ブランコの下の水溜り(27部)

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          はだい悠








 あの日と云うのは、四日前の水曜日のことである。
 その日の午後、清二は高志を訪ねた。そしてこれから二人でやろうとしている仕事の詳しい話や世間話をしたあと、以前行ったことのある公園に散歩に行った。
 お互いにこれといって言葉を交わすこともなくのんびりとした気分で公園内を歩いていたとき、二人の女性が道端に乳母車を止めて話し込んでいるのに出会った。乳母車の赤ん坊は、生後二三ヶ月で、まだ思うように動かない手や頭を動かしてはひとりで笑いを作って遊んでいた。
 清二はそれほど気にも留めずに通り過ぎたが、高志はその赤ん坊が気になったのか、乳母車のほうに顔を向けて歩みを止めた。十数秒ほど歩いたあと、清二はてっきり後からついてくるものと思っていた高志の気配がないことに気づいたので、後ろを振り向くと、高志の姿はそこにはなかった。
 清二はしばらくのあいだ、公園内を歩きながら高志の姿を探したが、どこにも見当たらなかった。そこで、おそらくちょっとした行き違いなら、先に帰っているのでは内科と思い、マンションに戻ったが、高志は帰っていなかった。二時間ほど待ったが帰ってきたのは洋子だけであった。
 清二は高志とはぐれた経緯を洋子に話した。そしてそれは高志のちょっとした気まぐれだろうと云う事にして、その日はそのまま帰った。
 車が右折して人影もまばらな裏通りに入ると、洋子が再び話し始めた。
「それからはいつもと変わりなく家に居たわ。でも昨日からまた居なくなったの。それでもしかしたら清くんのところに来ているんじゃないかと思ってね、、、、」
「いや、ボクはあの日以来あってないよ。実家が近くだから、行ってんじゃないの、」
「それはないわ、今日電話してそれとなく訊いてみたんだけど、そんな気配まったくなかったわ。まさか向こうのお母さんが嘘をついているとは思えないしね。それよりも、どうしても実家に帰っているとは思えないの」
「それじゃ、学生時代の友達とか、以前来たことがあるじゃない、、、その、、、、またこの間みたいにどっかをほっつき歩いているんじゃないの。まだひと晩だけじゃない、心配することないよ。今晩あたり帰ってくるよ」
「そうじゃないから探しているの!実は昨夜、なんの気配もないから、部屋に入って見たの、そしたら、、、、、いつもより部屋のなかが整頓されていて、机の上に、離婚届がおいてあったわ、ちゃんと自分の判を押してね。それからメモが書いてあったわ、、、、詳しいことはいずれ判るから、、、、離婚届はなるべく早く出すようにって、、、、、」
洋子はそれっきり黙ってしまった。清二は、せっかくこれから何もかもうまく行こうとしているときに、これはいったいどういうことなんだろうかと、思うだけで、何も答えることができなかった。
 高志のマンションで清二は離婚届を見せてもらった。洋子の言ったことは間違いではなかった。高志の部屋に入ってみた。普段のよりは整頓されていたが、今どこにいるのかの手がかりとなるようなものは何もなかった。残されたメモをみても、どういう意味なのかさっぱり判らなかった。清二にとっては何もかも不可解であった。
 清二は、これから高志が行きそうな所をまわってみると云う事を、そして持つ見つけたらつれてくるが、見付からなかったときは、明日改めて来ると云う事を、それにたとえ見付からなくても、子供の迷子と違うから、そんなに心配することはないよ、そのうちに、いやもしかして今晩にもひょっこりと帰ってくるかもしれないよ、と云う事を洋子に告げてマンションを出た。


 清二はまず公園に向かった。そしてときおりすれ違う人影に高志に似た雰囲気の人間を見付けては喜んだり落胆したりして、公園内やその周りを歩きまわった。それから町に出て、以前のように、突然出会えるのではないかと云う予感を抱きながら歩いた。だが、高志に出会うことはできなかった。
 二時間ほど歩いたあと清二はアパートに戻った。
 そして部屋に入ろうとしたとき、ドアの横にある郵便受けの扉が半開きになり、何かがはみ出しているのに気づいた。取り出してみると、それはA4版の大きさの封筒で、裏には高志の名前が書いてあった。切手は貼っていなく、宛名も住所も書かれていないところからすると、それは昨夜から今までのあいだに高志が直接持ってきて入れたものらしかった。開けてみるとノートが入っており何かが書かれていた。清二は部屋に入るとさっそくそれを読み始めた。


いつも明るい清二君へ

 君は相変わらず元気でやっているだろうね。
 ボクは、君がどんなことがあろうとも明るくたくましく生きていくことができる人間だと思っているよ。
ほんとボクには、うらやましいくらいにね。
 なんかこういう書き出しは、これから僕が、君に話そうとしている内容からして、ふさわしくないような気がするけど、でもボクは、心の底から君が、そのように生きてくれることを願っているんだよ。
 今は夜中の二時過ぎです。
 外は静かな闇です。まるでこの世でボクだけが目覚めているような感じです。
 洋子も何も知らずに眠っているようです。
 とにかく静かです。でも、少しも滅入った気持ちでないんです。  
と云うのも、ある重大な決意をしたからでう。
 この決意はおそらく、いっしょに仕事をやろうという君の好意を無にすることになるでしょう。
 ただ今後、気味とどんな場所で会うようなことになっても、気味とボクはお互いに目と眼を合わせるだけで、微笑みかわせる関係になっているでしょう。
 ところでこの間はごめん、突然、君の前から姿を消して、悪いと思っています。
 でも、あの時は正直言って君のことを考えている余裕などなかったのです。
 あのときボクが立ち止まったのは、道端の乳母車に赤ん坊の姿を見たからです。
 それはたぶん赤ん坊の可愛さやあどけなさに魅せられたからなのでしょう。
 でも、じっと見ているうちに、ボクは、それ以上のもの感じ始めました。
 それは地面とか空気とか、ボクの周りの全てのものが、ボクを圧迫するような感じでした。
 そしてそのときに、自分でも抑えることができないくらいに震えてきました。つまり恐怖感を覚えたのです。
 そしてボクは自分でもどうして良いか判らなくなり、ただその場所からいっこくも早く離れたいという気持ちで無我夢中で歩き始めました。
 そして気が付いたらある場所に来ていました。
 ある場所とは後で判ります。それはたぶん君も知っているところです。ボクはそのためにいっそう混乱したようでう。
 そしてそこから逃げるようにほとんど前後不覚の状態で歩き始めました。
 しかしどこへ行こうとも行く当てはまったくないのです。そんなことを思いつく余裕はないからです。
 しかも、人に会うのが何となく怖い感じで、町に出る気もしませんでした。
 結局再び公園に戻ってきました。
 夕方ですから、だんだん暗くなってきました。
 でもボクはよっぽど自分を見失っていたんでしょう。
 自分には帰るところがないと思ったらしく、暗くなった公園内を人影を避けるように道を外れて、ただ歩き廻っていました。
 そしてそのうちに、人影もなくなり夜がふけてくると、ボクは木立のなかに入り、隠れるようにして潅木のあいだにうづくまったまま我を忘れて、夜明けまで震えていました。
 それは夜の寒さや、木立のなかの不気味な闇のせいかも知れませんが、それだけでないこともハッキリしています。
 そして夜が明けるとともにじょじょに冷静さをとりもだしたようで、ボクは自分に帰る所があることにようやく気づいたようです。
 ボクは家に帰ると、心配顔で話しかける洋子を無視するように何も言わずに部屋に閉じこもりました。
 冷静さを取り戻してはいたが他人を思いやる余裕はなかったようです。自分の部屋に帰ってほっとしたためか、疲れがどっとでたようで、眠気を覚えました。そして眠りました。でも昼前には目覚めました。公園で赤ん坊を見てからのことが気になって、よく眠れなかったようです。
 そこでボクは、普段と変らないほど気持ちが落ちいていたので、冷静に赤ん坊を見たときのことを思い起こしました。あのときの赤ん坊は、そのあどけなさや、可愛さのほかに、もっと別なものをボクに訴えかけていたようです。もちろん赤ん坊はボクの存在を意識して、そうして訳ではないのですが、ボクはその無垢な表情や行為のなかに、確かに感じ取ったのです。
 それは赤ん坊が持っているみずみずしい生命力なのですが、でもそのように簡単に言い切ってしまえるようなものではなかったのです。ボクは、赤ん坊のその水みずして生命力を感じるとともに、ボクは過去から未来へと流れる時間のなかで、ボクを取り囲んでいる全てのものと関わりを持ちながら存在しているかのように感じながら、ボクの肉体の内部からも、同じように生命力を感じていたのです。
 ボクはそのときまで、そう云う生命的なものを否定的に考えていたつもりでした。でもあのとき、ボクはそのことをなぜか素直に受け入れたようです。どうして急にそんな気持ちになったのか、ボクには判りません。たぶん知らず知らずのうちに君の影響を受けていたのかもしれません。
 そこでボクは、ボクがあのとき体が震えるほどの恐怖感を覚えたのは、その日までの生命的なものに対する、僕の閉鎖的な態度が、間違いで感じさせるほど、その感動が強烈で奥深いものであったからだと結論しました。
 ボクはその日まで、君から、ボクと君が考えていることは根本的には変らないと か、ボクは本当は人間を求めているとか、ボクには生きようとしている生命力があるといわれても、どうもぴんと来ませんでした。でも君の言い方が理屈にあっていたので、そうかもしれないといった程度に思っていたに過ぎませんでした。
 だから、いっしょに仕事をやろうと云う君の申し出に対しては、ひとまず承諾をしたもののどうしても自分にはできるんだろうかと云う不安ばかりが残り、本気にはなれませんでした。
 でも、ボクはこのことで君がいっていたように、ボクの肉体の内部から、心の奥底から、人間を求めて生きようとしていることが判ったのです。ボクは新しい考え方や生き方に目覚めたようです。またそれと同時に、ボクは今までの自分の考え方や生き方がずいぶん観念的あったことにも気づかされました。
 そして僕は何の不安や迷いもなく君といっしょに仕事をやり、これまでのようにつまらないことにこだわって苦しんだりすることもなく、君のように明るく伸び伸びと生きられるような気がしました。ボクには、なんでもやれそうな気がしてウキウキとした気分になりました。
 まさにばら色の未来が開けたような感じがしました。これで全てが解決したと思いました。しかしその喜びもつかのまでした。その瞬間かつて味わったことのないほどの苦しみにボクを落としいれることが起こりました。あの日の出来事がボクの頭に蘇ったのです。
 ボクは狂わんばかりに混乱し恐怖感を覚え絶望的な気持ちになり、全身から冷や汗が吹き出ました。かんがえてみれば、今までボクを苛立たせたり、気分を滅入らせていた真の原因はあの日のことにあったといっても言い過ぎではないのです。
 あの日と云うのは君が二度目にぼくを訪ねた日です。あの日ボクは部屋に居ました。君が何度もチャイムを鳴らしてもボクは出ませんでした。もしかしたら君以外の人間ではないかと云う気がしたからです。それにたとえ君であることが判っても、ボクは出なかったでしょう。なぜなら、あのときのボクは誰とも会いたくないような精神状態であったからです。
 異常な興奮状態におちいっていたボクはまったく自分を見失い、波のように押し寄せる恐怖感や絶望感に子供のようにおびえながら、身をひそめるようにしてベッドに潜り込んでじっとしていたのです。もう君は、僕が何を話そうとしているのか判ったのではないでしょうか。

あの日は朝からの秋晴れのいい天気でした。
ボクは九時ごろ、ゴルフの五番アイアンを持って、ある場所に行きました。
 そこは周りが沢山の樹木と鉄柵で囲まれているため、外からはよく見えないのですが、広い敷地のなかに、工場らしい建物と、事務所が建っていました。工場といっても、閉鎖されているため、人気はまったくなく、建物の窓ガラスも所々割れていて、草も伸び放題のまさに自然そのものといった感じでした。
 それまで、ボクは公園のような自然が豊富で、しかもあまり人気ないところが好きで、昼夜かまわず暇を見ては、よく散歩に行ってました。とくに、その閉鎖された工場のように、今は誰もいないが、昔は人々で賑わっていたに違いないと思われるところには、どことなく情趣が感じられ、だいぶ前にそこを通りかかったとき、いつかきて見ようと思っていたのです。それに、そこならば人に見られることなく下手なゴルフの練習ができると思ったのです。
 ボクは鉄柵の破れたところから敷地内に入りました。そこは思っていたとおりのところでした。静かで人気はまったくなく、外の様子もほとんど見えないので、ボクはひとりで大自然に踏み入れたような気分になりました。
 そしてボクは、素振りをしたり、ときおりボールを打っては、それが落ちたところまでゆっくり歩いていって、そこからまた打ち返したりして、自由に伸び伸びと、まるで自分の領地であるかのように振舞っていました。
 汗を欠いても乾いた風が、すぐそれを吹き消してしまう感じだったので、本当に気分のいいものでした。そのうちに汗が止まらないほど暖かくなり、それに疲れも感じてきたので、木陰に腰をおろしてひと休みすることにしました。
 まぶしい日差しのもとで、延び放題の草がそよ風になびき、地面の上には色んな虫が盛んに跳びかい、空にはトンボが飛んでいました。
 ボクは幸福感に浸りながら、ボンヤリとそれらに目をやっていました。そして、今は誰もいなく、だんだん廃墟化しつつある建物を見ていると、ふとある衝動を覚えました。
 それは所々われ落ちているガラス窓のなかで、まだまともな形で残っているガラスを割ってみたくなったのです。ボクはそのガラスを無用で無価値なものと判断したようです。
 人々がいきかう町のなかでは、たとえそれが無用で無価値なものであっても、割ると云う行為は奇怪で悪いことには違いないのですが、でもボクはそれほど悪いこととは思えなく、それに誰も見ていないのだからと思い、石を拾うと、ガラス窓をめがけて投げつけました。
 すると見事に命中して、その穏かな静けさのなかに、ガラスがわれ落ちる音が響き渡りました。ボクは、ガラスを割れるとき、一瞬ひやりとしましたが、その後の開放感にも似た快感を覚えました。どうやらボクは、子供のころから悪いこととして禁止され、自分でもやってはいけないと思っていたことを、堂々と犯してみたかったようです。
 ボクはもう一度やりました。そして同じような快感を味わうことが出来ました。
 そしてボクはもう何もやることがなくなったような気がしたので帰ることにしました。  鉄柵の破れはその建物の裏側になっていたので、ボクは不思議な興奮と満足感を覚えながら、建物の裏側の木立のなかを、その破れたところに向かって歩いていました。
 だがそのときです、突然木立の間から、ひとりの男が現れたのです。そして 「おめえは、とんでもねえ野郎だ」 と怒鳴るようにいいました。ボクは心臓が止まるくらいにびっくりして立ち止まりました。まさか人がいるとは思っていなかったのですから、それに、無断で立ち入ってガラスを割ったと云う、後ろめたさも多少あったからだと思います。
 でもボクは、その男の風貌や服装から、その男がその建物の関係者のようには思えなかったので、それにたかがガラスを割ったぐらいでと思う気持ちもあってか、その男を無視するように再び歩き始めました。
 だがその男はものすごい剣幕で近寄ってくると、
「おめぇ、どこまで俺を苛めりゃきが済むんだ」
と訳のわからないことを言いながら、ボクの胸倉をつかもうとしました。その男の目は充血し、吐く息は酒臭く、僕には気が狂っているとしか思えませんでした。ボクはその男の怒気に気おされて思わず後ずさりをしました。だが、その男は怒りで顔をゆがめて、なおも僕に挑みかかろうとするので、ボクはこのままだと、この気違いじみた男に殺されてしまいそうな恐怖感にとらわれました。そして我を忘れて手に持っていたクラブを振り下ろしました。するとクラブの先端が男の頭に当たったようで、男はよろけて木に凭れかかりました。だが、すぐ下までずるずると崩れ落ちるとそのまま動かなくなりました。
 男のこめかみからはちがどくどくと流れていました。あまりに一瞬のことであっけないほどでした。だが僕がどれほど混乱し自分を見失っていたかは、そこを出て、マンションに帰ってくるまでのことをほとんど覚えてないと云うことや、ゴルフのクラブや胸ポケットに入れておいたメガネをそこに置いて来たと云うことに現れていると思います。
 部屋に帰ってきてからのことは、さっき話したとおりです。どうやらその男は、ボクが石を投げてガラスを割ったとき、建物内に居たようです。

 もう君は全てが判ったでしょう。その男というのは、かつて君といっしょに働いたことがあり、何者かに殺されたと云う男です。そしてその何者かと云うのはぼくのことです。
 あの日、君が鳴らすチャイムの音を途絶えたあと、何事もなく過ぎていきました。そして日をおおうごとに、あの日のような恐怖感や絶望感は徐々に薄れていきました。 ただ明らかな証拠となるゴルフクラブやメガネを残してきていたし、帰りの道を呆然として歩いているボクの姿を見たに違いない、目撃者が必ずいると思うと、そのうちに逮捕されると云う不安はありました。でもそのときはそのときと開き直ったようなあきらめの気持ちが強かったので、逃げも隠れもせず普通にしていようと思いました。
 それから十日ぐらいたってから、身元不明の浮浪者らしい男の死体があの場所で発見されたの新聞で知りました。でもボクはそれほど驚きませんでした。むしろなぜかほっとした気持ちになりました。だから良心の呵責に苦しんだかと云うと、そうでもなかったのです。それには、あれは正当防衛なのだ、不可抗力なのだという気持ちがあったからだと思います。それに、君からあの男は人に迷惑をかけるためにだけ生きているような男で、殺されても当然だと聞かされて、ますます仕方のないことのような気がして、後は成り行きに任せようと思いました。
 その後捜査の手がボクのところに伸びてくる気配はまったくなく、このままだとボクは逮捕されないのではないかと思うようになりました。それに、ボクがこれからやろうとしていることに比べたら、あの男の死はとりに足らないそれほど重要なことではないと思うようになりました。
 そしてボクは、自分からしゃべないかぎり、決してばれることはないと思うようになり、あの男の死が、直接誰かに迷惑をかけている訳でも、また社会に影響を与えている訳でもないので、このまま事件の真相が永久に知られずに済んでもかまわないことだと思うようになったようです。
 そして、あの日のことが意識に上ってくるようなことはほとんどなくなりました。ただそうかと言って、あの日のことを完全に忘れたわけではないので、ときおり自分でも気づかないうちに頭に浮かんでくることが会ったようです。  
と云うのも、あとで思い返してみて、あのときはボクだけではなく、誰が見ても奇妙と思うような言動をとったなあと思うことがあるからなのです。その夜にボクは、その奇妙な言動の原因は、あの日の忌まわしい出来事であると判っているのですが、でもそこで改めてあの日のことを思い起こして後悔をしたり、罪の意識に苦しんだことはありませんでした。それは僕が相変わらずあの男の死は、ボクがやろうとしていることに比べたら取るに足らないことだと思っていたからでしょう。しかしそうは言っても、もしかしたら、そのうちに逮捕されるのではないかと云う不安は完全に消え去ったわけではありませんでした。ただ、その不安とはまったく違った、それを打ち消してしまうような不安がありました。
 それは、もしかしたら君は、ボクの奇妙な言動から、ボクがあの男を殺したことに気づいているのではないかと云うことでした。とくに、君があまりにも真剣に、しかも何の他意もなさそうに、ボクといっしょに仕事をやろうなどと言ったときには、ボクはなぜか、君は全てを知っていながら、あえてそう云うことを言うのだなと、疑念を持たざるをえませんでした。だから、君が、銀行強盗をやったあと、大人しくしていれば、捕まらないといったとき、ボクのことを例にとって言っているのではないかと思い、ボクは君に全てを見透かされているような気がして、内心ドキッとしました。でも、そのあと君にそれとなく探りをいれると、君はまったく気づいていないことが判ったので安心しました。
 しかし今のボクには、もうそんなことは関係ありません。ボクはもう自分のやったことを誰にも隠すつもりはないからです。だから、もしかしたら、ばれるかもしれないとか、そのうちに逮捕されるかもしれないと云うことで、不安になったり恐れたりすることもありません。なぜこうなったのか、自分でもうまく説明ができません。ただ、あのとき、ボクが君のように明るく伸び伸びと生きられるような気がして、未来が開けたと思った直後に陥った恐怖感や、それまでのたとえば、あの男をクラブで殴ったときや、その後部屋に帰ってきて身をひそめるようにしていたときに感じた恐怖感とはまったく違うものでした。
 それはこの前赤ん坊を見たときに感じた恐怖感に似てるといえば似てると思います。ただ違いといえば、前の場合は生命に対する強烈で奥深い感動のためだったのですが、後の場合は、その生命がなくなるとはどういうことかと云うことを実感していたためのようです。そしてボクはあのときそう云う恐怖感を覚えながら、本当に大変なことをしてしまったと云う思いにとらわれていたのです。
 しかしそれでもボクは、以前のように、あの男を取るに足らない人間とみなして、あの事件のことは自分から話さなければばれないことだから、このまま誰にもいわずに君といっしょに当たらして仕事をやって、新しい人生を歩んでもかまわないのですが、でもボクは、なぜかそうは思えなくなっていきました。
 殺したことを隠していることができそうになくなったのです。それはボクがあの男の生命は、ボクやあの赤ん坊の生命と同じものだと感じたためなのかもしれません。なんともハッキリしません。でもこのまま黙ったまま死ぬまで過ごせそうにないと感じたことは確かのです。君が言ったように、ボクは自分が人間を求めて生きようとしていることが判り、君といっしょに仕事をやり、気味のように前向きに伸び伸びと生きようと思ったのに、なんとも皮肉な結果になってしまいました。
 ボクが以前のような精神状態のままだったら、こういうことにはならなかったと思うのですが、でも僕にとっては、どっちがいいかよく判りません。それにこれが自然の成り行きだったのか、それとも、君と付き合っているために知らず知らずのうちに君から影響を受けて、こうなったのかボクにはハッキリしません。
 でも今となっては、そんなことはどうでもいいことです。ただ、僕に今度の決意をさせたのには、あの赤ん坊だけではなく、君も関係していることは確かなようです。と云うのも、ボクが君に探りを入れたときの君のあまりにも無邪気な返事や表情というのが、ボクに罪深さを感じさせるものとして思い起こさざるをえないからです。

 ボクはあの男を殺したときのことを正直に全てを話すつもりです。どうしてあのようなことになったのかを、あのときどんな気持ちであったかを、そしてどのようなことが意識にのぼっていたのかを、はっきりと包み隠さず話すつもりです。以前に言ったように、ボクは自分の罪を軽くしてもらうために、自分に有利なことだけを云って、不利なことを隠すつもりはありません。たとえば、ボクがゴルフクラブを振り下ろしたときなど、さっきは無我夢中でと言いましたが、ほんとうはあのときどんな気持ちであったのか、それに、どのようなことが意識に上っていたかを、いまでもはっきりと思い起こすことができます。
 確かに、あの時は恐怖感と云う興奮状態にあったことは間違いないので、そのことを夢中といっても良いのですが、でもボクには、このくらいの強さなら相手に致命的なキズを負わせるに違いないと云うことと、さらには自分は、相手の頭を狙って振り下ろしていると云うことが意識としてはっきりとあったのです。もしこんなことを言ったらボクは非常に不利になるだろうね。でも、裁判官や検事がどう判断しようがボクには関係ありません。そのために刑罰が重くなってもかまいません。ただあるひとりの人間の意識に上ったことを、あるひとつの現実として、あるひとつの真実として、正直に言いたいだけなのです。後はそれをどう判断しようが、しょせん不完全な人間の判断に過ぎませんから何も恐れることはないと思っています。君には判ってもらえるでしょう。もうじき夜が明けるでしょう。洋子は何も知らずに眠っているようです。洋子には何も話さないつもりです。というより、どうやら僕には洋子に話す勇気がないみたいです。それからボクは洋子と離婚します。ほんとは、君が、いや止めよう、君が怒ると怖いからね。ボクには君がなんともうらやまして限りですよ。純真な気持ちで子供ころに川でいっしょに遊びながら洋子の裸を見たと云うことがね。それは僕の子供のころにはまったく経験することができなかったようなことだからね。僕にはどうしてもそのときに太陽の光が金色に思えてならないよ。もし僕たちが再び会うようなことが会ったら、そのときは無言のまま微笑をかわしましょうね。それでは、いつまでも元気で、さようなら

                    高志より


      *****

過去は急速にゼロへと収束する。


    *****

生きている者だけが何かを語る


森の中に置き去りされた幼な子は、
自分が泣いていることに気づき泣くことを辞めた。


春は、予感であり、幻想であり、不安である。
夏は、幻惑であり、過剰であり、期待である。
秋は、裏切りであり、復讐であり、悔恨である。
冬は、慰安であり、空虚であり、凍結である。



人間いつも何かを信じようとしている。
人間は何かを信じなくては生きていけない。
人間はどんなにつまらないことでも信じることができる。
人間はいつも何かに熱狂しようとしている。
人間はなにかに熱狂しなくては生きていけない。
人間どんなにつまらないことにでも熱狂できる。
今はどんなにつまらないことに信じ熱狂しても誰も非難はしない。
今は人間をつまらないことばかりに信じ熱狂させようとしている。
今はつまらないことに信じ熱狂している人間だけを大事にする。


ふと、意識の絶え間ない流れを垣間見たとき、
時間は、何気なくその流れを切り開いて
その断面を見せることがある。
そしてその断面は永遠に向かって彩られている。
それは一瞬が永遠に変るときである。


一杯のお茶のための時間、
我われの周りには時間は有り余っており、
意識されることを望まない。


口にくわえたタバコ、一杯のお茶、
行為の裏側を見ないように、
タバコを吸い、お茶を飲み続ける。


煙草と現実、現実は煙草のようにまずい。



今はいつだろう、ここは何処だろう、そしてこれは何だろう。
流れるような、輝くような、うごめくような、塊のような。
これは汚すものか、汚されるものか、苦しむものか、苦しめるものか、
ただ還りたい


何かを恐れるように思い続け
何かを恐れるように像を結ぶ
行きつけないもの
辿りつけないもの
はねかえすもの
はねつけるもの
黒い黒い塊り
内実に向かって、被造物の限りない抵抗
負債を負わされた意識
重荷を負わされた意識



父たちは死んだ
母たちは死んだ
いつ?私の前?あと?
わからない
マクロな時間の流れに
ゆだねられた一つの肉体
それは意味ありげな時間への加担者


季節は無表情に通り過ぎるだけ
不可解なつながりに
ゆだねられた一つの肉体、それは
それは意味ありげな空間への共犯者
何にも残さず形は消えた。
純粋なつながり


歩み続ける人々の背後に
町に日は暮れて
路上に靴音の響き、
スカートからこぼれる脚

スーパーマーケットから吐き出された
バケツいっぱいの魚のくず
魚の血に染められた舗道
腐りかけた魚の頭をくわえ
野良猫が路地を走り去っていく



陽は燃え落ち

人は拘束から解き放たれ
せいの屈辱の炎は揺らめき
星の虚ろな輝きのもと
ビルはその廃墟を現し
無機的不気味さのなかを
風は荒々しく、ときには
不機嫌に彷徨う
最後の原始の眠りに辿りつくまで


排気ガスにかすむ高層ビ
熟しすぎて
路地に垂れ下がる柿の実
熟しすぎて
腐りかけ
腐りかけたおごりを載せた
車のタイヤが、おもむろに
踏み潰していく


はじめに
青空と
夕日と
風と大地のざわめきは
その愛する被造物たちを
慰め
包み込み
捨てなかった
しかし背くことを覚えた
人類の歴史の果てに
ときおり、その始めにかえす
そして、その埋め尽くされぬ距離を思い
青空と夕日に焦燥を
風と大地のざわめきに不安を
人類は刑罰のように
苦しみ続ける


五千年後の未来に開封されるタイムカプセル
僕らはもちろん生きてはいない、いったい
どんな情念を封じ込めたのであろうか?


死は
名状しがたい死は、突然やってくる
明かすものもなく、明かされるものもなく
死は
名状しがたく、突然やってくる。
たとえ
悲嘆のさなかに生命が途絶えても
喜びのさなかに生命が途絶えても
ひとつの死の残すものは
生者のおごりとその涙
ひとつの死の残すものは
生者の思惑とその隷属
だが、いっこうに変わらない
明かすものもなく、明かされるものもなく
死は名状しがたく、突然やってくることは


たとえ、宇宙彷徨った星のかけらが、炎の石となって、天井を突き破り、眠っている私の頭蓋骨を粉々に打ち砕こうとも、それはそれで良いのです。
黒雲のなかから突然放たれた雷光が、わたしに何の不安も与えずに、私の脳天を貫こうとも、それはそれで良いのです。嘆くことはないのです。むしろ、そんな偶然を喜ぶべきでしょう。
地球の夜の部分に、忽然と現れた反物質が、誰にも知られることなく、地球に衝突して一瞬のうちに地球が消滅しても、それはそれでかまわないのです。
目覚めていた恋人たちが、もはや引き離されることなく、ひとつの光となって歓喜のなかで滅びることを知るだけです。
月は恋人を失ったように嘆き彷徨うように思われますが、所詮、月は冷たい石ころだらけの物体です。
ただ太陽系の惑星たちの軌道がちょっとだけ変るぐらいで銀河の星たちも気づかぬぐらいにその位置関係を変えるくらい、そして、数万光年離れた地球に似た惑星の人々は、数万年後、夜空に巨大な花火を見て喜ぶしょう。


ちょっと前まで、宇宙は無であった。
そして今も無であり、今後も無であり続ける。
だから痛くも痒くもない。
宇宙は無であり続けるために、それ自らに無であり続ける条件を満たしている。
それはけっこうなことだ。
だから、光には速度が"ある"とも"ない"とも言わないほうがよい。


物質は時間と空間の否定である。
物質は有であるために、
それ自らに有であり続ける条件を保っている。
つまり時間と空間なるものを分泌する

光を時空と言い換えてもいい
時空は光によって成り立つ
物質は時空に相対的に関わる


目覚めていることは苦痛である。
意識の重み


ボクは地球を地球の外から眺めるように、
自分の頭蓋骨を手にとってまじまじと眺めてい見たい


 これらは、今までに僕がいろいろと思ったことを、そのつど書きとめておいたものです。
 でも、今のボクにとっては、これらはぼくの単なる過去の排泄物みたいなもので、現在のボクとは直接関係ありません。
 それに今の僕の内面を知る上でなんら参考になるもではありません。ただ捨てるには何となく惜しいような気がしたので、ついでに書き添えておきました。


 清二は胸を高鳴りを覚えながら高志の手紙を読み終えると、直ちに部屋を出て洋子のマンションに向かった。
 歩きながら清二は、今までの高志の数々の不可解な言動を思い浮かべた。そして、それらを高志が起こした事件と思い合わせると、全てつじつまが会うような気がした。
なぜこんなことになってしまったんだろうと、清二は悔しいような情けないような気持ちでいっぱいだった。
 マンションの前に来て見上げると、洋子の部屋にはまだ灯りがついていた。
 清二は急いだ。

 だが入り口の階段に差し掛かったとき、いったい自分は何のために来たのだろうかと思い、急に不安になって立ち止まった。なぜなら、自分には高志の侵したことを洋子に直接話す勇気があるとは到底思えなかったからだ。ましてや、事件にまったく無関係ではない自分の立場からして何にも言える訳はないような気がした。
「だめだ」
と呟きながら清二はきびすを返すと、
「いずれは判ることだ」
と頭のなかで唱えながら逃げるようにして洋子のマンションを離れた。


 だが自分のアパートには戻る気はしなかった。
 清二は当てもなく歩いた。そして、
「どうしてこういうことになってしまったんだろう」
と、何度も何度も頭のなかで呟いた。
気がつくと公園にきていた。夜もだいぶ更けているらしく、花見を楽しむ人々の姿はもう何処にもなく、人とはときおりすれ違うだけの静けさに戻っていた。

 清二はしばらく歩いた後、道から外れて、水銀灯の光が届かない薄暗い芝生の上に腰を下ろした。そして、人影に怯えるようにして歩いたり、木立のなかに入って、震えながらうづくまったりして、ひと晩ここで過ごした高志のことを思った。

 清二は結局
「なぜ、こんなことに?」
と悔やむ気持ちになるだけであった。
 これで何もかもだめになると思った。どうしてこううまく行かないのだろう、どうしてこう皆が自分から離れていくのだろう、と思った。
 清二は大きくため息をつきながら芝生の上に仰向けになった。そして微かな光で瞬く星々にボンヤリと目を向けながら、これからどうすればいいんだろう、これからどこへ行けばいいんだろう、と絶望的な気持ちで思った。
 清二は目を閉じた。風に揺らぐ木の葉のざわめきや、道のほうからアベックらしい話し声や靴音が聞こえてきたが、もう何がなんだか判らなくなって、バラバラな気持ちの清二にとっては、それらはあまりにも無意味な雑音であった。頭のなかがだんだん混沌としていくようで、清二はただ虚しく苦しかった。










     
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