいるために、社会が混乱して不幸なことや悲劇的なことが起こるのかも知れないよ。なぜならそう云う人間は例外なくみんな、天下を取ったらありもしない外敵から国民の財産や命を守ってやろうなどと余計なことを考えるからね。別に頼みもしないのによ。それに比べて人間がみんなぼんくらであったなら、社会の変化や進歩はゆっくりとしたものになるかもしれないけど、でも平穏で着実なものになることは間違いないからね、、、、」 そのとき洋子が帰ってきた。そのまま居間に入ってきてソファアに座るとほっとしたように大きくため息をついた。それを見て高志が話しかけた。 「どうなったの?」 「何とか今までどおりですみそう」 「凄いじゃないか、人生相談所でも開いたら?」 「そんなんじゃないわよ。わたしにある限りの知恵を絞って相談に乗ってあげたつもりなんだけど、結局は、わたしたちのことを話して聞かせたことが、いちばん聞いた見たいね、、、、、、」 と洋子はやや不満そうな表情で言った。 「まあいいじゃないか、どっちみちひとりの不幸になりかかっている女を救ったんだから、いま僕も救われかかっているんだよ。今度二人で銀行強盗をやろうってね、、、」 と高志は嬉しそうな笑みを浮べながら言った。洋子はその意味が理解できないらしくキョトンとして表情で清二を見たので、清二が話し始めた。 「イヤね、まだ何をやるかは決めていないんだけど、今度高志さんといっしょに何か仕事を始めようってね、いま話していたところなんだよ。高志さんも承諾してくれてね、それで僕たちが組めば銀行強盗だって、うまく行くだろうって冗談で話していたんだよ」 「それじゃ、今の仕事は?」 「うん、やめたよ」 「、、、、えっ、そう、、、、、まだ何をやるかは決めてないのね」 「うん、色んな事情もあるだろうし、まだ余裕もあるしね、ゆっくりと決めようと思っているんだよ」 「ボクは冗談なんかじゃなかったよ」 と高志は再び笑みを浮べながら言った。 和らいだ表情で洋子が席を立った。高志は洋子が出て行くのを目で追ったあと何かを考え込むかのようにうつむいた。そしてゆっくりと顔を上げながら真剣な表情で話し始めた。 「、、、、、子供のころの思い出と云うのは、いっぱいあるんだけど、二十歳すぎてからと云うものは、思い出らしい思い出と云うのはほとんどないんだよ。どうしてなんだろう?この十年、いったい何をやっていたんだろうって感じだよ。洋子と結婚したことだって、正直いってそれほど感激的なことではないんだよ。ボクは君といっしょに仕事をやることに何も問題はないよ。でもその前に、君に話しておきたいことがあるんだよ。たぶん君を驚かせることになると思うけど、、、、、」 「何を聞こうが僕は驚かないだろうね。もうボクは人間が何を考え何をやろうが、それが行為として可能なことなら、もう驚かないようにしているんだよ。だから、行為として それが不可能なことなら驚くけどね、たとえば百メートル五秒で走るとか、鳥のように空を飛べるとかね、でもあなたに、愛人がいるなんて話は別だよ。それは驚くと云うよりも、むしろ怒るよ、それでどう云う話? 「、、、、、うん、いや、、、、やめるよ、たいしたことではないから、、、、もういいんだ」 「そんないいかだと、ますます聞きたくなるじゃない」 「ほんとにたいしたことではないんだ、まったく僕自身の問題でね、洋子にも君にも関係ないことだから、、、、、」 そう言いながら高志はソファアに仰向けに横たわった。そしてしばらくしてからゆっくりと話し始めた。 「、、、、、ところでちょっと君に聞きたいことがあるんだよ。いぜん話したことがあるよね、同僚に、酒を飲んで訳のわからないことでからむ、暴力的な男がいたって、その男に君は侮辱されたり、脅迫されたりしてもどうして立ち向かわなかったの?」 「、、、、ああ、あいつか、国沢のことね、あんまり思い出したくないことだね、、、、、自分でもどうして立ち向かわなかったのか、よくわからないよ。臆病だったからかな、確かに脅迫されたときは怖かったからね。それに、もし実際に向かっていって喧嘩になった場合、下手をすると警察沙汰になりかねないと云う不安があったからね。でもその反面、あの男にいくら侮辱されても、なぜか本気で怒る気がしなくてね、喧嘩になりそうにもなかったことも事実なんだよ。あの男とボクはどこか違うって感じでね、それは高志さんとなら喧嘩ができるが、あの男とは喧嘩ができないと云う性質のものなんだよ。もしかして、僕はあの男に無意識的に、同情や憐れみを感じていたのかもしれないね。でもあの男にとっては、ボクのそう云う態度が、気取っているように見えたらしく、相当気に入らないことみたいだったよ。つまりあの男は、暴力や怒りや憎しみが伴う肉体的感情的な関係でしか他の人を知ることができない人間みたいでね、ボクが本気で起こって感情をむき出しにして立ち向かってくることを望んでいたみたいなんだよ。まあ、、、、、そう云う性格がたたって、同じ浮浪者仲間に殺されてしまったんだろうけど、でも、あの男にとっては本望かもしれないな、、、、」 「本望?つまりそれは、その男は死ぬことを望んでいて、喜んで殺されていったってこと?」 「いや、そうじゃない、だいいちあの男は死ぬことを望んでいたり喜んで殺されていくような人間じゃないよ、そうじゃなくて、おそらくあの男は、あのとおりの性格だから、なにか面白くないことがあって、仲間か誰かに、ボクに絡んだように絡んで、それで喧嘩になって殺されたんだと思うけど、でもあの男にとって、自分なりに仲間としての人間を求めた行為のもとで、自分の生命の源となっているかのような感情を激しく燃焼させて死んで行ったのだから、それほど悔いはないだろうと云う意味だよ。つまりあの男には、自分がこういうことをやったら殺されてしまうのではないかと云う不安や恐れはまったくないんだよ。あの男にとってそのような行為は、あくまでも人間を求め人間を相手にするなかで、激しく生きようとする生命活動になっているんだよ。それからね、もしあの男を殺した犯人が、あの男の仲間で、しかも似たような人間であったら、あの男に怒りや憎しみを覚えて、痛い目にあわせて黙らせようと思ったかもしれないが、殺そうなどと、つまり相手の生命を亡き者にしようと云うハッキリとした意識はなかったと思うよ。それは殺された男にも同じことがいえると思うよ。なぜなら彼らは、お互いに自分の感情や肉体を相手に激しく関わり合わせることによってしか、生きていくことのできない人間たちだからね。つまり相手を感情のない肉体にすると云うことは自分の生きがいを自ら絶つと云うことになるからね。だからあうなつたのは、あくまでもちょっとしてはずみであってね、不運といえば不運なことであって、結果的に殺す殺される関係になったに過ぎないのだよ、、、、」 「、、、、、君のいうことを聞いていると、少しも犯罪と云う感じはしないね、、、、」 「いや、犯罪には違いないよ。あの男を殺した人間だって、不安な気持ちでいるだろうし裁かれるべきことだと思うよ。でも、そう云うことは、警察や裁判所に任せればいいんだよ。僕は殺された男を知っているせいか、みんなが思うように単なる犯罪として片付けられないものを感じているんだよ。以前は、人に迷惑をかけているためにだけ生きているような、あんな役たたずな男は殺されても当然だと思っていたから、殺した人間が裁かれるには気の毒と思われるほど意味のない事件だと思っていたけど、でも最近は、あの男のやったことにいろいろと考えさせられることがあって、そうとも言い切れないような気がしてきているんだよ。つまり結果的には殺す殺されると云う血なまぐさいことになったけど、でもそこにはまだ人間的な意味をくみとれる余地があるような気がしているんだよ。だから殺す殺されるといっても相互不信のもとで憎悪の炎を燃やして、遠くはなれたところに爆弾を落として人間を殺すというのとは全然違うことだよ。確かに彼らは残忍で暴力的で、妬みや憎しみや誤解に翻弄されて生きている愚かな人間ではあるけれど、でも少なくとも相手の感情や肉体を眼の前にしながらお互いに関わりあっていると云う人間的な関係のもとで生きているということも確かだからね。 もうこんな話はやめようね。本当に気が滅入っていきそうだよ。今度こそ辞めよう。もうすんだことだし、これからの僕たちには関係のないことだからね。今日は僕たちの再出発の日じゃないもっと明るく行こうよ。そうそう、さっき高志さんが、思い出らしい思いではないといったけど、これから二人で仕事をやっていくうちに、思い出なんていっぱい出来ると思うよ。なにせ、自分たちだけで責任を持ってやるとだからね。失敗したり思いがけないことが起ったりするたびに、あわてたり、青くなって走りまわったりするんだろうね。そのときは確かに大変かもしれないが、あとで笑って思い返せるような思い出になるはずだよ。さあ、これから楽しくなるぞ、、、、」 そう言いながら清二がトイレに立とうとしてとき、それまでうつむきがちに頷きながら聞いていた高志が、真剣な表情で清二のほうを見ながら言った。 「、、、ボクは君といっしょに仕事をやることにまったく問題はないよ。ただその前にひとつ聞いておきたいことがあるんだよ。そうだなあ、、、昨年の秋頃から君とボクの付き合いが始まったよね。ボクはずいぶんひどいことを君に言ったり、君の前で変な行動をとったりしたけど、気味は全て我慢をして付き合ってくれたよね。とくに最近は、失業して次の仕事がうまくいってないボクを気遣って、君のほうから頻繁に来てくれてさ、そのことは、僕はありがたいと思っているよ、それに今日などは、いっしょに仕事をやらないかってもちかけてくれてね、非常に感謝しているよ、、、、、」 「そんなことはもういいよ。だから、聞きたいことって言うのはいったい何なの?」 「うぅん、なんていうかな、つまりね、いっしょに仕事をやらないかって云う話とは別にね、何か、、、、ボクに、、、、言いたいことが、他にあるんではないかと云うことだよ、、、、」 「ボクが?何もないよ」 「ほんとに?」 「うん」 「ほんとうに?」 「ほんとうに、、、、なんでよ、ああ、つまりそれは、なぜボクが、赤の他人で何の利害関係もないあなたのことを気遣うかってこと?それは簡単なことだよ、僕はあなたやあなたの奥さんが好きだからだよ。つまりボクはあなたたち夫婦が離婚しないで、ずっと仲良くやってくれることを願っているからだよ。判った。よし、もうこんな話はこれっきりだよ。僕たちの再出発の日にはさわしくないからね」 と清二は声を弾ませて言うとトイレにために席を立った。 その晩、三人で夕食をともにした後もいまで世間話をしたりして和やかなときを過ごした。みんな屈託のない笑顔で会話の虜になり子供のように無邪気だった。それはそれまで三人三様に抱えていた悩み事や心配事が解決したためでもあった。 とくに高志は清二が子供のころ洋子の裸を見たことや、三人にとっては共通の思い出となっているハイキングにいったとこのことを話題にして、かつて見せたことがないほどに陽気に振舞った。これで何もかもうまくいくことは明らかであったので、清二にとってはこの上なく楽しい夜であった。 次の日曜日の夕方。清二は喫茶店で女を待っていた。いままではあまり外にも出ずほとんど女の部屋であっていたが、今日訪ねたとき、客が来ていたらしく部屋からは賑やかな話し声が聞こえてきたので、外から電話をかけて近くの喫茶店で会うことにしたのだった。 女はなかなか現れなかった。 そこは裏通りに面してはいたが、繁華街であったので人通りは多く賑やかなところであった。清二はじょじょに暮れてゆく窓の里の華やかな町並にボンヤリと目をやっていた。そのとき 「伊東さんっていうのはお宅ですか?」 と声をかけるものがいた。見ると男が立っていた。 その男は二三分前に、四人連れで入ってきて、清二の斜め前の席に座ると、落ち着かない様子でヒソヒソ話をしたり周囲の様子を注意深く見まわしたりしていた男たちの内のひとりだった。 清二が頷くと、その男は仲間の男たちに向かって目配せをしたのが判った。 その男は年も背格好も清二ぐらいであった、顔は目の大きい鼻筋の通った男性的な顔立ちをしてはいたが、どことなく野卑で傲慢な感じがあった。服装は年の割には派手で、しかも頭髪はしゃれ男らしく現代風にきちんと手入れされているせいか、遊び人のように見えないこともなかった。その男の合図で清二の様子を覗うようにじってみている仲間の男たちは、その男よりも年若く紛れもなくチンピラ風であった。 その男は席に座っても礼儀正しさを感じさせるぐらいに表情をこわばらせ妙によそよそしかった。そしてその大きな目に不遜な輝きをたたえながら、清二を威嚇するようにじっと見つめながら話し始めた。 「いくら待ってても、叔母はこないよ」 「、、、、、、」 「あんたはどういうつもりで叔母と付き合っているの?結婚するつもりはあるの?」 「、、、、、、」 清二はなに答えることができなかった。と云うのも、昨年の秋の悲惨な出会いから始まった二人の付き合いのなかで、清二は一度たりとも、結婚と云う言葉や、その言葉にまつわるさまざまなイメージを思い浮かべたことはなかったからである。 結婚というものは、たとえそれがどんなに純粋な恋愛の結果であるかのように見えようとも、結局はお互いの打算や虚栄や、親戚や社会の鬱陶しい思惑に拘束され支配されているあまりにも現実的な男女関係なのである。 清二が彼女との付き合いに求めたのは、出会いの順序がまったく逆であるために生じた悲惨な状態が償われることであり、結婚とかに伴うそう云うあまりにも現実的なイメージをいっさい排除した付き合いなのである。そしてそれに対して彼女のほうもうまく答えてくれたせいもあって、そう云う関係を続けていくことができたのであった。ただ今度の新しい仕事が順調にいったらいっしょに住もうという気持ちもなくはなかった。だが、それでさえも世間で言う結婚と云うイメージには程遠いものであった。 その男は不快そうに顔をゆがめ薄笑いを浮べながら言った。 「そうだろうなね、ある訳ないよな、、、男はみんなそんなもんよ、とにかく何が目当てで来るのか判らないけど、もう叔母には付きまとわないでくれない、、、、」 「あの人がそういったんですか?」 「うっ、うん、そうだよ」 「、、、、、そうですか、、、、そう言ったんですか、、、、きらわれてしまったのなら仕方がないですね、、、大丈夫ですよ、ボクはもう来ませんから、安心してください」 そう言い終わると清二は窓の外に眼をやった。 「ところでお宅は何歳なの?」 「えっ、ボクですか?ボクは二十八です」 と清二はやや驚いたように男のほうを振り向きながら言った。と云うのも、清二は話はすんだので男が席に戻るもので思ってたからであった。男の目には先ほどのような威嚇をするように厳しさはなかったが、不遜な輝きはまだ残っていた。男はやや表情を和らげて言った。 「へえ、するとオレより二つ年上か、でもなあ、、、、、叔母の年はいくつか知っているの?」 「いいえ、訊いたこともないから、、、、」 へぇっ、あきれたもんだな、お宅は叔母の年も知らないで付き合っていたの、こりゃあたまげたね、若そうに見えるけど、三十八だよ、いや三十九かな、、、、叔母はお宅のことを怖いといっていたけど、全然そうは見えないね、お宅は何をやっているの、会社員?」 「ええ、、、、まあ、、、、ボクのこと怖いって言ってたんですか?」 「うっ、うん、オレはてっきりヤクザかなんかとも思っていたよ。びっくりさせやがって、まったく、、、、」 そう言い終わると男は、仲間の男たちのほうを振り向き笑みを浮べながら首を横に振った。そして何気なく清二のほうに向き直ると、だいぶ表情を和らげて再び話し始めた。 「なあ、お宅はまだ若いじゃない、それにまともじゃない、何もよりによって、あんな商売をしている女を好きにならなくたっていいじゃない、、、、」 「年とか、商売とかな関係ないですから、、、、」 「そうかな、、、、叔母はそれほど綺麗でもないしな、、、オレはどうも納得ができねえよ、何か魂胆があるとしか思えないな、、、、」 「何もないですよ」 「そうかな、、、叔母はたっぷり金溜め込んでいるしな、お宅だって、お客として金を払わなくても済むしな、、、、」 「付き合いにも、色いろと付き合いがありますからね」 「男と女の付き合いは決まっているじゃないか」 「あの人がなんて言ったからわからないけど、どういう付き合いであったか訊いてみれば判りますよ、、、、」 「あの叔母がほんとうのこと言うかな?」 「もう、いいでしょう、仮に魂胆があったとしてもボクはもう来ないんですから、、、、」 「そりゃあそうだけど、まあ、身内の人間を悪く言うのもなんだけど、叔母はさ、けっこう金にはうるさいよ、それに嘘つきでずるい女だよ。お宅になんて言ってるかは判らないけど、若いときに結婚に失敗したのは、だんなが浮気したとか、姑に苛められたからじゃないんだよ、ほんとうは、本人が手を汚す仕事がいやで、嫁に行った家からを出たんだよ。親が入院した時だって、見舞いに来なかったし金だって出さなかったからね」 「、、、、、、でもあの写真は嘘じゃないでしょう」 「写真?」 「ブラジルの弟さんから送られたという写真」 「ああ、あれね、うん、あれは本当のことだよ。その弟と云うのが相当の変りもんでね。何も好き好んでさ、何をやったってこんなに裕福に暮らせる日本を離れて、わざわざ貧乏な国で苦労することないのにね、、、変なブラジル女と結婚して子供をボコボコ作ってさ、、、、」 男は満面に苦笑いを浮べながら吐き捨てるようにそう言った。 その写真と言うのは、あたかも女の唯一の近親者であるかのようにきちんと写真立てに入れて女の部屋にあったものだった。 その写真には、それほど立派とは思えない家の前で、女の弟である日焼けした顔の男と、その妻らしい外人女性が、太陽に光がまぶしいせいか、はにかむように目を細めながら、そして二人の周りには、四人の子供たちがまとわり付くように映っていた。しかもその背景となっている家の形や風景からしてそこは明らかに日本ではなかった。 女の話しよると、弟は十二年前に、女に何の話もなく突然日本を離れて、ブラジルに行ったのだそうで、その後も何の音沙汰もなかったということであったが、二年前にその写真を送ってきたということであった。 そのたった一枚の写真で、清二は、女の弟が、どのような人間で今どのような状態にあるか、手にとるように判った。そして負けたと思うとともに、いま自分は愚劣で病んだ世界のなかで、あくせくしている卑小な存在のように思われ、女に対してその写真を見た感想を言うことができなかった。ただ清二が、 「なぜ、日本をはなれたんだろう」 と独り言のように言うと、女はそれを聞きつけたらしく、 「わたしがこんなことをしているからじゃない」 とかすかに笑みを浮かべながら言ったのだった。 女の弟を侮り愚弄するような言い方をする女の甥に対して、清二はそれほど不快感は覚えなかった。なぜなら、その弟とは人生に対する考え方や感じ方が、天と地ほどかけ離れている人間なので、そう思うのも仕方がないことのように思われたからである。ただ清二はだんだん気持ちが高まっていくのを覚えた。そして得意顔で椅子に背を持たせかけゆったりとしている女の甥のほうを見ながら興奮ぎみに話し始めた。 「、、、、人間は皆嘘つきでずるいですよ。ボクだってあなただって、同じようなもんですよ。誰だって、苦しい立場に立たされたり、不利な状況に追い込まれたりすると、思わず嘘をついたり、自分の都合のいいようにするんですよ。追いつめられなくっても、話を面白くするために、少し大げさにいったり嘘を言ったりするくらいだからね。人間は何かをやって生きているかぎり、そうするようにできているんですよ。あなただって、嘘をついたりしたことはあるんでしょう。人間はみんな似たようなもんで、人のことをどうのこうのと言えたもんじゃないですよ、それは仕方がないことなのですよ」 「へえ、お宅の言い方だと、お釈迦様もキリスト様も嘘を付くみたいじゃない、、、、」 と女の甥は、人を食ったような薄笑いを浮べながら言った。そして仲間の男たちのほうに顔を向けた。すると仲間の男たちは、女の甥に同調するかのようにニヤけた顔をして清二のほうを見た。清二は彼らを無視するかのようにうつむいたあと、再び顔を上げて話し始めた。 「、、、、、お釈迦様にキリスト様ね、、、、まあ、、、、確かに、生きているときは嘘もつかずずるいこともしない、立派な人間だったんだろうね。でも、本当に居たかどうかは判らないし、本当にそうしたかどうかも判らないよ。跡で人々が、知恵にみちた言葉を話し、正しい行いしかしない、理想的な人間として祭り上げたのかもしれないしね。それにもう死んでしまった人間で、眼の前に僕たちの周りに居る人間じゃないからね。現実に僕たちの周りに居ない人間を、人間のあるべき姿として理想化して問題にしたって始まらないよ。そう云う理想像を売り物にして金儲けをしようとしている人間にとっては別なんだろうけどね。人間は生きようとして他の人間と関わりながら働いたりするから嘘をついたり、ずるいことをしなければならなくなるんだよ。何もしないで大人しくしていたら嘘をついたりずるいことをしなくても済むんだよ。とにかく僕たちは、あなたとボクが向かい合っているように、こうやって関わって生きていることが大事なんだよ。そうしてね、そうしながらね、出来るだけ嘘を少なくしようとしたり、ずるいことをしたりしないように努力することが大事なんだよ」 「あっ、あっ、そうだね、うんうん、もしかしたらお宅は本当にコワイ人かもしれないね。それじゃ、失敬」 と女の弟は小ばかにしたような薄笑いを浮べながら、清二の話しをさえぎるように言うと、急いで席を立って仲間の男たちのところに行った。それはまさにこれ以上頭のおかしい人間を相手にできないといった様子であった。 清二ははぐらかされた気持ちで一瞬呆然とした。そして自分は何かよほど変なことでも言ったのかと思いながら、うつむいた。しばらくして高ぶった気持ちが収まってきたので顔を上げると、男たちはもういなかった。 清二は店を出て、日没とともに華やかさを増しだした繁華街を歩き出した。現実に失ったのはひとりの女であったが、なにかもっと大切なものを失ったような気がして、沈んだ気持ちになった。 なぜ自分が女に拒絶されたのか、清二には不可解であった。女の甥が不思議と思うように、やはり現実離れした付き合いだったのだろうかと後悔しざるを得なかった。だが自分からではなく、女の方から嫌いになったのだから、あきらめるより仕方がないような気がした。それにこれから開けようとしている自分の未来の前では、些細なことに違いないと思わざるをえなかった。 高志のマンションは帰り道にあったが、清二は寄らずに帰ることにした。何となく今夜は誰にも会いたくない気分であったからだ。 アパートの横の狭い道に車が止められていた。清二が近づくといきなりドアが開けられた。そして女性が出てきた。洋子であった。 清二が驚いたように言った。 「わあ、どこの美人が現れたのかと思ったよ」 「ずっとひとりだったの?」 「うん、そうだよ」 「もしかしていっしょじゃないかと思って」 「誰と?」 「、、、、、、、」 洋子は答えなかったが、清二は高志のことだと判った。 何か訳がありそうだと思ったが、こんなところで立ち話も出来ないと思って車に乗ることにした。 車が広い道に出たところで、清二が言った。 「どのくらい待ってたの?」 「ええ、ほんのちょっと」 「でもよかったよ行き違いにならなくて、いま帰ってくるとき立ち寄ろうかと思ったんだけどね、まあ、次の機会でもいいかなと思ってね、もしあのまま行っていたら今頃は本当に行き違いになっていたよ、、、、高志さんはあの日から帰ってこないの?」 「いえ、あの日っていうか、次の朝、帰ってきたわ、ただ、ちょっと変だったけどね。あの人、黙っていたから、どうしてそうなったのか判らないけど、服やズボンは埃だらけで、頭には草が付いたままだったわ、、、、」 ![]() ![]() |