ブランコの下の水溜り(21部) はだい悠
と元山は子供に言い聞かせるようにもったいぶって言った。 清二はあっけに取られた。なぜ元山があの見知らぬ親子を、日本人でも、中国人でも、または他の国民ではなく、あえて朝鮮人であると、何を根拠に断定したのかまったく不可解であった。 それは誰でも不必要にじっと見られたら怒るはずで、怒れば怖いのも当たり前である。だがさっきのは明らかにそう云うのと気違う。それに元山の言い方には、その言葉を特別視するある感情的なものが紛れもなく含まれていた。それは元山と同じような体験や先入観がなければ判らないものであった。 だが清二は元山のようにその言葉に対する体験や先入観がまったくなかったので、元山の感情的なものを理解することはできなかった。ただ元山の意味深長な言い方から、清二の頭ではその言葉は微妙な問題を抱えたものであり、もう子供のような素直な気持ちで言うことができないものであると云う、強迫観念的なものになったことは確かであった。 だが本来は知らなければ知らないで済むはずのものである。なぜ子供のように無知であってはいけないのかと清二は冷静な気持ちで思った。 元山の突拍子もない発言はまぎれもなく彼のデマゴーグ的な性格から来るものに違いなかった。ただそう云う傾向は三好や黒塚にも見られ、そう云う人間には性格的に共通したものがあった。 それはどことなく狡猾で利己的なところがあり、うぬぼれが強く、いつも何かに不満を抱いて生きているということであった。 完全に日が暮れたころ車が事務所に付いた。 三好によって今日の仕事の成果が報告された。だが三好はいつものように少し割り増しをして報告をした。嘘の報告は今に始まったことではなかった。それは仕事が進まないと社長が不機嫌になり小言をいうので、三好がそのこと恐れるあまりに取る手段であった。だか清二は以前から、なぜ彼がそれほどまでに社長を恐れるのか不可解であった。仕事が進まないのは、親方の力量は別にして、決して不真面目にやっているからではなく、材料が来なかったり、やりづらい現場であったり、他の業者との兼ね合いで思うように仕事ができなかったり、ほとんどが不可抗力なのである。別に疚しいところはないのだから、ちゃんとそのことを報告してもっと堂々とすれば良いのにと思っていた。それにそう云う姑息な手段に訴えることに不満であった。なぜなら後でしわ寄せが来て、結局遅れることになるからである。 報告が終わると、それまで無言のまま椅子に座っていた。社長が重々しく言った。 「今日、K建設から電話があったよ。安全ネットがはずされたままになっているって。はずしたあと復元してないのか?」 「いいえ、ちゃんと元に戻してますよ」 と三好は神妙な顔つきで大きく首を振りながら答えた。 「そうかそれならいいんだけど、万一事故があったらこっちの責任になるからな」 「ええ、大丈夫ですよ。なあ、ちゃんとやってるよなあ」 と三好は、恐れている父親の前で、必死で真実を訴える子供のように、眼を丸くした表情で、清二たちのほうを見ながら言った。 その安全ネットとは、人や物が落ちでも大丈夫なように工事現場に設けられているものであったが、どうしても作業の邪魔になるので、いったんはずすのであるが、作業が終わっても元に戻すのが面倒くさいので、そのままにしておくのである。それは三好自身も、他のものも皆知っていることである。だから三好の言ったことは明らかに嘘であった。だが社長は、三好がゼスチャーたっぷりに否定するので、信ぜざるを得なかったようだ。清二はどうしてまた見え透いた嘘をつくのだろうかと不可解であった。だがその反面、三好のとった言動がそれほど不可解ではく、むしろ不思議と三好自身にあっていることに気づいた。それは追いつめられた三好が社長を恐れるあまり、思わず取った言動とはいえ、嘘とか真実とかといって、抽象的に批判するような問題ではなく、彼自身の生命や人格から自然と流れてくるような合理性のあるようなものと感じさせるものであった。だから三好自身は取り繕っていると云う意識はまったくないようだった。 過ぎ去ったことの過ち認めたり、真偽を明らかにすることよりも、いまある現実的な恐怖感や、屈辱感を避けようとするのは、生命体として自然かもしれなかった。ましてや三好のように容貌からして狡猾そうな人間にとっては当然のことかもしれなかった。 その晩清二は湯船につかりながら、ふとある思いにとらわれた。 今日午後に仕事か遅いと三好に怒られたのは、あれはもしかすると、自分を怒ったと云うよりも、叱責しやすい自分を利用して他の者を叱咤したのではないかと云う気がしたのだった。 それから、社長に問い詰められて嘘を言ったのも、あれも三好のひとつの高度な知恵ではないかと云う気がした。なぜならあの場合、仮に真実を言ったとしても、それは社長を不安がらせ、ほかの従業員を滅入らせるだけだからだ。嘘も方便、済んでしまったことは雲散霧消、これからはどうすれば良いか阿吽の呼吸でみんな判っていることなのである。 銭湯を出た清二は夕食のために表通りを歩いていると、後ろから呼び止められた。 振りかえると一人の男が近づいてきて会釈した。四五日前に入ってきた男で、名前は木村といった。年は四十前であった。 「いや、ちょっと見かけたもんで、、、、、これからどこへ」 「ええ、夕ご飯に」 「そうですか、、、ちょうどいいや、どうですか、ちょっと、、、」 と木村は非常に恐縮して小さな声で言った。どうやら飲み屋に誘っているようであった。 木村は入ってきてまだ日も浅く、それで主に三好の下で働いていたので、清二はあまり親しく話したとはなかったが、断るほど悪い印象をもっていなかったのでいっしょに飲むことにした。 二分ほど歩いて、五十過ぎの化粧気のまったくない女主人がいる飲み屋に入った。 飲み屋といっても他の店のように華やかな装飾が施されているわけではなく、四五人座れるほどのカウンターと四人がけのテーブルがひとつあるだけだった。他に客はいなく、こじんまりとした割には何となく寂しい感じであった。二人はテーブル席に座った。 木村は三好の紹介で入ってきたようであった。頬骨が出っ張り、くぼみがちな大きな眼をした顔つきからして、ちょっと見には怖そうであったが、よく見るとその目には内気そうなかげりが見られ、あまり話し好きではない物静かな男であった。筋肉質の頑丈そうな体つきをしており、身長も高いので肉体労働には申し分なかったが、仕事に慣れていないせいか、その不器用さが目立った。とくに高所は苦手なようで、体全体で恐怖感を表すほどだった。 上のものには従順で仕事に対しても愚直なぐらい真面目であった。それでも三好は木村がもたもたするのを容赦しなかった。自分の紹介で入れたものがよく動かないのに体裁の悪さを感じるからであろうか。人前でもあからさまに不機嫌な顔をして怒鳴りつけるのである。三好の性格上、それにまだ木村も仕事ができないのだから、仕方がないことと思っていても、周りから見ると少し気の毒なくらいであった。だが木村は何を言われても、いやな顔を見せず紅潮させた顔から汗を流しながら懸命に動いていた。 「こういうところ、あまりしらないもんで、、、、よくこの前を通るんですよ。いつも客が入ってないんですよね」 と木村ははにかみながら言った。 「、、、、、、」 「どうですか、よく飲みに行くんです?」 と木村は清二にビールをつぎながら言った。 「いや、最近はほとんどないですね、どうぞ」 「いや、わたしは、そうですか、それならちょっとだけ、、、皆さん、よくやりますね。わたしなんか、、、、、どうも高いところが怖くてね、、、、、、」 「いや最初は皆あんなもんですよ。ボクなんか何にも知らなかったから、毎日どやされていましたよ。高い所だって怖かったし、でも慣れれば何とかなるもんですよ」 「入ってどのくらいになるんですか?」 「ええと、半年かな」 「へえ、半年で、あれまでに、、、、わたしは、、、体力には自信があるんですけどね」 「それなら大丈夫ですよ。体力さえあれば、そのうちになれて気ますよ。三好さんはちょっときびしいけど、あれはあの人の性格だから、ボクなんか今でも怒鳴られていますよ。今日だってねえ、、、、、もう少し信頼してくれたら良いんだけど、でもあの人仕事が終われば、やさしい人だから、、、」 「そうですね、とくに女性にはやさしい人みたいで、、、、どうぞ、もっと飲んでくださいよ」 「いいえ、ボクはもう充分です、それより木村さんこそもっと飲んでくださいよ」 「いや、わたしはいいんですよ。わたしは、、、、ところで伊東さんはまだ独身なんですか、、、、」 「ええ、、、、」 「そうですか、、、、なぜ、、、結婚しないんですか?」 「なぜって、、、、自分でもよく判りません。縁がないからかな?たぶん今は男が余っているからじゃないですか、それにボクはまだ二十八ですから、三十過ぎてからでも遅くはないと思っていますよ」 「そうですね、、、、、無理やり結婚なかんすることないですよね、、、、」 「木村さんはここに来る前は何をやってたんですか?」 「ええっ、わたしですか、、、、、、わたしは工場に勤めていました。小さな、、、二十年以上も、でも去年の暮れだめになって、、、、、失業保険もあったから当分大丈夫だったんだけど、遊んでいるのが性に合わなくて、せっかく結婚したのに、、、、去年の春結婚したんですよ。もう四十だし本当はボクみたいな男のところに来る女はいないと思って諦めていたんでけど、どうしても親がすすめるもんで、仕方なく結婚したんですよ。でも、なんのために結婚したのか、、、、、」 と木村は最後のほうは伏目がちに聞き取れないくらいの小さな声で言った。 清二は、木村は仕事が出来ないために不安を感じているのだと思った。そして自分が入ってきたときのことを思えば無理はないと思った。 「ボクも実は、こういう仕事初めてだったんですよ。入ったころはほんとに右も左も判らなくて、工具の名前だって満足に知らなくて、、、、トンカチぐらいは知ってたんだけど、なにかを持ってくるように言いつけられて、別なものを持っていってバカにされたりしてね、もう毎日が冷や汗の連続でしたよ。モルタルの作り方だって知らなかったんだから、それに、なんといっても力がなかったですよ。危なっかしく見えるらしく、最初の頃はぜんぜん版を持たせてくれなかったですよ。とにかく、三ヶ月間は雑用にモルタルばかりでしたよ。僕が入ったころかは、ボクの前に十人くらい先輩がいたんですけど、皆ボクよりは何がしかの経験があるので、皆凄い人たちに見えてね、何年たっても追いつけないといった感じでしたよ。でも、毎日少しずつ覚えていくうちにいつのまにか、こうなっていたんですよ。木村さんは真面目だから、ちょっと辛抱し照れば、そのうちになんとかなりますよ」 「、、、、わたしはもう四十ですから、、、いまから覚えるのは、、、、」 「いや、まだまだ大丈夫ですよ。やる気と体力さえあれば、どうにでもなるもんですよ。前にもけっこういましたよ。四十五十の人が。石田さんや三好さんも四十過ぎているし、あの黒塚さんだってそうだよ。もっともあの人はやる気がないみたいだけどね、、、、、」 「、、、、、辛抱にもできる辛抱とできない辛抱があるからね」 「そうだなあ、確かに、みんな冷たいっていうか、言い方がきついっていうか、柄がわるいところあるからなあ。ボクはだいぶ慣れたつまりなんだけど、でもあんまり気分がいいもんじゃないよな、あれは。しょうがないんだよな、人に怒鳴られるのはイヤだけど、人を怒鳴るのはなんとも思わないっていう人間ばかりだからね。でもあれは仕事のことだけだら、それに非常に気に触るような言い方をするけど、それほど言うことは間違ってないんだよね。そうだな、三好さんや石田さんのいうことは信用していいけど、でもあの黒塚さんや元山さんの言うことは信用しないほうがいいね。とくにあの黒塚のいうことは絶対に聞かないほうがいいよ。奴も何にも知らないんだから、奴のいうことはとにかく、すべて口からでまかせだから、それに奴の言うことはあまり気にしないほうがいいよ、奴はとにかく人を悪く言うのが趣味だから。大丈夫ですよ。今まで色んな人を見てきたけど、木村さんはやれる人だよ」 「、、、、、、、」 木村は決まり悪そうに微かに笑みを浮べるだけで何にも答えなかった。木村はおしゃべりが苦手なせいか、最初から話すのが苦痛そうにしていたが、その後も清二に気を使うようにビールを勧めたりしながら、清二の話に黙って頷くだけで、ほとんどしゃべらなかった。ときおり、清二の語気が強くなったりしたときには、びっくりしたような眼をして清二のほうに顔を向けたが、すぐに視線をそらして不安そうな表情にもぢった。木村はいままで入ってきた人間のなかでも、もっとも誠実で控えめで思いやりのあるやさしい性格の人間のようであった。清二は木村はこういう荒々しい雰囲気の職場やギスギスした人間関係に慣れていないのでとまどいを感じているに違いないと思った。 清二はまだ親方として現場を任せられてはないかったが、仕事に対する知識や経験には充分なものが在ったので、少なくても三好や石田に次ぐものとして指導的立場にあることは間違いなかった。清二自身もそのことを自覚していた。 清二は三好や石田のように、下のものがもたつくのを見てあからさまにイヤな顔をして苛立ったり、指示を与えるときに怒鳴ったりしないように心がけていた。それは今までの数々の経験から、上の者のそう云う態度は、下のものの気持ちを不快にして職場の雰囲気をとげとげしいものにするだけで、作業にも決していい影響を耐えるものではないと云うことを判っていたからである。清二はただ作業員の不満やトラブルは、話し合いによって解決しながら信頼関係によって作業を勧めることで、友情を深めていって職場の雰囲気を楽しいものにすることを願っていた。 だがある日、そう云う願いを打ち砕くようなことが起こった。作業をしながら清二は無性に苛立ち怒鳴りつけたくなったのである。下のものに高圧的な態度で望むまいと思っていた精神的規制も何の役にも立たなかった。 確かにそれ以前にも、仕事が思うように行かなかったり、下の者が思うように動いてくれなかったりして苛立ったことはあった。てもそのときにはまだ苦笑いを浮べる程度で気持ちには余裕があった。だが今回のは、体全体から自然と沸き立つようなまったく押さえのきかない無意識的な苛立ちであった。 それは下の者のちょっとした仕草が気に入らない、もたつくのが気に入らない、いうことを素直に聞かないのが気に入らない、と云うそれ以前にはまったく考えられなかったようなことが原因で、弱い立場にあるものを威嚇して押さえつけようとする動物的衝動に近いものであった。清二はどうにか怒鳴らずに済んだが、おそらくそのときの清二の表情は三好のように目じりのつりあがった険しいものになっていたに違いなかった。 そのように突発的な苛立ちは時間が経つに従ってだんだん和らいできたが、自分があれほど忌み嫌ってきた行為を思わずやろうとしたことに対するショックが残った。 清二はなぜこういう状態になったのがまったく判らなかった。ただみんなの先頭に立った作業に専念している最中のことである。決して下のものを侮ったり見下したりしていた訳ではないのである。 今日の作業終わった。みんなは作業から解放された喜びに浸っていた。 だが清二だけはなぜかわだかまりを感じて素直も喜べない気持ちであった。 みんなは黒塚を除けばまともな話しの通じる普通の人間である。しかし何かイヤこなと不快なことのため感情を素直に表現することを、たとえそのために職場の雰囲気が悪くなろうとも、それほど気にはかけていないようであった。清二には皆はどことなく自分と違う人間のように思えてきた。 会社の事務所で仕事の進み具合が報告されているたが、清二は頭がボォッして今日自分がどんな仕事をやったのか、いつものようにすんなりて思い出せないことに気づいた。以前は上の者の指示にしたがって、ただ動きまわっているだけであったが、最近はみんなの先頭にたってやっているために、精神的に疲れているからのような気がした。 社長を前にしての三好の態度はいつものように、なにかいたずらをして怒られるのではないかとびくびくしている子供のようだった。三好は社長があまり機嫌がよくないことを肌で感じているようであった。その気配は他のものにも伝わってくるほどであった。 三好の報告を内向き加減に聞いていた社長は、ゆっくりと顔を上げると三好の言葉をさえぎるようにいった。 「最近いったいどうなっているんだ。またクレームの電話が来たぞ」 社長のだみ声は、雰囲気をよりいっそう沈んだものにした。さらに話は続いた。 「後片付けが悪いって言うんだよ。これは昨日のことだよ。床にこぼれたモルタルをそのままにしてあるんだってよ」 「昨日?昨日だれがモルタルをやった?」 と言いながら三好はみんなのほうを見た。だがだれも黙っていたので三好はふたたび社長のほうを見ながら小さな声でいった。 「ちゃんとやっているんですけどね。他の業者じゃないんですか?」 「違うって、うちだっていうんだよ。こんなつまらないことでいちいち電話掛かってくるようじゃ、そのうちに出入り禁止になるぞ」 その言葉でさらに雰囲気は重苦しいものになり沈黙が続いた。それにはなぜこんな些細なことで不快な思いをしなければならないのだろうかと云う、みんなの不満が溢れていた。だが清二は冷や汗が出る思いであった。その後加太付けをしなかったのは自分であると判っていたからである。三好が聞いたとき、清二はなぜかそれは自分であると素直にいうことができなかった。 清二は日頃から三好のように責任を回避するような姑息な態度を断じてとるまいと思っていた。それにもし仮にそれが自分であると名乗り出ても、それほど怒られるようなことではなく、苦笑いを浮べて頭を欠けば済むような問題であることも充分に承知していた。だが、どうしても名乗り出ることは出来なかった。それは理屈ではなかった。周囲の不穏な雰囲気を感じていることから、自然と生まれてくるような自己防衛的な衝動であった。そのときの気持ちは、もし誰かにその張本人は清二であると名指しされても、きっと自分ではないと、しらばっくれるほどのものであった。清二にしてはなんとも後味の悪い出来事であった。 清二は自分のアパートに帰ってもなかなか気分は晴れなかった。銭湯に行った。そして鏡に移った自分の顔をまじまじと眺めた。以前よりも苛立ったような目の輝きが増して、眉間のしわも深くなっているような気がした。日焼けと溶接焼けで肌が浅黒く立たれて醜くなっていたせいもあったが、全体の雰囲気としては、野卑で狡猾そうな表情になっているような気がした。そしてそのうちに自分がだんだん権威的で、頑固で、気難しく、苛立ちやすい職人気質の人間になっていくような気がした。しかしそのくらいならまだよかった。今日の自分の思いがけない感情や、いままでこの仕事で接してきた様ざまな人々の人間性や性格からして、下手をすると自分はこのまま、傲慢で、暴力的で、野卑で、冷酷な、なにかあっても心が傷つかない人間になっていくような気がした。 部屋に戻った清二は、何もすることがないのですぐに布団にもぐった。そしてじっくりと今日のいろいろな出来事を思い返した。すると自分に最も近いと思っていた人間でさえ、自分とは異質のような人間のような気がしてきた。布団が温まってくると急に眠くなってきた。薄れ行く意識の中で清二は、信頼関係で仕事を勧めることで、同僚たちと友情を深め、職場の雰囲気を楽しいものにして行こうとすることに、だんだん自信がもてなくなっていくのを感じた。 このような工事現場は、人間が自分たちにっては無秩序である自然を、人間に役立てようとして何とか秩序付けようとする働きに似ていた。 現場での個々の作業は、どんな人間でも体力さえあれば、修練を積むことによってどうにか克服できるものであるが、それら個々の作業を組み合わせて、全体の仕事としてまとめるには、人間の計画的な能力が必要である。なぜなら、組み合わせ次第によって、作業の能率がよくなったり悪くなったりするからである。そのようなことは、工具をどう準備して整理しておくか、材料をどう運搬してどこに置くか、作業員をどう配置して、どんな指示を与えるかについても同じことがいえるのである。それらすべてをどう整理し組み合わせ順序だてるかには、無限の方法があるのである。つまり人間が決定するまでには無秩序状態にあるのである。そしてそのうちから長年の経験と勘を頼りにしながら、最善と思われるたった一つの方法を選ばなければならないのである。だがどんなに知恵を絞り計画を立てたつもりでも、無限の可能性のなかからひとつの方法を選んだに過ぎず、作業を勧めていくうちには、思いがけないことが怒ったり、また人間の思い違いが起こったりして、最善の思われたものも最善のものでなくなり、どんどん変更されざるを得なくなるのである。それは、無秩序なものを計画的に秩序付けようとする人間の能力の限界であり、また人間が自分の能力を過信して無秩序な世界を侮ったためである。 計画が変更されることは、作業が思いどおりにいかなくなることで、当然いらだつの原因となるのである。だが、どんなにいらだっても、コンクリート版の重さが軽くなったり、物が念力で思いどうりに移動したりするわけではなく、眼の前の現実には少しも変化はないのである。結局苛立ちが収まるのを待って、改めて計画を練り直さなければならないのである。 これが工場にように、予想外のことや人間の勘違いによるトラブルが起きないようにと管理され秩序付けられている場所では、あらかじめ作業の方法や順序が効率がいいようにと機械的にきちんと決められているため、仮にトラブルが起こっても、それほど混乱することなく、人間の能力の範囲内で何とか解決できるのである。 しかしこのように、なにかちょっとしたトラブルのために、それまで秩序付けられていたものが、たちまちにして無秩序な状態となるような工事現場では、トラブルが頻繁に起こったりすると、もはや人間の能力では対処しきれなくなり、混乱のあまりヒステリックに苛立つだけである。それはまた、冷酷さや非常さや暴力性をはらんだ無秩序な自然に支配されることであり、人間自身も無秩序な精神状態になることでもある。 それでもトラブルは解決されなければならないのである。だが無秩序や精神状態になっているものには、当然計画を練り直すような余裕はないので、直接自分の肉体や他人の肉体を動かして何とか解決しようするのである。しかしそのときの気持ちは無秩序な自然なように、非情で冷酷で暴力的であったりするため、自分や他人の肉体は、単なる機械のようなものとしてしかみなされず、強引とも思えるようなやり方をしたり、人間性を無視して他者を怒鳴ったりするのである。 だがにこういう仕事においては、単なる体力や知識や技術だけではなく、どんな思いがけないことやトラブルが起こっても、冷静な気持ちでそれを把握し判断して、それに対して的確に対処できるだけの強靭な精神力と忍耐力が必要とされるのである。特に上に立つ者にとって、そのことは絶対的な条件なのである。 しかし三好も石田もそういう能力はあまり持ち合わせていなかった。思いがけないことやトラブルに朝から晩まで翻弄され続け、そのこの作業が終わるころには頭に何も浮べることが出来ないほど神経をすり減らし、精神的にくたくたになっているのが実情である。だから彼らが、異常な苛立ち方をするのは、ただ単に性格が短期であったり、アルコールが切れたりするためではないのである。それに、彼らが事務所で仕事の成果を報告するとき、社長に仕事がはかどらない理由を聞かれても、満足に答えられず、言われるがままに小さくなっているのは、社長を恐れているためだけからではなく、精神的に疲れているために、単に頭がまわらないからである。 清二が彼らと同じようなことを体験することになったのは、彼らのように人の上に立って仕事をするようになったためであり、それはある意味では当然のことであった。 こ のように荒々しい肉体労働の現場において、言葉遣いが乱暴になったり、感情をむき出しにするのは自然なことである。肉体にくわえられる苦痛にうめき声を上げたり、思い通りにいかないために、苛立って叫び声を上げたりして、お互いに感情をぶつけ合うことは、人間の素朴で原始的な行為であり、生来的な個性の赤裸々な表現でもある。なぜならそのような個人の言動には、少しも不自然なところがなく、その個人の性格や外貌からしてなるほどと思わせるものがあるからである。 だから夕方その日の作業が終わると、過ぎ去ってしまった感情的なことに少しもこだわることなく、労働から解放された喜びを屈託なく表すことは自然なことなのである。 清二が自分の感情的行為にこだわるのは、他の者よりいくぶん内向的で禁欲的な傾向があるからである。 しかしこのように人間の生来的な個性があからさまにされる実際的な人間関係の場では、お互いに孤立化して頑固で利己的な精神状態にあるので、人間の精神性よりはむしろ感情を素直に表して、自然な気持ちで接するほうが、かえってお互いに楽であり、また作業の上でも人間関係が思いのほかギクシャクしないようである。 ある日曜の午後、清二は高志のマンションを訪れた。それまでは何かと気分がスッキリしない毎日であったので、洋子や高志となら、打ち解けた話もすることができ、滅入った気分らも逃れられそうな気がしたからである。 洋子がやや驚いたような表情で迎えてくれた。しばらく振りだったのでその笑顔には懐かしさがこめられているような気がした。今に案内された清二はソファアに腰をかけながら言った。 「高志さんは居ないの?」 「、、、、ええ、どこかにでかけているみたいなの、、、、」 そう言いながら洋子は、何かを煮込んでいるかのような匂いが漂ってくる台所のほうに行った。どうやら夕食の準備をしているようであった。しばらくして戻ってきた洋子に清二が話しかけた。 「いつ頃でかけたの?」 「、、、、、いつかしら、三時ごろはいたんだけど、、、、、」 そういいなが洋子は清二の前に座った。 「そうですか。たぶん散歩にでも行ったんでしょうね」 と清二は暮れかかってきた窓の外に眼をやりながらいった。 洋子はあまり高志のことを話題にしたくないような様子だった。 「実はね、いまアパートを借りて住んでいるんだよ。ちょっと出世しましてね。正直言って、前に住んでいたところを見られるのがとても恥ずかしかったんだよ。でも今度はちゃんと人間が住めるような所だから、見られても平気だけどね。まあ、アパートを借りたのはいいんだけどね、このあいだ親父が突然やってきてね。心臓が止まるくらいビックリしたよ」 「なにも、ビックリすることなんてないじゃない、清くんのお父さんなんだから、それじゃ病気のほうはよくなったのね。そうなの、清くんは知らないと思うけど、去年のちょうどうちのお爺さんがなくなったころ、入院していたのよ。そう、それじゃ良くなったのね、それはよかったね、旅行でもしていたのかしら?」 「いや、働きに来てたんですよ。出稼ぎに、六十を過ぎているのに。別に生活に困っているわけじゃないんだから、働かなくてもいいんだけど、、、、、」 「そうよね、清くんのお父さんは働き者だから、、、、」 そう言いながら横は席を立ちふたたび台所のほうにいった。 洋子の言うとおり確かに清二の父は働き者に違いなかった。清二は家族のために黙々と働いていた父の姿をいつでも思い浮かべることができた。 去年の夏も清二が暑いなか屈辱的な気持ちで過酷な作業をしていて精神的にも肉体的にもたなそうになったとき、似たような条件の下で働いていた父の姿を思い出すと、笑みを浮かべれるほど気持ちが楽になったときがあった。 しかし清二が何より言いたかったのは他にあった。だが、洋子の前でそれを言うことはできなかった。それは父が清二の部屋にひと晩泊まっていったとき、布団にもぐりこみながら 「ここでいっしょに住もうか」 とふと漏らしたことであった。 それは四十年間も、酒もタバコもやらずに、ただ家族と家のためにだけ、まるで働くことが生きがいであるかのように、農業と出稼ぎで働きづくめだった男が、自分の労苦で気づきあげた家には居ずらいと云う心境を暗に言い表したものだった。清二の父は決しい家族から軽蔑されたり疎外されているわけではなかった。しかし素朴で大人しい性格であるため、自分の息子が嫁をもらい孫ができるようになると、自分の存在意義がだんだん薄れていくのに気づき、実権もじょじょに移りつつあるのを本能的に感じといっているに違いなかった。 それは清二にとっては悲しいほど不可解なことであった。しかしかといって、もし仮に自分が田舎の家で父といっしょに住んだとしても、やはり同じような気持ちにさせるに違いないと思っていた。 窓の外は薄暗くなっていた。洋子が戻ってきて座った。 「そうそう、もう聞いて知ってるかもしれないけど、去年の暮れ、洋子さんが田舎にかえっているとき、高志さんから遊びにこないかって電話があってね、それでいっしょに飲みに行ったりしたんだよ」 「ふうん、何にも聞いてないわ」 「あっそう、いやそのときね、これから自分のやりたいことを話してくれてね、本当に生き生きしていたよ。いいことだと思う、本当に自分のやりたいことをやるのは。高志さんは病気でもなんでもないんだよね。ただ今までは、自分に何が合っているか判らなかっただけなんだよね、誰だってイヤだなあって思うことをやっていたら神経がまいるもんね。とくに感じやすい人間にとってはね。高志さんはむしろ正常すぎるくらい正常なんだよね。もしかしたら周りの人間のほうがおかしいかも知れれないよ。どう最近は、以前とだいぶ変ったでしょう、、、、まあ、心配するのま無理もないけど、でも、大丈夫ですよ、人生は長いんだから、長い目で見ましょうよ。どうにかなるもんですよ。なんといっても、今の高志さんにとっては、自分のやりたいことをやるのが何よりの薬ですからね。それにしてもどこに行ったんでしょうね。どうせ夕食までには帰ってくるんでしょう、散歩にでも行ったんだろうから、迎えにでも行ってみようか、そうだ、そうしよう、、、、」 と清二は自分に言い聞かすように言いながら席を立った。 「それじゃ夕食をいっしょに食べるでしょう」 「そうだね、いや、とにかく見付かったらすぐ戻ってくることにするよ」 と清二は笑顔で言いながら玄関のほうに歩いていった。 外に出た清二はまず近くの公園に行った。しかし高志に会うことはできなかった。 清二は公園を離れ高志が好んで歩きそうな場所を選んで歩き廻った。しかしそれでも高志に会うことはできなかった。 いつのまにか繁華街に通じり通りに出ていた。たぶん高志は行ってないだろうと思いながらも、洋子の部屋を出てからまだ二十分しか経っていなかったので、そのまま繁華街に向かって歩いた。高志に出会うこともないままさらに二十分ほど繁華街をぶらぶらしたあと、たぶん行き違いになったのかもしれないと思いながら、清二は帰り道を急いだ。 賑やかなとおりを抜け、やや人影の少ないとおりに差し掛かったとき、舗道に十数人ほどの人だかりで来ているのが目に入ってきた。道路側には右翼の街宣車が止められていた。近づくにつれて舗道側の人間と車に乗った運動員とか言い争っているのがわかった。清二はそれを横目に見ながら通り過ぎようとしたが、右翼の運動員に何かを言っている声に何となく聞き覚えがあったので、人だかりのあいだからよく見ると、それは高志であった。運動員のなかには睨みつけているものもいたがほとんどの運動員は薄笑いを浮べてみていたので、それほど険悪な雰囲気ではなかった。高志以外のものは単なる野次馬のようだった。清二は運動員のなかにアキラの姿を探した。かつていっしょに活動をしていたと云うことを聞いていたので。だが見当たらなかった。高志は冷静な表情をしてはいたが声はうわずっていた。 「、、、、、、、、いいか、何度も言うようだけど、君たちはいったい何のためにこんなことをやっているの、君たちは自分たちのやっていることを全然判ってないよ。このマーク、この日の丸の赤いマルは、君たちのきらいな共産党の赤なんだよ、こんなこともわからないの、、、、、」 それは言い争うと云うよりも一方的な高志が挑発しているように見えた。清二は人だかりの中に入って行き、なおも何かを言いかけようとする高志の腕をつかみ 「さあ、帰ろう」 と言ったが、高志は清二を判別できないくらい興奮しているらしく、清二のほうにチラッと目を向けただけで、ふたたび運動員のほうを向いた。しかしどうやら清二に気づいたようで、大きなため息をついてうつむいた。 そして清二に手を引かれるようにして人だかりの外に出た。 しばらく黙って歩いたあと、高志が落ち着いた声で話しかけた。 「どうして黙っているの?何かいいたいことがあるんじゃないの?いったいどうしたっていうんだろうね、、、、いや、どうもしてないさ、、、、何にも変ってないのさ、、、、ところで、どうして君はあんなところにいたの?」 高志の声は落ちついてはいたが頭は混乱しているようであった。清二は答えた。 「遊びに来たんだよ、家で待ってたんだけど、遅いからって迎えにきてたんだよ」 「あっ、そう云うことなの、、、、なぜボクがあんなことをしたか判る?」 「わかるようで、わからないようで、、、、まあ、僕が夜中に警察官の姿を見て、ふと、どっかの家に火をつけたくなるような衝動に駆られるのと似たようなもんじゃないの」 「ずいぶん、奇怪なことをいうね、それはどういうことなの?」 「うぅん、どういうことなか、まあ、孤独と云うことじゃないかな」 「孤独? ちくしょう、、、、、だめだ、ああ、ふゆかいだ、、、、」 「不愉快、不愉快と、、、、まあ、もうじき、二十世紀でもっとも不愉快なことがこの日本で起きるから、不愉快はそのときまでとっておこうよ。もう忘れましょう。さあ、家に帰るぞ」 「帰りたくないよ」 「そんな、せっかく夕ご飯を作って待っててくれるのに、ちゃんと夕食までには帰ってくるからって約束したのに」 「、、、、、、とにかくボクは帰りたくない、だいいち君の頭のなかは食べることしかないのか?」 「今のところはね」 「単純だな、女子供じゃあるまいし、食べることがそんなに楽しいかね、、、、、」 「そりゃあ楽しいよ。眠ることも楽しいけど、食べることはもっと楽しいよ。とくに家庭料理はね。高志さんは食べなれているから判らないだろうけど、ボクみたいに外食している人間にとっては女性の手料理っていうのは涙が出るほど美味しいものなんだよ。それに比べて、外での食事のなんて味気ないことか、どんなに高いものを食べても美味しいっていう気がしないんだよ」 「それは洋子の手料理だからだろう」 「うん、まあ、そういうことになるかな」 「それなら自分だけ帰ればいいじゃない。ボクは帰らないよ」 そう言うと高志は清二を無視するかのように早足で歩き出した。 「、、、、まったくもう、、、、まるで駄々っ子みたいだな、せっかく楽しみにしていたのになあ、、、、、心配していると思うよ、、、、ああ、だんだん遠くなっていく、、、、どうしてこう最近は、うまく行かないことばかりなんだろうな、、、、まったく滅茶苦茶だよ、、、、」 と清二は、高志の後を追いながらブツブツと聞こえよがしに言い続けた。 しかし高志は何の反応も示さず黙ったまま歩き続けた。清二はいつのまにか、高志のマンションよりも自分のアパートに近いところに来ていることに気づいた。 「もう、判ったよ。あきらめたよ、それじゃ、ボクのアパートに行こう、、、」 「アパート?」 そう言って高志はゆっくりと歩き始めた。 「そう、今度借りたんだ、この近くなんだ。よし決まった。ああ、でもこのまま行くと遠回りになるから、少し戻ったところの横道に入ったほうがいい」 二人は今来た道を引き返した。日はすでに暮れていた。その通りは繁華街から外れていたので、人影はまばらであった。引き返してまもなく、黒いコートを来た男とすれ違った。清二がなにかを思い出したかのように言った。 「あれ、なんか、おかしいな、、、、」 「何が?」 ![]() ![]() |