ブランコの下の水溜り(4部) はだい悠
清二には女に声をかける習慣などまったくなかったので、車から一方的に薄着の女性たちを密かに観察することの楽しみはちょうど良い退屈しのぎになった。 車は渋滞もなく順調に走っていた。ようやく風が涼しく感じてきた。 「、、、、やつらドカタっていうのは、満足に出来ないんだよ」 「そうだよね、汚い格好をしてさ、どうしようもないよ、もたもたしてさ、怒鳴りつけたって動きなしないんだから、チンタラチンタラしてるのみると、蹴飛ばしてやりたくなるよ」 「プー太郎って云うのはどうしようもないんだよ。酒で頭がやられているからな」 「でも口だけはイッチョ前だよ。働きもしないくせに、、、、」 とアキラがありったけの軽蔑心を込めて言った。 清二がプー太郎ってなにと久保山に訊ねた。久保山はニヤニヤしながら清二のほうを見ただけで何も答えなかった。するとアキラが 「プー太郎って云うのは、道路をベッドにして雲を毛布にして寝ている奴らだよ」 と微かな笑みを浮かべながら得意げに言った。 久保山が途中で買ったビールを皆に配り始めた。清二は陽の高いうちから呑むと頭が痛くなるからといって断ると、アキラがそれじゃ俺が飲むといって、運転席から手を差し出した。みんなが大丈夫かと言う心配をよそに、アキラは運転をしながら一気に飲んだ。 「さあ、元気が出てきたぞ」 と言うと、狂気じみた明るさをあらわにして車のハンドルをたたいたり、猿のように体を前後に揺らしたりした。久保山が 「飲ますんじゃなかった」 と苦笑いを浮べると、アキラはわざと不安がらせるように、前にもまして、ふざけては車を蛇行させたりした。 「 「本当に大丈夫かな」 と清二が呟くように言うと 「大丈夫だって、このくらいの酒で酔っ払わないよ」 とアキラはあまりの心配振りにうんざりしたのか、すこし怒ったかのようにぶっきらぼうに言った。清二はアキラの運転よりも、警察に見つかることを恐れたのだが、どうやらアキラのプライドを刺激したらしかった。 「いいかスピードだけは出すなよ」 と加藤が、車が高速に入っていたので、アキラをとがめるように冷静に言った。 車ははるか遠くに、穏かな夏雲を浮べた青い空の下に、巨大なビル群をのぞみながら、そして眼下には、ところどころに四五階建てのビルを浮べるように、ほとんどが色さまざまな低い屋根を持った、海のように広がる住宅街を眼にしながら快調に走っていた。信号も急カーブも何も邪魔するものがないほとんど一直線に近い道路は、運転の未熟なものにはどれほどスピードを出してもかまわないという錯覚に陥らせるには十分なものがあった。とくに縛られることの嫌いな若いアキラにとって、スピードを楽しむ絶好にチャンスだった。 「アキラ、おまえまだ暴走族をやってんのか?」 と加藤が訊くと 「もうやってないよ、あんなガキみたいなこと、でも日曜日には別の車でやってるよ」 「別の車?」 「日の丸をつけた宣伝カーに乗ってるよ」 「なあんだ、お前、右翼やってんのか!あんなことやっていてなにか楽しいことでもあるんか?」 「楽しいといえば、楽しいよ」 「リーダーみたいなのいるの?日当はどのくらい出るの?昼飯ぐらい出るんだろう。なに、それじゃトオルもやってるの?」 「いや、あいつはやってないよ」 事務所には三好たちが帰ってきていた。いつになく機嫌のよい社長を前にして、三好はオドオドすることもなく、作業の成果を報告していた。加藤は社長がどんな機嫌状態でもいつも毅然とした態度を保ち続けた。それでその報告も、社長の顔色を覗いながら、あとでバレると判っていても、嘘をついたりして曖昧にする三好と違って、つねに理路整然としていた。だから社長も姑息な三好に対するのと違って、高圧的な態度に出ることはほとんどなかった。 清二は入り口のドアにもたれかかり、薄暗い路上ふざけあうアキラたちを見ていた。アキラはトオルや久保山に相撲を仕掛けたり、どこからか棒切れを見つけてきて剣道の真似をしては逃げ腰の久保山を困らせていた。奥山は帰りの車のなかに入ったまま出てこなかった。 帰りがけに三好の困ったような声が聞こえてきた。 「社長、ヤマからきた人間はぜんぜん使い物にならないよ」 社長は返事をあいまいにした。ヤマとは山谷のことらしかった。 宿舎に帰る車に乗り込んだ清二は奥山の隣に座った。狭い座席に四人座ったので清二のひじと奥山のひじが触れた。その瞬間奥山は不快そうな唸り声とともに、なにか汚らわしいものに触れたかのように全身烈しく震わせながら、清二の肘から自分の肘を引き離した。 清二が夕食と風呂から帰ってきたとき、部屋には奥山が独りで鶏のささみをつまみに焼酎を飲んでいた。奥山は誰かを確かめるかのように、焦点の合わない眼を清二に向けたが、清二は奥山の存在を無視するかのように、無言のままさっさとベッドに上がりこんだ。 独りでいるときの奥山は静かだった。 清二は神経が苛立つこともなかったので肉体の疲労も心地よく感じた。久しぶりにこのまま眠りそうな気がしてきた。 三郎がコインランドリーからかえってきた。洗濯物を入れた紙袋をベッドに投げ捨てるようにおくと興奮しながら話し始めた。 「あのやろう、オレに目をつけやがって。コインランドリーでよ、オレの顔をじろじろ見るヤツがいるから、言ってやったよ、オレの顔に何かついているのかって、人の顔をそうじろじろ見るもんじゃないって」 「それで、どうしたの?」 「若いヤツでさ、すいませんって、オレに誤ったよ」 「そんなヤツでよかったじゃない、気が荒いやつなら喧嘩になっていたよ」 と奥山はしかめっつらをして言った。 「相手が誰だってかまわないさ、言うとき言うよ」 と三郎が投げやりに言うと 「でもお前だって見てたんじゃないの、相手がじろじろ見ていたなら、おまえだってじろじろ見ていたんじゃないか」 と奥山は非難するように言った。奥山の言うことは三郎にとって冷酷なほど筋が通っていたようで、三郎は急に黙り込みふてくされたようにベッドに横たわった。 しばらくすると三郎がラーメンを作っている奥山に言った。 「オレの分も作ってくれないかな」 「つくっているよ」 「あのさ、金がないんだけど、明日もらえないかな?」 「オレもないから、いちおう明日社長に言ってみるよ。でもお前今日休んだろう、社長あまりいい顔してなかったぞ」 「やっぱり休むと前借りは難しいのかな」 そう言い終わると三郎は清二の寝ているところにヌッーと顔を出していった。 「ねえ、タバコない、少しくれない」 「ああ、どうぞ、どうぞこれでよかったら」 三郎は 「止めろよ」 という自分の行為をとがめるような奥山の声を背後に聞きながら、タバコを二本ほど抜き取った。 「清二君は前借りしないの?あっ早々、お金あるんだってね」 そう言いながら三郎は不可解な笑みを浮かべながら、曇った目で清二の寝ている姿を見まわした。そしておもむろに自分のベッドに腰をかけた。 清二には二人を支えている友情がどんなものなのかわかったような気がした。奥山には彼なりの優しさや思いやりがあった。たとえそれが清二には認めがたいものがあったとしても、三郎にとっては、それは自分の甘える気持ちや投げやりな生活を咎めることなく受けいれてくれるものであった。 また、はためには威張り散らしているだけとしか見えない奥山の三郎を一方的に叱り付ける態度も、三郎にとっては、それは自分の精神的肉体的弱点をカバーしてくれ、奥山を頼りがいがあり、尊敬できる人間として感じさせてくれるものに違いなかった。それに、彼らの間には(清二には到底入り込めないものであったが)同じような境遇を歩んできたもの同士だけが、お互いに判りあい感じあえるものがあるようだった。それは普通に一般社会には受け入れられなかったり、忌み嫌われたりした自分たちの考えや行動や生活態度が、二人の間では通用するので、お互いに理解し合えることから来ていたのである。ようするに彼らは似たもの同士なのだ。 ラーメンを食べながらテレビを見ていた奥山が三郎に話しかけた。 「おい、この子供、オジさんとこの子供に似ているよ。可愛いだろう、そっくりだよ。オレが遊びに行ったときに、オレのとこによって来るんだよ。きっといっしょに遊んでももらいたかったんだろうね。オレは女にはもてないけど、子供にだけは好かれるぞ」 奥山には珍しく、嬉しそうな笑みを浮かべて得意げに話した。 たいていの男にとって、自分が女にもてないなどと、正直に告白することは、生命としての自分の根源的なものを否定するような気がして、普通は口が裂けても自分からは進んで言わないものだ。仮にそういう男がいたとしても、それはあくまでも謙遜や相手をからかったりして言っているのであって、心の底からそういっているのではない。周りの男からは忌み嫌われ、さげすまれ無能扱いされようとも、いや、そういう男こそかえって、女に関しては、ほかの男の侵入も許さず譲歩もせず自分の堅固な自惚れを心の奥底に密かに持ち続けているのである。しかし奥山の言うことはそのまま素直に受け取れる気がした。というのも日頃の奥山の女性に興味を示さない態度やその容貌からして、客観的に納得できるものが在ったからである。奥山の正直な告白に清二は意外な感じがした。 三郎が話しかける。 「ヤマさんは子供に好かれるような顔をしているよ」 「そうだろう、オレは子供にだけは気を許すからな。子供にだけは優しいよ。オレはオレより下のものには親切だよ。見てて判るだろう、オレは決して後輩イジメはしないだろう。でもオレは、上のものとか、人をバカにするヤツとか、威張るやつには決して負けないよ。生意気な大人には絶対気を許さないからね。言いなりにはならないよ。相手がオレより大きくたって強くたって絶対引き下がらないからね。喧嘩したって絶対に負けないね。だいいち今まで負けたことがないよ」 話しているうちに興奮してきた奥山はうまく呂律がまわらなくわめくように喋った。三郎が応えた。 「ヤマさんは体のわりには気が強そうだからね」 「そうだよ、いつだったかな、オレがもっと若い頃こういうことがあったよ。街を歩いていたら『チビ、こらチビ』って言うやつがいたんだよ。たぶんオレに向かっていったんだろう。そいつは、ひとまわりもふたまわりも大きい奴で、人をバカにしたようにニヤニヤしていたので、オレはそいつの眼の前に出て行ってさ、『言ったのはお前か』って言ったんだよ。そしたらそいつは、『そうだよ、なんか文句あんのか』っていったんで、オレは頭にきたので、相手が笑っているスキに思いっきりやつの向う脛を蹴っ飛ばして、走って逃げたよ。痛くて追ってこれないの、ざまあみろっていうんだ。何しろ若い頃は足が速かったからね。 三郎が眼の前に居ることを忘れてしまったかのように、奥山は怒ったサルのように、二本抜けた歯を丸出しにして、酒焼けした赤ら顔を思いっきりしかめては、自分の全生涯のつもりに積もった鬱憤を晴らすかのように、いっきにしゃべりまくった。 清二は奥山のわめき声に慣れてきていたせいか、いままでのようにそれほど神経が高ぶることもなく、むしろこのまま眠ってしまいそうな眠気を覚えた。そして奥山の 「きつくて体がもたないよ」 とか、三郎の 「今までの分お金がいくらななるのかなあ」 などと声を低めて言う二人の会話をおぼろげに聞きながら、だんだん意識が薄れていった。 清二が再び眼を覚ましたとき、二人は眠っていたが、電気はつけっぱなしであった。時計は二時をまわっていた。トイレに言った後清二は電気を消そうとして、ふと奥山の様子に目をやった。奥山は寝ているときでも苦しそうに眉間にしわを寄せ、怒ったサルのように顔をしかめていた。上半身には流れ落ちるほどの汗をかいていた。やはり奥山にとっては暑いのかなと清二は思った。そして朝食べたものを吐き出していた奥山の姿や先ほどの弱気とも思える発言を思い出してはやや同情的な気持ちになった。静かすぎるほどの暗闇のなかで、奥山の苦しそうな寝顔を思うと、なかなか寝付けなかった。あの苦しそうな寝顔は、いつも彼の心を占めている不満や反抗や怒りのあらわれに違いない、というより彼の心の奥底にはもうそういう感情しか残されていないのだろうか、寝ている間でも、それを持ち続けることは、眠りに安らぎを見い出せないほど彼は半生は虐げられ屈辱的なものだったのでろうか、もし彼が心を開いて眠りの快楽に心身を預けて、すべての思いや感情を忘れてしまうようにするならば、あの苦しそうな表情が眠っているあいだに消えてしまい、朝には別な人格となって目覚めるのではないだろうか、と清二は思った。物音ひとつもしない静寂のなかで清二はふと彼は自分の性格や感情にひたすら隷属して生きているだけのような気がした。なぜ彼はそのことに気がつかないのだろうかと、不思議な気がした。そのことに気づいてもいいはずだと思った。いや、きっとそのうちに気づくような気がした。もしかしたら、いまこうして静かに眠っている瞬間にも彼はそのことに気づき始めているような気がした。清二は彼が晴れ晴れとした気分で目覚め、鏡でしわが取れ柔和になった別人のような自分の顔を眺めながら、自分は今まで何を考え何をしてきたのだろうと首をかしげる姿が思い浮かんできた。清二にとってそれは奇跡のように望ましいことだった。もしそうなればお互いに心を開いて、いままでのいがみ合いも忘れ何のわだかまりもなく、これからは仲良くやっていけそうな気がした。 真夏の作業は容赦なく続く。 奥山には今の仕事はやはり無理だった。まず第一に終日働き続けるだけの体力がなかった。毎日満足にものを食べず、十分な睡眠もとらないで体が持つはずはなかった。それでも彼は彼なりに一生懸命であった。上のものの命令には決して逆らうことなく、むしろ従順であった。傍目にはあの小さな体で良く動き回っているなという印象を与えるほどだった。それに決してサボったり、勝手に休みを取ったりすることはなかった。しかしそれと作業の効率とは別である。連日の不摂生がたたってか、根気がなく、ずっと暑い中に居るせいか、極度に集中力を失い、もともとアル中気味で回転の遅い頭がますます回らなくなく要領が悪かった。自分では一生懸命やっているつもりなのだろうが、周りから見たらハッキリ言ってノロかった。彼は今までこのようなことを何度も経験してきたに違いない。そのたびに彼は仲間から無能扱いを受け、愚弄され、さげすまれ、また彼の自己中心的で強情な性格が災いして、忌み嫌われ、からかわれてきたに違いない。それでも彼は、負けん気の強い反逆的な性格から、このまま自分がバカにされたまま終わることに耐えられず、過去の自分のことを持ち出しては、もう体力も精神力も衰えているにもかかわらず、それを今日の自分であるかのように、精いっぱい見栄をきるのであるが、悲しいかな、現実はどうしてもそれが伴ってこない。結局彼はますます見下されせせら笑われるだけである。彼がどんなに虚勢を張ってみたところで、この悪循環のなかで翻弄されるだけで、現実はいっこうに変らないのだ。今いるところは彼にとってどうあがいても屈辱的なところ以上ではないのだ。彼にとって仕事が出来る出来ないかは、自分の生活や生命にかんすることであると同時に人間としても自尊心の最後のよりどころでもある。とくに今の現場作業のように、仕事を人間の価値をはかる上で唯一で最適の基準とみなすような人々の集団においては、仕事が出来ないということは、余計者扱いされても仕方がないことである。もしそのように人間として扱われず自尊心が打ち砕かれれば、あとは惨めな浮浪者となるしかないのだ。だからどうしても自分はまだ仕事が出来るという幻想を抱き続けなければならないのだ。彼の半生はきっとこのような挫折の繰り返しに違いない。ようするに彼は完璧に世界から捨てられたのだ。そして彼の最大の不幸は、その事に気づかず、それでも自分は世界の中心に居ると思っていることである。 盆休み前のある日、工期に余裕のなくなった現場に全員で行くことになった。全員といっても十名であるが。そこは清二が一昨日まで行っていた現場である。 その十名を指揮する社長が、親方たちを前にして事務所の椅子に腰をかけているのであるが、現場変更を伝える口調がいつもより歯切れが悪い。意外と思えるほど困惑した表情で禿げ頭に手を当てながらボソボソと話す。 現場を任された親方にとって、よほどの理由がない限り、ちょくちょく現場を替えられることは、作業計画にかかわることなので、快く従えないものがある。とくに加藤のように、自分は他の親方たちよりも、真面目に責任感を持って計画的に取り組んでいると思っているものにとっては、かなり不満なのである。それが、自分の都合で勝手に休みを取る石田が原因で遅れたとなると、なおさらである。 社長は義弟である石田のわがまま振りが多少頭に入っているので、困惑さを装い歯切れが悪いのであるが、実際現場変更の理由として話されるのは工期が遅れると元請から法外な罰金が科せられるという脅迫的なものである。 結局、親方たちはこれといった不満を示すこともできずに、はぐらかされたように納得してしまうのである。当の石田は社長の直視を避けるかのように三好の影で目立たないようにしていた。 まだ何も判らない新米の清二にとっては、大変なことが起こっているらしいと思うだけであった。 二台の車で行くことになったが、前の車に乗りかけている石田を見て、アキラが 「チビ」 と不遜な眼つきで忌み嫌うように言った。その口振りは、車内の他の者に、石田の嫌われもんとしてもイメージを植えつけるのに十分な役割を果たした。 迎合しやすいアキラも、そのことを本能的に察知しているようであった。 車が走り出してまもなく、加藤が待っていたかのように急に不満を言い始めた。 「なんで他人の不始末を俺たちが責任取らなければいけないんだ、なあアキラよ、遅れているとわかっていながら休むんだから、いったい仕事をなんだって思っているんだろうな、ヤツの頭のなかには工期のことなんか全然はいっていないんだろうな、ああ、ザアザア雨でも降らないかな」 外は今にも雨が降りそうな雲り空になっていた。 「午前は持つだろうな、でも午後からは来そうだな」 と久保山が窓の外を見ながら言った。 現場に到着すると清二は、さっそくいつものようにモルタル作業に取り掛かったが、他のものは三人筒チームを組んでコンクリート版の取り付けに掛かった。 曇り空のせいかとても蒸し暑かった。作業中加藤のいるチームからは雨雲を吹き飛ばすかのように威勢の良い掛け声が終始響いていたが、石田のチームからは、動物的なうめき声や 「まだか、早くしろ、なにやってんだ」 とかの苛立つ声が終始響いていた。それはほとんど奥山に向けられ、また奥山が原因で発せられたものであった。奥山は百五十キロの版(二人で持つから一人当たり七十五キロ)を持ち上げることも、また持って移動することも出来なかった。そのたびに足場にあがって溶接をしていた石田が、ゴウを煮やして下まで降りてきて、奥山の代わりをしなければならなかった。結局、清二と奥山が交代することになった。それは版を吊り上げるときその版を両手で支えている鈴木の発案だった。 三十五歳の鈴木は、まだ親方としての待遇は得ていなかったが、この仕事には二年のキャリアを持っていた。他のものと違って彼は決して下のものには怒鳴ったり苛立ったりして命令することはなかった。無口で大人しそうな雰囲気を顔の表情にたたえて、その人の良さそうな目の細さと丁寧な言葉づかいは、親しみやすさを感じさせるものがあった。しかし、彼もまた奥山と石田と同じくらいの小男で在った。体型も奥山とそれほど変わりなく、朝飯を缶コーヒーいっぱいで済ます彼のどこに、いったい版持てるような体力が隠されているのか、不思議なくらいであった。 奥山と交代させられても清二には何の不満もなかった。むしろ嬉しいくらいであった。というのも清二はそうなることを望んでいたからである。なぜなら奥山に対する日頃の不満から、心ひそかにライバル意識を持って、いつか順位が逆転することを狙っていた清二にとって、奥山が眼の前で明らかに差をつけられ脱落していくことは心地よいことでもあったからである。しかし不安はあった。だが奥山の手前どうしても任務を成し遂げなければならなかった。自分よりはるかに背の低い鈴木に出来ることが自分にできないはずはないだろうと思うと、不安な気持ちも少しはやわらいできた。 「よう、ちからもち、しっかりたのむよ」 と鈴木は冗談ぽく清二に声をかけた。そして歯を食いしばり顔を紅潮させ苦しそうにして重い版を持ち上げた。清二も気合を入れ、全身の力を振り絞れば重そうに見えた版もどうにか持ちあがった。それは、版を一分間も持ち上げているのなら手が抜けそうであるが、わずか三秒ほどで、後は台車に乗っけて運ぶのでそれほど大変ではなかった。問題はウインチの操作であった。 最初から石田は、清二が初めてであるにもかかわらず、その不手際を容赦しなかった。石田は自分の思い通りに行かないことに、奥山のときと同じようにヒステリックにわめき声を上げた。やり方をまったく知らない清二にとって不手際は無理もないことなのであるが。それに初心者の清二はあらかじめウインチの操作方法やサインとなる掛け声の言葉の意味、それに作業手順を説明されたわけでもなかった。朝から機嫌を損ねていた石田には、そのような余裕などないのも当然では在ったが、そういうことはいちいち説明しなくても出来るものと考えているフシもあり、会えて指導するまででもないという風であった。もし仮に出来なくても、親切に指導するなどという習慣は、このような職人社会にはないらしく、とくに石田の流儀にはないらしかった。このことは親切そうに見えた鈴木に云えた。それは彼自身が作業に余裕がないためか、石田への配慮のためか、というのも、いつ石田の苛立ちの矛先が自分にむけられないとも限らないからである。そういうことで最初からぶっつけ本番らしいのである。 ウインチが実際にどのようなスピードで上がったり下がったりするのか、はた目ではだいたい判っていても、スイッチを押す指先の感触を通してはまだ判らないのである。それにどの程度まで版を上げれば良いのか、またどの程度のスピードで版を下げれば良いのか、そしてそれを降ろすときのタイミングはいつなのか、それにどのような状況が危険で、さらには全体の作業手順はどうなっているのか、清二にとっては判らないことだらけであった。ようするに清二は奥山同様まったく容量を把握していないのである。それは奥山のように、もたつきながら実践で覚えなければならないということである。 それは神経を集中して、状況を眼でおい、耳で合図を聞きながらそのタイミングを判断して、指先で反応しなければならないのであるが、なにしろ未熟なため、どんなに集中しようとしても、眼と耳と指先の反応がなかなかスムーズに行かないのである。というのも集中力は体験によってしか養われないからである。それに版の持つ重量感や移動のするスピード感が、肌を通して不慣れな清二の心身を圧倒するものがあり、それが危険に対する不安や恐怖感となって、清二が集中することを妨げていたからである。見るとやるとでは大違いである。とにかく石田も瞬時も作業が中断することを許さなかった。作業がスムーズに流れないことに、わめき声を上げて苛立った。 その一連の作業には大きく分けて三つの工程が在った。 一番目は、障害物に注意して版を適度な高さにまで吊り上げること、 二番目は、スイッチを手加減して版をゆるやかに降ろすこ と、 三番目は、版を結わえた帯を外しやすいようにするためにワイヤーを適度に緩めること。 この三つの肯定が流れるように進まなければならなかったが、清二はどうしても石田の要求に答えることは出来なかった。一番目がうまく行っても二番目で失敗したり、一二番目がうまく行っても三番目で失敗したり、何度やっても三つの工程がスムーズに行くことはなかった。そのたびに気短な石田はわめき怒鳴った。また、大人しそうに見えた鈴木も、清二のせいで重い版を少しで長く持たされるハメになったときには、苦しそうに顔をゆがめながら、もたつく清二を責めるかのように苛立ちながら 「早く、しろ」 と声を荒げる。 彼らの苛立ちは清二の心に射すものがあった。それはまるで自分の無能振りを周囲にさらされているみたいで、気持ちが塞ぐのである。そのために清二は自然と彼らの感情の変化にまで気が行くようになった。しかしそれは、余計なことであった。そのためにかえって作業の集中力を欠くことになり、指先の操作をぎこちなくさせるだけであった。そして失敗から来る彼らの苛立ちを恐れるあまり、萎縮しがちな気持ちに気合を入れて、今度こそは成功させようと思いながら、作業にのぞむのであるが、まだ実践的な集中力が伴っていないので、かえって気ばかりあせることになり、いつまでたっても彼らの要求どおりには操作することが出来なかった。まさに踏んだり蹴ったりの情態だった。暑いせいもあったが冷や汗のかきっぱなしであった。 それにしてもこれしきのことで、なぜ彼らがいちいち苛立つのか、十分も指導もしないくせに、もしかしたら彼らの人間性がもともと冷酷なのではないかと思うと、清二は急に腹立たしくなり仕事を放棄したい気持ちになった。しかし彼らに腹を立ててもどうにもならないのである。清二はまだ彼らの信頼を得ていないだけでなく、実際に自分が出来ないことも確かなのだから。清二は自分に対する腹立たしさと情けなさで、 気が滅入りそうになった。だがそんな弱音を吐いている場合ではなかった。仕事を放棄すれば奥山と同じように無能者の烙印を押されるからである。 彼らの苛立ちは、あくまでも作業が順調に行っているか行っていないかのバロメーターであり、その怒鳴り声は、"非常に反応が早くしかも的確な警告音"であると受け取らなければならないのである。とくに石田のヒステリックなわめき声は、規則的な運動を妨げられた機械のきしみ音のようなものと、みなさなければならないのである。彼らの苛立ちには決して人間的な感受性で持って反応してはいけないのである。それに石田のわめき声も、清二に直接むけて発せられた個人的ののしりと、言うよりも、彼を取り巻き彼を苛立たせている周りの世界全体に向けて発せられた、彼の原始的な鬱憤晴らしという感もあった。 午前のうちにポツリポツリと降り出していた雨は、午後になってその雨筋がはっきりと目に見えるようになっていた。 建物のなかに居るものはそれほど濡れることはなかったが、外の足場で作業をするものはだんだんズブヌレになっていった。それは溶接をするものにとっては電気が危険なものになっていくことであった。 合羽を着込んだ加藤が怪獣のような叫び声を上げた。電撃を受けたのである。いったん濡れたあとに合羽を着込んだので感電を防ぐことは出来なかったようである。二百ボルト電撃は相当のものだったらしく、加藤は腕をだらりとたらしては苦痛の表情を浮べていた。そして麻痺しかかった右腕を左手でマッサージしては、その手のひらを握ったり開いたりしていた。石田も電気が走るたびに、苛立ちをあらわにして獣のような唸り声を上げた。二人とも電気が来ないようにと気をつけているようだったが、しかしそれでもほんのちょっと注意が行き届かなかったり、予想外のことが起こったりすると、たちまち電撃に見舞われる。何しろ電撃は一瞬だからだ。清二は彼らが電撃に驚いて足を踏み外して転落するのではないかと心配になった。 作業は中断しなかった。工事が遅れているせいもあったが、親方の誰かが自分から中止しようと言いだすものはいなかった。みんな感電を恐れないことが職人としての誇りであるかのように思っているようである。 雨に濡れてケーブルが鉄骨に触れるたびに烈しく火花を散らした。ケーブルがひび割れそのなかに雨水がしみこんでいたのだ。 清二は建物全体が電気を帯びているような恐怖感を覚えた。そしてそれは実際にありえないことではあるが、金属類ならどんな物でも触れるだけで、電気がきそうな気がしてびくびくしていた。 雨は三時ごろ止んだ。 清二はなんとなくほっとした気分になった。 朝から威勢の言い掛け声を響かせていた加藤の口から突然「ばかやろう」という、ただ事ならぬ気配を含んだ怒鳴り声が発せられた。 「なにやってんだ、ヤマ!死ぬぞ、バカヤロウ、そんなところから頭出して、もし版が落ちたら首が折れるぞ、上で作業しているとき、下でウロチョロするんじゃないよ」 奥山はちょうど加藤たちの真下で作業をしていたのである。上と下での同時作業はこの業界での厳禁事項なのである。それは常識である口うるさく注意されることである。だから怒鳴られても仕方がないことである。奥山もそれを知らなかったわけでもなく、ただぼんやりとしていただけなのだろう。 それにしても加藤の怒鳴り方は、周りから見ていても、奥山が気の毒に思えるほどだった。それは奥山の生命体としてプライドまで奪い取るような激しさであった。そのあいだ奥山はいつものしかめっ面でじっと加藤のほうを見上げていた。勝気な奥山にとって、うち震えるような怒りがこみ上げてきたのだろうか、いや、しかし、その目にはなぜか反抗の気持ちは少しもこめられていないようだった。そして加藤の絶対的な正しさに屈するかのようにうつむいた。だがそれには、縄張り争いに負け、生きる張り合いを失った野良犬のような無表情さが現れていた。 ![]() ![]() |