ブランコの下の水溜り(8部) はだい悠
どうやら加藤は、自分の不注意で石田を現場においてきたと思ったらしかった。そういえば車内には、朝にはいたはずの石田の姿が見えなかった。そんなことがあったにもかかわらずなぜか加藤は、今日に限って石田のことで愚痴らなかったためか、いままで誰も気づかなかったのだ。 車内がいっしゅん静まり返ったが、久保山だけが多少事情を知っていたらしく、冷静に話し始めた。 「いいよ、あの人のことだから、もう帰っているよ、何も心配することないよ」 「そうだよ、たぶん電車でもう帰っているよ」 と鈴木が同調するように言った。 「ここだから許されるので、他の場所でこんなことやったらただじゃすまないよ」 とあきれ返ったように言う久保山の声で、どうやら落ち着いたようだった。アキラに運転を変っていた三好は疲れたような顔をして背を持たせかけ眠っていた。 アキラの隣にはトオルが座っていた。二人して舗道を歩いている女学生に声をかけたり、品定めをしたりして、横に座っている加藤に気兼ねすることもなく、陽気にふざけあっていた。 しばらくすると、 「来たぞ、準備はいいか」 と突然アキラが号令をかけるように叫んだ。 鈴木は了解したようにすばやく背を興すと、座席の前にあった紙袋を手に持つと、眼の前に広がった、草が伸び放題の空き地めがけて勢いよく投げつけた。その紙袋には空き缶や紙くずが入っていた。いつからか車から出たごみを道路沿いの空き地に捨てることが習慣になっていた。 後ろに座っているものは皆ぐったりとして眠っているかのように眼を閉じていたが、前の二人は元気だった。横に座っている加藤も眠っているようだったので、二人は大人の世界から解放されたかのように、自分たちだけで通じる言葉で、共通の体験談や子供の頃の思い出を楽しそうに話しながら、少年のように自分たちの世界に浸りこんでいた。 アキラがカーラジオから流れてくる歌を聴きながら言った。 「これ、この女、オレが入っているとき、慰問に来たんだよ」 「この歌手、すげえ美人じゃん」 「そう、ちょっと年増で、色っぽくて、その夜は、さっそくこれだよ」 とアキラが眼を見開いた無邪気な笑顔で言いながら、右手を軽く握り上下にくり返し動かした。 清二はその女性歌手を知っていた。彼らの言うとおり大変色っぽく、アキラの気持ちが痛いほど判り、その滑稽な仕草もほほえましく感じた。 世間から隔離され鬱屈した少年たちの前で、その女性が歌を歌うことは、汗と埃にまみれた荒々しい男たちだけの黒ぐろとした作業現場にミニスカートをはいた女性が現れるようなものだった。 日曜日、清二は九時過ぎまで寝ていた。ドアを開けると久保山が晴天の下で洗濯物を乾していた。 やせ犬を連れた隣家の主婦が通りかかると、天気のことや、庭に生えた雑草のこととか、以前から知り合いであるかのように気さくな感じで世間話を始めた。そのあいだ痩せ犬は用心深げに久保山を見上げたりしてて落ち着かなかった。飼い主に似ず目がつりあがってどことなく凶暴そうな雰囲気には要注意の感じがした。 部屋から出てきて靴を磨いていた鈴木は、酒乱とは思えないようなにこやかさで、清二に「ねぼすけ」と冗談ぽく言った。奥山の憂鬱な陰さえなければ心から楽しめる平穏な日和りだった。久保山の後から清二も洗濯を始めた。 午後二時ごろ、清二が食事と買い物から帰ってきて、奥山の部屋の前を通ると、中から声が聞こえてきた。聞き覚えのない声だから、新しい人間が入ったのだと思いながら清二は自分の部屋に入った。 しばらくのあいだ何をすることもなくボンヤリとしていると、心地よい眠気に襲われたのでベッドに横たわり睡魔のなすがままに任せた。 清二がふたたび目覚めたのは薄暗い夕方だった。しかし普段のような眼醒め方ではなかった。それは名状しがたいものであった。あけたままになっていたドアからは冷たくなりかけた空気が流れ込み始め、周囲の家々からは夕暮れ時のあわただしさや、路地を駆け巡る子供たちの声など、現実世界のざわめきが絶えず入っていたが、清二は、暗黒の無の世界から知覚や思考を働かせて、初めてこの光と音に溢れた現実的な世界に踏み出そうとしているときのような、まだ外部の世界のざわめきを現実的なものとして捉えることが出来ない曖昧模糊とした意識のなかに漂っていた。そしてだんだん自己に眼醒めはじめた意識にとって、この現実的といわれる世界なるものは、人間の意識によって作られたかりそめなものであり、虚しいものと思わせるものがあり、それに比べて死はまったく何もない絶対零度の暗黒世界であり永遠の静寂であると思わせるものがあった。 清二は外の気配を現実のものとして捉えることができるようになると同時に自分が何者なのかハッキリと自覚できるようになった。 しばらくのあいだ、その甘美とも恐怖ともいいがたい気分を味わうかのようにじっとベッドに横たわっていた。 外はもうすっかり暗くなっていた。 清二はゆっくりとベッドから起き上がり、汗ばんだ顔を水で洗うと、ドアのところにいき冷たい空気にあたった。まだ醒めきらない気分であったが、こだわりのない穏かな気持ちで幸せそうな光の漏れる周囲の家々に目をやった。 声が聞こえてきた。奥山の部屋からだった。窓から新しく入ってきたらしい男の顔が見えたあと、しばらくして部屋を出ようとする奥山の姿が現れた。清二は思わず顔を引っ込めると、殺伐としたなんとも薄気味の悪いところに、今自分はいるんだなと感じながらふたたびベッドに横たわった。 新しく入った男は三十歳ぐらいで、ややトッポイ感じがした。しかし彼のオドオドとした表情からすると奥山の仲間ではないようだった。 十時ごろになってもう一人の男が奥山の部屋に入ってきた。大柄でやや粗野な感じのする五十歳ぐらいの男だった。すぐ奥山と親しそうな笑顔で声高に話しているところからすると、どうやら奥山の仲間のようだった。 現場には大きく分けて二種類ある。ひとつは町場と呼ばれる小さな現場で、主に二三階建てのビルで、工期が十日から二三週間で終了する。もうひとつは大手企業によるマンションや団地などの現場で、工期も数ヶ月と長く、なかには何年にもわたるものがある。 町場の現場はおおむね何の制約もなく、他の業者とかちあうこともないので、働きやすく儲かるといわれている。いっぽう大手のものはいろいろと制約があり、働きにくくもうけも少ないといわれている。しかし何ヶ月何年にもわたる工事のため、その間仕事が途絶えることもないので収入は安定することになる。 しばらく無くなっていた町場の現場がまた入り始めていた。 日曜日に入ったトッポイ男は、三好と町場の現場に行った。いっぽう奥山の仲間らしい男は清二たちとK建設の現場だった。 K建設の現場は、いま取り掛かっている棟が完成に近づいてきたので、夏場より出入り業者が多くなってきていた。 休憩所には朝礼をまつ作業員で賑わっていた。ほとんどの作業員は朝にもかかわらず冗談などをいいあいながら、素朴な笑顔で談笑にふけっていた。そんな和やかな雰囲気のなかで奥山は、寝不足なのか不機嫌そうな表情で腰をかけていた。その横からきのう入って来た奥山の仲間らしい男は、ときおりその狡猾そうな薄笑いを浮べながら、周囲の様子を覗うようにジロッと眺めまわしては、奥山に取り入るかのように腰をかがめて、ヒソヒソと話しかけていた。しかし奥山は般若の面のような表情をしてただ黙っているだけだった。 周りの雰囲気からして二人は異様だった。清二には何を話しているのか皆目見当がつかなかったが、こういうところでヒソヒソ話をする二人の関係を思うとなんともイヤな感じがした。 奥山の仲間らしい男は、国沢平吉といった。五十をすぎていたが、骨太で頑強そうな肉体をしていた。長いあいだの過酷な肉体労働に耐え抜いてきたせいか、手は節くれだち、土色の皮膚はだいぶ傷んでいた。眼は大きくて鋭く、やや眉のところの皮膚は盛り上がり、すす黒い顔の皮膚はたるみ、酒好きを思わせるかのように鼻先が赤く、坊主頭のその風貌はちょっと見には怒りを解いた鬼のようであった。 筋肉の張った背を丸め、長靴を履いて不器用そうにノロノロと歩く格好は姿かたちにこだわらない潔さというより、周囲に気を使わない倣岸さが感じられた。 初めての現場にもかかわらずオドオドとしたところがなく、非常に場慣れした感じで周囲を見まわしていたが、その眼には自信というより侮りが感じられ、薄笑いを浮べるときのしまりのない厚い唇には野卑さがあらわれていた。 ときおり意味もなく凝視するその眼には、いままでの奥山の仲間と違い、残忍、冷酷、凶暴さというものが感じられた。 国沢は年齢の面でも体力の面でも奥山よりもはるかに上であったが、主導権は奥山が握っているようであった。 清二がいつものように朝のモルタル作りを始めていると、奥山が近づいてきて苛立ったように言った。 「おい、オレの使っていた道具どこに置いたんだよ」 「知らない」 「知らない?知らないわけないだろう、おまえがこのあいだ使っているのをちゃんとこの目で見ているんだぞ、嘘つくなよ」 「嘘なんかついてないよ、知らないものは知らないよ」 「なんだとなめんなよ」 と奥山と怒鳴るようにいうと、今にもつかみかからんばかりの勢いで清二を睨みつけた。 清二は嘘をついていなかった。本当に知らなかった。 これにはちゃんと訳があった。 奥山がこの間というのは先週に金曜日のことである。確かに清二はその日それまで奥山が使っていた道具を使っていた。加藤の受け持っていた現場がだいたい終わりに近づいてきたので、なるべく早く完了させるために、清二は新しく入った男を指導しながら二人で奥山の道具を使い仕事をしたのである。その日奥山は他の仕事にまわっていたので、清二が自分の道具を使っているのを確かに見いてたはずである。 しかし次の日の土曜日、多くの作業員は忙しくなってきた町場の現場に分散した。清二は三好と、奥山は鈴木と二人で別々の現場に行った。そして残りは石田らと、それに加藤に怒鳴られるのがイヤで三日でやめていった新人が来たのである。それで土曜日にはその新人の男が奥山の道具を使用して、そのままどこか所定の場所以外に置いたらしかった。だから清二は本当に知らないのである。奥山も勘違いしているのである。 本日清二は加藤のもとで作業をしていた。ほかの半のことはいっさいかまうなというのが加藤のやり方である。もしそれで遅れたりすれば怒鳴られるのは清二自信であり、加藤の前では、他の班のためにいっしょに道具を探していたなどという弁解は通用しないのである。だから清二も自分のことだけで精いっぱいで奥山の疑い深い言い方にいちいち応えている余裕はないのである。それに知らないものは知らないと応えるのが奥山の流儀であり、あくまでもそれを真似して言っただけである。 実際清二も奥山の執拗さに腹が立った。だからその間、それは奥山の誤解であるとわかってもそのことを説明する気がなかった。それに奥山のけんか腰の態度には、もともとそのような余裕が生ずるはずもなかった。 しかし怒気をむき出しにされては清二も穏かではなかった。彼の怒りに対して自分も怒りを持って応えれば喧嘩になることは眼に見えていた。だがそのとき周囲に他の業者が居たのであまり恥ずかしいことは出来なかった。 「何を言ってんのこんなところで見っともないよ」 と清二は怒りをこらえやっとの思いで声を震わせながら言った。そのとき奥山はじっと睨みつけていたが、言い終ると清二は自分から目をそらし何事もなかったかのように作業を続けた。だが実際は他の業者が一部始終見ていたと思うと情けなさのあまり一刻も早くこの場から立ち去りたい気持ちであった。 奥山は二十メートルほど離れて二人の様子を見ていた国沢のところに行くと、なにやら話しがら建物のなかに入っていった。どうやら道具を探しに言ったようだった。 九時ごろ、清二が棟の屋上で作業をしていると、下で国沢といっしょにモルタル作りを始めている奥山の姿が眼に入ってきた。その姿を見下ろしていると、先ほどのわだかまりが残っているせいかなんとも腹立たしい気分になり、ふと「ヤマザルめ、山奥のヤマザルめ」という言葉を頭で呟いた。そして彼をサルのように檻に閉じ込め、こっちに近づけないようにしてから、数限りない罵声を浴びせて思いっきりからかいたい衝動に駆られた。それは清二の子供の頃の思い出と重なっていた。 子供の頃友達と檻のなかのサルを見ていたとき、ただ見ているだけでも、そのサルは見ている者に対して敵意をあらわにして、突進したり、檻から手を伸ばして引っつかもうとしたり、歯をむき出しにしていきり立ったいた。皆は最初、サルの勢いに威圧されて怖がっていたが、そのうちサルは決して檻から出られないこっちは絶対安全だと気づくと、そこは悪ガキ、今度は平気でサルをからかいだした。サルの顔を凝視しながら笑い飛ばしたり、檻に近寄ってキャラメルの空箱を渡したり、紙くずを丸めて投げつけたりした。サルはますますいきり立ち狂ったように走りまわったり檻をかきむしったりしたがどうすることも出来ないのである。 清二は奥山から目を離した。そして作業を続けながら考えた。彼は皮を剥ぎ取られ切り刻まれてもまだ動いているヘビのように、その気の強さを全身の神経に張り巡らしてはどんな拷問や迫害を受けようとも、決して根を上げたり卑屈になったりしない我の強さを持っているのではないかと。 午後三時ころ、加藤の受け持つ現場が終了したので石田たちの手伝いに行った。 石田を眼の前にして、加藤は普段清二たちに見せている猛々しさはなく、どことなく気弱でその圧倒的巨体にもかかわらず、遠慮がちに体を曲げて浮ついた感じで話すのであった。それは親の前に立った子供のように落ち着きがなく頼りなげで少し小さく見えた。それに比べて石田は口やかましい加藤の言葉を聞き流すかのように終始冷静で、言葉少なく毅然としていた。それは加藤よりも堂々としているように見えた。日頃から石田の悪評に鳴らされていた清二にとっては意外な感じがした。 夕方会社の事務所から皆が出ようとしたとき、椅子にどっかりと座っていた社長が 「あっ、そうだ」 と、なにかを思い出したかのように声を上げると清二だけを呼び止めた。 そして 「あぶなく忘れるところだった」と独り言を言いながら机の引き出しから紙切れをだすと、それを清二に渡しながら言った。 「昨日日曜日、十二時ごろかな、いちおう宿舎まで案内したんだけど居なかったみたいで」 紙切れには女性の名前と電話番号が書いてあったが、清二はまったく心あたりがなかった。 「いや、こんな名前の人知りませんけど」 「そうか、でも親戚みたいなこと言ってたよ」 「親戚ですか?いや親戚でもこういう名前の人居ないんだけどな、この電話番号だと、都内ですね、ここに親戚が住んでるなんて聞いたことないな、宿舎まで案内したんですかなぜ」 「いや、道路で待ってた。出かけているみたいだといったら、この紙渡したんだよ」 「年齢はどのくらいでしたか?」 「三十前後かな、ちょっとふっくらした感じの」 とにかく清二にはまったく見当がつかなかった。 宿舎に帰った清二は何となく落ちつかなかった。 紙切れをだして見たがいっこうに思い当たらなかった。電話をかけてみれば何とかなるだろう、と清二は自分に言い聞かせながら不可解な気持ちをなだめた。 七時ごろ清二はその開けっ放しのドアから、頭に鉢巻をして酒を飲んでいる国沢の姿を眼にしながら電話を掛けに繁華街に出た。 「はい、北村ですが、もしもし北村ですが、、、、、」 やや沈んだ感じの女性の声が聞こえてきたがやはり聞き覚えはなかった。清二はますます高まる不安をこらえながら声をだした。 「もしもし、伊東といいますが、、、、」 「えっ、もしかしたら清二くん、そうでしょう、本当にそうだったのね。メモを見てくれたのね。わたし洋子、わかる? そうねメモには今の名字しか書いておかなかったから、林田、あなたの家の裏の林田、もう判ったでしょう」 「うん、わかった。洋子ちゃんね、誰かと思った。本当にびっくりしたよ、でも、どうして急に、なにか用事でもあったの?」 「こっちもびっくりしたわ、ええ、そうなの、別に用事があったわけではないけど、どうしてると思って、十年ぶりかしら。そうなの、このあいだ田舎に帰ったの、そのときあなたのお母さんといろいろ話をしているうちに、住んでいるところが偶然にも近くだとわかったの、あまり帰ってこないし今なにしているんだろうかって、とても心配そうな顔をしていたわ。それでね、今度また帰らなければならないの、十月頃かしら、本当に清くんなのね、なんか信じられなくて、十年以上あってないから、声を聞いただけじゃ判るわけないよね。だって変るものね、清くんも最初私が誰か判らなかったでしょう」 「うん、判らなかった。そうすると、今度帰ったときに、ボクのこと母に話すんですか?」 「ええ、たぶんそうなると思うわ」 「そうですか、それなら、その前に一度会って話をしたいんだけど」 「いいわよ、いつにする」 「僕はいつでもいいんだけど、今度の日曜日あたりはどうだろう」 「いいわよ、わたし本当にびっくりしているのよ。なんだか信じられない気持ちで」「 「僕だって驚いたよ、それじゃ日曜日に、ボクから電話かけるから、たぶん午後になると思うけど、いいですか?」 「はい」 「それじゃ」 やや興奮気味に電話ボックスから出た清二は、妙にウキウキとした気分でにぎやか雑踏のなかを歩き出した。表通り風景がいつもより生き生きとし華やかなものに感じた。 洋子の実家と清二の実家は、戦前は地主の小作の関係にあり、戦後の農地改革によって清二の両親は自立したが、付き合いはそのまま続いていたので、ある意味においては親戚のような関係といっても間違いではなかった。しかし十年ぶりというのはあまり正確ではなかった。おそらく高校を卒業してからのことであろうが、彼女と仲良く遊んだのは小学生までであり、それ以後は本人と会っても挨拶ぐらいで、直接話しらしい話しはしていないのである。 彼女はひとつ年上で高校も同じであったが、彼女が三年のとき秋から一年間アメリカ留学をしていたので、卒業は同じになった。 彼女は美人ではなかったが、性格が明るく、ふっくらとして可愛いらしかったので、ときには男子生徒の話題に上るほどだった。それに成績も優秀で生徒会などでも活躍したので非常に目立つ存在だった。しかし内向的な時期にあたっていた清二にとっては彼女は反って近づきがたい存在だった。 一年後留学から帰ってきた彼女はぐっと大人び、伸び伸びとした感じであった。彼女の解放的な雰囲気は、また別の意味で注目の的であった。しかしまだ内向期を脱していない清二にとって、彼女まぶしいものに思われ、気後れがしてますます近づきがたい存在になっていた。 しかしそうは云っても、学校内での彼女からの挨拶には、他のものとは違うそっけない挨拶を返して、彼女とは特別の関係にあるかのように周囲の者に思わせることは、屈折していた清二にとっては、なんとも誇らしいことであった。 そして彼女は有名大学に入った。 その後のことは、数年前に清二が家に帰ったとき、"洋子ちゃんは偉いから"と言うのが口癖であった母から、結婚したことを聞いただけで、今の今までどこに住んでいるか全く知らなかった。 十年ぶりということもあったが、高校時代にやや冷淡に振舞った自分に対して、うちとけて話してくれたことが清二には何より嬉しかった。 宿舎にむかって薄暗い路地を歩きながら清二は、最初に電話から聞こえてきた洋子の声に何となく沈んだ雰囲気を感じたのが気になった。 宿舎に近づくと、酔っ払った奥山のわめき声が聞こえてきた。部屋の前を通りかかると、新しく入ったトッポイ感じの男が出てきて、驚いたように眼をギョロつかせて清二を見ると、決まり悪そうな笑みを浮かべてトイレのほうに歩いていった。 翌朝、やや困惑気味の社長の指示でちょっとしたメンバー変更があり、新しく入った男が清二たちとK建設の現場に行くことになった。 現場があちこちに増えてくると、それぞれの工期に調整がつかなくなり、メンバーを多くしたり少なくしたりして何とかやりくりするのであるが、そのために手元と呼ばれる補助作業員が、毎日のように現場を変えられることがある。 親方たちはいちおうある程度の責任のもとで現場を任せられているのでめったに変えられることはないが、それでも元請からの強引とも思える突然の計画変更の連絡や、工期が遅れると法外な罰金を課すぞという、脅迫があると、たとえ間に合わないと判っていても、ただ取り繕う為にだけ、無謀とも思える現場変更が行われることがある。それらはすべで朝に社長の胸三寸できまる。 親方たちにとってそのような無計画性は明らかに作業効率の悪いことなので、不満に思うのであるが、下請け業者としては仕方がないことだとあきらめているようであった。仕事がなければ生活は窮迫してくるし忙しくなればなったで色いろと問題が出て来るのである。仕事のあるなしは現実社会の眼に見えない変化に左右されることであり、自分たちではどうするとも出来ないのである。 そしてそのような計画変更や現場変更が頻繁になると、社長や親方たちに不必要なストレスを与えることになり、その結果として会社内の雰囲気が苛立ったものになり人間関係がギスギスしたものになるのである。 しかしこのことは、変化する社会や権威をかさにきる元請にだけすべての原因があるのではない。作業員の質の悪さは別にして、能力以上に仕事を引き受けようとする見栄っ張りな社長の無計画性や、たとえ突然の変更があっても、それは経験によってあらかじめ判っていることであるから、冷静に計画を練り直して困難を乗り切ることの出来ない親方たちの段取りの悪さと力量不足にも原因がないわけでもなかった。 新しく入った男は安本といった。年齢は三十歳で、ここに来る前はガードマンをやっていという。作業着姿も赤いTシャツにジーパンと、そのトッポさは変わりなかった。身長は清二ぐらいで発達した上半身に比べて下半身は細く頼りなげであった。はいているジーパンがきついので足腰にアクセントを置いた歩き方が気取っているように見え、何となく現場の雰囲気には不釣合いであった。眼はギョロ眼で自分では似合っていると思っているらしい無精ひげのせいか色黒の顔はネズミに似ていた。甲高い訛の強い早口で喋るので注意しないとよく聞き取れないことがあり、ときおり自分でおもしろいことを言っては一人で笑っていた。その笑いもネズミ顔のせいか下品な感じであった。 作業は今までに工事上の都合で後まわしにしていたところに、資材を運ぶことであった。清二は安本と組み、奥山は国沢と組んだ。 安本はこのような大きな工事現場での仕事は初めてのようで、不安そうに周囲を眺めては落ち着きがなかった。しかし、作業の飲みこのがよく、清二の言うことは素直に聞いた。奥山の仲間たちとはハッキリと違いがあった。清二にとっては、安本は無駄口が多く、仕事に慣れていないせいか手を休みがちなのは少し気になったが、概して良い部下であった。 清二たちと奥山たちは別々の仕事をやったが、清二たちのほうが午前中に終わったので、午後からは同じ仕事をすることになった。しかしいっしょにではなく別々に分かれてやった。 だが同じ仕事を最後まで分かれてやることには無理があった。どうしても協力し合わなければならなくなった。そしてこの日の第一回目のトラブルが起きた。それはあまりにも些細なことが原因だった。 午後三時をすぎていたが、陽射しはまだ強く皆汗だくであった。疲労も目立ち始めていた。奥山はだるそうに歩く大柄な国沢を従えて何とか作業を進めていたが、国沢は不慣れな上に不器用なためか、なかなかはかどらない様子であった。 荷揚げ用のエレベーターを使い各階ごとに資材を運ぶのであったが、清二と奥山の組がかち合った。どちらがどこまで運ぶのか話し合わなければならなくなった。奥山は自分のやり方を主張した。というより清二の云うことが暑さと疲労のせいか判らなかったようだった。どうしても話をつけなければならなかった。そうしないと資材がダブルからである。このまま無計画にやれば、お互いの結果を見てやらなければならなくなり、それは明らかにお互いにムダ骨を折ることになる。今日のうちに終わらせたいと思っていた清二はあせった。だがいっこうに話し合いがまとまらなかった。清二は苛立った。話しに応じない奥山の汗だくの顔は、オレのやり方にお前らは従えといっているように清二は感じた。清二はなぜオレが、お前らのやり方に従わなければならないのかという気持ちになった。そしてとうとう怒鳴るように言ってしまった。 「もう、判った、さっさと行けよ」 資材置き場に戻ろうとしていた奥山が振り返って言った。 「なんだと、、、、」 そう言いながら奥山はその小さな体に気迫をみなぎらせて清二をにらみつけた。 国沢は奥山の後ろで暑さと疲労による汗だくの顔に苦痛の表情を浮べて呆然としていた。まずいことを言ってしまった後悔とともに、清二は奥山の怒気に戦慄を覚えたが、すぐに作業に取り掛かったので、自然と奥山の怒りの矛先がかわされた形になり、正面衝突しないで済んだ。 その後多少のやりにくさはあったが、作業は順調に進み、終業時間前に何とか終わった。 四人は日陰になった建物の裏で、石田たちが出てくるのを待った。 奥山が屋上の方を見上げながらウロウロし始めた。石田たちが棟の屋上で作業をしていたからである。清二は終業まであとわずかしかないので、上がっていくだけで時間がなくなってしまうと思い、今日はこれで終わりだから休んで待っていようと言いながら、近くの角材に腰をかけた。そして奥山の行為を余計な忠義立て(見え透いた忠誠心)だと思いながら冷ややかに見ていた。 奥山がうろついているところにタイミングが良く石田が出てきた。石田は奥山の問いかけになにやら応えると、そのままK建設の事務所のほうに歩いていった。そして奥山は急いでちかくのホウキ立てからホウキを取り出すと、休んでいるせいじたちに向かって 「来いよ」 と叫ぶとそのまま小走りで建物内に入っていった。 清二は今から上がっても着くころには掃除は終わっていると思ったので、それに奥山の命令には従う必要はないと思っていたので、動かなかった。しかし国沢は急いで後を追うと、なぜか安本も清二が止めるまもなく、うろたえたように小走りで後を追った。しかしそれでも清二は奥山への意地から余計なことをするやつだと腹立たしく思いながら動かなかった。 だが清二が奥山の命令を無視したことが、結果的にはこの日二度目のトラブルになった。 というのも後を追った二人は途中で奥山を見失いどこに行けば良いか判らなくなり、結局二人はただ建物内をうろついただけで、なんら奥山の手助けにはならなかったのだ。 なぜなら二人は石田たちがどこで作業しているか、最初から知らなかったからである。奥山にとっては、清二が二人を案内して後から来るものと思っていたらしかった。そしてこのことが原因で、奥山の清二に対する決定的な遺恨が生まれ、その後の奥山と国沢の仲たがい、奥山の疾走、そして国沢の清二に対する暴力的な言動へとつながっていくのを清二は気づくはずもなかった。 次の日、珍しく加藤が休んだ。理由は二日前に落ちてきた鋼材で肩を強打しそれが痛み出したということらしかった。だが詳しくは誰も知らなかった。なぜなら加藤は以後ふたたび皆の前に姿を見せることはなかったからである。 またメンバーの組み換えがあった。清二は三好とトオルの三人で新しい現場に行くことになった。これ以後清二は長く三好と組むことになる。 この仕事は最低三人いれば成り立った。だからこのことは清二のランクがひとつ上がったということであり、そして同様に、トオルのランクもひとつ上になり職人として認められ始めたということである。 今まで清二はほとんど加藤の下で働いてきたので、三好を、最初二三度いっしょに仕事をしたときに感じた印象、つまり職人気質丸出しの、ただ頑固で怒りっぽいという印象でずっと見てきた。また小柄で貧相なサルが親社長を前にしての卑屈な態度から、姑息で頼りげない感じに思ってきた。しかし、意外と頭の回転もよく、ひょうきんで冗談の通じる人間であった。また世知にたけ話もうまく誰とでもすぐ仲良くなれる不思議な才能があった。満面に笑みを浮かべて相手に取り入るよな話し振りはやや陋劣な感じは合ったが、人の警戒心を解く気安さがあるのでなんとも憎めない感じであった。現場に常駐する監督とは初対面でも長い付き合いのようにすぐ親しくなった。仕事に関しても、あまり指示を与えない石田と違って、メンバーをうまくまとめて、少しでも意気込みを表す下の者には、さらにやる気を起こさせる雰囲気を持っていた。 ![]() ![]() |