ブランコの下の水溜り(2部)

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          はだい悠








 職人としての石田や三好はあらゆる面で申し分なかった。とくに気質の面では一級品であった。しかしこれで人を引っ張っていく親方として十分であるかというと、そうでもなく、多少問題があった。久保山はそのことがわかっていた。それで二人に対しては何かと批判的なのである。だから三好や石田にとっては久保山は何かと使いずらい存在であった。しかし未熟な清二や奥山たちには、まだ何も判るはずもなく、ただ上のものの命令に盲目的に従うだけである。

 清二は奥山といっしょに同じ仕事をすることに不満であったが、そのことを上の者に言えるほど、まだ信頼を得ていなかったので、しぶしぶ承知するほかはない。ただ仕事中は出来るだけ顔を合わすまいと決意していた。
 清二と奥山の摩擦はいつも些細なことである。それはまったく内面的で、外から見ている人には何事もないかのように見えるだろう。


 朝一番にモルタル作りから始まった。モルタルはセメントと砂と水を混ぜ合わせて作るが、水加減や砂加減によっていろいろな性質のものが出来る。
 蒸し暑いなか、清二が全身汗だくになり、鍬で混ぜ合わせていると、
「もっとセメントを入れろよ」
と横で見ていた奥山が命令するように言った。奥山にとって清二に命令することは、当然のことにように思っているようだった。おそらく自分が先住者であり年上であるために自分の順位が清二より上であるということが、彼の行為のなかに無意識のうちに組み込まれていたからなのか。
 しかし清二はそのことをまったく認める気にはなれなかった。それに偉そうに先輩面をする奥山に敬意などまったく払う気もなかった。それは最近奥山の人間性に本能的な反発を感じ始めてきたことや、もしかしたら自分のほうが能力的には上ではないかと、だんだん判りかけてきたためであった。そして奥山よりも自分のほうが体が大きいという動物的優越感が、奥山に対してますます強気の姿勢でのぞむようにさせていたためであった。
 清二は、
「いや、これで良いよ」
と奥山の顔を見ないで冷静さを装って言った。でも心のなかでは、
「知ったかぶりをするんじゃないよ、足りなきゃ、自分で入れろばいいだろう」
と反発心をあらわにしていた。
 清二は汗だくになりながらもただもくもくと鍬を動かしていた。奥山が再び言った。
「もう少し水を入れろよ」
「いや、オレは硬めが好きなんだ」
と清二はとっさに答える。

 モルタルを穴に入れるとき、どのくらいの硬さが良いかは、その時の天候や状況によってはかられるが、二人はまだそこまで経験していなかったので、どちらが正しいかはまだお互いわからない。もし仮に奥山のほうが正しいとしても、清二はかえって反発をして、自分のやり方を押し通したであろう。それは傍らで冷静に見るものは、取るに足らない愚かしいものに見えるに違いない。話し合ってお互いを理解しようとすることを拒絶した人間同士の喜劇に見えるかもしれない。しかし汗だくになり、思考も中断され、鍬を動かす腕の疲れに耐えながら、全精力を傾けているときには、そのような反応しか出来ないのである。それは動物的な状態に置かれた二人の人間が、どっちが優位に立つのか決めかねているために起こる小競り合いなのかもしれない。

 清二はモルタルをいっぱいに入れたバケツを持って屋上までいっきに上がった。さすがに息が切れた。汗は前にも増して全身からあれ出た。

 屋根だけを見せている町並は不思議なほど静かである。車もめったに通らない裏どうりには、今日一日中泥んこにも汗だくにもなることはないであろう人々が出勤を急いでいる。ほとんどの人はまだ眠気から醒めきらない表情をして歩いていた。しかし、よく見ると人々は思ったより精彩を欠き、足取りもおぼつかなく、なんとなく目的もなく歩いているかのように清二は感じられた。とくに、夕方にはきっと美しく見えるはずだろが、朝の光のなかでは、女たちの化粧は醜かった。
 清二は彼らの歩いている目的を思い描こうとしたが、ふと胸にえもいわれぬ圧迫感を覚えたので、すぐやめた。
 清二は作業に取りかかった。
 作業のやり方は個人の自由である。  疲れたら一休みして、ぼんやりと風景に眼をやりながらタバコを吸うことも出来る。仕事のペースを遅らせることも速めることもすべて自分次第である。上のものは自分の役割に忙しく監視している暇はない。だから人から見えないところなら、いつでも怠けることは出来る。しかし後でそのツケは必ずまわってくる。技量があるかないかは、誰の眼にも明らかな形となって現れ、職人として劣っているか優れているかの冷酷な評価と順位を甘んじて受けなければならなくなる。それが職人の掟である。誰も自分をかまってくれない。自分の体力と知力と意欲だけが頼りなのである。だから基本的なやり方を教わったあとは、上達するのは自分次第である。それでいくらで怠けることもまた自由なのである。親方の叱咤と、あとあとの仲間の侮りの眼が気にならない限りは。しかし、清二にとっては、コンクリートの穴のなかにモルタルを流し込むという機械的な作業は(これはベルトコンベアでの機械的な作業と本質的に違うが)肉体的にはきついが、子供の泥んこ遊びのように頭のなかを空っぽにして夢中になれるのでそれほど苦痛ではなかった。

 正午が近づくつれて気温がどんどん上昇して行った。
 突然充血気味の眼をぎらつかせながら三好が怒鳴った。
「ああ、あぶねぇ、このボケ、殺す気かよ、三郎! 何度言ったら判るんだよ、ちゃんと合図どおりにスイッチを入れろよ、怪我でもしたらどうするんだ」
 その苛立つ三好の表情は怒りをむき出しにするサルのようである。
 ウインチを操作するものは、上がったコンクリート版を上と下で支える者二人と一体となり、降ろさなければならないので、そのとき微妙なタイミングと機敏な反応が要求される。しかし鈍重な三郎は経験も浅く、まだその要領をつかんでいない。ましてや暑さと披露でその集中力をなくしていた。罵られた三郎は無気力な熊のような表情で三好を見上げていたが、何事もなかったかのように手に持っていたスイッチに眼をやった。
 はたから見たら何も怒鳴るほどのことではない、ちょっと厳しすぎるのではないか、まだ慣れていないのだから、慣れるまで丁寧に指導してみてはどうかと、思えるのだが、これによって、事故になったり、版に傷がつくことに、三好は神経質にならざるを得ない。というより自分の手足のように三郎が動かないことが三好の苛立つの最大の原因ではあるが。それに三好は長い経験によって、怒鳴りつけることが手元を指導していくのにもっともふさわしいやり方であると信じていたからである。しかし、その相手の未熟さや欠点や立場を省みない高圧的な物言いには、絶対的優位に立つものの傲慢さが見られ、少なくとも複雑な心理を抱えた人間として、相手を扱っていないことはたしかである。
 結局、罵られるものは、いくら神経に障っても、自尊心がずたずたに引き裂かれようとも、何にも返す言葉はない。相手は問答無用に正しいのだから。
 三郎は次の版の準備のために重そうな足取りで歩きだす。
 何事が起こったのかと立ち止まって見ていた清二と眼が在ったが、ペアを組んでいる久保山の
「さあ、気合を入れていこう」
という掛け声に励まされるように再び作業に取りかかった。

 昼食は弁当と冷たい麦茶である。各自自由に床に座り込んで食べる。もちろん楽しい会話などない、みんなバテ気味で食べるだけで精いっぱいなのだ。皆が食べた弁当箱をまとめて風呂敷に包むのは順位が最下位の清二の仕事である。

 炎天下の町並は死んだように静かである。ほとんどの家は窓を閉め切っている。 清二は幾分冷たさを感じるコンクリート版をベットにしてうつらうつらしていたが、そこへ石田が
 「オヤジが来たぞ」
と低い声で言いながら階段を上がってきた。それには
「もう昼休みは終わりだぞ」
という意味が込められていた。案の定、石田は作業に取りかかった。三好もうろたえ気味に動き始めた。
 清二はコンクリートのベットからだるそうに降りながら時計を見た。まだ一時前だった。社長は元請の社員を伴って階段を上がってきた。清二はまだ動きそうにない体を引きずるようにしてあるいて作業の準備に取りかかった。しかしそれも一汗かくまでの辛抱である。

 しばらくすると社長の太い怒鳴り声が響き渡った。
「三好、なんで決められたとおりにやらないんだ、オレがいつも言ってるだろう、決められた工法でやれって」
 顔を真っ赤にして怒鳴る社長の声は、周囲の民家にも届くほどの迫力がある。三好はキョトンとした眼で戸惑いの表情を見せながら、ただ黙ったまま社長の前に立っているだけである。それは大人にこっぴどく叱られたときの子供のように
「僕はそんなに悪いことはしてないのに」
という抗議の意味が込められていた。先ほどとはまったく逆のことが起こったのである。
 先ほどと同じように、今度は三好にまったくの弁解の余地がなかった。社長は、いままではそれほど問題にしなかった手抜きが、元請の監督に指摘されたため、その手前、苦し紛れに三好を犠牲のイケニエに祭り上げたのであった。

 社長のひと声によって、午後の作業予定が変更された。
 清二は午前と同じ作業を続けたが、奥山と三郎は社長の指揮のもと、今ここにある物は後々のためにジャマになるからという理由で、重い版の移動をやらされた。最初はそれを清二がやることになっていたが、手が空き午前の仕事で疲れ切った表情でうろついていた三郎が、社長の目に留まり、きびしく咎められたあと、清二に代わってやらされることになったのである。三郎は命令に逆らうことは出来ないので、八つ当たりのように不満げな眼を清二に向けた。
 非力な奥山は、歯を食いしばり苦痛に顔面をゆがめながら、重い版を持ち上げた。それでも午前の作業でへとへとになっていた三郎よりは動きは機敏だった。三郎と年齢も同じくらいで、入った日も同じ奥山は、なぜか三郎への命令権を持っていたようで、手を抜こうとしてもたつく三郎を見咎めては、まるで自分が親方であるかのように怒鳴った。それでも三郎は反抗的な態度は取らなかった。むしろ、その後は気の合う者同士のように自由に作業を楽しんでいるかのようであった。
 三好と石田に指示を与えて社長は帰っていった。
 足場に上がって、L型鋼材を取り付けていた三好が清二を呼び止めた。
「おい、清二、ハンマーを取ってくれ」
「ハンマー?」
「そこにあるハンマーだよ」
と三好はき捨てるように言った。
「どこの?」
 三好の苛立ちを感じ取った清二は焦りながら周りを探した。
「そこにあるだろうよ、ほらそこだよ、おまえの足元だよ、なんのために眼がいているんだよ!」
 指差しても判らないことに、三好の苛立ちは頂点に達した。指先は振るえ、物を見るような眼で清二を睨みつけた。

 その場の状態に慣れ親しんでいないものにとっては、なにがどこにあるのかなど判りにくいのである。それに、そこという言葉も曖昧だった。ましてや暑さと疲労でボォッとしている頭には、たとえ指差してもらってもわかりにくいのだ。しかし三好の職人気質はそんなことを決して容赦しない。
「よし、じゃあ、次に上に上がってきて、これを支えろ」
 清二は高さ十メートルもある足場に上がった。直径六センチほどの鉄パイプで作られた足場は取り付けが悪く少しぐらついた。
「おい、お前、怖いのかよ」
「ええ、すこし」
「それじゃ片手でいいからシッカリ支えろよ」
 三好が溶接を始めたとき清二の右腕に電撃が走った。清二は思わずワッと声を上げて持っていた鋼材を放してしまった。そのL型鋼材は重さが十キロほどあった。清二が放したため鋼材の全重量が三好の片手にかかり、それを落とすまいとしたために三好の手が捻じ曲げられてしまった。
「お前、なんで放すんだよ、ああ、いてえ、、、、」
「電気が来たもんで、、、、」
「少しぐらい電気が来たって放すんじゃないよ、オレは我慢してやってんだから、ああ、いてえ、、、、」
「少しじゃないですよ、バシッときたよ、だって軍手も靴もビショビショだよ」
「それにしても放すことないだろう。死ぬわけないんだから、ああ、いてえ、高いとこ怖い、電気が怖いじゃ、この仕事やっていけないよ」
 子供のように痛がる三好の姿を見ていると、なぜか滑稽さも感じられて三好の皮肉な叱咤もあまりこたえなかった。清二は言い張る。
「怖くはないですよ。瞬間だから怖いと思っている暇はないですよ。それは反射神経ですよ」
「いいんだよ、能書きは」
 三好は急に不機嫌な表情をしてはき捨てるようにそう言ったが、清二はどうしてこう話しの判らないんだろうと暗い気持ちになった。
「それじゃ軍手を取れ素手でおさえろ」
「素手のほうがかえって電気が来るんじゃないですか?」
「だいじょうぶ、オレを見ろ、オレはずっと素手でやってるじゃないか」
 そう言い張る三好の手は節くれだちサルの手のように皺だらけでみにくかった。
 清二はズボンで手の湿り気を拭うと、祈る思いで鋼材を支えた。
「だいじょうぶ、今度は電気が来ない方法でやるから」
 三好の言うとおり今度は電気が来なかった。そのことに清二は予期せぬ奇妙な優しさを感じた。
「モルタルはもう終わったろう」
「いやまだ、、、、」
「ふたりでやっているんだろう」
「二人といっても色いろと雑用があるから、、、、それに実際は一人半ですよ」
「山はどうしようもないからな」
 この会話で清二はなぜかほっとした気分になり、足場の上からぼんやりとしながら暮れかかる町並に目をやった。これを見て三好は苛立ちの表情を浮べて荒々しく言った。
「何してんだよ、清二、早く自分の仕事にかかれよ、まだ残っているんだろう、今日のうちに終わらないと帰れないよ」
 上のものから清二がまだ信頼を勝ち得ていないということもあったが、あまりにも些細なことで激変する三好の感情を清二はどうしても受け入れることが出来なかった。


 帰りは相変わらずのあわただしさが在ったが、何事もなくみんな気分よく車に乗り込み発信することが出来た。
 運転席の三好もその隣の石田も、今日社長に怒鳴れたことや、社長ひと声によって作業予定を変えられたことも、もう忘れてしまったかのように、陽気だった。他のものも同じだった。とくに三郎は運転手の三好に気軽に話しかけては、社長に怒鳴られたことをまったく忘れているかのようであった。みんな辛い作業から開放された喜びでいっぱいだったのだ。しかし清二はその喜びは多少は在ったが、今日一日の出来事を思うと心にわだかまりを感じ、どうしても素直に喜べなかった。
 運転席の三好は舗道を歩いている若い女に、ギャル、ギャルと猫なで声で呼びかけては、そのサル顔をにんまりと崩した。仕事しているときとはまったく違う見事な豹変振りである。石田も負けてはいなかった。崩れかけた童顔を窓から出しては盛んに声をかけた。その声をかけた女が、その後ろ姿から描くイメージと食い違ったときは、
「見なきゃよかった」
と言いながら二人で顔を見合わせ狂ったように笑った。
 そんな彼らも手当たり次第声をかけているようではなかった。というのもたとえ下品な声を掛けられてもほとんど気にしないよ、というような女を選んで声を掛けているようであったから。
 車が高速に入ると清二はその単調な走行音に眠気を覚えた。
「、、、、アツシが出てきたの知ってる?」
「知らない、いつ?」
「三日前だそうだ」
「まだ顔を見てないが、思ったより軽かったな、、、、、」
「あいつもバカだよな、強盗して捕まったんじゃ、おしまいだな、、、、」
「たしか妹がいるだろう、いまいくつだ?」
「十九かな、真面目な良い子だよ、でも兄貴があれじゃ、家に入れないよな、、、、」
 ずっと単調な走行音だけ響く。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「、、、それは違うって、いいか、山ちゃんよ、俺はこれでも若いころ、船に乗っていたことがあるんだよ、マグロがいつどこで取れるぐらい知っているよ、、、、」
 うつらうつらするなかで、久保山の甲高い声が清二の耳に入ってきた。
 そのとき並んで走っていたトラックが轟音とともに清二たちの車の前をすれすれに横ぎって左車線に入った。怒ったのは三好で石田でもなかった。三郎が座席からすばやく起き上がると窓から上半身を乗り出し鬼の形相で怒鳴った。
「バカ野郎、殺す気かよ、おいこら、車を止めろ」
 そう叫んだあと体を引っ込めるとさらに言葉を続けた。
「あのやろう、ふざけやがって、まったくなに考えているんだ、高速であんな運転はいちばんやばいんだ」
 さっきだった雰囲気に眠気も覚め、清二は好奇心から身を乗り出して相手の運転手の顔を見た。その男は薄らとぼけた顔をして怒鳴りつける三郎にチラッと目をやるだけだった。三郎の行為により車の中は、怖いものしらずの勇者をのせているようなヒロイックな一体感に満たされていた。このときばかりは車は百キロをこえるスピードで走っているのである。
 車がいつもの渋滞にはいった。
 先ほどと違って車のなかは急に沈んだ雰囲気に満たされはじめた。
「、、、、あの車なにやってんだ、いまだ、行け、ほらもたもたしてるから、他の車に入られじゃないか、、、、」  運転手の三好が独りごとをいいはじめている。そんな三好に久保山が
「日は長い、あせらずゆっくり行こう、今日のうちにはつくんだから、、、、」
 清二は、烈しい肉体労働によるためか、それともずっと窮屈な姿勢でいるためか、体がだんだん硬くなり始め全身に疲労感を覚えてきた。とくに膝が我慢できないほどにうずきだした。


 高速道路を渋滞を抜け出した車は、ネオンサインが輝きだした華やかな市街地に入った。しばらくして三好が叫ぶようにいった。
「事故だ!」
「Uターン、Uターン」
と石田がはしゃぐように言った。
 舗道を利用した三好の見事なハンドルさばきでUターンをすると車は事故現場の交差点に向かった。清二も三郎も前座席のほうに身を乗り出した。野次馬が集まりかけていた。事故は出来たてだった。だが奇妙な不安が頭の隅にあって清二は最初事故状況をつかむことが出来なかった。それは他の者も同じようだった。
「なんでオートバイが車の下に入っているんだ?」
「なんでって、車がひいたからだろう」
「なに、前を走っているオートバイを、後ろの車がひいたって言うの?」
「それともオートバイが横から突っ込んだのかな?」
「いや車が左折しようとしたんだよ、ほら車が左に寄っているだろう」
「オートバイの運転手はあの男かな?今起き上がっている」
「うん、そうだろう」
「ああ、痛そう」
「車の運転手は今手を貸している男かな?」
「いや違う、女だよ」
「女? ああ、髪の長い黄色いスカートの?」
「いや、たぶんその女に支えられて、泣いている女だよ」
「まだ若いじゃん」
「がたがた震えているよ」
「ああ、ダメだって、引っ張ったって、ガッシリ食い込んでいるから取れないよ」
「なんともないみたいだね」
「あの女、しょうがないなあ、泣けば良いと思って」
「ウインカー出さないで左折しようとしたんだろう、まだ付いているよ」
「いや、ウインカー出したんだけど、曲がる直前に出したんだろう」
「突然車が曲がったもんで、後ろのほうから並んで走ってきたオートバイがよけきれなくてぶつかったんだな」
「まだ泣いてるよ」
「泣いてごまかそうとしてるんだ」
「だから女は運転すなっていうの、自分のことしか考えていないんだから」
「サイドミラーも見方も知らないんだろう」
「あっ、ここよ!ここを曲がるよ、とか何とか言って、急に曲がったんだろう」
「どうやら大丈夫みたいだな、腰をおさているみたいだけど」
「でもちゃんと見てもらったほうが良いよ、いまは気が動転していてあんまり痛くないかもしれないけど、交通事故って後でどんな後遺症が出てくるかわかんねえからな」 「今パトカーが来たよ」
 事故の状況がわかるまで清二はずっと無関心さを装っていた。なぜなら血を見る不安を熱狂的に恐れていたからである。
 言いようのない失望感に満たされた車は再び会社の事務所に向かって走り出した。


 車が宿舎に着いたときには、西の空にかすかな明るさを残して日は暮れていた。
 周囲の家々には夕方のあわただしさが溢れていた。
 清二は着替えるとすぐ彼の唯一の領地二段ベットの上に横たわった。何よりも曲げると軽くうずく膝を休めたかった。何気なく壁に手を当てると、昼間の暑さを思わせるかのように、まだ暖かかった。
 奥山が今夜の主演の準備のために薄汚い作業着のまま買い物に出かけた。
 清二はなぜかほっとした気分になり膝を軽く延ばしたり曲げたりして、その回復振りを確かめた。
 三郎が清二に声を掛けた。
「清二君よ」
「なに!」
 そう言いながら清二はベットから身を乗り出して三郎を見た。
「オタクは、版がもてないの?」
「いや、持てないこともないけど」
 すると三郎はどんよりとした目で見ながら
「版がもてないなら、辞めたほうがいいんじゃない」
 その言い方には明らかに悪意がこめられていた。
清二は気を許していたせいか、なぜか裏切られたような気持ちになり、腹がたった。 そして言い返した。
「今はもてないかもしれないけど、なれて体力が付いてくれば、もてるようになると思うよ。今もてないからって、何も辞める必要はないと思うよ」
 三郎は不快な表情をして清二から顔をそむけた。
 帰りの車のなかで三郎が陽気に振舞っていたので、清二は、三郎が仕事中に三好からボロクソに怒鳴られていたこと忘れてしまっていたのかと思っていたが、決してそうではなかったことに気づかされた。ずっと根に持っていたのだ。それでその鬱憤を今自分に向けられているように清二は感じた。
 清二は、三郎を執念深く油断のならないやつだと思った。清二は穏やかに言った。
「あれ、版運ぶのって、大変なんですか?」
「ちっとも、大変じゃないよ、やる気さえあれば、オタクにだってできるよ、楽勝だよ、オレは溶接だってできるんだよ。オタクできる? あのくらいの仕事オレが親方になってやってやるよ」
「図面も読めるんですか?」
「当たり前よ、図面くらい読めるよ」
 それは明らかに虚勢だった。作業中の三郎の動きを見ていても、いまはとても技術も知識もあるようには見えないのだから。たしかに口だけは熟練者のようであった。でもそれはほとんど仕事とは関係ない無駄口なのだ。 ようするに、今日の出来事がよっぽど三郎のプライド傷つけたようだった。

 奥山が買い物からかえってきた。
 清二は偶然のように夕食と風呂のために外に出た。


 清二が外から帰ってきたとき、三郎は流し台立ってラーメンを作っていた。
「山さんよ、この肉腐ってんじゃないの?」
「大丈夫だって、久保さんとこの冷蔵庫に入れておいたんだから」
「なんか匂うな」
「食えるって、肉はな、腐る一歩手前がいちばん美味いんだぞ」
「判ったよ、山さんのいうことは正しいよ」
 清二はベットの上に上がった。
 換気扇がないのでガスコンロで暖められた空気が、蒸し風呂のように部屋の上部に留まっていた。
「それからどうしたい?」
と先に作ったラーメンをすすりながら奥山が言った。
「あんまり頭にきたもんで、水槽をひっくり返して、それから、、、、そうしたら、四五人の男に囲まれて、『あんちゃんどうしてくれるんだって』いうんだよ。『どうしてくれる?だと、オレはぜんぜん金魚が捕れないから頭にきてやったんだ。そっちが取れないようにしてるんじゃないか、詐欺じゃないか』って言ってやんたんだよ。そしたら向こうは『あんちゃん、いい度胸してるじゃないか』って言うんだよ」
「弁償したの?」
「しないよ最後まで言い張ったよ」
「なんにもされなかったのか?」
「出来ないよ。向こうだって警察沙汰にしたくないんだよ、そのまま帰ってきたよ」
 今度は虚勢でないようだった。三郎の鈍重そうな容貌には、無知から来る怖いもの知らずのようなものが在った。おそらく相手のヤクザも彼の無謀な行為にあきれ返ったに違いない。彼はそれほど気が強く暴力的であるようには見えない。もし暴力的ならば暴力の怖さを知っているはずだ。思い出を淡々と喋るその口調には、嘘をつくときのような感情的な物はまったくないので、あまり物事に心を動かされないというような冷酷さが感じられる。おそらく彼は殴られてもそれほど苦痛とは思わずに耐え抜くだろう。彼は自分の鈍重さにプライドを持ち、自分の鈍重さに正直なのだ。 興味ありげに三郎の話をベットから身を乗り出して聞いていた清二に気づいて、三郎が話し掛けてきた。
「君は、夕食すんだの?まだラーメンあるよ、食べない?」
「いや、けっこうです、外で食べてきたから」
「お金持ってるんだね」
と三郎が無意味な笑みを浮かべて言った。
「いやあ、皆さんのほうが持っているんじゃないですか?」
「持ってないよ」
と奥山が小さくぶっきらぼうに言った。清二がさらに続ける。
「ラーメンだけじゃ、体が持たないでしょう、でも皆さんのほうが持っているんでしょうね。とにかく万が一病気になったら大変じゃない」
「なに言ってんの、いまはちゃんと国が面倒見てくれるよ」
 奥山の言い方は挑戦的だった。
 それが日頃の彼の言い方だったが、清二は少しむかついた。
「国が? どうして? 自分のことは自分で面倒見るのが当然じゃない」
 清二を無視するかのように二人からは答えが帰って着ない。清二は奥山の言った意味が理解できなかった。だが三郎にはわかっているようだった。
二 人は申し合わせたかのように黙ったままラーメンを食べつつぢけた。清二は再びベットら横になると、いったいこの二人はどういう人間なのだろうかと思った。奥山から怒鳴られても決して反抗的な態度を見せず、またそのことを根に持つこともなく、そして奥山のいうことは全部正しいと信じて疑わず、完全に信頼しきっている三郎とは? 清二には、この二人の関係を支えている友情というものがどんなものなのか理解できなかった。
 二人はいつもより早く寝るための準備に取りかかった。それでも十一時をすぎていたが。
「ドアを開けておくよ」
と三郎が言った。
「暑いから仕方がないだろう」
と奥山が吐き出すように答えた。
そして清二がベットから身を乗り出して言った。
「あのさ、暑い暑いというけど、風呂に入って汗を流して来ればだいぶ涼しいよ」
 今度も二人からは何の返答もない。
 扇風機が止められ、電気も消された。
 寝返りをうつのも気がひけるほど部屋のなかは静かになった。五分ほどすると、カリッ、カリッと、どこからか鋭い音が聞こえてきた。音源はハッキリしなかったが、少なくとも部屋のなかであることは間違いなかった。清二は下のほうから聞こえてきたので、たぶんもう寝付いた三郎の歯軋りかなと思った。だがその瞬間、清二の腰の辺りにドーンと衝撃がきた。政治はてっきり寝ぼけた奥山がベットのうえに頭でもぶつけたんだろうと思った。しばらくすると、カリッ、カリッという音がまた聞こえてきた。清二はもしかして猫が入ってきて何かを食べているのではとふと思った。だがその瞬間また腰の辺りに衝撃がきた。そして苛立ったような奥山の声が響いた。
「いいかげんにしろよ」
 その言葉の雰囲気から清二はとっさに、奥山が、音を立てているのは清二だと勘違いしていること、そして同時にその音は三郎の歯軋りではなく猫であることを確信した。
「猫だぞ、猫が入ってきて何かを食っているぞ」
 清二のその言葉に反応して二人は飛び起き、電気をつけると、ちゃぶ台の下を探した。
「あっ、居た!」
といって三郎がちゃぶ台の下に恐る恐る手をやった。
「気をつけろよ、噛み付かれるぞ」
と奥山が神経質そうに言う。
「このやろう」
と言って乱暴に猫を捕まえると、入り口まで持って言ってそこから思いっきり外に放り投げた。
三郎は
「ふてえ野郎だ」
と言いながらドアを閉めると、ふたたび電気を消してベットに横たわった。暗闇のベットのなかで再び落ち着いてみると、清二は急に腹が立ってきた。というのも、あのドーンと言う衝撃は、奥山が頭をぶつけた音ではなく、音の原因が清二だと思った奥山が頭にきて足で蹴飛ばしたのだと判ったからだ。もしあのとき頭にきた奥山が蹴飛ばしたのだとわかったら、たぶん喧嘩にでもなっていたかもしれないと清二は思った。だが、カッとすると見境のなくなる奥山の性格を思うと、だんだん腹立ちも収まり、むしろあきれた奴だなという気持ちになっていった。











     
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