ブランコの下の水溜り(5部) はだい悠
しかし清二は、そんな奥山を気にかけている場合ではなかった。もたもたしているといつ石田がふたたび癇癪を起こすか判らなかったからだ。 清二はだいぶ要領をつかんできた。それでも彼らの冷淡さは相変わらずであった。ときたま犯す些細なミスにも石田は容赦しなかった。清二は作業のあいまに、床に積み上げている版を思いっきり蹴飛ばすようになった。それは彼らへの腹立たしさよりも、ふがいない自分自身への腹立たしさために、つもりに積もった鬱憤をどうしても晴らさなければならなかったからである。 結局、呆然とした気持ちのまま夕刻を迎えた。 帰りの事務所内は、朝の沈鬱な雰囲気とはうって変わって、和気あいあいとしたムードに包まれた。雨が降ったらもかかわらず思ったより仕事がはかどったせいもあるが、最大の原因は、親方たちを前にして珍しくニコニコ顔で椅子に座っている社長のねぎらいの言葉である。たとえ仕事の結果がどうであれ、その雰囲気は社長の機嫌次第でどうにでもなるのである。 加藤は朝に不満を漏らした自分を忘れたかのように、電気ショックを受けたときの模様を他人事のように、そのガラガラ声を弾ませて面白おかしく語った。それにニコニコ顔の社長の電気によって死ぬ思いをしたという、ユーモアを交えた過去の体験談が加わり、日頃のお互いの不満も忘れ、皆がひとつにまとまったような雰囲気になった。石田は終始黙っていたが顔には満足そうな笑みが浮かんでいた。 帰りの車に乗るために、事務所から並ぶようにして出て来たた石田が、照れくさそうな笑みを浮かべながら清二に話しかけた。 「セイちゃん今日はずっと怒鳴りぱなしで悪かったな」 清二は、今まで決して愛想を見せたことがない石田から、そんな言葉をはなっから期待していなかっただけでなく、気難しそうで近寄りがたい印象しかもっていなかったので、息が止まるくらい意外な感じがした。 車で待っていても奥山がなかなか乗り込んでこなかった。どうやら前借り交渉をしているらしかった。まもなく車に乗り込んできた奥山に三郎がささやくように言った。 「どうだった?」 「ダメだって、まだ充分に働いていないからって、、、、」 「充分って?」 「十五日すぎてないと前借りできないんだって」 と奥山は三郎の呑み込みの悪さに苛立つように言った。 その夜銭湯で清二は偶然にも久保山と鈴木に会った。 鈴木はせせこましく、しかもやや強引に風呂から上がった久保山と清二にりんごジュースを奨めた。清二は飲んだが久保山は酒が不味くなるといって断った。そして二人をぜひ家に来るようにと誘った。鈴木は従業員のなかで唯一妻帯者だった。 鈴木は以前宿舎で久保山といっしょに寝泊りしていた。それは彼の妻が病気で入院していたためである。それが今度退院したので、妻の両親が預かっていた二人の子供を連れて家に戻ったのである。 清二にとって鈴木は他の先輩たちと違って人当たりがよく、またその親しみやすい表情から、それほど付き合いを重ねなくても、お互いに分かり合えるような気がしていた。事実誰よりも早く気軽に世間話をすることができた。 久保山と清二は鈴木に案内されて彼の家に向かった。 このところずっと感情をむき出しにするがさつな男たちに囲まれ、少しささくれ立っていた清二にとって、他人の家庭とはいえ、愛情で固く結ばれて人たちの家庭的温かさや喜びに包まれた雰囲気に触れる楽しみを思うと、何となく待ち遠しい気持ちになった。そして清二は鈴木の良き父親ぶり、良き夫振りを思い描いた。しかし久保山は誘われたときも曖昧な返事をしたり、それほど楽しそうな表情ではなかった。むしろ浮かぬ顔であった。 歩きながら清二は、以前三好がふと漏らした 「やつは、酒癖が悪いぞ」 という言葉を思い出した。しかし清二には下の者には面倒見がよく人の良さそうな彼がどうしてそうなのか考えられなかった。 五分ほど歩いて狭い路地を抜けると、彼の住むアパートがあった。 「おい友達をつれてきたぞ」 と鈴木は威勢良く声をかけて玄関に入ったが、家事に忙しかったのか中からは何の返事もなかった。清二は久保山の後ろから遠慮がちに入った。 半畳ほどの狭い玄関に、靴やサンダルのほかに、子供のおもちゃ、スプレーのキャップ、ブラシ、スリッパなどが足の踏み場もないくらいに散らばっていた。 彼の妻は突然の訪問に戸惑ったのか、迷惑だったのか、これといった挨拶はなかった。少し色あせたピンク色のワンピースを着た眼の大きな四五歳の女の子が、入ってきた久保山と清二を瞬きもせずに、覚めたように黒い瞳でじっと見ていた。 間取りは、奥の八畳ぐらいの部屋と台所の付いた六畳の部屋の二つだった。奥の部屋には、二三の家具類とソファーがところ狭しげに置いてあった。 二人は六畳に部屋に置かれたちゃぶ台の周りに座ったが、鈴木はビールを買いにいってくるといって外に出た。 奥の部屋に居た彼の妻が仕方なさそうに二人の前に座った。女の子が落ち着きなく歩きまわった。笑みを浮かべた久保山がかまおうとして腕を取ると、キッと怒ったような顔をして腕を引っ込め奥の部屋に入って行った。鈴木の妻は彼よりは十センチも背の高い碇肩の大柄な女性であった。病み上がりのためぼんやりとした眼をしていたが、きつそうな眼だった。久保山が話しかける。 「入院していたそうで、病気はもうよくなったんですか」 「ううん、まだ、また入院しなくっちゃならないんだって、でも今のままじゃねえ」 と奇妙な抑揚をつけ口ごもりがちに言う彼女はけだるそうだった。それは言葉に不自由であることを感じさせるものがあった。清二は何となく視線を下げざるをえなくなった。 「それで何の病気だったんですか?」 「じんぞう、ひとりじゃ大変でね、わたしだってね、自分ばっかりなんだから、やることちゃんとやってくれたらね」 投げやりに言う彼女言葉はまとまりがなかった。ただ夫の鈴木に対する言い知れぬ不満がその背後にあるようだった。彼女は話しながら、こうしていることが煩わしそうに体をひねった。彼女には夫の友人を歓待しようという気持ちはまったくないようだった。清二は彼女の話し方は天性のもののような気がした。 久保山が言った。 「いや、病気は治せるうちにちゃんと直したほうが良いですよ」 清二には期待はずれの感がして居心地の悪いものだったが、久保山が沈みがちの雰囲気を救うかのように色いろと話してくれるので、ほっとした気持ちであった。もし自分ひとりなら、うまく言葉もです耐え切れなかったろうと思った。 奥の部屋から出てきた女の子が玄関のところに行くと、いきなり手に持っていたプラスチック製のボールを投げつけた。そして睨みつけるように清二たちのほうを見ながら再び奥の部屋に入っていった。鈴木の妻はそのこの行為をたしなめるという気はまったくないようだった。 鈴木がビールを抱えてかえってきた。そしてつまみ用にと買ってきたレバーを袋から取り出すと、これでなんか作れと彼の前の妻に差し出した。彼女はイヤよと言って席を立った。鈴木は一人で栓抜きや灰皿を用意しながら、面目を失ったせいか少し興奮気味にもういちど言った。 「良いから、これで何かを作れよ」 「食べたかったら、自分で作れば、わたし風呂に行くからね」 奥の部屋に居た妻は、鈴木の怒り声に負けまいとするかのように、声を荒げていった。鈴木は何かないかと冷蔵庫のなかを探し始めた。その様子を見ながら清二は台所のほうに眼を向けた。 殺風景なほど炊事に必要なのがあまりそろってないのに気づいた。鈴木は皿に残っていた物を持ってくると、二人にビールを勧めた。女の子が奥から出てきて、また清二たちの周りを落ち着きなく歩き廻った。そしてテーブルの上の紙コップを手でつかんで玄関にむけてなげた。コラという鈴木のたしなめも聞かず今度はガラス製の灰皿を手にもとうとしたが、重いのでなかなか持ち上がらず、それでも何とか持ち上げたとき、「コラ止めないか」という鈴木の叱り声とともに腕を押さえられてからもぎ取られた。娘は抑えられた手を放させようと、体をよじりキィキィとヒステリックな叫び声を上げた。鈴木は抱きかかえられるのをイヤがって暴れる娘に顔をたたかれながら不思議そうに言った。 「この児は何でもかんでも投げつける癖があるんだよ」 親の腕から逃げるかのように奥の部屋に走り去った女の子のあと、今度は一歳に満たないような男の子が愛情を待ちきれんばかりに、愛嬌を振りまきながら這って出てきた。鈴木は父親らしい顔をして抱きかかえた。その児の笑顔には、無心な愛情が注がれる幸福さが残っていた。 奥の部屋から鈴木の妻が言った。 「わたし風呂に行くよ」 「早く行けばいいだろう」 と鈴木がつっけんどんに言った。 「なに言ってんのよ、お金がないといけないじゃない、お金ちょうだいよ」 鈴木は急に不機嫌な表情になると、子供を抱えながら奥の部屋に行った。 清二はこの場から逃げ出したい気持ちであった。そしてここに来たことを烈しく後悔した。 鈴木の妻が二人の子供をつれて風呂に行ったが、清二はビールを進められても喜んで飲む気がしなかった。飲んでもあまり表情に変化のない久保山が言った。 「なに、奥さん、まだ治ってないんだって」 「そうなんだよ、子供がいるから長く入院してられないんだよ。あいつの親が近くに住んでいるんだけど、親も親でね、面倒見る気がまったくないんだよ。オレもこうして働いているんだから、少しは面倒を見てくれても良いようなもんだけど、このままじゃオレも働く気がしなくなるよ、だからこのあいだも言ってやんたんだよ。自分の娘が可愛くないのか、親ならそのくらいことしろよってね。怒鳴っちゃったよ」 鈴木は一家の主としての面目を回復するかのようにもっともらしい表情でしゃべり続けた。 「もう少し給料を高くしてくれたら何とかなるんだけど。三好さんとか加藤さんと比べたって、仕事はそんなに差があるとは思わないよ。でも一日二千円以上の差があるからね。人を怒鳴りつけて給料が高いなんておかしいよ。なあ、久保さんよ、もう少し楽しい職場にしたいと思わない」 鈴木はいくらビールを飲んでも口調は乱れず話しの内容も充分に説得があるものであった。酒癖悪そうな気配は微塵も見られなかった。鈴木の話しに頷きながら聞いていた久保山が話し始めた。 「そうだな、とにかくみんなデタラメだよ。上がそうだから下もそうなんだよ。まず仕事に計画性がなけりゃ、準備なっとらんね。このあいだなんか、アキラもまだ若いから知らないんだろうけど、朝に工具の整理や準備をしていたら、『なにやってんだよ』ってね、だから言ってやったよ『こんなことも知らないの、仕事に入る前は準備が一番大切なんだよ』って、とにかくめちゃくちゃなんだよ。それにみんなオタオタしちゃってさ、社長の顔ばっかり気にしてさ、もっと堂々とやればいいんだよ。三好さんなんてとくにそうだろう、社長の前だと小さくなってさ。石田さんなんて、いつもカリカリしてさ、あれはまるっきしわがままな子供だよ。そのくせみんな一人前の職人だと思っているんだから。拙者は今まで色んな仕事をやってきたけど、ここは段取りも何もあったもんじゃない、現場監督がやってたときにはもう少しうまくやったもんだよ。今日だってそうだろう、雨が降っているときに電気を使うなんて、普通なら中止だよ。事故が起こったらどうするんだよ。ちゃんとしたところならすぐ止めさせるよ。あんなデタラメなことが監督署にでも見つかったら、すぐ工事停止だよ。加藤さんも確かに仕事が出来るかもしれないけど、強引だからね。今日もオレが電気が危ないんじゃないかといったって、大丈夫だよなんて、意地でもやめようとしない、雨のなかで無理したってそんなにはかどらないのに、かえって危ないよ、自分ひとりでやっているつもりなんだから、みんな社長の機嫌取りばっかりしているんだから」 鈴木が応える。 「確かにあの人は出来るかもしれないよ、でも仕事はものすごく荒いよ。それが社長には仕事がよく出来るように見えるんだろうね。でもねオレにあわせりゃ、、、やつはオレより遅く入ってきたんだよ。でも今は給料が上だからね」 「鈴木さんはその体でよく頑張っていると思う世、拙者もこの年になって、こんな仕事をするとは思わなかったけど、何とかの手習いでやるしかないよ。なあ、セイちゃん、こんな仕事体つくりのつもりでやったほうが良いよ」 「さあ、もっと飲めよ、なあ、もっと働きやすい職場にしような」 まだ何も知らないとみなされているものが横から口を挟むことは差し出がましいとされるので、終始黙って聞いていた清二は、彼らの好意的な問いかけにも納得したように頷くだけであった。 酔いがまわって来るにしたがって久保山は、自称気骨の男らしくは鼻息も荒くなりますます饒舌になった。ただその饒舌には多少理屈っぽく、同じことが二度三度とくり返されるくどさを感じさせるものがあった。鈴木は終始冷静でいっこうに酒乱の気配は見せなかった。 彼らの話には充分に納得がいくものがあった。加藤のような僻みの混じった愚痴とちがって、決して自己本位にはならずなるほどと思わせるものがあった。とくに久保山の話は虚勢には見えず、むしろ長いあいだの経験に裏打ちされた奥深いものが感じられた。 帰りぎわ 「今度よかったらいっしょに外で飲もう」 という鈴木の誘いに対して久保山は 「ヨシさんやイシさんが手をつけた飲み屋には行きたくない」 と苦笑いを浮べてことわった。久保山は石田や三好の縄張りには立ち入りたくないという気配だった。 それは彼らの息のかかった店では自分は気楽に飲めないだろうという気持ちの表れでもあるが、清二には理解できない酒好きな人たちにだけ分かり合えるプライドのあらわれのようであった。 宿舎への帰り道を歩きながら清二は、自分が期待していたような家庭ではなかったという気持ちが多少残っていたせいもあり、なぜか鈴木のことが気にかかった。人が言うような酒乱ではなく、また仕事に対しても充分な批判力を持ち前向きに考えている鈴木と、その家庭の状態がどうしても不釣合いに思えた。それにあれほどシッカリした人間が後輩に追い越され、うだつもあがらず三十過ぎまでこのような割の合わない仕事にくすぶっているのか不思議な気がした。それほどシッカリとした人間なら、すでに他の道で成功していてもおかしくないはずと、歩きながら思うと清二は、もしかして何かヒミツめいた欠点が他にあるのではと、どうしても割り切れない気持ちであった。それは鈴木ほどではないが久保山にも何となく言えそうな気がした。 翌日のK建設の現場は、朝から雨が降っていた。 朝に事務所を出るときから降っていたのであるが、コンクリート版の搬入の日は、たとえどんな天候であろうと仕事を強行しなければならないのである。だからそれは社長の機嫌とは無関係なのである。 運送会社のトラックが到着するのを雨を避けながら建物内で待つあいだ、いつも気迫をみなぎらせている加藤が、タバコをすいながら無言のまま時々空を見上げている姿は、これからどんな作業が待っているのかと不安がる清二にとっては穏かなひとときである。 ズボンのベルトを締めなおそうとしたのか、アキラがズボンを降ろしたパンツ姿になり、「バカタレ」という加藤の薄笑いを受け、おどけた眼を左右に動かしてはキャッキャッと奇声を上げながら、勃起したペニスを手で持ちパンツのなかで振りまわした。皆の失笑を買ってもアキラはひるむことなく、むしろ得意げに、ますます痙攣的な奇声を上げた。雨に煙るビル群の上空に烈しい稲光が走った。アキラは「オッー」と声を上げながら子供のように無邪気な表情でおどろいて見せると急いでズボンを上げた。 大型トラックが雨のなかをやってきた。 加藤は獲物を見つけた肉食獣のようなすばやさであわただしく動きまわり作業の準備にとりかかった。 「すぐやるの?」 という、雷雨の間はやりたくなさそうな運転手の呼びかけも、加藤の耳には入らないようだった。 版の数は百五十枚ほどであった。それをいったんトラックからクレーンでベランダの上に置き、そこから人間の手で一枚ずつ部屋の奥まで運ぶのである。清二は久保山と組んだ。版の長さからいって一枚百四十キロぐらいあろうか。一人当たり七十キロの過重である。今日の仕事は本当の意味で清二が試されるときであった。数秒くらいならそれほど苦痛ではないが、十数秒も持って歩くとなると、さすがにこたえた。それは持っている時間が長くなるにつれて加速度的にきつくなるというしろものだった。回数を重ねるに従って苦痛の限界をこえ、腕かだんだん効かなくなり始めていた。加藤は作業のペースを落とそうとはしなかった。むしろ早まった。それは加藤に対して密かに肉体的ライバル意識を燃やすアキラが加藤を煽り立てるからであった。そのために清二たちもあおられるのである。肉体的優位に立とうと嬉々として作業をするアキラの若々しい二の腕には、清二がうらやましがるほどの大きな力瘤があった。久保山は顔を真っ赤にしてはいたが、決して辛そうな表情は見せなかった。五十をすぎ肉体的には衰えかけてはいたが、長いあいだ肉体的労働を耐え抜いてきたという自身と気迫がそうさせているのである。 清二は休みたかったが、そういうことが許される雰囲気ではなかった。ちょうど暑さと疲労で頭がボォッとして、麻痺しかかった腕に力が入らなくなっ手着たときである、持ち上げようとした版が右手から外れ落ちた。 清二はとっさに左手と両太ももでそれを受け止めた。そしてややほっとした気持ちで、手をはずしたときに挟んだ指の痛みを手を振りながらとっていると、久保山が真剣な表情で清二に言った。 「ちゃんと、気合を入れろよ。気を入れてないから落とすんだよ、指を挟んだのか?でもこっちは腰をひねったんだぞ」 久保山は予期していなかったせいか、版を落としたときのはんどうでこしをひねったようだった。 久保山の叱咤はもっともであった。腕に力が入らなかったなどと、言い訳が許される余地はないのである。 清二の気が緩んでいたことは確かなのだから、むしろ激励とすべきなのである。久保山はどんなに体力が弱まってきていようとも、気の入れ方次第でどうにでもなるということを会得しているようであった。しかし気を入れるには多少の経験と慣れが必要であることもまた事実なのである。 久保山の、清二があたかも手を抜いているかのような言い方には、清二は感情的に引っかかるものがあった。それは親方たちの罵りとはまた違う冷たさを感じさせるものがあった。それは久保山が自分に対して言い知れぬ軽蔑心をもっているのではないかと、疑いを持たせる様な感じのするものであった。しかし清二は彼の叱咤のおかげで頭もスッキリしてふたたび力が蘇ってきたのも確かであった。 雷雨が止み始めたころに、過酷な搬入作業も終わった。作業が終わっても意気揚々としている彼らの姿を見ていると、清二はあまりにもかけ離れた体力差を思い知らされたような気がした。それはまた獣のように体力だけで優位性が決められてしまう世界を見せつけられたような思いであった。清二はそういう世界に明るくのびのびとしたイメージをいだくことはできず、はたしてこれからもうまくやっていけるかどうか自信がなかった。 清二たちのトラブルに対して、加藤はその内容よりも作業が遅れることが気になるらしく、足手まといになるものは去れといわんばかりに反応は冷ややかであった。彼らは自分の体力を誇示するかのように終始迅速だった。 雲の切れ目から陽が射し出した。まぶしいぐらいに明るくなった外の様子を見ながら、いつもより遅めの休憩がとられた。 久保山が晴れ晴れとした表情で語り始めた。 「ひと汗かいたから、酒も完全に抜けたろうな。夕べはちょっと飲みすぎたな。あれから部屋に帰って二三杯やったんだよ。でも拙者はいくら飲んでも二日酔いで仕事を休むなんてことはしないからね。どう加藤さんも飲むんだろう」 「飲むよ、でも毎日は飲まん、それに地元では飲まないよ。もし会社のやつらといっしょにでもなったら、喧嘩になるからね。ときどき四五万もってよそに行くんだよ。そこで朝まで飲むんだよ」 「それは良い飲み方だよ。拙者も毎日飲むのはよくないと思っているんだけどね。いや、いくら飲んでも良いんだよ。ただ一週間に一度ぐらいは飲まない日がないとね。体からアルコールを抜いて休めないと肝臓に悪いからね」 「やつらデタラメだからね。昨日みたいなことは前にもあったんだよ。もうイヤだよ。人の尻拭いは、やるべきことをやってそれで工期がなくなったというのなら、助けてやっても良いけど、それに給料を上げてくれたらね。何にも文句は言わないよ。やる気のない人は辞めて欲しいよ。上がちゃらんぽらんだと、とにかく下から付いてくるものが大変だよ。なあアキラ、おい職人ちゅうのはな、いくら酒をのんでも、仕事を休まないというのが職人なんだぞ」 退屈そうに話を聞いていたアキラはその言葉に刺激されてか、少しムキになっていった。 「俺は酒を飲んだって休まないよ」 「いやお前のことじゃなくてよ。まあ、いいから、それよりちゃんとシャツ着ろよ、みっともないよ」 「だって蒸し暑いよ。ねえ、加藤さん、職人というのはなぜこんなにダブダブのずぼんをはかなきゃなんないの?」 「動きやすいからだよ」 「でもこうだと、歩いているうちに色んなところに、引っかかったりするじゃない」 「良いの、昔から、この方が動きやすいって決まってんの、いいか、アキラ!職人というのはな、酒を飲んでも休まないというのもそうだけど、格好が一番大事で格好で決まるんだよ。みっともない格好していると舐められるだけだよ」 アキラは多少ふざけ気味に、しかられた子供のように首をすくめて上目使いで加藤を見ていた。 そのときK建設の社員が、清二たちがいるところに入ってきた。その社員は、メガネの奥にスキのなさそうな眼を光らせた、いかにも厳格そうな性格を感じさせる、四十近い男であった。社員は清二たちを一瞥しながら言った。 「もう済んだの?今日は版の取り付けをやるの?」 「やります。こんなに天気がよくなりゃあ、まさかやめて帰るわけにもいかないからね。向こうが晴れてこっちだけ雨だなんて、社長にいえないからね」 「それじゃ、雨でまだ鉄骨が濡れているから、滑らないように気をつけてね」 社員は加藤の冗句も軽く受け止め冷静に話し終えると、ふたたび見まわりのために出て行った。久保山が小声で言った。 「陰険なやつって云うのはあの男?」 「そう、あのおとこ」 とアキラが不快そうに顔をしかめて言った。 「でも彼は悪い人ではないんだけどなあ」 と加藤が呟くように言った。そして外の気配に眼を向けたあと、 「さあ、やるぞ」 と言いながらあわただしく立ち上がった。 夏の暑い日差しを受けて地面からはもうもうと水蒸気が上がっていた。 雨上がりの焼けるような陽射しを受けながら清二は砂場でモルタルを作っていた。鍬でかき混ぜているだけで全身から汗が吹き出てきた。うえのほうから加藤の叫ぶ声が聞こえてきた。清二は自分のことかと思い、見上げたが、太陽まぶしくてよく見えない。そこで額に手をかざしてみたが、加藤の姿はどこにもなく、叫び声だけが再び聞こえてきた。それは清二ではなく久保山を呼ぶ声らしかった。 声が大きいということは、このような作業現場ではさまざまな役割を果たしているようである。それに加藤の言うとおり、職人としても服装のかっこよさも、大事であることはほぼ真理であった。なぜならこのような男たちだけの騒然とした世界では、その人間の見栄えがよければ、仕事が出来るだろうと感じさせる雰囲気が支配しているからである。事実そのことは実際においてもだいたい合っている。しかしそれよりもむしろ、自分の体力だけを誇示するがさつな男たちのなかには、言葉使いや格好のよしあしで、その人間を恐れたり侮ったりする動物的な人間が多いのである。それで、荒々しい言葉や、服装のかっこよさは人を外見だけで評価する人間をけん制するのに充分なのである。おそらく誰でも加藤の大柄な体躯やヒヒのような容貌を見ただけで、こいつはできる人間だと思うに違いない。事実清二も畏敬の念を感じていた。 いずれにせよ、このようなさまざまな業者が錯綜している現場においては、お互いの利害を巡って業者間にトラブルが起こりやすい、もしそのときに、大人しそうにしていると、侮られてより不利な状況に追いやられがちになるのである。そのようなときこそ、同僚から見ればうるさいだけの加藤のガラガラ声や威風堂々とした職人姿が実際にプレゼンスとしての効果を発揮するのである。それは他の業者の人間にとって、そのように目立つ加藤はどうしても気にかかる存在となるので、簡単に無視したり侮ったりすることはできなくなるのである。これはおそらく他人に侮られることを容認しない加藤が、長いあいだの経験によって、本能的に感じ取ってきたものをその生まれつきの外貌を生かしながら無意識に実行しているだけのことである。だから清二もそんな加藤をある意味において頼もしい存在と感じざるをえなかった。 清二がモルタルを作業現場に運んでいったとき、加藤があわただしく動きながら、久保山を叱り付けるように言っていた。 「なんで呼んでも返事しないんだよ。いったいどこに行ってたんだよ。バカヤロウ、これじゃいちいち上から降りてこなきゃなんないじゃないかよ。聞こえたらちゃんと返事ぐらいしろよ」 久保山は道具をとりに行っていたと、ひと言弁解すると、加藤のののしりを無視するかのように無表情で自分の作業に取り掛かった。 加藤が自分よりもしかも経験豊かな久保山をまるで無能者扱いをして怒鳴りつけたことは清二にとって意外であった。しかしその後は、なにごともなかったかのようにいつもの加藤の威勢の良い掛け声とともに作業は続けられた。 午後になると気温はいっきに上がった。陽射しの強さも変らなかった。清二にとって作業はだんだん辛いものになっていた。午前のうちに体力を使い果たしたせいか、体が重くだるかった。いちいち自分の気力に働きかけて体を動かさなければならなかった。疲労と暑さでボォッとした頭には余分なことは何も必要なかった。ただ風雨にさらされながらも必死の思いで壁にへばりついているアマガエルのように、自分の単純な肉体行為にだけ残っている全精力を注いでいればよかった。しかしそのうちに高所での緊張感のせいも在ってか、吐き気を覚え気持ち悪くなってきた。かといって作業を中断するほどではなかった。そして今度は頭痛がしてきた。太陽はまだ高く空には雲ひとつなく、とうぶん日陰にはなりそうになかった。終わりまでまだ長い作業時間を思うと、気が滅入りそうだった。自分の気力に働きかけるのもわずらわしくなってきた。やはり自分にはこの仕事は無理なのではと思いながら、だんだん投げやりな気持ちになってきた。しかしそんなとき清二の頭のなかにふと"ある思い"が浮かんできた。そして清二の顔に自然と苦しさから解放されたような笑みが浮かんできた。それは「××のことを思えば、自分もこのくらいの苦痛に耐えられないことはないはずだ」という"思い"だった。 午後の作業終えた清二は開放感を全身で味わいながら、洗面所で汗と埃を洗い落とした。気分の悪さは幾分残っていたが、何とか今日一日を乗り切ったという充足感でそれほど苦にならなかった。 西日をいっぱい受け、所々に水溜りを残し、草も生え放題の駐車場を見ていると、なぜかその風景に無性に親しみを覚え気持ちが安らぐのを感じた。 とくに夕日に陰を作りかすかに揺れる雑草の姿に陶酔するかのように眺めいった。 清二の後からやって車に乗り込んできた久保山が、突然憤慨して話し始めた。 「いったい何を考えているんだろうね、加藤さんも。聞こえないんだものしょうがないだろう。バカも休み休みに言って欲しいよ。よっぽど言ってやろうかと思ったよ」 「あれはちょっとひどいですよ」 と清二が久保山に思いやるように言った。それは掛け値なしの同情だった 「何も我慢することはないんだよな。こっちはいつだって辞められるんだから、辞められて困るのはあっなんだから。辞めるとなれば何でもいえるから、いいたいこと言って辞めてやるよ。あんなヤツ、後ろを向いているときにちょっとバールで足を払えば、下までまっさかさまだよ。やる気ならいつだってやれるんだから。ここの人間はみんな似たようなもんだな。まったく何にもわかっていないんだから。前にやっていた仕事が暇だから、やっているだけで、こんなはした金で、はした金だぞ、いつまでもこき使われているつもりはないよ。なにも金に困って働いているわけではないんだから、今年の暮れごろにはまた新しく仕事が入るから、まあここの倍にはなるかな。そのときはアホどもとはおさらばだよ」 アキラが乗り込んできて、運転席からいたずらっぽい眼で二人を見まわしたので、久保山はそれ以上はなすのを止めた。 清二にとって少なくとも他のものよりも話がわかり温厚そうに見える久保山が腹を立てたことは意外であった。やはりあのとき、久保山は加藤の言葉を無視するかのように黙っていたが、よっぽどプライドが傷つけられたのだと清二は思わざるをえなかった。今は仕事に対して、経験もなくプライドも持ちようがないが、もし久保山のような立場であったなら、やはり自分も腹をたてただろうと思うと、清二は久保山のことを気の毒に思え何となく親近感を覚えた。そして清二は今まで、加藤に様な気質の人間はこのような社会においては、ごく当たり前なのかなと思っていたが、久保山の話しの内容からすると、決してそうではなく、むしろ稀なのだということがだんだん判ってきた。 加藤が乗り込んできたので車は出発した。 しばらくして久保山が清二に話しかけた。 「セイちゃん、これからも気を入れてやってよ。まだ腰がおかしいよ。いいかね。半端な気持ちでやっているからあう云うことが起こるんだからね」 そ のことを忘れかけていたせいもあって、清二は、そのもっともらしさに半ば驚きながらも、「はい」と頷くだけだったが、久保山の言い方は清二の耳にはちょっと辛辣に響いた。そこには頑迷な老人のような執拗さがあり、久保山に心を開きかけていたせいか、清二は何か裏切られたような、なんとも割り切れない気持ちであった。 ![]() ![]() |