ブランコの下の水溜り(12部)

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          はだい悠








その次の日の晩、仕事からかえった清二は急いで風呂と夕食を済ませ洋子の家にむかった。
いったん駅に出て電車にのるのが何となく面倒くさく、それに駅ひとつだったので、むしろ歩いた方が近いような気がしたので、このあいだ洋子とあった公園を目安に、だいたいの方角を決めて歩くことにした。
 もう夜の空気は冷たく感じる季節になっていることに清二は気づいた。ワイシャツ姿は肌寒いほとであった。
 公園に沿った道路から、車がどうにかすれ違うほどの狭い道に斜めに入って、二分ほど歩くと、古い家と新しい家が混在する住宅街が広がった。さらに二分ほど歩くと、目的であるマンションが見えてきた。強引な区画を思わせるべく、鋭角に道が交差する角地に、階数は同じであったが、大きさの違う三つの棟が並んで建っていた。敷地が矩形でないため何となく落ち着かない印象であったが、その割には道路沿いの植え込みや駐車場など、きちんと整備され生活環境は充分に配慮されているようであった。植え込みの育ち具合や建物の真新しさからすると、最近建てられたものらしかった。

 洋子が住んでいるのは五階であった。清二は慣れないエレベーターを使わずに階段を上がった。これといった目的もない訪問と思うと、何となく気が重かった。
 北村高志と書かれた表札を見ながら清二は、何かの都合で出かけていて今留守であることを願った。
 薄茶色のドアが開けられ洋子が出迎えてくれた。
 清二を見止めると洋子は嬉しそう笑みを浮かべて
「よく来てくれたわ」
と言いながらさっそく部屋に招き入れてくれた。
 冷たい夜気にさらされながら歩いてきた清二にとっては、全身を包み込むような暖かさを感じた。それに洋子の遠慮のない開けっぴろげな感じのする声からすると、まだ洋子の夫は帰ってきてないようで、清二は何となくほっとした気持ちであった。なぜなら、洋子の夫に会うことが清二が気が重く感じていた最大の理由だったからだ。
 清二を居間に案内しながら洋子が言った。
「電車で来たの?」
「いや、歩いて」
「歩いて!どのくらいかかるの?」
「三十分、出も初めてで道から判らなくて、少し遠回りしたから、わかってたら十五分ぐらいかな」
「でも、よく来てくれたわ」
と洋子は肉親のような穏かな表情でソファアに座った清二を見ながら言った。なぜこれほどまでに歓迎されるのか清二には理解できなかったが、家庭的な雰囲気の中に居ると自然と気持ちも和んできて、洋子の言葉を素直に喜ぶことが出来た。
「あっ、そうそう何か飲み物を呑むでしょう、お茶がいいかしらそれともコーヒー?」 「だしてくれるなら喜んでなんでも、そうだな、お茶がいいかな」
 清二が少しおどけてそう言うと、洋子は笑みを浮かべて台所のほうに行った。
 洋子がお茶を用意しているあいだ、清二はゆっくりと室内に目をやった。
八 畳ほどの広さの綺麗に内装が施された室内を見ていると、K建設の現場で働いていたときに見た、コンクリートの灰色の肌をむき出しにした単なる箱型の空間や、そのときに感じたことが頭に浮かんできて、こんなにも変るものかなと思った。そのとき天井が低すぎるのではないかと思ったが、細かく間仕切りがされているせいか、それほど圧迫感はなく、むしろこじんまりとして居心地が良さそうな空間になっていた。 そして今こうやって明るく家庭的な雰囲気を味わっている自分と、K建設の現場での汗と埃にまみれながら半ば屈辱的気持ちの自分が対比されて、なんとも奇妙な気持ちであった。調度品やいろいろな設備、部屋数と部屋の大きさ、それに周りの整備された環境からして、現代の住宅水準からすれば、上の下といった感じであった。 洋子の夫はエリートサラリーマンか、それとも青年実業家か、と思うと清二はふたたび気が重くなってきた。というのも清二は、そういう人間が何となく苦手に思っていたからである。
 洋子が入ってきて、テーブルの上にお茶を置いた。清二はふと子供の姿が見えないことが気になった。
「ところで、お子さんは?」
「ええ、そうね。私たち子供を作らないことにしているの」
 洋子は早口にそう言いながら、台所のほうに歩いていったが、そのこえには今までと違ってよそよそして響きが感じられた」
 洋子がふたたび入ってきて清二の前に座った。
「本当によく来てくれたわ、もう今日は来ないんじゃないかと思ったわ。だってもう九時でしょう」
「どうしても帰ってくるのが六時以降になるから、それから風呂に入ったり夕食を食べたり、これでも急いだつもりなんだけどね」
「夕食なら家ですればよかった。私が務めから帰ってくるのは六時ごろだから、いつも七時ごろに夕食をとるの」
「務めているってどこに?」
「大学の研究室」
「へえ、するといずれは教授になるわけですね。ところでだんなさんはまだ帰って来ないの?」
「ええ、そうね、家もう帰ってきてるの、でも、いまちょっと出かけているの散歩にね」 「散歩に? 夜の散歩ですか、へえ」
 そう言いながら清二はカーテンの隙間から見える外の暗闇にチラッと眼をやった。  のとき洋子は何か不穏な物音を聞きつけたときのような不安な表情でいきなり席を立った。清二には何の気配も感じなかったのだが、 洋子が居間を出ようとしたとき、ひとりの男がヌッと入ってきた。洋子は清二のほうを振り向き、少し決まり悪そうな笑顔で二人を紹介のために見合わせた。
 清二の会釈に対して、洋子の夫、高志はやや途惑い気味に
「いらっしゃい」
とくぐもり声で言ったあと、居心地が悪そうな仕草で今から出て行った。洋子も後を追うように出て行った。
 清二がちらっと見た印象では、背格好はだいたい似ていたが、自分よりはやや均整が取れている感じだった。年齢はきちんと整髪をしているせいか、年上にも見えたが、鼻筋の通った端整な顔や、こざっぱりとした服装からして、自分よりは若そうに見えた。
 日焼けした仲間たちを見ているせいか、顔色が青白く見えたがそれほどひ弱そうな感じはなかった。全体的には温和な感じで、自分が思い描いていたような精力がみなぎったヤリ手というイメージではなく意外な感じであった。
 しばらくするとメガネをかけて今度はやや悠然と入ってきた。そして先ほどのような戸惑いは見せず、はっきりとして声で言った。
「いや、まだ何にも出ていないんだね」
 そして清二の前に座った。
 高志は前かがみ気味になり落ち着きなく手を組み合わせたり離したりして、少し遠慮がちに視線を清二に向けた。
「何時ごろお見えになったんですか?」
「九時前ですね」
「仕事、仕事は大変なんですか?」
「最初ちょっときつかったけど、今は慣れてきましたから、ただいまだに朝はきついですけどね、なにせ五時半だから、夜早く寝ればいいんですけど、そうもいかなくてね、、、」
「もう少しごつい人かと思ってました。意外と痩せ型で、でも手はさすがですね、その親指の付け根、たこですか?」
「ああ、これね、そうです、コンクリートを機械で切断するとき、どうしてもここに力が掛かるみたいなんですよ」
「コンクリートをきるんですか?人間の手で、大変ですね」
「でも慣れればそうでもないですよ。最初の頃は曲がったりしたけどね、今はだいぶうまくなりました。確かに肉体的には大変ですけど、ても最近は、けっこう面白いもんじゃないかと思っちゃったりして、もしかしたら自分にはこういう仕事が合っているんじゃないかと思っちゃったりしてね」
「朝五時半ね、、、それで労働時間は八時間?」
「そうですね、九時間のときもあれば、十時間のときもあるし、雨が降れば四時間ぐらいなときもあるし、でも平均すれば八時間超って感じかな」
「それじゃ、いちおう残業手当はつくんですか?」
「いや、つかないですよ」
「それじゃ、不満は出ないんですか?」
「ボクは不満ですけど、他の人はぜんぜんないですね。だって働いている人たちは、他では色んな理由で使い物にならないものとか、サンヤから来たひと癖もふた癖もあるノンベェだとかで、そもそも一日は八時間労働だとか、残業手当があるとか、そういうことが判らない者ばかりですから、というより、それよりもむしろ、判っていても何にも言えないのかもしれません。というのも、社長というのが独裁者みたいなところがあって、不満ならいつでも辞めてもいいよと云うような雰囲気があるんですよ。なにせ保険関係はいっさいないですから」
「なんか凄くひどいところみたいですね」
 そのとき酒を用意した洋子が部屋に入ってきた。その姿を見て清二は少し言い過ぎたことに気づいたので、洋子が酒の準備をしているあいだに、無邪気さを装いながら言った。
「イヤ、のんべえといったって、みんな気のいいやつですよ。ひと癖もふた癖もあるといったって、仕事のときはまともになりますから、普通の人間ですよ。それに職業柄どうしても労働時間を法律どうりにやるというわけにはいかないんですよ。社長というのも昔気質の人で少し頑固なだけで、仕事以外のことではけっこう面倒見がいいんですよ。色んな保険がないって云うのも、裏を返せば面倒くさい約束ごとがないって云うことですから、イヤになったらいつでも気軽に辞められるってことですから、とにかく面倒くさいことには縛られたくないという一匹狼的な人ばっかりが集まってきているんですよ。だから変な仲間意識とか会社への忠誠心とかを気にすることはまったく必要ないんですよ。それにまったくの実力の世界ですから、出世とかで頭を悩ますことはないんですよ。ようするに自由ってことなんでしょうね」
 洋子が部屋から出て行った。
「実は家内から君のこと色いろ聞いたんですよ。家内の話だと、君と僕はにているところがあるって云うんですよ。どこが似ているのかね、顔ならボクのほうがいいと思うんだけど。似ているかね? そもそも似ているなんて気持ち悪いことだよ」 「僕も気持ち悪いですよ」
 笑みを浮かべて話す高志の冗談を軽く受け流すように清二も笑顔で言った。
 高志は落ちついた張りのある声をしていたが、話しながらだんだん自信がなさそうに語尾が低くなることがあり、不安定な感じがあった。そしてときおり眼を合わせているのが苦痛であるかのように、伏し目がちになるときがあり、黒ブチのメガネのせいか内向的な印象を与えた。
「その僕と君が似ているってことなんだけど、でも君の楽天的な話し方を見ていると、君とボクとはだいぶ違うような気がする。というのも君は人生というものを軽く考えているょうなきがするんですよ。どうですか? 違いますか? イヤね、気味が毎日朝早くに起きて、一日九時間も十時間も、条件の悪いところで働いていて、なんとも思わないことを責めているんではないですよ。それにはそれなりの事情があるみたいですから、それに僕から見たらいちおう尊敬すべきことだと思っていますよ。でもね、そういう大変な仕事をしているのには、なにか考えを持ってやっているわけでしょう、ただ単に食って寝て遊ぶだけのために、働いている訳ではないでしょう、何か人生に対する目的を持ってやっているわけでしょう。そのことを僕は聞きたいんですよ。どういう目的を持って生きているのか? そして行動しているのか? 何かあるでしょう、もし何も持っていなかったら生きる資格なんてないですからね」
「目的、、、、、目的はあると思いますよ、軽くね、、、、いや、軽く生きたいとは思いますよ、でも自分がそう思っていても、周りがそうさせてくれなかったりして、なんか酔っ払っちゃったかな。なにせ急に質問されたもんで、準備ができていないから戸惑っちゃって。疲れているせいか頭がうまくまわらないんですよ。それにそういう質問を面と向かってする人はいないですから、最近はこういう話をしたことがないんですよ」
「僕の質問は何か変っていますか? 変ってないですよね、そうですか、やっぱり。僕にも周りには沢山仲間外ますよ。でもこういう話をする人間が一人もいないんですよ。いるかもしれないけど、どうせつまんない答えしか返ってこないでしょう。僕には何となく判るんてすよ、彼らの頭のなかには出世のことしかないでしょうから、おそらく話しかけただけでイヤな顔をするでしょうね。いちおう僕は、国家の公僕、いや国民の下僕といったほうがいいかな、それなんですけど、そこには仲間はいますよ、でも心を開いて話し合ったことがないんですよ。家内が君のことを信頼しているように、ボクと君が似ているっていうもんでね。君なら何か応えてくれそうな気がしてね。思ったとおりだね、君はイヤな顔しないね。僕は最近つくづく、地位とか名誉とか、そんなものは人間が生きていく上には必要じゃないと思うようになったんですよ。ここは君と同じところだね。人生にはもっと大事なものがあると思うようになったんですよ。イヤ感じているといったほうがいいかな。つまらないことに縛られて生きていてはもっとも大事な人生の意味がつかめなくなるんじゃないかなって。おそらく僕はこのまま行けばいちおう名門の大学卒業だから出世するとは思うけど、でもいくら将来が約束されていても、今の自分を犠牲にしても良いのかってときどき思うんですよ。このまま行けば自分を見失いそうな気がして、なんのために働いているのか判らなくなってくることがあるんですよ。いちおう建前は国民のために働いているんだけど、でも現実やっていることといったら、退屈な事務処理ですよ。毎日が同じことのくり返しですよ。こういうことを周りの俗物どもに言ったらイヤな顔されるのは当たり前ですよね。君はさっき自由といったでしょう、たしかにそれは人生にとってはどうでもいいような、組織とか地位とか名誉とかから自由だとは思いますよ。でも、面倒くさい約束事から自由といえば聞こえがいいですけど、考えようによっては、悪い労働条件をなんとも思わないで、いや多少不満に思っても、ただ飲んで食って生きるために、人間としての当然の権利をうやむやにしているのは、逃避とも受け取れますね。さっきも話したように別に僕はそういう不公正を取り立てて批判しているのではないんです。それにはそれなりの事情があるみたいですから。そうじゃなくて、自分をごまかし自分の人生に対するハッキリとして目的を持たずにただ自分の欲望を満たすためにだけ働いているときの自由なんて、奴隷の自由と同じじゃないかと思うんですよ。どうやらここが僕と君の違うところみたいですね。いや君のこと奴隷みたいと言っているんじゃないですよ。君には君なりの考えがあるようですから。政治的自由とか、社会的自由とか、それは大事なことです。社会の仕組みに対する批判、それはそれでけっこうなことです。でも、自分の欲望からの自由がもっとも大事なことではないでしょうか、自分がなんであるのか判らない自由なんて奴隷の自由ですよ。そう思わないですか?どうも僕は最近色んなことが気になってしょうがないんですよ。感じるって言ったほうがいいかな。勤務中にボンヤリと窓から外の景色を見ていたり、歩いているときにふと立ち止まって、街路樹を見上げたりしてね。そういうとき少し不安な気持ちもあるけど奇妙な安らぎもあるんですよ。若いころには感じたことがないような気持ちで、なにか重要なことを知り始めているような気持ちなんですよ。そういうとき今の仕事がつまらなく見えてきて、たまらなくイヤになるときがあるんですよ。同僚にこんなことを言ったら変人扱いされますから黙っていますけどね。もちろん最近は話をするだけでも億劫になってきましたけどね。若いときにはなんとも思わなかったんだけど、どうやら僕は自然に興味を持ち始めているようです。田舎育ちの君にこんなこと聞いて失礼かもしれないけど、君は自然って大事だなあと思ったことありますか? まあそうでしょうね、自然のなかに居るとそのありがたみが判らないということがありますからね。僕はつくづく大事だなあと思っていますよ。でも今日本、いや日本だけじゃないですけどね。自然をどんどん破壊しているでしょう。まあ、そのおかげて生活が良くなったんではないかと言われればそれまでですけど、でもこのまま言ったら、いったいどうなるんでしょうね。自然を破壊してエネルギーを食いつぶして未来は大変なことになりそうな気がするんですよ。生活がよくなることと、幸せになることとはどうも一致しないような気がするんですよ。人間にはもっと大事なことがあるってね。自分自身を知るとか、自己の欲望から自由になるとか、人生の目的を見つけるとか、、、、実は僕たち子供を作らないことにしているんですよ。これからの世界のことを思うと、生まれてくる子供にとって気の毒ですからね。このままじゃ何もかも大変じゃないですか、親として責任はもてませんよ。ボクはどうにか頭もよく生まれ、ここまでうまくやってきたけど、生まれてくる子がボクのように頭がよく生まれてくるとは限りませんからね。子供がいなくたって人間は幸福になれると思うんですよ。それに今世界では人口がどんどん増えていますからね、このまま行ったら、あと五十年もしないうちに人類は皆飢え死にしてしまうそうじゃないですか。それこそこの世の地獄ですよ。子供を作らないということが、微力ではあるが未来社会に貢献していることにもなるんですよ。そうは思いませんか? 僕と君はどうも似ていないようですね。僕はどうしても君のように人生気楽に考えられませんからね。ぜひ楽天的でいられる理由を聞かせてもらいたいですね、、、、」
 高志は酒を飲むと饒舌になるタイプのようであった。彼は最初のときのようにうつむき加減になることはなく、終始清二のほうを見ながらしゃべり続けた。しかしその間一度もソファアにふんぞり返ることもなく遠慮がちなまなざしも変らなかった。それに自慢とも自嘲ともつかない彼の話し方からして、不安定な感じは相変わらずであったので、彼の辛らつな表現に対してもそれほど不愉快さは感じなかった。清二は彼のいいたいことは理解できない訳ではなかったが、疲れと酒で頭がボォッとして、彼の言うこについていけなかった。それに彼は自分のペースで話を進めていく傾向があり、途中で口を挟むことが出来なかった。しかし彼の言わんとすることは雰囲気としてだいたいつかむことが出来た。時計は十一時をまわっていた。清二が答えた。
「ボクは似ているように思います。だってあなたの話を聞いているとだんだん気が重くなってきましたから。でもボクはパンの作りかたを知らない人の話はあまり深く受け取らないようにしているんです。ところで今日はこれで返ります。なにせ明日は早いもんですから。眠らないとこたえるもんでね」
「そうですか、夜は眠るもんですからね」
と高志はソファアから立ち上がりながら独り言のように言った。
 清二は洋子の車で送るからという申し出を、近いからということで丁寧に断り、歩いて返ることにした。

 外はひえこみ霧に包まれていたが、酔った体にはちょうどよかった。
 歩きながら清二は何となく気にかかるものがあり、今までいた部屋のほうを振り返って見た。すると半透明な夜霧を通してその部屋の窓に人影を見たような気がした。
 帰り道を急ぎながら清二は今日はいったい何のために来たのだろうかと不思議な気持ちになった。


 次の日、仕事から帰るとまもなく安本は外に出かけたので、清二だけが部屋に残された。外にあるトイレから出てきたとき、清二はトイレに行こうとする国沢とすれ違った。国沢は目をぎらつかせて威圧するような視線を清二に向けたが、清二は無視した。しかし内心は思わずイヤな気持ちになり、自分は国沢を恐れているということに気づいた。そして一昨日の夜のことが頭に浮かんできて、だんだん不安な気持ちになっていった。というもの今日仕事中に国沢は公然と能無し扱いされたからである。
 国沢は皆のいる前で三好にある材料をとってくるように言われた。彼は従順そうな態度で「はい」返事をして取りに行ったが、なかなか戻ってこなかった。そこで苛立った三好とともに皆が、ビルの三階から地上の資材置き場を見下ろすと、熊のようにうろうろしている国沢を見つけた。そこで業を煮やした三好が
「なにやってるんだよ、ほらそこだよ、おまえの足元だよ。それだよ、それ」
と怒鳴るように言った。  国沢は上気した戸惑いの表情を見せながら、皆のほうへ見上げると、オドオドとした動作で三好の指示に従った。それを見ながらトオルがあからさまに
「判ってないんじゃないの」
と呟いた。そして三好もあきれ返ったような苦笑いを浮かべた。暑さで頭がやられているせいか、どうやら国沢は初めから何にもわかっていないようだった。
 だが少なくともこのことは彼にとっては、屈辱的なことに違いなかった。それに作業をしながら清二は彼の挑戦的なまなざしを何度もうけたり、聞こえよがしに言う国沢の自分に対する誹謗を耳にしていた。それで清二は、一昨日の夜のようにまた国沢が言いがかりをつけに来るような気がしたのである。
 もしまた来たら、今度こそは喧嘩になってもいい、勇気を出してはっきりといい返そうと思うのであったが、万が一のことを考えるとやっぱりできそうになかった。
 若いときには血気に任せて喧嘩やいざこざはなんとも思わなかったが、二十代後半になってからそういうことをするのは、今日まで自分を成り立たせていたものが、崩壊していくような気がした。
 人間は年を取ると臆病になっていくのだろうかと思い暗鬱な気持ちになった。国沢は自分だけではなく他のものからも嫌われ、誰が見てもまともには見えないということを清二は判っていた。それにこのようなことは、取るに足らないまったくばかばかしい小さな世界の出来事であることも判っていた。しかしいくら頭でそのように理解していても、現実には国沢のいやがらせに対しては、どうしても<国沢のような人間とこのようなプレハブ住宅に住む臆病な労務者>として、自分の全存在をかけて立ち向かわざるをえないのである。それはまた同時に全世界からのいやがらせのように感じて、とてつもない孤独感に襲われることでもある。
 国沢の行為は明らかに言いがかりであった。そのことを社長や三好に話せば自分と国沢の実績からして、自分に味方してくれるに違いないと思った。でも清二はそれだけはしたくなかった。
 久保山が部屋に居るあいだは来ないだろうと思った。だが、不安な気持ちでいるのはいやだった、それに不必要なトラブルは避けたかったので、清二は街に出ることにした。


 ひんやりとした空気に心地よさを感じながら、薄暗い裏通りを歩いていると、にぎやかな表通りから勤め帰りの若い女が華やかな照明を受けて入って来た。そしてまもなく黒いシルエットとなって清二のほうに近づいてきた。清二は白っぽいスカートからのぞいたつややかな脚にときおり視線を投げかけながらすれ違った。
 ほのかな香りを感じていると今までの憂鬱な気分を忘れさせてくれるほど、爽快な気分になった。薄暗い通りを軽快な足取りで歩いていく女の姿に清麗さを感じながら見ていると、清二には彼女がこれから家族の待つ自分の家に帰っていくようには思えなかった。そして女のリズミカルなヒールの音を聞きながら、このまま永久に後をつけたい衝動に駆られた。

 表通りには家路を急ぐ人々で溢れ、車もあわただしく行きかい、華やかで躍動的で活気に満ちていた。
駅に向かって歩いていると、二十歳ぐらいの男と四十歳くらいの女が歩道で立ち話をしているのが目に入ってきた。勤め帰りらしい二人の服装や、顔を見合わせているときの生き生きとして表情からして親子ではないことは確かであった。とくに女の表情夜の光のなかで不思議なほど魅力に輝いていた。華やかな風景に酔うように、棟のときめきを素直に表した女の表情は扇情的でさえあった。つりあいの取れた男女だったら気にも留めなかっただろうが、清二はその怪しげな雰囲気に欲情的なものを鮮烈に感じた。
 清二は電車に乗った。
 町には自分とか他人とかを異常なほど意識させる挑発的な雰囲気があった。とくに電車内のよそよそして沈黙の中では、それが著しかった。皆同じような感情を抱いていることは確かだったが、見知らぬもの同士であるため、そのような感情が和らぐことはないのである。これが孤独感や奇妙な人間関係の原因なのだろうか? 清二にとって、意識過剰になるこのような雰囲気は苦痛でいつまでたってもなじめそうになかった。
 おそらく人間関係の親密さはもっと単純なものかもしれない。つまり人口密度に反比例するのである。たとえば電車内の場合、個人はあらかじめ固有の親密量を持って乗り込んでくるのであるが、もし電車内がその乗り込んでくる前の人口密度より高ければ、対人間親密度は弱まり、低ければ対人間の親密度で高まるのである。判りやすい例としてあげれば、混んでいた車内がじょじょに乗客が降りて行って、二人だけになったとき、その見知らぬ人間に奇妙な親しみを感じるのは、そのせいではないだろうか?
 清二は行き先を決めてなかった。気のむいたところで降りてあとはさ迷い歩くだけだった。


 女がドアを開けて入ってこようとしたとき、誰かに呼び止められたらしく、後ろを振り向いた。そして半開きのドアに体を挟むようにして、廊下の奥から、××ちゃんと呼びながら小走りで寄ってきてもうひとりの女となにやら話し始めた。話しながら驚いたようにしきりに瞬きするので付けマツゲだとわかる。あごがしゃくれ上がったもう一人の女は別れ際その顔をゆがめキツネのような表情でチラッと部屋を覗いた。
 清二はここに来るまでの欲情的な気持ちの高まりはほとんど消えかかり、むしろ後悔の気持ちが始まっていたが、その女の間延びした顔をみてますますしらけた気分になった。
 部屋に入ってきた女は清二にチラッと眼をやっただけであった。
 気取りにも受け取れたが表情を崩さない横顔を見ていると、侮りや馴れ馴れしさを拒絶する毅然とした態度にも受け取れた。それともこれも男女のひとつの出会いであるだけに、不安を表した態度なのだろうか。女は先ほど女ほど厚化粧ではなかったが、口紅はシッカリと塗られていた。年齢は三十を超えているようにも見えたが、照明によって、二十代にも四十代にも感じられ実際のところは判らなかった。はっきり言って美形ではなかったが、軽薄さを感じさせないおっとりとした顔立ちであった。 女が入ってきて足をあらわにした短いワンピース姿や、女らしい仕草を見ていると、初対面ということあって、ときめくものを感じていたが、そのうち見慣れてくると、単なる短めのワンピースに身を包んだ女のありふれた仕草に変り、なんとも感じなくなった。
 それに女は気を許さないのか、無愛想気味に必要なことしか喋らないので、雰囲気はだんだん沈んだものになっていった。決して打ち解けた雰囲気になることを望んでいるのではない、自分をここに来させた酔うな狂おしい欲情の再燃をのぞんでいたのだ。それは車のフロントガラスから太ももをあらわにした女の姿をのぞいたときのように、女が衣服を見につけているあいだに、自分をやや暴力的に演出して、眼の前に居る女を単なる欲望の対象として見なければならないのであるが、女の生気のない表情や仕草を見ていると、うまく行きそうになかった。
 沈んだ雰囲気のなかから浴場をかきたてるためには、あとは意識的に陽気に野卑な感じでのぞむしかなかった。清二は投げやり感じて冗談ぽく言った。
「いや、ワシは田舎もんですけん」
しかし女は冗談のようには受け取らなかった。そして
「みんなそうなのよ」
と同情するように言った。
 清二はまずいことになったと思った。こういう雰囲気こそなんとしても避けたいと思っていたことだった。
 普通ならここでお互いの出身地の話へと進展していくべきだったかもしれないが、 清二は言いたくなかった。それに女はそういうことには飽き飽きしているに違いないと思い黙っていた。女が言葉を続けた。
「でも帰れるところがあるのはいいことよ」
「あるけど、でも最近はほとんど帰ってないから、ないと同じようなもんだよ」
「寂しくないの?」
「もう慣れたから」
「強いのね」
 清二は女の言葉をどう理解して良いのか判らなかった。しかし女の言葉の背後にはひと言では言い尽くせぬ女の来歴が感じられた。
 女は衣服を脱いで裸になった。清二は女の陰毛に心理的動揺を覚えた。しかしそれもほんの一瞬で、ふたたび沈んだ気持ちになった。
 頭には何にも浮かばなかった。
 ただどこか遠い砂漠で植物が芽を吹こうとしていた。
 肉体の変化に精神が呼応しない限り肉体にとってそのことは苦痛なだけである。
 自分と関係のないところで生命の息吹があった。
 清二はただひたすら生命の汚辱に耐えなければならなかった。
 荒涼とした気持ちで黙っている清二に衣服を身につけた女が言った。
「何を考えているの?」
 その言葉の背後には紛れもなく親しみが込められていた。女の仕草もうちとけたものに感じられた。しかし清二は親しみはわかなかった。むしろ得体の知れない嫌悪感にとらわれていた。女に対してなのか自分に対してなのか。女の弱々しい仕草や白く細い手を見て、本来なら頼りげのないもの守られるべきものと思うべきところ、何となくシャクに触り煩わしく思うところからすると、女に対して向けられたものかもしれなかった。清二は最悪な雰囲気になったと思った。
 清二が女にそれほど欲望を感じていなかったというのは嘘で、微かにではあるがやはり感じていたのである。それが、女を欲望の対象として求めなくなった今、女はまったくの用無しなのである。これは男としての自然な感情なのであろうか? もしそうなら、女が最初に見せた"侮りを許さない"ような毅然とした表情の謎も解けるのである。
 それは、女を求める客の態度を人間的な親しみと勘違いをした女が、最初の親しみの態度があとに行くにしたがって、いわれない侮りや嫌悪の態度へと変っていくのを客の裏切りのように、今まで戸惑いながらも何度も味わっているので、客の見え透いた態度を意識的に受け入れまいとする男性不信の表情なのである。もしそれが真実なら紛れもなく女の人間性の否定である。なぜなら親しみは時間の経過とともにはぐくまれる人間としての自然的感情の発露であるからである。
 清二は何とかして女の親しげな話し方や仕草に、親しみをこめて接しようとするのであるが、わだかまりがあってどうしても出来なかった。もう取り返しが出来ないのである。出会いの順序がまったく逆なのである。
 清二は絶望的な気持ちであった。所詮臆病な労務者と売春婦の出会いはこんなものかもしれなかった。しかしこのような悲惨な状態は何とかして償われなければならないような気もした。


 翌日の土曜日、仕事から帰るとさっそく安本はよそ行きの服に着替えた。そしてやっと前借りが出来たということで、にこやかな表情で自分のマンションに帰っていった。
 しばらくすると久保山がひょいとドアのところにあらわれ、
「セイちゃん、表に女の人が来てるよ」
と言った。
 清二はどういうことなんだろうと思いながら急いで通りにでた。狭い通りの端に車が止められ人が立っていた。近づくと洋子であった。
「どうしたの?もうここには来ないように言ったでしょう」
「そうなんだけど」
「なにか急用でも出来たの?」
「いえ、そういう訳じゃないけど、それより車に乗らない?」
「そうだ、そうだ」
と言いながら清二は急いで車に乗り込んだ。
 洋子に国沢を見せたくなかったし国沢に洋子を見られたくなかったからである。
 洋子の運転で車は走り出した。偶然とはいえ、取り次いだのは久保山であったことにほっとした気持ちだった。もし国沢であったらと思うと冷や汗が出てきそうであった。
 洋子が話し始めた。
「わたし明日の朝帰るの、それでもし何か言付けがあったらと思って」
「ううん、別に何もないね。ただ元気にやっているっていうことだけで。出来るならあんまり余計なこと言って欲しくないんだけどなあ、、、、用事はそれだけ?」
「、、、、、このあいだのことなんだけど、なんかいきなり帰られたみたいで、怒らせたんじゃないかって、うちの人気にしているの、、、、」
「あれは、、、怒って帰ったんじゃなくて、夜も遅かったので早く寝なきゃあと思ったので、そういえば話の途中みたいだったかな、なんとも思ってませんよ」
「それならいいんだけど、あの人また会いたいみたいなの、清くんのこといろいろと聞くのよ、遠まわしにね、どの辺に住んでいるんだとか、怒らせたかなあ、とか、何度も言うのよ、よかったらそのうちにまた会ってくれない?」
「いいですよ。明日はちょうど休みだから、明日はどうだろう、家に居ますか?」
「ええ、たぶんいると思うわ、、、、、なにか変だと思わなかった?」
「誰が?」
「うちの人」
「変だというより、意外な感じがしたね。もっとバイタリティに溢れた人かも思った。変ねえ? 別に夜に散歩することは変だとも思わないけど。でもどことなく不安そうな感じはしたね。昔からそうだったの?」
「いや、そうじゃないわ、前はそんなんじゃなかったわ。最近かしら、とくにあそこに移って来てからは、、、、いつもイライラ気味で、わけのわからないことを言ったり、わたしと話すのはイヤみたいに一日中喋らなかったり、つまらないことで突然不機嫌になったり、わたしにもどうなっているのかサッパリ判らないの、、、、」
「あっ、まだ、車が来てるから」
「最近は夜も眠れないみたいなの」
「それほど無口な人には見えなかったけどね」
「そう、この間はよくしゃべったみたいね、あなたが帰った後も落ち着かなかったみたいで、昔のように私に何かと話しかけるの、ここかしら?」
「そう、ここを右に、、、、」
「それじゃ、明日また来てくれるのね。せっかくの休み迷惑じゃなかったかしら」
「いいえ、いいんですよ。休みといったってボクはいつも暇ですから」
 清二は宿舎に通じる路地のだいぶ手前で車から降りた。


 その夜の十一時ごろ虫の鳴き声を聞きながらのんびりとした気分で風呂から帰ってきた清二は、自分の部屋にあと二三歩という所まで近づいたとき、開けっ放しのドアから地面に映し出された人影が動くのが見えた。イヤな予感がしたがもう遅かった。
 部屋のなかには何となく落ち着かない様子で国沢が立っていた。彼の鋭い視線を意識的に避けながら部屋に入った清二は、油断しすぎたかなと思った。
 無言の清二に国沢が話しかけた。
「安本はどうしたい?」
「前借りができたみたいで、自分の家に帰ったみたいですよ」
と清二は何気なく言うと、さっそく寝る準備に取り掛かった。出来るだけ相手にしたくなかったからだ。しかし国沢は部屋のなかを見まわしたりしてなかなか帰ろうとしないので、清二はまずいことを言ったかなと思った。それに久保山の部屋には電気がついてなかったことを思い出した。国沢がいつになく冷静に話しかけてきた。
「最近、おめえは、部屋に居ないな、どこに行ってんだよ。やますい(疚しい)とこあって俺から逃げてんじゃないのか!」
「ちゃんと用事があって出かけているんですよ。それにどうして逃げなきゃいけないんですか? 国沢さん今晩は遅いんで、もう寝ますから。話しは明日にしましょう」
と清二は意識的に陽気に言った。しかし清二の何かが気に触ったらしく、国沢は見る見る険しい表情に変り怒鳴るように言った。
「なに、寝る?寝るだと、いくら寝りゃあ気が済むんだ、いつも車のなかて寝てるくせに。今日こそは話をつけてやるからな」
 そう言いながら国沢は威圧するように近寄ってきたので、清二は動きが取れなくなり立ったままで話をすることになった。また始まったかと思った。しかしこのあいだよりは冷静でいられた。今日もまた誰かに怒鳴られたに違いないと思った。というのも今日は国沢とは違う現場だったからである。しかし国沢の相変わらずの支離滅裂振りには言い返す言葉も見つからなかった。
「また、だんまりか、とぼけやがって、なにか言ってみろ、言える訳ないよな、おめえがみんな悪いんだからな、昨日の何だあれは、バケツもコテもないのに、オレにモルタルさせやがって、オレはな手でやったんだぞ、この手で、真っ黒にしてな、道具を用意するのは先輩の役目だろう、道具を積み忘れやがって、おめえもしかしてワザと忘れたんだろう、道具がないのが判っていながら、わざとオレにやらせたんだろうおめえそれでも先輩か、なんぼ後輩をいじめりゃあきが済むんだ」
 そのことでは確かに国沢にも言い分があった。しかし道具を積み忘れたのはすべて清二のせいではない、なぜなら清二よりも上のものが管理すべきことであり、清二にはまだそういう役割を与えられていなかったからである。それに道具がないと判っていても作業を命じたのは三好である。このような段取りの悪さは三好や石田を筆頭としたこの会社の体質なのである。
 清二は国沢の数々の誤解を解くために何とかして話し合いに持っていこうと思い、国沢の怒気に巻き込まれないように必死で冷静さを保ちながら言った。
「もう少し冷静に話しましょう。これじゃ話しにならないでしょう」
「なに、冷静だと、生意気言うな、おめえが悪いのに冷静になれるか」
と言いながら国沢は清二の触れるほどに近寄ってきた。
 国沢の気迫を感じながらふと思った。もしかしたら国沢の脅迫は見せ掛けで、自分が国沢の怒気を恐れて下手にでているために付け上がっているだけで、根は臆病なのではないかと。そこで清二は思い切って国沢を睨みつけた。しかし国沢はひるむ気配を見せなかった。そしてより怒りをあらわにして言った。
「なんだ、やる気か!」
 清二は思わず視線をはずした。気迫こめたつもりでも眠そうな眼では、どうにも迫力がなったらしい。清二はどうすることもできずにただ黙って突っ立っているしかなかった。
「また、だんまりか、おまえは脅しだと思っているんだろう。それなら社長にいいつけろよ。なんで言いつけねえんだよ。そうだろうな、おまえが悪いから言えるわけねえよな。これは脅しじゃないんだぞ。お前は全国の労務者の面汚しだ。お前なんかぶん殴ってやる。警察に言いたけりゃあ、言ってみろ、オレはちっとも怖くない、行き慣れているからな、オレは本気だぞ」
 そう言いながら国沢はさらに体を近づけた。清二は本気なのだろうかと思った。もうどうして良いか判らなかった。ふと絶望的な笑いがこみ上げそうになった。というのも清二は今まで国沢のように社会的に不遇な人々に対してある程度の同情の気持ちを抱いて見ていたので、彼らに対しては思いやりや親切心をもって接すれば、いつか相手に受け入れてもらえて、そこから友情らしきものが生まれて仲良くやっていけるに違いないと思っていたのであるが、それが完璧に通用しないことが今はっきりと判ったからである。それに同時に、たとえどんなことがあろうとも、それにどんな人間に対してであろうと、威嚇や侮りや暴力でもって臨まないようにしてきたのであるが、そのような考えは何の役にも立たなく、むしろ思い上がりに過ぎないことが判り、今まで長い時間をかけて築き上げ、そして自分を成り立たせていた考えや生き方の完全なる敗北が感じられたからである。
 それはまさに孤島に流れ着いた二人の見知らぬ遭難者が、お互いまったく対等あるため、憐れみや同情が起こる余地はまったくなく、また感じ方や考え方があまりにも違うのでお互いに相手を理解する帰途が出来ないまま、動物のように力づくでお互いの優劣を決めようとする戦いのようであった。
 清二は自分は今、かつて憐れみや同情の気持ちで見ていた単なる孤独な労務者以外の何者でもないことをひしひしと感じた。
 清二は最後に手段に訴えるべく気力を振り絞って言った。
「このままじゃいつまでたったも埒があかないから、誰かになかに入ってもらって、どっちが悪いかはっきり決めてもらいましょうよ」
「気取るんじゃないよ、おめえが全部悪いに決まってんじゃねえか」
と国沢は今までにないほどにいきり立ち清二に迫りがら怒鳴った。
 清二どうしようもないという気持ちで黙って立っているしかなかった。すると国沢は 「このやろう、おめえなんかこうしてやる」
と怒鳴りながら突然右手で拳骨を作り左手で清二の腕を力任せにつかんだ。
 清二はまだ冷静だったので
「やめろよ」
と言いながら、国沢の手を振り解こうとしたが、国沢は怒りで体を震わせながら、さらに力をこめてつかみ、拳骨を作った手で清二の胸倉をつかもうとした。清二はまさかここまでやるとは思っていなかったので、身構えることなくその手を避けようとしたため、国沢の勢いに押されて壁際までよろめいた。国沢は清二を壁際まで追いつめると、少し気が済んだのか、怒りはだいぶ鎮まったようだった。しかし力強くつかんだ腕は離そうとはしなかった。あまりにも不意であったせいか、清二は自分が不安に思っていたような気持ちにはならなかった。つまり恐怖のあまり我を忘れて暴力でもって立ち向かうというような。むしろ不思議なほど冷静であった。
       










     
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